偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 暗闇に食物なしトイレなし、かすかな地下鉄の音と振動を枕に蔦崎は三日間放置され、臭気芬々たるよれよれ状態で一同の前に引き出された。
光に目が慣れるまでの三十分の間、蔦崎の耳は食器の擦れ合う音を捉え、鼻は肉とスープとワインの香りを嗅いでいた。
最初期のおろち史文献『服部さんの幸福な日』(伊井直行著、新潮社)には、このときの模様が次のように活写されている。「聞こえて来るわずかな音から、給仕がテーブルの上の深皿にスープを注ぎこむ様子が、実際に見ているかのようにありありと瞼の裏に映った。つややかな琥珀色のコンソメスープだろうと高木は想像した。食べたい……渇望が声になって飛び出しそうだった。何人かでコースの食事を取っているらしかった。……高木の耳に、スープをスプーンですくい口に含んで嚥下する音が届いた。……」(一三一~二頁。なお『服部さんの幸福な日』が蔦崎公一の経験を記録しているとしたら、小説を装っているとはいえ人名から文脈、展開まで全面的な変更が施されすぎている、という理由により、おろち史文献から除外すべきだという〔おろち亜史新設主義〕が近年しばしば論じられる)。
ようやく視界が整ってみると、周囲は耳が告げたとおり複数の食卓になっていた。数人が腰掛けて食べていたり立ち歩いていたりダベっていたり。
壁も窓も見えない薄暗い、ゆったりした感じの空間。このような手の込んだ贅沢な拷問を行なうことができるのも、もともとは怪尻ゾロのおかげで士農田勝也がグループ内そしてグループ間の地位を登りつめ暗黒界の小幹部に知己を得、今や組の中の四、五人にとどまらぬパシリレベルには「兄貴」と呼ばれる立場へ昇格しかけていたためなのだから皮肉と言うべきである。小幹部自ら同席して監禁用の地下室を提供したらしい。小幹部は士農田の憤懣をそのまま尊重し、チーマーの誇りを裏切った「堕ちた偶像」怪尻ゾロに、怪尻ゾロ流儀の刑罰を与える企てに協力を惜しまなかったが、それは、自らの勢力がチーマーを傘下におさめ諜報員かつ遊撃隊として働かせつつある現状にあって彼ら組織外のやり方や復讐衝動を見極めておくという意味も持っていたようだ。士農田があれほど怪尻ゾロにタイムラグ付憎悪を抱いたのも、自らがすでに「チーマー」層を脱し組レベルの末端に食い込む地位に昇ろうとしていたがゆえに、チーマー間抗争時代の恨みを遅ればせながら思い出したということもあったかもしれない。小幹部らが食事を終えて見守る中、士農田は、刑罰本番に移った。伊井直行の記録によると、そのあと高木(むろん蔦崎のことである)が一同の食い残しを食わされることになっているが、事実はそうではなくて、腹の鳴動が最高潮に達したときに一人分の手付かずのフルコースを出されたのであった。しかし、フルコースが巨大な銀盆に載ったまま脇に置かれ蔦崎のとめどない唾液を誘い、まだ箸もフォークも与えられないうちに、蔦崎の前に、三日前蔦崎に吐瀉物をかけられた胡麻塩頭胡麻塩髭の五十九歳ホームレス男が引き出されてきた。
「よし、やれ」
士農田が命ずるやいなや、すでに下腹を抑えて苦悶していたホームレス男がぷうんと臭うズボンを下げ、蔦崎に尻を向けてドズズズズ、と排便したのである。真っ赤な切痔肛門から微細な鮮血の飛沫を伴った竜巻状黒褐半下痢が蔦崎眼前の床にどぼどぼ広がり、典型的なドブの腐敗臭がたち込めた。ホームレス男がいへへへ、というテーブルからの失笑に送られて退場すると、士農田は脇のフルコース、ステーキやエビフライやカリフラワーやフランスパンやヒラメやフォワグラやメロンなどを一つ一つ、黒褐色の上に置いてゆく。美味な芳香発するものたちがぬるーッと半分がた汚泥にうずまる。「よし、存分、食っていいぜ。邪魔しないよ」
これは江戸時代の牢獄で牢名主が反抗的な囚人に対して行なったという「糞食刑(糞食らわしの刑)」の平成バージョンというべきだが、そもそもこれが街のアンダーグラウンドで、敵からの自白強要や裏切者の処罰に用いられるようになったのはまさに怪尻ゾロの直腸的活躍に触発されてのことだった(「素性の知れぬ怪尻ゾロのが頬張れて仲間のが食えないはずはなかろうがよ!」)。怪尻ゾロは糞占いによって不良界の人事的変革を促したのみならず規律と戦略の方法論にも影響を及ぼしていたわけだ。
飢餓の惑乱状態とはいえ強制でなく自らの意思で糞を食わざるをえなくなるところに、精神的屈服の眼目がある。
蔦崎は実際のところ、挑み、試み、そして挑みはしたのである。うずまり度五割以下の肉や魚を掬い上げようと指先を尖らせ尖らせ、汚泥のついていない部分をちぎりとって口に運ぶ動作を繰り返し試みはしたのである。シェフスタイルの料理人も傍らに立って見守っている。しかし蔦崎はついに一欠片も口中に含むことはできなかった。ほんの鼻先にぶら下がっている栄養たっぷりの食物に涎が止めどなく流れたが、やはり食うことはできないのだった。屈服するまいという気概のゆえではなく、端的に、カリフラワーやエビの裏側にべっとり付いた浮浪者糞が臭すぎ、未汚染部分を切り取れたとしても胃液が込み上ること必定だったからである。
「まあ、しゃあないな」呟いた士農田の後ろから、白ワンピースに赤毛糸カーディガンを引っかけた長身の美女がいつしか歩み出ていた。現場にいた士農田配下の幾人かは、単なるキツネ顔というだけのことで美人には相当せず、と証言しているが、ともあれ美人風味の女。大きなカメラを携えている。彼女は士農田周辺の五、六名に同時に言い寄られていた「堅気の女」で、本名は後に明かすがさしあたりK.S.としておこう。美大で写真を専攻するK.S.がゼミ課題の材料たりうる被写体を探していたところ、友人の友人を通じて怪尻ゾロの噂に触れ、ぜひともその決定的瞬間の芸術写真を撮りたいと、知り合いのチャラ男をガードマンに付けて夜の街を幾度か徘徊するも成果なく、そこへ「怪尻ゾロ捕獲」の報を得てこの監禁場所へとんできたのである。士農田は小幹部の了承を得て、怪尻ゾロ退治の一環として屈辱的証拠写真を残す役にも立とうとK.S.の参加を許した――という次第でK.S. は今もちろん、囚われと飢えと恐怖と屈辱で意気消沈しているかつての伝説男のありさま撮影を目的に鼻をつまみながら(この頃には浮浪者糞は空気に酸化しはじめ痛烈な有毒刺激臭を発していた)歩み出てきたのであるが、カメラを構えつつどうにもこうにもシャッターに指が滑りっぱなし、角度をあれこれ変えてファインダー覗くも――被写体の髭面男がじっと動かず放心したように茶色滴るサーモンを親指・人差指で眼前にぶら下げている良いような悪いような構図、いかにもシャッターチャンスが一瞬微かに訪れてはただちに揮発してしまう空気に首を捻っているうちに、
「……」
どうも撮影意欲を上回るK.S.自身の内なる衝動に気づき始めたのである。
内なる衝動とはもちろんこの種のものである――この種の。ゴロゴロ下腹が鳴り始める。鳥肌が立つ。また鳴り始める。
こっち系のなんやかやには興味のなかったK.S.でありながら、蔦崎公一の顔を見ているうちにむらむらと、
(むしょうに食べてほしい……)
(早く食べてよ……)
(早く……)
これが目下躊躇い指の間で宙吊りのエビやサーモンに向けられた、シャッターチャンス欲しさの苛立ちである――のではなく、むしろ我が下腹鳴動とリンクした衝動であることに気づくには、K.S.の過去人生の純真無垢度数も妨げにならなかった。
(早く食べて……)
(食べて……)
(食べてよ……)
(食べろって……)
(食べてほしいって……
(食べさせたいって……)
(食べせたい……)
(食べさせてみたい……!)
クレシェンド。さも当然の衝動であると衝動自身が信号を発するような臍回り内側突き上げ熱感が込み上げてきたというのである。
不必要な注釈を加えるなら、この熱感がもっぱら蔦崎公一的食ワサレ体質に誘発された衝動であることはまず間違いない。(ただし後述のように、K.S.の履歴には食わせ体質的素因が皆無ではなかった。しかしそれは全く別の親愛レベルのものでこの場面とは無関係であることが実証されている。)浮浪者糞の毒臭の中にあっても、蔦崎の汗腺から滲み出る食わされフェロモンは確実にK.S.の全毛穴に届き染み込んでいたのである。
このとき折りよくK.S.に便意が訪れていた原因は蔦崎フェロモン効果だけではない。この場にいる全員――蔦崎自身も含めて――の胸から腹を鳴動させるほどの、熟年浮浪者の半腐敗した内臓の爆臭があたりにこもっていたのであるから。そんな漠然たる全空間規模の予期の中で、K.S.はそれなりに高価なフィルムカメラを投げ捨てるように置いて、
「まるで手足の関節がゼンマイ仕掛けで動いているみたいな、あやつり人形になったかのような、とにかく勝手に体が動いてしまって」
と後にK.S.自身が振り返った機械的動きで傍らの椅子を引き寄せてピョコンとのぼり、蔦崎に背を向けパンツを下げてスカートをまくったのである。
唐突な展開に呆気にとられた士農田勝也は、無意識の予期があったことは確かなのだろう、とっさにフルコース用の皿をさっとK.S.の尻直下に――浮浪者糞の暗褐色泥溜りの中心やや外れた所に――びしゃっと投げ置いた。
恍惚モードに入ったK.S.はふんっと鼻息を洩らすと同時ににゅルるっ、「切れのいい」という形容はこれのためにとみなが感嘆した典型的安産おろちを漏洩音ゼロ摩擦音ゼロにて皿上に横たえたのである。
現場証言によると、K.S.はノルマを終えたというように夢遊病的歩みで去っていき、戻ってこなかったという。
蔦崎の眼前には、黒褐色の腐敗した浮浪者糞の中に白皿が浮かび、その中央に目測200グラム山吹色の健康女体おろちが横たわっている光景が残された。士農田勝也一派の糞食刑は江戸時代の牢屋同様もっぱら男だけの空間で実施され、刑を受ける者は結局食おうとせずに無理矢理詰め込まれるか、または鉄拳リンチを受けるかどちらかが主だったと伝えられる。しかし怪尻ゾロには成行上、ぜひとも「自発的に」食ってもらわなければ気持ちが収まらないこの場の面々だった。士農田はこの二重庭園の外域はともかく内域であればなんとかなるだろうと思い立ち、配下のシェフコスプレ男に命じて味の素、だしの素、鰹削り節、塩胡椒、タバスコ、蜂蜜、……調味料的アイテムを取り揃えさせた。適当に瓶を取り上げて山吹色の表面に振りまこうとしたとき、士農田の手が止まる。
腐臭の中央に芳香がすでに立ち昇っていたので。
これは現場証言のすべてが一致しているため間違いないのだが、化学反応なのか単純な気圧湿度の物理的過安定ゆえなのか、ともかく特殊な対流現象がその空間局所に生じたらしい。
調味料のなけなしの香りに頼るまでもなく、K.S.腸内物質が清涼なアーモンド臭を放ち、K.S.腸内アーモンド臭自らが乱舞するような螺旋気流を形成して、まるで生き物のように周囲の浮浪者腐臭の古層をかき混ぜ始めたのだという。
不可視の気体どうしのせめぎ合いにもかかわらず、まるで濁った水の中に金銀虹色の清涼な泡が膨らんで複雑な界面バリアを作り出しているのが見えた気がした、と複数の現場証言は言う。
それほどに明確な分子運動をもってK.S.腸内アーモンド臭が蔦崎周辺から浮浪者糞腐臭を押し出し弾き出し、修業上絶好の環境を作り出したのである。
目に鮮やかとすら言える臭気ブロックの対流にやや怯みながら士農田は、調味料的アイテムは投げ捨てつつも平成バージョンにこだわって、目測200グラム山吹色の真ん中に、キャビアを纏ったサーモンスライスを載せた。
これで蔦崎のおろち文化的条件は調った。
とはいえこの段階での蔦崎公一の精神は、いかに美女尻から優雅に練り出された美糞とてナマで食いきれるほどの解脱明澄の域には達していなかった。なにしろユリカ生糞黄金を頬張りそこねて間もないどん底状態である。ところがこのとき、周囲の浮浪者腐糞の圧倒的汚穢度との鮮烈なる対比ゆえに、中心で悪夢のような芳香を放ち続ける女体糞が相対的に、大便本来の心理的汚穢度に比例した光輝香気を帯びた垂涎物質として目に映じたのである。この補色対比反転の魔術をもってしても、しらふではこの段階の蔦崎に生糞食は難しかったかもしれない。がむろん、飢えが最後の一押しを及ぼした。ときおり結界バリアをかいくぐってナメクジウオ形に侵入してくる浮浪者糞腐臭の断片がひゅるひゅると蔦崎の鼻腔をくすぐり、それが美女糞山吹表面から放たれ続ける大芳香を引き立たせるスパイスとして作用したのである。
断片が侵入してくるスパイス段階の贅沢さは、予感によって高められた。結界バリアの外に充満する浮浪者糞の大腐臭が、いまにもバリアを破って雪崩れ込み、K.S.腸内芳香を掻き消してしまうのではという焦りが、蔦崎の破滅的恍惚を誘った。急がねばならない。奇跡的な気流的バランスの一瞬に灯るこの結界が破れぬうちに!
蔦崎の飢餓と焦りゆえの恍惚に爛れた鼻腔は、極上山吹大蛇にぐいぐい近づいていった。飢えた胃と喉とそして理性も焦燥的衝動を後押しした。蔦崎はぐっと身を乗り出して、両手をまるで縛られているかのように背中に回したまま口で皿中央の山吹色のてっぺんのサーモンに食らいついた。そして周りの山吹色の塊ごとサーモンを銜え込み、顔上げて飲みこむや否やふたたび山吹色に唇を突っ込んで、そのままの姿勢で休みなくむしゃむしゃと貪り食ったのである。実のところ、蔦崎はそのまま、しまいには両手を伸ばして皿を掬い取るようにして、一滴残らず山吹色を平らげたのである。
蔦崎完食、喜びのゲップ一発と同時に、
「あ……」
結界バリアが案の定というか
「ばしゅっ」
音を立てて破れ、以前に倍する濃度の浮浪者糞腐臭が雪崩れ込んできて、あっというまにK.S.腸内芳香空間を飲み込み、士農田勝也はじめ小幹部を含む監禁サイド全員、そして蔦崎自身をも咳込み発作の渦に陥れたのだった。
のたうち回りながら、蔦崎は達成感に酔い痴れていた。
長すぎた「潜在的食ワサレ体質期」から「真正食ワサレ体質期」への脱却の瞬間である。
解放後蔦崎は、飢えと一種幻覚の力を借りてナマ黄金食初体験を遂げてしまったことを、修業的意義のない、よって記念性のない偶発時として、後にくるべき真の初達成の意義をも損ないかねない失策として悔やんだのだったが(これはちょうど、百メートル走でベン・ジョンソンがドーピングによる「世界記録」を出してしまった後、11年後にモーリス・グリーンが同タイムの正式記録を打ち立てるまでのあいだ陸上競技界に蔓延した一種「白け」にも似た感慨だったといわれる)、今日のおろち学の定説では、たとえ飢餓と焦燥の状況下とはいえ、腐敗浮浪者糞への極接近という大試練的状況をクリアした蔦崎は、このとき純正の意味で脱皮を遂げたと評価されている。実際、美女山吹極太一本糞の味質量温感粘土と、浮浪者腐敗黒褐糞の臭気との平均値をしっかり胃に収めおおせた蔦崎の脱皮度は、蔦崎の人生が結局たどりついた超倫理的境地の評価にかかわらず称賛に値すると言えよう。こうして蔦崎の修業は、本人も予期せぬ形で後押しを受け、完成することになったのである。
しかし蔦崎自身には、当時自らの快挙のスケールが十分理解できていたのかどうか。
ホストクラブ『ξ』のNo.5ホストがユリカの妹の勤めるランジェリーパブで黄金自殺未遂男修業人生の一端を聞き、蔦崎を探し出したのは、蔦崎が士農田のアジトから解放されて二週間後のことである。蔦崎がもう一度ユリカを指名して『乙姫殿』を訪れ、一度尻全体に自糞をぶちまけられているユリカがいやだと言い、押し問答が続いていたときだった。蔦崎が再び黄金自殺を試みようとしたのは、すでに姫里美沙子やかえで亭まゆらの試練を経てしまった現実に加え、飢えと焦りと錯覚に任せて見ず知らずの女の大山吹生大便を弁明の余地なく真正面から完食してしまった以上、堕ちれば堕ちるほど却って香坂美穂を別格界に聖女として安置できるかもしれないという新たなる創造的認識のゆえだった。
ともあれ蔦崎はスカウトされ、最終兵器的臨時ホストとして、伝説の熟女難題に挑戦することになった。
[(二十代美女の味+五十代浮浪者男の臭気)÷2=五十代熟年醜女の味]という公式は近似的に現在でも通用する(ただし密室環境におけるより正しい公式として[√(二十代美女の味×五十代浮浪者男の臭気)=五十代熟年醜女の味]が第4回おろち数学会シンポジウムで提唱されたことにも注意)。蔦崎公一がNo.5ホストに連れられてクラブ『ξ』の扉をくぐり、マダムS.W.の猛糞激臭を胃いっぱいに見事詰め込みえたのは、そんな補色相殺効果に浸かった精神的背景のもとにおいてだったのである。
(第35回 了)
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■ 三浦俊彦さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■