「二流小説家」というやたらと面白いミステリーが映画化されるらしく、その特集である。原作はデイヴィッド・ゴードン、これを日本で映画化するということで、いわゆる翻案である。それで特集タイトルは「翻案の魅力『二流小説家』」。
翻案というのは、明治期以来、日本文学にとっては欠かせないものだ。いや、遡ること平安時代、あの源氏物語の冒頭は中国の楊貴妃の物語の翻案から始まる。日本はいつでも外国の物語を受け入れ、国風にアレンジしてきたのだ。その洗練こそが日本文化ではあった。
この「二流小説家」、これがミステリーだと聞くと、タイトルからしてめちゃくちゃ面白そうである。が、本国で映像化されていないのには理由があって、誰もが「どうやって…」と思うぐらいの映像化困難なメタ小説らしい。
何でも器用に書きこなすが、その器用貧乏ゆえに評価の上がらない二流小説家と、ある凶悪な死刑囚とのやりとり。そこから起きる新たな連続殺人事件。小説において、特にミステリー小説において小説家が登場するものは、傑作が多いのではないか。パトリシア・ハイスミスの「殺人者の烙印」など、特に売れない作家がその業の深さから事件を起こしたり巻き込まれたりするものは、やはり説得力が違う。メタと言っても自己言及的なものには切実感があるのだ。
小説は、この二流小説家サイドの話と、死刑囚サイドの話とが入り組んで言語的・メタ的に造られているらしく、そこが映像化困難と思われる。さらに欧米のバックグラウンドを日本に置き換えるという、もう一つ別の困難もあったわけだ。
が、困難 × 困難 = 困難の 2乗 とはかぎらない。困難が相殺し合って、なんか別のものになる、ということはある。少なくとも、欧米文化の中の欧米人たちのイメージで読まれていたものと違っても、そこは誰も責めない。ついでにストーリーが違っても、場合によってはつまらなくなったと感じても、これは別物、と諦めがつくかもしれない。
インタビューには、主役(もちろん作家の方だろうが)の上川隆也など。上川は、監督が最初から念頭にあったキャスティングだというが、テレビドラマ「白い巨塔」で、患者サイドにまわる売れない弁護士を好演したのを思い出す。廃業寸前まで追い詰められ、疲れて酷薄な雰囲気を漂わせつつ、カルテをぺたりと窓ガラスに貼り付けて改ざんを見破ったときの、無表情の演技が忘れられない。今回もはまり役だと思う。武田真治というキャストもよい。
ミステリー映画の紹介としては、わくわくするような特集になっているが、文芸誌としては、翻案というものの本質に今一歩、迫ってもよかったか。どこか後ろ暗く怪しげで、それ自体「二流」っぽい、しかし日本の文化にとって本質的な何かを示す、わりかし重要な手法のように思える。
長岡しおり
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