偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 85 :名無しさん@ベンキー :03/02/07 22:13
水泳ジムに通ってた頃、バイトの女子大生がスタート台に上がってケツを突出した瞬間、ブゥウゥゥ~~~と水面とプールの底にまで響く長ぁーい音がした。俺は何も考えずプールを出て同じスタート台に上がったら、ちょうどさっきのケツらへんの空間がモンノスゴイニオイ。しゃがんで顔の高さを合わせてみたら悶絶しそうになった。小坊のときシロスジカミキリの死骸を虫かごで一ヶ月くらい飼い続けて、ときどきつまみあげて腹を嗅ぐとすごい腐臭がして、いささか中毒性の症状というか、日に五、六度嗅いではぽおーっと気持ちよくなっていたのを久々に思い出した。もろ内臓臭ですね。彼女の放った屁のニオイだとようやく気付いて(高さを合わせてみるととか言っときながら白々しく思われるでしょうが、意識表面で気づくまでにはかなりタイムラグがあったのです)とにかく屁がまだ固まってるんだと気付いて思いっきり勃った。おっとぉ、て感じで、マッチョなエッチ一筋だった俺は俺自身の深層に目覚めた。全部肺の奧まで吸い込んだ影響か、当日から一週間咳と微熱が止まりませんでした。フェチ開眼のささやかなお値段ってか?
↑「新しい価値観にあなたの意識が開かれた瞬間のことを、その感触が最も伝わるような文章で四百字以内で述べよ」って推薦入試の小論文への、俺の答案。思い出してもっかい書いてみた。分量も文体もこんなもん。答案用紙ガッツリはみ出してた。ちなみに合格しますた。
■ 「僕って半端もんの尻マニアだったんですが、どうもダメだったんです、機会がなくて。いや、根性がないことを機会がないって言葉ですりかえて自分を納得させようとしていた空っぽぶりがこれまたどうにも情けなくて。で、ついにテレビで高木美保がカメラ正面にお尻突き出してオナラをしてくれると知り、これでぶったるんだ我が日常から離脱できる、と有頂天になっていたのです。たしか、電波少年系のメンツがつるむ番組で、忘れもしない『大晦日pm9:00~am0:30『雷電SPいけ年こい年』で「108つプー」なる企画が行なわれる。108人がマイクの前で除夜の鐘を模した放屁を一発ずつ放って越年するというもので、第一発高木美保の先導というコンセプトのもと、放屁役を一般の人々から募集している』って雑誌広告で読んだのです。『GON!』だったかな。僕は喜び勇んで応募し、オーディションで採用されました。しかし当日風吹きすさぶ屋外現場でいくらも待たぬうちに判明した衝撃の事実。なんと第一発は高木美保ではなく高田純次だというじゃありませんか! 何たる落差! よりによって高木美保と高田純次では視覚面にとどまらず音だって成分だって大大大違いのはずだ。出張ヘルスに高田万由子を指名したら高木ブーがやって来たってくらいの大ショックですよ。え? そのとおり、この喩えのいい加減ぶり的外れぶりに匹敵する衝撃脱力だったってことですよ、もう。奈落に突き落とされました。しぼみました。しかも高木美保どころか、放屁役として現場にゃ女が一人もいないじゃありませんか! まさかとは思ったがそんな! 二十代から四十代中心のむさ苦しい男どもが出番を待って屁を我慢してひしめいているありさまはドドドドと倦怠感押し寄せるものがありました。いや、女が一人もいないって、応募者それ自体がゼロだったのか、結構不気味なものがありますよ。男どもみなマイクの前で結構長くいきばり尻を叩いたりして苦しんだ果てにようやくプスゥと洩らすパターンだった中で僕はもう投げやり気味に、番が回ってくるやマイクに尻押しつけるなり早漏の地のままたった二秒でブウウウと完遂し、早々に帰りました。僕の場面が番組では映されなかったことも侘しさに輪をかけました。後で確かめてみると、高木美保が第一発を務めると書いてあったはずの雑誌をめくってみてもどこにも一言も予告されていません。記憶違いか、僕が勝手に読み込んだ幻だったのか。というのも高木美保はそれまで、いたるところで天晴れな「へコキ女優宣言」をしていて、そう、角川文庫のエッセイ集『ヒロインの眠らない』でも新聞の連載コラムでも、腸が人の三倍も長いためきわめて溜まりやすい自らの多屁体質のことやドラマ収録中にオナラを我慢してへたり込みその表情のリアルさを監督に褒められた話とかが誇らしく語られていて、『徹子の部屋』’97.4.30.では自分の腸のレントゲン写真まで披露していたというのだから、「108つプー」なる企画には当然、高木美保をおいてトップバッターはいないと僕的に勝手に一人決めしていたらしいのでした。収録時にへたり込んだときに腸内パンパンにたまっていたさぞかし深ーい美保特製バター大蒜臭のオナラを直接嗅ぐことは叶わぬまでも、間近にIQ女優の屁音に聞き惚れ年が越せるかとすっかり楽しみにしていたのでした。ああ高木美保……
……痛感しました。熱感しました。高木美保はおろか女性が見事に一人もいないということで哀しいかなしばらくはまだまだ男が地球上の愚行の先着権ばかり握ってゆくのだな、と痒感しました。ああ高木美保……。くどくて申し訳ないけどつくづく高木美保。紅一点せめて久本雅美くらいはお馴染み尻踊りスタイルで一発放ってほしかった。司会の松本明子ですら『きたないなあ』などと顔しかめてたありさまですからね。ラジオでオマンココールができてもカメラの前で肝心のオナラができないってんじゃ、乙武クンがラブホテル経験をあえてテレビで公言してみせるような、無理してタバコ吸ってみせる優等生みたいな偽悪の威を借る偽善しか感じられませんよ。そして無念の結末! 男尻集団が結局百八つのプーを除夜の鐘リミット内に完遂できなかったあの無念こそ、女の協力を拒まれた地球文明がすでに神仏の恩寵を干されており崩壊絶滅の碑も遠くないのだな、と未来地球の死相をさむざむと圧縮体感した次第です。いや、「地球」は大雑把すぎるかな、アメリカだったらアマゾネス系のねえちゃんとか重量級のおばちゃんなんかが絶対混じってただろうな。日本だな、危機感の対象は。発想はいいのに詰めが甘いのな、この民族国家。ああもう、くどくてすみませんけど高木美保さえ参加していればなあ、日本国も今こんな不景気に悩まずにすんでいたものを。そしたら三十分に一度は大音量を振りまく美保ガスに負けまいと男どもも発奮し、百八つどころか千八十も夢じゃなかったに違いないのに。高木美保がやらないってわかってむしゃくしゃしてその勢いで、バイト二年目の冬でしたが現地からそのままうちの社長秘書の一人に特攻かけて、うまい状況に持ち込んでいざってとき、ええ、すげえクール系美人なのにすぐ打ち解けて僕も大胆になれてですね、ベッドでまず仰向けの彼女の腰持ち上げて『まんぐり固め』で彼女の顔に似合わぬでかいケツ天井に向けて尻間にちょん、ちょん、ちょん、て鼻突っこんだりむん、むん、むん、て顎で揉みつけたりしてたところ、首90゜めいっぱい曲げ押しつけられてウーウーいってた彼女の毛深め肛門もいっしょに悲鳴をあげまして。プスッ、て屁が漏れたわけです。『あっ』て彼女恥かしがってましたが、なんか僕、急に褪めちゃって。粗相しちゃったけど最小限のプスッ、ですんで助かったー、みたいな淑女系恥じらいの表情がそのへんの男にゃすこぶる色っぽく見えもしたんでしょうけど尻マニアの文脈でいくとなんかこう。尻毛がそよっ、じゃねえ。美保期待でスカタンこいた直後ですから虚しさに輪がかかって。そのあと普通に何とかエッチは済ませたんですが、もうそれっきりでした。ほんの先っぽに引っかかってた前回の漏れ残りが押し零れたみたいな、気の抜けたような『プスッ』の記憶が興ざめで。しかも全然臭わなかったんですよね。そいつもマイナス点でした。やっぱあのとき、あれほどの尻をしてる彼女ですから、プスウウーッ、と長く深い発射と、新鮮な臭いがほしかったですよ。ああM・T、くどいけどM・T、ほんとM・Tだったらきっともっと長々長々と、パンパンに膨らんだ三倍長腸、大量三倍量の生牡蠣臭大濃厚屁をたんまり放射してくれたに違いない! ああ、ああM・Tだったらなあ。そのあとすっかりショボ屁の彼女にゃ興味失って、ショボ屁ゆえに半端にきったなく感じられて、それっきりです。物足りなそうな彼女の遠い視線がしばらくうっとうしかったんですが……」
■ 「女のケツの穴もくさいのか?」
――という重大疑問をさしもの中島一派とてなかなかどうこうする勇気へ踏み出せないでいたところ、転校生参入時によく起こる浮かれ気分の余韻および例の〈このテの面構えは最初にシメとけ戦略〉とがシンクロした絶妙な乗りにしたがって、重大疑問検証行為実施に利用された蔦崎公一なのだった。しかし当の疑問――
「女のケツの穴もくさいのか?」は、小学四年という年齢にふさわしい実践的疑問であろうか? 学研の雑誌『BOMB!』連載の下半身体験投稿コーナー「パンツの穴」には、同じ疑問解決を実践した広島県コンビの回想が掲載されたが、その実行日は小学三年時であった(単行本版p.111)。小三と小四。小学生にとって一年の差は大きい。投稿系全国標準から一年遅れで集団実践されたというところに、蔦崎および周辺人物らのこの後のおろち枠運命が微妙に予示されていたとも言えよう。
中島克之および取り巻きのそのつど気紛れめかしたその実真剣な命令に従って、一線が次々に越えられていった。かわいおとなし系中心に女子の尻をブスッと刺し、悲鳴を喚起するたびに蔦崎は罵倒や冷たい視線を浴びては屈辱感に苛まれていたのだ。そしてついに、蔦崎試練の時がきた。悪い相手を狙って(狙わされて)しまったのである。口八丁手八丁・優等生的・マドンナ的存在ですね・学級委員の仕事もそつがありませんと担任によって通信簿に大書された香坂美穂である。ウォータークーラーで水を飲んでいる美穂の尻に初のカンチョーをふかぶかと決めた翌週の放課後、美穂を先頭に六人の女子が、農道で蔦崎を待ち伏せていたのだ。
「おまえのせいでみんながどんなに迷惑してると思う!」
「そんなに嗅ぎたきゃ、たっぷり嗅がせてやるよ!」
女子六人がいっせいにスカートをまくって自分の尻に指を突っ込み、蔦崎を塀に追いつめて生温かい六本の指を彼の頬に鼻先に額に顎になすりつけたのである。蔦崎は神妙に制裁を甘受した後、女子連の哄笑に弾き飛ばされるように逃げた。
クラス替えなしで持ち上がった五年生になるとクラスの中で男子と女子の対立が日常化していたが、蔦崎の非自発的行為がきっかけとなっていたかどうかはもはや確認不可能であったという。男子が女子の脇に滑り込んで倒れざま仰向けに覗き上げる定型的スカートめくりを仕掛けるのが俄然流行りだしたのに対して、女子が男子の後ろから忍び寄って股間をぎゅっと握ることで報復したのが表面上の始まりだった。握られた瞬間にその男子がどんな格好で反応するか(屁っぴり尻突き出し前屈みタイプ、のけぞり蝦蟇蛙スタイル、内股よじれよがりフォームなど)によってガマ、オネエなどと俄か渾名で嘲笑われた。男子は、掃除の時に敵の脚の間に滑り込んでパンツの色を大声で叫んで対抗した。一部変色が発見されたときは大々的な布告が演じられた。戦争である。帰り道相手が二三人単位にばらけた頃合いを見計らって六七人で待ち伏せして、物陰や茂みから飛び出していって捕虜にし、オシッコを漏らすまで全身くすぐりまくったり、両脚を持って股間を足の裏でぐりぐり扱く「電気マッサージ」で悶絶させたり、まだ膨らんでいないオッパイを揉んだり、みんなでオシッコをひっかけたりした。
女子軍のリーダー・香坂美穂とサブリーダー・渡辺夏美をいっしょにつかまえる戦果を挙げたとき、男子軍の隊長・中島克之は、ヒラの隊員に過ぎない蔦崎公一に対し、ふたりの顔に放尿することを命じた。ふつう複数で行うこの「オシッコ刑」を単独でというのは、前日に女子軍に捕まって全身くすぐりの刑を受け小便を三回も洩らす屈辱を被った蔦崎の名誉挽回を配慮した中島の思いやり深い特命だったが、蔦崎はさっそく至近距離からふたりの顔面に放水しようとジッパーを下ろしたとき、妙な感覚が背筋をむずむずと駆け下りるのを感じて狼狽えた。くらっと立ちくらみがして、仲間に押さえられている美穂の鼻の頭にペニスの裏が触れたとたん、ペニスがぴーんと佇立して「あ、は……」小便とは別の白濁がどくどく、ぴゅすっと流れ弾け出たのであった。初だった。
額から頬を斜めに白く、潤んだ目で蔦崎を見上げていた香坂美穂は五年生の三月、新潟に転校していった。(その後五年間――高校一年まで――美穂から蔦崎へ毎年暑中見舞と年賀状が届いたが、蔦崎は一度も返事を出さなかった。美穂からのそれら葉書に特別なことが書かれていたわけではないが、微妙なこの辺りの詳細調査にこそ、おろち史研究の課題が残されていることは確かである)。六年生になると、クラス替えのせいもあって男子対女子の対立は消滅していた。新学年早々1組から3組までを、則武保彦というやや内斜視がかった男がシメることになった。どちらかというと細身の、神経質そうな外見だったがタイマンで中島克之を泣かして名を挙げ、その歯切れよい頑なな断定口調と、社会科に限ってはクラスで常時一番につける成績的実力とで人望を集める則武は(典型的な政治家タイプだったのだろう)、たびたび繰り返される隣の管根三小との喧嘩でもリーダーシップを発揮し、そのお陰で「南小」は優位に立っていた。番格および一般生徒を束ねる則武の統制法は、羞恥心を利用する巧みなものだった。規律に背いた者や教師に内通した者をまず則武保彦が指定する。すると配下の五人が出動して、当人が廊下を歩いているときなど、教師の通りかからない死角をよく見極めつつ見張りを二人配したうえ、当人を三人がかりで引き倒し、うつぶせに押さえつけ、ズボンとパンツを引きずり下ろして肛門にみんなで指を突っ込むのである。そして引き抜いた指の臭いを代わる代わる嗅ぎ、「くーすぅーえぃ、くーすぅーえぃ」オリジナルメロディつけて連呼し、その臭いを描写し、最後に黄色く染まった指を当人の鼻の穴深く突っ込み念入りにねじ回して完了なのだったが、犠牲者はこの最終段階にいたる前にたいてい泣いた(四年生当時、香坂美穂らから類似の制裁を受けたとき蔦崎が泣きはしなかったことに注意せよ)。のみならずこの刑に処せられた者はその後ずっと、現場で描写された臭いの渾名をつけられ――たとえば「ネギ」「イカ」「イソ」「ミソ」「ニラ」「タラ」「イソ2」「ゴミ」などが「6年2組クラスノート」に残っている――この名で呼ばれるたびに末永く現場の羞恥を思い出させられることになるわけだ。のみならず毛糸のパンツをはいていようものなら、「毛糸野郎」としてその後長らく嘲笑されつづけた。古き良き「カンチョー」の組織的発展形態であるこの「尻穴の刑」は六年生全員の恐怖の的であり、担任教師の再三の禁止命令にも拘わらずクラスの厳正なる統制維持に効率よく貢献していた。
しかしひょんなことから発案者である「番長」則武保彦自身が「尻穴の刑スペシャル版」ともいうべき罰に処せられることとなったのである。十月末のある金曜日、仇敵たるべき三小の髪の長い女子と並んで歩きつつ楽しそうに談笑している現場を南小腹心の副番に目撃されてしまったからである。副番は大将のこの背信行為に当然怒り、番格メンバーを集めて協議し、特別メニューを計画した。金曜日の昼休み、則武がトイレの個室に入ったところをつけていき、外で耳を澄まし、どうやら排泄が始まりつつあると思われた頃合に、副番以下三名が次々と天井との隙間からくせっ、くせっ、くせくせっと叫びながら個室内に飛び込んだのである。下痢気味の渋りに苦しんでいる最中だった則武は突然の乱入に驚倒しながらなすすべもなく、狭い個室内で頭小突かれたり腹さすられたり尻つねられたりされるがままになった状態で手足頭を壁に擦りまわしながら排泄を続けなければならず、あらん限りの悪態呪詛脅迫語放つのみの逆襲むなしくしまいに脇の下を三人がかりで揉まれまくっては、ぐぁ、ぶゃはははははー、尻露出したまま便器を完全に外れて転げ回ったのである。狭小空間に四人ひしめき合う四方の壁はたちまち則武保彦の下痢が飛び散る惨状を呈し、ついにはさしもの無敵番長も大泣き笑いに泣き出したのであった。
刑執行者三名も服を茶粘液で汚す被害を受けたが、その効果には満足だった。着替えを用意して室外に待機していた部下の手筈により教師に知られぬよう始末しおおせたこの制裁事件以降、則武保彦は六年生全員に――事情を知らないおとなし系女子も含めて――「ゲリピン」と呼ばれるようになってしまい、ましてや番長自ら黄色い毛糸のパンツをはいた「毛糸野郎」であったことも判明してしまっては、かつての番長の権威は跡形もなく消滅した(執行者たちは現場で則武の尻を強引に拭いたトイレットペーパーと、下痢の染みだらけの毛糸パンツを保存しており、これをクラス中に公開するぞと則武をたえず脅していたが、現場で則武が受けたダメージを考えればその必要もなかったと思われる)。こうしていつしか平和が沈殿していったのだった。そして何を隠そう、このときの副番、個室内大尻穴刑のため真っ先に飛び降りた副番こそ蔦崎公一だったという証言があるのである。前述した蔦崎の潔癖性に鑑みるに考えがたい状況であり、後述するように蔦崎自身これを否定、のみならず六年生進級以降「尻穴の刑」ごっこに参加したことすら一切否定しているのであるが、証言しているのは傍目にナンバー2的存在だった中島克之であるというのはかなりの重みであり、いずれにしても蔦崎公一独特のアクの強い醜貌が、アンチ則武保彦クーデターショックにちょうど感性的にマッチし、あの顔で個室に真っ先に飛び降りて則武の下痢尻揉んだのかーすげえ迫力だー的イメージを伝説的に膨らませたのも生来の容貌ゆえと来ては致し方なく主導者・ヒーローとしてクラス中から祭り上げられることになってしまったこと自体は忌むも誇るも事実なのである。
蔦崎はその後卒業までのあいだ、心ならずもバーチャル番長として君臨させられた。
中学校に進学しても事情は同じであるかに見えた。蔦崎公一の威貌を中心に据えた南小出身の元番格どもの迫力は、他の小学校出身の者どもを怯ませるに充分だったのである。一年の夏休み前まで教室の隅などで散発的に行なわれていた下半身系遊戯は、自らのズボンのベルトを緩めておき、近くにいる者の手をいきなり掴んで、ベルトの隙間からパンツ越しに、あるいはじかにパンツ内に引き入れ、自分の尻の谷間にこすりつけるというものだった。やられた方は必死で手を相手のズボン内から引き抜くが、不意を衝かれているためすでに肛門の上を五指が何往復もさせられており、臭いをたっぷり擦り込まれた片手を遠ざけ掲げ泣き顔で手洗い場に走るのだった。これは「御手拝借」と呼ばれ南小出身の、小学校時のこれ系被害者たちによってなされていたが(「カンチョー」「尻穴の刑」と「御手拝借」との反転ぶりに注意せよ。小学生的外界単純探査傾向と中学生的求心内省覚醒段階との対照は当然遊戯にこそ反映する)、他人の手による尻間擦過刺激は受身的に不意を襲われると苦痛だが能動的自発的に行なえば苦痛度が快感に転じるとの発見が思春期最初の開眼となったようだ。「御手拝借」は目標が前性器ではなく後消化器であることが性徴抑制の規制を逃れたとみえ、女子にもこれを真似るものが皆無ではなかった。中でも東小出身の宮間由布子という歯列矯正器具の輝き眩しい長身の子が「御手拝借」をもっぱら女子相手に演じていたが(女子の場合はスカート・パンツの胴回りから瞬時に手を引き入れることが難しかったため、スカートの下から相手の手をパンツ越しに肛門に突き刺す方式に限られていたようだ。これを繰り返していたため宮間由布子のパンツは、午後になると、肛門付近が真茶色の星形に皺窪んでいたという(階段下で偶然覗き見た野田敬三の報告による))、その宮間由布子にせよ、本場の洗礼というか男子陣営の誰ぞに「御手拝借」でペニスにじか触りさせられた日から、ぴたっと女子同士の御手拝借からも身を引いてしまったのは、由布子流にひとつの性徴段階をクリアした標しであろうか。いずれにせよ蔦崎公一一派はこの「御手拝借」騒動には関わっておらず、蔦崎派がどう取り締まりに出るかという懸念と、御手拝借拡散とともにしだいに皆が警戒するがゆえに手をズボン内にまで導く不意衝きが難しくなってきたこととで(二三度、ふたりがかりの「御手拝借」――一人が両手で強引に犠牲者の片手を相棒の尻間へ押し付け、擦りまくり、相棒は十分ほどもよがりつづける――が試みられたが、蔦崎派の「バカか、あいつら」宣言により自然廃止された)、次第に廃れ、少なくとも教室で大っぴらになされることは一学期終了以前になくなった。
しかし蔦崎派の無言の対外統制、そしてその内部結束にすらまもなく翳りが見え始める。そう、微妙な骨格の成長変容ゆえか、価値観の一時的変容ゆえか、蔦崎生来の最大の武器たる醜貌が小学校時代の無垢な評価(凶悪かつ豪放)から、一種逆説的憧れをもって陰に陽に女子の肯定的注目を惹く流れに乗ってしまったのだ。こればかりは思春期の皮肉としか言いようがない。遺された中学生当時の写真から判定するに、どう見ても蔦崎公一の容貌は「極醜」「烈醜」の範疇に属するはずであるが、この年頃の女子の目にはこれが一種「野生美」「野蛮美」と映ったらしいのである。中学一年の夏頃まではまだひと癖ふた癖ある悪友の間で睨みが効いていたものの、二学期になると昼休みなどあからさまに蔦崎の周囲を比較的フェロモン系女子グループが接近談笑で取り囲むようになり、蔦崎は表だって番格を率いることができなくなってしまった。しかも蔦崎の身分を決定的に脅かしかねない事件が夏休み直前に起きたのである。
当時、いまは名前未確認の一年生男子の一団が、三階の窓からじっと下を眺め、下階の窓から誰かの頭が突き出されるのを待って、しかも女子の頭が出てくるのを待って、大粒の唾をその脳天に落下させる、そしてつむじに何発命中させられたかで得点を競うという遊び「唾爆弾」を楽しんでいた(「御手拝借」グループと裏の覇権を競っていたふしがある)。その一つの重要な帰結が次に記されている【『3年E組クラス日誌』鵜野加代子のコーナーより】。
まただよー。つむじのとこにべーっとり。やーだー。サオリなんかこれで二っ度めー。
なーんか、女子ばっかねらってくんのよねー。セイコとサオリとミナコとでー、手分けして外で見張っててー、テキは三人なんだよねー、つかまえてみたらねー、一年坊主でー。でねー、カワイー方のひとりをねー、三年の校舎に連れてきたのー。けっこーカッワイーのー。アサハラショーコーのほっぺたつぶしておでこせまくしたみたいなー。
これは『ウラ日誌』と言うべき一種のグループ交換日記で、教室の黒板脇に日直が戻しておく公式の日誌ではない。よって教師の目に触れる可能性はないわけである。五~六人の三年女子の間で執筆回覧されており、ともあれここに記されているように、「唾事件」への報復として、鵜野加代子、小柴佐緒里、浜島征子ら被害者五人が蔦崎公一の帰宅途中を捕らえたのである(あたかも小四時代の経験の反復。ただし文面から読みとれるが、ふたりで帰宅途中だったらしい。切り離された同伴者は、「ブチ」という渾名の番格外の小柄な子であった可能性が高い。なお麻原彰晃への言及が見られるが、これは注目すべきである。というのは、このクラス日誌の日付は地下鉄サリン事件に始まる一連の「オウム事件」の四年半ほど前であるにもかかわらず、そう、すでに衆院選に伴う「真理党」の象形帽子+着ぐるみ街頭パフォーマンスがあったり麻原が東大駒場で講演しマイクを中途切断されたり各地で土地取得関連の裁判を争ったりプチトピックに事欠かなかったとはいえ全国的ミーハー向け知名度には未だ達するにほど遠かったはずの麻原彰晃の名に中三女子がさりげなく芸能人モードで言及しているという事実は、おろち文化史研究上きわめて興味深い。おろち文化黎明期におけるオウム真理教信者予備軍の存在頻度の特定および影響が期待される)。そうして五人の女子は建材店裏の雑木林に蔦崎を連れ込み、自分らが被害を受けたのと近似的類似の行為を代わる代わる施したのである。もはや小学校四年生ではない、完全に声変わりも経て喉仏の隆起した、標準よりかなり大柄かつ屈強な中一男子ひとり(一六七センチ、五九キロ)が、五人の標準的な中三女子(平均一五五センチ、四一キロ)に取り囲まれ押さえつけられようとした場合、本気で抵抗すればどのような顛末になっただろうか、推測は難しくシミュレーションの機会もきわめて稀だろう。いずれにせよこの場合は、蔦崎公一は四人の女子に手足を押さえられてあと一人によって顔中に唾をかけられるというプロセスを、順々に五人分つまり五サイクル経験することになったのであった。中三の少女たちの基準からしてこのような――そもそも透明唾粒のみならず「クァァぁーッ」轟音付き不透明痰粒までが吐き出されたというから、しかも全員――報復法が一般的であるかどうか、何かさらなるウラがあったのではないか、疑問の余地は残る。そもそも蔦崎自身は、『蔦崎日記』に繰り返し書かれていることだが、「唾爆弾」に加わったことは一度もなく、鵜野加代子らに捕まったのは全くの濡れ衣だったのである。その醜貌ゆえの怪しさが罪を着せられる原因となったものか、それよりも中三女子メンバーのうち少なくとも二人までが蔦崎の容貌にすでに熱烈な恋愛感情抱いていたことは確たる事実ゆえその心情反転の結果論的表現であったということもあるだろう。報復隊の一員にあの則武保彦の従姉が混ざっていたという未確認情報もあり(第一候補は鵜野加代子)、したがってもし管根南小学校時代の蔦崎派ビザール刑法を聞き知った少女たちであったとすれば、この種の報復は自然な流れであったとみることもできる。蔦崎としては、決して怖じ気づいてなすがままになっていたわけではなく、じたばた騒いで女どもをより興奮させるのが面倒臭いから、という程度の報復甘受であったのだろう。前述した蔦崎公一生来の潔癖性に鑑みるならば、そこをモロ唾液痰塊攻撃に甘んじたということはこのときの少女たちの剣幕が、恋愛感情込みの複合的迫力を発する圧制的なものであったことが推察されるのである。ちなみに五人のレベルは、浜島征子を除く四人までが標準以上の美形であったとされる。十五歳美形集団の集中痰吐き攻撃を正面から見据えるというのは、誰にでもできる経験ではない。やはり少年蔦崎の中におろち魂は確実に宿っていた。
この報復現場で、なにやら女子五人の興味を大いに惹く現象が生じたらしい。『ウラ日誌』のVol2以降が紛失している現在となってはその正確なありさまを断定することはできないが、常識的な線でどうやら、顔面痰唾にまみれつつある最中の蔦崎公一の股間が、制服の厚手のズボンを通してもはっきり膨張しているのが見て取れたという俗流推測くらいしか利用可能な資料がない。頼りの『蔦崎日記』にしても中学時は頻繁に中断され比較的コンスタント化するのは高校一年時以降であるためこの頃の蔦崎サイドの記録も現存していない。
唾液痰塊攻撃後蔦崎がしばしば、3E女子グループに放課後呼び出されて帰路ずっと鞄を持たされたり、おんぶさせられたり、弁当の食べ残しを食わされたりしていたことは間違いないようだ。蔦崎リビドーの焦点は、五人中唯一のファニーフェイス・但し決して醜女ではない浜島征子に向いていたという説が有力である。浜島征子は稀に見る超強力フィヨルド乱杭歯の持ち主で、空洞挟んだ一見間引き歯並に唾液糸縦横伝わらせての開口至近目撃は覚醒系ド迫力だったと察せられる。その浜島征子は惜しくも、最初の対蔦崎唾液痰塊攻撃の四ヵ月後に持病の骨肉腫で他界している。蔦崎が病室を見舞った証拠はあり、二人の間に興味深い目混ぜが演じられたことは確かだが、記述の紛糾を戒め本稿では取り上げない。3E女子グループのうちひとりが中途退場したということの生命的情緒的意味を噛み締めていただければ十分である。ただ、ある昼休みの屋上、3E女子五名が輪になって中腰に屈んでいる現場を目撃した家庭科の西竹範子教諭三十一歳の、なにやら形が不審なので近くに寄ってみると中心に蔦崎公一が弁当箱を持って座っており、女子たちはやはり手にした弁当箱からご飯や煮物を口に運んでは咀嚼した塊を蔦崎の弁当の上代わる代わる吐き出し、それをうっすら髭生やした蔦崎の口が黙々食べている、そういう光景のようでしたという証言には、浜島征子死去の翌週であったにもかかわらずすでにして確かに五名とある。浜島征子のあとに誰かが直ちに空席を埋めるほど蔦崎フェロモンは熟していたと見るべきだろう。西竹範子教諭が「何してるの」と声をかけたとき「え。べつに」という斉唱には何ら不自然な翳りはなく、秋晴れ陽気柄朗らかな笑いすら立ち昇りかねず、教師として止める理由も思いつけず黙視とせざるをえなかったため、このような制裁が儀式のように、週に一度ほどの割合で続けられたのである。蔦崎は決して、倒錯した快楽に乗じていたわけでも弱みを握られていたわけでもない。なぜ女子グループの理不尽な悪戯に諾々従いつづけたのかは不明である。蔦崎自身は最後まで、真相を明かすことがなかった。つまるところ、三十歳を過ぎてから十三歳時の行動原理なり価値基準なりを思い出そうとしても思い出せるものでないということでしかないのだろう。災害は・忘れた頃に・やってくるというように不意打ちで鵜野加代子一派から呼出の伝令が1年E組に走る、すると蔦崎は恐々というわけでも魅入られたようにでもなく淡々と頷き、付き従い、粘着制裁を甘んじて受ける。この光景はそれ自体、理由や意味づけを必要としないほど、いや、理由も意味も欠いたままであればあるほど単なる事実として意義深い光景だと言えるのではないか。のちに、この段階での逸脱を止めていさえすれば後年のあの蔦崎の大犯罪を未然に防げたのではないかというマスコミの咎めに対し、担任教師(数学科主任・田村雅俊)は、うすうす現場を目撃はしていたが、たしかにいかにも異様ではあったが和気藹々、食べ残しを食べているからといって注意したり叱責したりする根拠には乏しかった、と第一目撃者西竹範子と口をそろえ二人してまぶしげに目を細めながらテレビで弁明していた姿が印象深い。
3E女子が卒業すると一瞬の真空が生じたが、蔦崎の体質は変わらなかった。鵜野加代子らは卒業間際、一コ下の新三年生・吉井一恵ら女子バスケ部の後輩に、蔦崎の世話の後継者たることを命じたのである。このあたりの記録は【担任教師の生活日誌】【脅迫状兼ラブレター】【トイレの内部告発風落書き】等々、単独で見れば興味深くもあくまで断片的かつ少々相互矛盾も含んだ資料しか残っていないので省略する。重要なのは、蔦崎公一の「食ワサレ体質」が、中学三年間にわたって大小強弱何らかの形で綿々続きながらも、男子の悪グループの間では蔦崎が女子グループから特別待遇を蒙っている事実がまったく知られておらず、表立った喧嘩や抗争は一度も起きないままに番格リーダーとして暗黙に奉られていたということである。やはりその容貌の威力は強烈で、中学三年間を通じて蔦崎を「さん」付けで呼ばぬ男子は校内に一人も存在しなかったのである。でありながら蔦崎の食ワサレ体質は中学校卒業では終わらなかったことに注目すべきであろう。
一番前の席で弁当を食べていると――都立緑河高校一年生の九月だったが――入学してすぐ、というわけではないのが、このほどよいインターバルが、却って蔦崎体質の本物さを証明している――友人に押された高原こずえが笑いながらよろめいてきて、蔦崎の弁当の上にどすんと尻餅をついたというのが新規巻き戻しの発端である。やーだー、とスカートに付着した飯粒を一生懸命むしり取りながら高原は行ってしまったが、弁当を黙々と食べつづける蔦崎の姿、その怪貌には今や脂臭重なり、体格も百八十センチを超えようとする巨躯をなしつつあり、かなりの本格派迫力を備え始めていたはずだが、その蔦崎をじっと注視している仁科真智子という生徒がいた。翌週の火曜日、この1D仁科真智子とバスケットボール部の先輩である2B名取朱美、3H須藤久美子ら四人の女子に蔦崎は呼び出されたのである。『蔦崎日記』はそのときの記録から第一頁が始まっている。
あのさあ、あたしたち、〈おろち系〉で稼ごうと思ってるんだけど。これって、いい練習になるんだよね。蔦崎くんおやじ顔で、雰囲気リアルに近いしー。
この頃はまだ「援助交際」というコトバすらあまり流布していなかったはずだが、〈おろち系〉という言葉が説明抜きであっさり女子高生の口にのぼっているということは格段の注目に値する。これについてはいくつかの仮説が提示されてきた。
(第15回 了)
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