偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 二人は僅かに顔紅潮させて、無言で歩いている。商店街の裏通りとしか形容できない殺風景な街路。ちらっとお互い横目で見交わして、彼が突然ぼそっと呟きかけてはわざとらしくやめ、彼女がくすくすっと時間差で誘いのフェイントのように笑う。してふたりはまたすぐに香りよい沈黙に戻ってひたすら地面を見つめつつ歩調を合わせていく。ふたりはことさらまとまった会話に頼る必要もなく、じっと幸福感に満たされながら歩いている。こういうときなぜか川延雅志は、自分たち二人が人目を忍ぶ戦前の中等学校生カップルであるかのような空想に浸ってしまう。これが油断だったのだろう。そのような「魔」が忍び込む瞬間というものが、どんなカップルにも必ず交際期間中に最低三度はあるというのが今日のおろち生理学上の定説である。もちろんこうした隙なのである、いきなり、五人の一見同じ顔をした男らに行手に立ちふさがられてしまうのは。
(以下、後述する一見瑣末かつ抽象的理由により、川延雅志の折々の談話やメモに加え、飯布芳恵の証言、中西孝一の証言、目撃者磯井伸明の投稿手記等々をあえてキルトふうに貼り合わせた関係上、人称が混在する非標準スタイルで記されていることをあらかじめお断りしておく――)
「なーんだか。気ーにくわねーえよなあア。そおーゆー幸せな風景」
男たちの誰も、こんな科白を実際に発したりはしなかったのかもしれない。しかしいずれにせよ似たようなことなのだ。最も低級なタイプのチーマー(粗暴タイプ一人、冷笑タイプ二人、雷同タイプ二人)に自分たちがからまれていると川延が悟ったときには、すでに川延自身が「あの、つまり、だから……」などという無意味な呟きを早口で発して、状況を一挙に悪化させてしまっていたので。
一見して勝ち目はなかった。相手は五人だ。しかし飯布芳恵の潔癖な性格からして、手を取って逃げ出すとか土下座するとかいう手が最善手であることはありえない。そんなことをした瞬間に、芳恵は俺から離れてゆく。川延はそう思った。俺は小学校以来喧嘩をしたことがない。格闘技の心得があるわけでもない。機転だけは人並み以上に利くつもりだが、こんな状況で機転どころかどういう定石がありうるというのか。考える時間を稼ぐためだけに、川延は芳恵を背後にかばって(ちなみに川延は芳恵をかばう必要はなかった。チーマーのリーダー中西孝一の後の証言によると、このとき中西たちは芳恵は眼中になく、ひたすら川延を殴ることを目的としていたのだから。中西らは、「釣り合いの変な」カップル限定でターゲットにしていた。つまり男と女の「レベル」が極端に異なるカップルを専門に襲ったのである。醜男美女の組み合わせのときは、抑えつけた醜男の眼前で美女をひたすらレイプして無力な醜男に身分相応の世の辛酸を思い知らせ、美男醜女の組み合わせの時には醜女を押さえつけた眼前で美男を徹底的に殴って身分不相応の幸せを破壊してやるのだという。美男が相応の美女を連れずにあえて不細工な女を選んでいるということはその女が何か、体か性格か特技か金か家柄かよほどのメリットを持っているに相違なくたまたま恵まれたマスクを盾にその恵みをさらいとるとは許しがたいという論法であった。肉食系チーマーの辞書には「フェチ」という語は載っていなかったらしい。ともあれ川延は高畠華宵系の美少年として評判絶えない男だったのである)、先ほどの情けない呟きを相殺するために精一杯威嚇的な声で言った。「君らも大勢で女連れをなぶったって面白くないだろ。一番強い奴がでてこい。素手の一対一で勝負しようじゃないか」その種の劇画も読んだことがないので科白もサマになってないことを自覚しながら、川延はこの時点でやけくそモードを選んでいたものと思われる。というよりどうにでもなれと諦めきっていたので、くそ落ち着いた声が出せたのだ。ビー・バップ・ハイスクールの中間トオルのファンだという芳恵が俺の肩甲骨に頬を押し当てながらわくわく拳を握っているのがプレッシャーだった。やっぱ戦えってこと? だがツルんで女連れを襲うようなやつらがサシの勝負に応ずるわけがない。リーダーぽい金髪の顎尖り男(中西孝一)と青髪のデブがナイフを抜いて、嘲笑いながら左右から迫ってきた。うそだろ、すぐそばにはコンビニも蕎麦屋もあって人が出入りしてるのにと俺はパニックに襲われて、自分の科白が少しは相手の心に届いたかどうか気配を探るのに気をとられているうちに斜め後ろからいきなりパンチがとんできた。「ぶえっ」彼は鼻血を出して尻もちをつく。芳恵が型どおりの悲鳴をあげた。
川延は立ち上がろうとした途端に真横からもう一発パンチをもらい、今度は唇を切って仰向けにひっくり返った。やめてよ! 芳恵のかすれ声。「いっしょにこい」「話だけだよ。おとなしく来りゃこれ以上なんもしねえからよ」川延と芳恵はそれぞれ腕を掴まれて、もともと人気のない裏道からさらに外れた、神社の境内に連れ込まれた(裏通りにいきなり出現する、水道橋の金刀比羅神社のような感じを思い浮かべてほしい)。何もしない何もしないと呟きながら五人は代わる代る川延を殴りつけた。最後にしたたか腹を蹴られて、彼はグボグボと悶絶し胃液を吐きながらうつ伏せに地べたの泥を舐めた。
「マサくん!」
泣きながら抵抗する芳恵を奴らは奥へ引っぱっていく。
「放して! だれか!」
「……、…………」失神しかけていた彼は力を振り絞ってよろよろと立ち上がる。……こんな。こんなばかなことが本当に俺らの身に降りかかるっていうのか。芳恵がヤラレてしまう。ばかな。実際にこういうことがあるのか。テレビみたいな型通りのばかげたことが。むろん、前述の通りチーマーには芳恵をヤル意思はなくただ騒がれて人目を引きそうな範囲から彼女を遠ざけようとしただけなので、「待て……」と川延が力を振り絞ってかすれ声で立ち上がった姿は悲壮というより端的に滑稽というべきかもしれない。ただ、あれだけ殴られながら歯の一本も折れなければ鼻骨折も免れたところをみると、美男子としての川延の端正な役目はまだ続くという命運を告げられたことになるだろうが。
「なんだこのやろう。まだおとなしくできないのかよ……」三人がすばやくこぶしを握り直し、あとの二人も芳恵の口をふさいで引っ立てて戻ってくる。
「僕と彼女は……ちょうど今いい感じなんだよ……。これからなんだよ……。これからが山場なんだよ……。それをあんまりだ……。邪魔はさせないぞ……。彼女に指一本触れさせないぞ……」すでにして血だらけのボコボコ顔、片目ふさがり髪ぐしゃぐしゃ、もうまともな怖さを感じなくなっていた川延なので、もうむちゃくちゃにしてやる。どうせ芳恵をやられるならもう、何でもやってやる。原始の興奮。だが理性の芯が冷静の灯を点した。むちゃくちゃやるよりも、確実に芳恵を救うことが大切だと考え直していた。同時に川延は今、別の意味で窮地に追い込まれていることにも気がついていた。さっき殴る蹴るされたきり二度と立ち上がらなければ、そのまま仕方なく芳恵を救えなかったことになれば、あとでふたりで傷を癒しあうこともできただろう。しかしこうして無理に立ち上がってしまったからには――そう、たぶん傍目にも相当の無理だ、鼻血は止まらず前屈み姿勢のこの揺れ具合――こうして無理して立ち向かったからには、芳恵がヤラれることに対し彼自身並々ならぬ抵抗感嫌悪感を抱いていることを広告したことになる。そう、芳恵にもだ。これはむしろまずくないか。ヤラれたあとの芳恵と、まだヤッテもいない俺が、うまく今までどおりやっていけるだろうか。どうせ救えぬものなら、不慮の怪我だったと諦め災難やり過ごすべきではなかったか(何度も言うが実は芳恵はチーマーどもの眼中になかったのでなおさらである)。あとで朗らかに忘れあい、達観し交際続けりゃよかったじゃないか。「別に君の罪じゃないんだから今までどおり……」「ええ……マサくんも救えるはずなかったんだし……」と。それをここまで拘泥っちゃったからには、このムリな執着が尾をひいて、忘れようったって何一つ忘れられなくなる……そうだ。これはこうなったら、もう何がなんでも徹底抗戦、こいつらの犯行を頑として断固絶対阻止するしかなくなった!
俺は唇を噛み締めてズボンのベルトをしゅるると外す。金髪の顎尖り男が口笛を吹いた。「お。お。そんなもんで何しようっての」とぼけたからかい口調だが、顔は一転して警戒している。そう。この金具で思いきりこいつの目をブッ叩いてやる。むしゃぶりついて喉を噛み切ってやる。殺されても道連れだ。そうしないかぎり俺と芳恵の未来はなくなったのだ。もはややけくそだ。右手に巻きつけたベルトを短く振り回しながら、彼女を死に物狂いで守る以外の道が閉ざされた以上、身体の芯にふつふつと、今まで経験したことのない熱烈な勇気が沸き上がってきているのを感じていた川延雅志だった(とにかく何度も強調せねばならないが、芳恵級の容貌はこれらチーマーのレイプ対象基準を遥か満たしていなかったので、川延のこの全霊抵抗は滑稽というよりも重ね重ね悲壮である)。しかしこうしていてもいつかやられる、と俺は思った。いつまでも睨みあっていることはできない。武器のベルトを一度一方へ放ったら、敵は複数、すぐ別方向から拳が襲ってくるだろう。簡単には動けないのだ。川延はベルトを投げ捨ててクァーッと大音量痰を口に含んだ。そしてペッ、ペッと両手に吐き出して泡団子をこね、青髪デブに向かって両手をかざした。
「???」ばかじゃねえのかと呟いてふたりがなおも迫ってくる。
「お。お。くるのか、やるのか」ベルトを取り去られゆるくなっていたズボンが、ゆっくりと下にずり落ちていき、くるぶしのところでくにゃくにゃに固まって、「……」川延は容易に歩くことができなくなった。これでは……向きを変えるのも難しい。ますます不利だ。俺は地に落ちたズボンの中から左足をまず抜き出そうとしたが、靴紐かどこかに裾が引っかかっているらしくなかなか抜けない。
(うぉ、っとっ、とっ、とっ、とっ……)
危うく転びそうになった。
(まずい……)状況はたしかにまずくなっていたが、川延が懸念したのとは別方向へだった。(まずいよ……)
これだけの手負いのうえ足が動かずでは、ベルト振り回そうが石振り上げようが、一人に対してすら脅威を与えることが難しくなってしまった。「へっ、ばかが……」実際奴らの一人は顔を歪めてせせら笑いながら悠々と踏み出してきている。こうなってしまっては、拘束されて川延の窮状を見せられている芳恵が実は護身用布団針か何かを隠し持っていて、いま意を決して奴らを後ろから次々に刺す、というドラマ的なことでも起こらないかぎり俺ら側の勝利は絶望的だ。芳恵の顔を見ると、髪染め野郎に腕掴まれたまま「……」泣きそうな表情で俺を凝視しているだけ。
(う……。できればなんとかカッコよく……確実な攻めはないものか……)
拳を固めて三人がいよいよにじり寄ってくる。
(く……、こうなったら……こうだ……!)
追い詰められつつも「カッコよさ」にこだわる川延の絶望的イケメン魂は、ここでおろち的にはこの上なくカッコいい奇手を絞り出す。
「よおし、まってろ……」
あなたはパンチパーマを見据えて低く唸り、右手のベルトを高速でめちゃくちゃ振り回して敵を牽制しておいて、左手でパンツをずり下げた。緊張と恐怖ですっかり縮み上がったペニスが陰毛の中にすっぽり埋まってモザイクの必要もない。川延は左手の人差し指を尻の割れ目に突っ込み、ぐりぐり捏ね回した。
「……はっ、アタマおかしくなったか、こいつ……」
連中が苦笑している一瞬の脱力的気配を見届けて、川延はベルトを首にぶら下げ、右手の指も順々に尻の穴に突っ込んだ。
「くるか……」
俺は両掌を広げて前に突き出した。「くるならこい……」夕暮れの目にも、十本の指がまっ黄色く臭いを放っているのが見てとれる。
「ふざけやがって……」
一瞬怯んだ不良どもは、厳粛な式典で不謹慎な言葉を発した参列者を咎めるような表情立て直し逆にジワと踏み出してきた。
「あっ、くるのか……」
川延は泣き顔で、小便をどぼどぼと放出した。両手でそれを受けた。「く、く、くるのか、くるのか……」温い液体に固体が溶けとろとろ滴っている両手を振りかざす。「くる気か……」まだ不安は抜けずそこでカーッと痰を口中に溜めて、べっべっと両掌に吐きかける。「やる気なのか……」さらにべとべとの指を鼻に突っ込み鼻血鼻糞をもたっぷり塗りつけて、「くるならこい……」
「この野郎……」
連中は一歩退いてから二歩進み出た。「ざけやがって……。殺してやる……」
「ぅええい、ぅええい……」川延は泣きながら右手を猛烈に振り回した。ぴんぴんと汁が飛び散る。そうして敵の接近を防いでおいて、左の指を五本まとめて、必死の祈り込めつつ肛門に力いっぱい深ぶかと突き入れた。「ウッ……!」括約筋の裂け拡がる激痛を覚えて涙が噴水のように迸る。しかしこの強力な刺激によって待望の便意が、過酷な緊張のあまり鳴動を繰り返していた俺の下腹がやっと爆発した(つまり恐怖且緊張が一瞬にしてカチンカチンに絞って固めた内容物に、諦めと自暴自棄の弛緩力が歪曲変形作用をもたらし、反動で大弛緩の液化現象が生じたものらしい)。指を引き抜くと同時に大量の半液状物と鮮血が爆音とともにいっせいに外へ雪崩落ちてきた。川延は中腰で股の間から両手差しかざし、皿にした
その両手いっぱいに、肘まで染めてナダレを受け溜めて、今度こそ自信たっぷり「ようし、こい……!」
「……!」
不良どもは呆れ返った常識人の顔をして五歩退いた。俺のペニスはいまや苦痛と興奮のあまり真っ赤に勃起して、シャツと上着の裾を押しわけモザイクも透け通す血色で怒頭天を衝いている。
「け……」
「こんなクソ……相手にしてられるか……」
「ばかばかし。帰るぜ」
芳恵の手を放して連中は去りかけた。
俺は危機去れりと察した安堵のあまり大胆な怒りが一挙に炸裂し、あふれ出る土砂崩れ下痢血便を両手にすくって、連中にとびかかろうとした。
五人ともうわあっと叫んで一目散に逃げていった。大笑いしながら。
彼方に遠ざかりつつある連中を見送りつつ「……」威嚇欲に駆られた川延は「待てッ!」ダッと深追いしようとしたが茶色くずぶ濡れたズボンとパンツがズッシリ足首に巻きついており、半回転して仰向けに転倒、両手になみなみ湛えた必殺の武器がびっしゃと宙を飛んで正面の芳恵の靴、足、スカートにもわずかな斑紋。
「…………」
俺はドロドロの両手から濃い焦茶色をしたたらせ、尻からもぷすぷすと残便を泡立たせながら、さぞ誇らしげだったであろう涙目で芳恵を見上げた。
川延雅志を一人称として、二人称として、そして三人称として記述した文をあえて混在させたが、これは自意識溢れる美男子ゆえの(蔦崎公一にしろ袖村茂明にしろ川延雅志にしろおろち記録がその容貌の質にこだわってきているのは、顔が尻の正反対に位置する器官であるがゆえに、両極一致の原理により、容貌こそおろち史解釈上にニュアンス以上の定義的特徴を付与するというのが定説だからである)、自他の視点に分裂した、すなわち無我夢中の自己の観点と同時に、傍の飯布芳恵そしてチーマーどもの視点をすら、自己の相対的見え方として尊重し、内外に視野が分裂した一種錯乱状況を表現するためである。
で、客観的にみると、川延雅志の咄嗟の行為は掛値なしに英雄的であったと言える。人前で脱糞することにより二枚目ペルソナの一部一層をかなぐり捨てることは稀なる勇気の産物以外の何物でもない。しかしその高尚なる、世の固定的美的役割分担を超越したほとんど芸術的、宗教的偉業を理解できるほど、実は飯布芳恵の内面は洗練されていなかった。川延はこのことを、危険が去った時点において、倒れ伏している自分を芳恵が助け起こすために指一本差し伸べようとすらせずただ立ちすくんで震えていたのを目の当たりにしたとき悟ってしかるべきだった。しかし川延にはそんな彼女が、尾を引く恐怖にいまだ囚われている女子力の天然スタイルと映ったし、何よりも自分の機転かつ騎士道的成功に酔ってもいた。
偉業の意味内容はともかく外形的迫力にはかろうじて圧倒されていた芳恵はなんとかハンカチを差し出して川延が自力で立ち上がるのを見守り、気遣うふりを演じかつ危機回避を些やかに喜ぶふりも演じかけたのだが、芳恵と並んで危地を後に歩きながら川延は極度の緊張の余韻によりもはや不必要な放屁を一歩ごとにぶーぶーと大音連発しつづけて、しかし昂揚のあまり自らそれには気づかずブーブー歩きつづけるという全く英雄らしからぬ〈タイムラグ恐怖心ゆえの無神経さ〉を芳恵に印象づけていたのである。神社の鳥居を出るときそばを通ったカップルがブーブー音につられる形でえっ、くすくすくすっと昔の漫画のように笑いながら、とりわけ女が「ドブみたいー。なんでこんなに黒くて臭いの?」(実際、川延のズボンの中を満たしていたレベルの粘度の下痢となればたいてい黄土色寄りに輝くものだが川延下痢は糸雫の細かい端までなぜか暗焦茶であってしかも腐敗悪臭を発し、腸内の不健康が一目察せられる類のものだった)と囁いたのが芳恵の耳に入ったのも痛かった。しかもその女が正統派ビジュアル系であったのがまた拍車をかけた。救助された姫を演ずるにはただでさえ苦しい芳恵の真顔はこのときさぞ非美的に引きつっていたものと推測される。
焦茶まみれのズボン半分おろしたまま水道のある公園に向かって蟹股で、人々に振り返られつつモコモコ歩きながらハンカチでパンツの腿の境をぬぐいぬぐい三度目に川延が振り返ったとき、芳恵の姿はなかった。
結局一人で夕闇の中、公園で下半身を水洗いし、ズボンに砂を擦り込んでは洗いを繰り返して臭いを消し、パンツを捨てて夏風の意外な涼しさにくしゃみしながらズボンを乾かし、もしかしたら芳恵は新しいズボンを買いにいってくれたのもしれないと鼻水すすりながら小一時間待ち立ち尽くしつつもズボンが乾いたところで諦めて公園を出て、黙ってタクシーで帰宅した川延が芳恵に翌朝電話すると、はぐれてしまったのだと恋人は弁明していたが(もちろんはぐれるような道ではなかった)、むろんそのとき、川延は恋人に、正しい猜疑心を抱くべきだったのである。
それから二人は会いつづけたが、この事件を機に関係の質が変わった。川延は対チーマー戦の緊張が下腹部に染み付いてしまったとみえ、芳恵と会うたびに条件反射で腹がゆるく崩れるようになってしまったのが変化の元だった。芳恵と並んで恵比寿駅西口を歩いている最中についに高らかな湿質放屁を漏らしてしまったとき川延はこれ以上清き正しき交際による聖女聖男伝説推敲を装うは不可能と見て、己が屁の余韻がまだ拡散しない二三歩のところで芳恵をホテルに誘った。ガスのすぐ後ろに固形物質の切実圧力が迫った当面どこか任意の室内に入らねばという純肉体的焦りが、喫茶店ともレストランとも咄嗟に単語を選り分けられぬままホテルという元来端正な室内代表一般名辞を喉に押し上げ、図らずも俗な勇気を肩代わりしてくれたということらしい。手すら満足に握っていなかった二人がいきなりホテルとぶつけられてしまったのだが、そして案外ほんとに案外すんなり無言ながら同意的足取りでついてきた芳恵だったのだが、たまたま入ったラブホテル部屋のトイレが筒抜けの音響設計になっており、川延が無心に下痢放射音をひとしきり、緊張してベッドの端に腰掛けてというよりお尻で寄りかかっているばかりの芳恵の耳へと伝播させたあと、川延が出てみると芳恵が顔をしかめて立っており、次に振り返ったとき、芳恵の姿はどこにもなかったという事の次第である。【川延雅志の日記欄外より】川延が美貌でなく、蔦崎公一クラスまで振り切れろとは言わぬまでも標準レベルの容姿であったなら、芳恵の心にこれほどの嫌悪を喚起せずにすんだであろう。芳恵は川延の外見ゆえに彼を愛したのではないと思っていたし、事実そうだったのかもしれないが、物質的汚穢度の絶対的影響は侮れない。対チーマー英雄的脱糞劇におけるその焦茶色のあまりの汚さに、やはり外貌とのギャップ、アンバランス、認識の歪曲が一挙に重なり、醜女たるを当然自覚しつづけていた(しかもごく古典的な自覚をし続けていた)芳恵としては超二枚目をゲットできた己が幸運を(これも古典的な意味で理解された幸運を)世の滑稽談代表みたいな形で裏切られたという初歩的幻滅が胸中沸騰しきっていたのも確かであるうえ、古典的な幻滅と称するにはドギツすぎる脱力と絶望が芳恵の恋愛感情を覆い潰したことは単純な事実と思われる。
川延はそれから二度と芳恵には会っていない。電話は何度かけても話し中、いちど公衆電話からかけたときにはちゃんと呼び出し音が鳴ってその瞬間、自分の電話が着信拒否されていることを悟り、電話を切った。
川延雅志はショックのため十日間寝込んだと言われる。
アドレナリン駆け巡っている最中の最初の路上脱糞時に即時フラれていた方が、ダメージは数倍少なかったであろう。
芳恵に会ってもらえなくなってから、オレは自分がいかに芳恵を愛していたかに気づいた。これは苦痛だった。芳恵に会っていた頃、どうしてこれに気がつかなかったのか。愛していたことは当然気づいていたが、これほどとは。悔恨の念に苛まれた。そうだ。芳恵への愛のとてつもない深さに本当に気づいてさえいれば、あんなみっともないまねをして芳恵にオレを嫌わせてしまうような愚は犯さなかったはずだ。チーマーに殴られて鼻の一つもへし折られていた方がましだ。芳恵もマワされるくらいのことはあったかもしれないが、堂々と立ち向かって玉砕していれば、そのあとも格好のついた交際が続いていたことだろう。ああ、つくづく殴られていればよかった……。
そこでオレは積極的に殴られにでたのである。芳恵を失った以上は今さらながら殴られに殴られて己の馬鹿さ加減をとことん思い知って突き抜けるまでいって生まれ変わるしかない。もちろんただ殴られるのではなくてこっちから殴ってそのついでに殴られたら甘んじて受けるという戦略でいこう。
芳恵を奪ったあの種のチーマーどもに恨みを抱くことにもなっていたので一石二鳥だ。
俺は喧嘩を繰り返した。もともとガタイにゃそこそこ恵まれた俺(182センチ、76キロは沖雅也ベスト時と同じ、となぜかずっと記憶していた)のこと、喧嘩にうまくなるのはすぐだった。いかにも悪そうな奴らがたむろしているいい風景を物陰から監視し、そこからひとりになった奴を尾行し、人通りのないところで背後から殴りつけて引き倒し、蹴り続けて昏睡させた。逆襲され頬にパンチをもらったのは二度だけで、KO率はいずれにせよ百パーセントだった。
殴り方の練習がひと段落したところで尾行方式を改め、ワンステップ前身というわけで、そう、面と向かってわざとらしくガンを飛ばして、相手が些か面食らいながらオイ、と咎めにくる出鼻を殴って倒すということを繰り返した。この方式は何度か反撃にあって脛や顎に怪我もしたが、一日に二三度ずつ練習していると短期間に急速にコツが習得されてゆくのがわかる。大きい相手とは殴り合うと勝ち目がないこともわかった。俺は足が速いのであぶないと見ると逃走してしまいヤバイ目には遭わなかったが。でかい奴にはタックルの要領で懐に飛び込んで寝技に持ち込み、ただ俺は柔道やレスリングの技は知らないので、とにかく相手の指を何でもいいから両手でつかんで思いきり逆にヘシ折る、というテを専門に用いることにした。相手の悲鳴が薄れないうちに一発頭突きを顔に叩き込めば、あとは殴るなり踏みつけるなり自由にできる。
川延は復讐の鬼と化して夜な夜なチーマーを殴り倒し、必ず呟いた。俺は初心を忘れてはいない。芳恵と別れる羽目になった運命の武器をな。そう、これは通算九人目からだが、俺は倒した相手を仰向けにして、その口の上にわが素尻を密着させて脱糞した。ヨシエーと叫びながらね。なにせチーマーと向き合った緊張感がこの種脱糞の最初の体験であった川延のこと、初期記憶の条件反射によって便意が必ず訪れ、相手を殴り倒したときにちょうど最高潮に達するよう下半身がプログラムされきっていたのである。こうして必ず相手の口の中に脱糞した。鼻をつまんで口開かせた上にしゃがんで喉の奥深く因縁の脱糞を見舞う所行を繰り返した。かくして下北沢の夜明けには、西荻窪の夜明けには、所沢の夜明けには、錦糸町の夜明けには、新大久保の夜明けには(あまり有名になるのを恐れて新宿渋谷池袋級繁華街は二ヶ月に一度くらいにとどめておいたが)、口いっぱい鼻と頬にかけてこんもりと茶色を山のように詰め込まれたチンピラの横たわる姿が連日見かけられるようになった。誰の仕業だ? 怪尻ゾロだ! と呼ばれて界隈で怖れられるようになったのである。【被害に遭った十八歳無職、十九歳フリーター等の証言より】
各街の駅前交番の警官が巡回時に、顔面に人糞盛り上げた被害者の倒れている奇怪な現場を何度か発見し、追及したが、被害者は一様に口を割ろうとせず、警官も馬鹿馬鹿しい不良の内輪もめとして放っておくことにしたようだ。どの街でもその筋の若者の発想は同じで、被害者が加害者逮捕に協力しない理由は、①自分で報復しなければ気がすまないということ(『ビー・バップ・ハイスクール』@巻¥頁参照)②自分が「被害者」などになるのは格好悪いという信念(『ビー・バップ・ハイスクール』*巻&頁参照)③それ以上に無様にやられたことを仲間とりわけ上の者に知られることが沽券にかかわるという意識(『ビー・バップ・ハイスクール』#巻?頁参照)に加え、④「怪尻ゾロ」の伝説が保持されることを不良界が暗黙に望んでいたということもあったようだ。怪尻ゾロを倒した奴には懸賞金がついていたというような即物的な事情も当然絡んではきていたろうが、それよりももっと理念的かつ不定形な伝説意識というものが、回を重ねるにつれしだいに漂いはじめてきたのである。つまり伝説の存在そのものを尊重するアウトサイダー心理と言えようか。また一説によれば、怪尻ゾロの餌食になった者は完全に事実を隠しおおせられるものでもなくテリトリーを等しくする仲間に醜態を目撃され介抱される羽目になることがしばしばだったが、お互いにどのような色、組織の大便を口に突っ込まれていたかによって、優劣の比較をしていたということもあったらしい。怪尻ゾロの置き土産はほぼ例外なく健康バナナ便二本+残留軟便であり、バナナ便一本が深喉く刺さるように真っ直ぐ突っ込まれたその上に、第二のバナナ便が唇に沿って真一文字に糊付けするように口と鼻の大半をふさぎ、残りの軟便がその上からこんもりと顔全体にピラミッドを築き上げるという形だった。どれもつやつやと黄土色に光る大健康便であることは、脱糞後推定後六時間も経過している明け方の発見時にすら、その艶と色を失わないのだった(芳恵の前での英雄的醜態のときにとてつもない暗黒色寄り不健康下痢を放出した川延雅志であったことを想起せよ。川延は怪尻ゾロとしては、想像裡に芳恵を見返すため、食事・健康に配慮して大便の健康度を一新させ、新しい人格~ニュー川延雅志~へと必死で生まれ変わろうとしていたことが察せられる)。真偽はまだ確かめられていないが、バナナ便の太さ、長さが被害者の地位の高さに比例しているという経験法則が発見され、軟便山の量はどうやら、被害者が襲われた瞬間どれだけ反撃して怪尻ゾロに打撃を与えたかを示しているようだった。大便の色は、被害者に同輩の人望が厚ければ厚いほど濃くもなく薄くもない輝かしい黄土色に近づいたし(濃い場合は出っぱり過ぎ、薄い場合は影が薄すぎ)、便の組織は、被害者がキレ者の頭脳派であるほど滑らかで、肉体派の突撃型であるほど豆、繊維など未消化物の白黒が黄土色の裂け目に目立っているのだった。いずれにせよこの説によれば怪尻ゾロの置き土産が不良個人の、さらにはグループ間の序列付けや器量判断にすら用いられていたということになり、一種の占い的効果を密かに果たし、当時のチーマーのかなりの数の者がまもなく極道界デビューを果たしていたことを考え合わせると、おろち文化がアンダーグラウンド業界に及ぼした影響も当然無視できないということになる。まれに、真っ黒なドブ臭タール便(最初のあの時と同様の)を口いっぱい及び顔面上に盛り上げられているチンピラもいた。これは、どうしようもないヤク漬けのチンケな下っ端か、ゆすりや強姦や誘拐のような卑劣な犯罪を繰り返している馬鹿野郎と決まっていた。やがて、警察でさえ、卑劣犯罪の犯人の目星を、怪尻ゾロの糞によって判断し当たりをつけるというように、犯罪捜査にも有用に利用されはじめすらしたのである。タール便の被害者たちは、警察に捕まらないまでも、まもなく決まって仲間に刺し殺されるか、風呂場で転んで頭を打つか、酔って羽目板を蹴破って足裏を釘で貫き大量失血するか、女陰奥深く舌を入れすぎて頭の血管が切れるか、みな悲惨で無様な最期を遂げた。
さらには次のような証言も見逃せない。
「俺は怪尻ゾロに二度やられたね。目覚めたときのあの臭さっつったら、もう死んだ方がましだと一瞬思うね。顔を何度洗っても風呂に入りまくっても三日は消えないよ、鼻の穴ん中の臭いがさ。一度目はタックルされて倒れざま頭を打ってそれっきり。こんもりやられたよ。しかもあんまりいい黄土色じゃなくてくすんでいたし細めだったんでてめえは一生チンピラだぜパシリだぜって兄貴分に馬鹿にされたな。二度目は結構俺も奴にパンチ入れてさ。一発はクリーンヒットしたと思うよ、でもオデコだったからな、俺の拳の方がダメージ大きかったかもしんねえ。奴の目の上にタンコブ一つくらい作れたかもしんないが。とにかく殴られながら奴はタックル敢行しやがってね、俺は指ねじられて、どかんと頭突き食らって、あとは蹴られ放題さ、脇腹にもらってのびちまったよ。でさ、俺を発見した男がね、俺がウンコ洩らしてたって言いやがるの。転んだはずみにズボンの尻が破けたらしくて、そこからブッテえのがにゅるっとはみ出してやがったってよ。で、俺の尻から出てるそれの色と木目が俺のツラ覆ってる怪尻ゾロのそれにそっくりだったんだってさ。怪尻ゾロのモノそれ自体はそのときもあまり高いランクのやつじゃなかったんだが、この一致ぶりはよ、って、でこりゃあおまえもしかして、ってわけ」【現・山口組系鞘富士会組長・士農田勝也(当時・無職)・談】
怪尻ゾロ後期には確かにしばしば、顔に盛り上げられながら自らもズボンの裂け目から大便を洩らしている被害者が散見されたという。その中で、顔上のゾロ糞と本人糞とが色組織酷似している場合、大物になりうるというジンクスが囁かれたのである。これは、士農田勝也の半月前にゾロ糞-本人糞合致を遂げて噂になった当時暴走族の米山司郎(現・佐山会副会長)が、その三日後に鉄砲玉として対立ゾクのリーダーの腕を折り、大いに名を挙げたことから広まったジンクスである。実際、士農田勝也も被害に遭った四日後、菊花賞で万馬券を当てている。その頃になると怪尻ゾロも占いの自己実現的暗示効果を発揮し始めていたのだろう。
ともあれ川延は怪尻ゾロとして暗躍するさいには毎回服装とサングラスを変えていたので、妨害されたりマークされたりすることもなく、不良どもの報復に遭うこともなく、馬鹿を一匹退治したあとにはいつも一番近くのSMクラブを訪れて黄金プレイコースを注文し、口中悶絶・逆の立場になる快感を堪能していたのであった。(どこのSMクラブでもふつう、女王様として勤めるまでに最低半年間「M女」として働くことが条件であることに注意せよ。M側の痛み・気持ちがわからなければ真のS女にはなれないの通俗哲学。川延はこれを無意識に実践していたようである。ただしいつも飛び込みでSMクラブを訪れたため口中自然排便は一度も経験できず、浣腸便を顔胸に浴びるか、顔面騎乗位の窒息体勢を持続させるかして、自分が悶絶させたばかりのチンピラのPOVを想像してほくそえむので十分だったらしい)。
後日談を付け加えておこう。現エピソードとしては後日談とはいえこの顛末自体、おろち史後続ステップにおける重要一支流を形成する定めであることを忘れてはならない。芳恵にバッタリ会ったのである。川延が。街で。(先ほど「川延はそれから二度と芳恵には会っていない」と記したが、おろち文化史記録に要求されがちな劇的風味のための方便というか「あの時期には二度と」という意味であった)。
アロハシャツを着たなんとなく見覚えあるリーゼントの男と腕を組んで歩いていた。チラ、と目を合わせただけで表情も変わらなかったので、芳恵のやつ気づかなかったのかな、どうせオレのことなんか忘れてやがるんだろう、と角を曲がったゲームセンター脇の自販機で缶ビールを買って立ち飲みしていた。あのアロハリーゼント男、そういえば先週怪尻ゾロが成敗した奴だよな、と思い出した。そうそう、あいつだ。あいつには太目の黄土グソを食らわせてやったからさぞグループ内でも地位が上がったことだろう。思い返しつつぼんやりしていると、五分ほどして、息を弾ませた女がぱっと目の前に立っていた。芳恵だった。「ああ、よかった。いた」芳恵は目を開いていて、ちょっと見つめあったあとオレがうっかりという感じで頬をゆるめると、芳恵は例のねじれ気味の黒ずんだ歯を見せてニッコリ笑った。以前通りの芳恵だった。
ふたりで映画を観た。タイトルもストーリーも忘れた。
おれはその日から「怪尻ゾロ」を辞任した。
■ 川延雅志は飯布芳恵に再会したとき、「怪尻ゾロ」を引退したはずだった。だからこそしばらくして川延は、自分の正気を疑うようになったのである。というのも、夜の街角で、気を失った男の顔に大便が盛り上げられている光景をたびたび目撃したからである。湯気の立ったほやほやの現場、顔全体にびったりエイリアンの幼虫のように張り付き乾いて固まっている現場、半生乾きの最も異臭強き現場等、さまざまである。もうとっくに辞めているはずであるにもかかわらずだ。川延はぞっとした。夢遊病だろうか。俺は意識の上では辞めたつもりでも辞められなくなっているのだろうか。この、自分の白昼の正気を疑う心理はちょうど、かえで亭体験をした直後の蔦崎公一の自己疑念と同タイプのものだったと思われる。(川延雅志と蔦崎公一が顔を合わせたのはただ一度、蔦崎の死の直前、あの第二次梅川事件(蔦崎事件)の現場においてであるが、そのとき、互いの容貌に対する強烈な憧憬もあいまって強い印象を与えあったことは確実である。そこには共振する「幻覚性自己疑念」が根づいていたということが考えられよう。詳細後述)。
芳恵と再会した後も依然として親密なスキンシップを楽しむわけでもなく視線以外の体の部分を接しあうこともなく、ましてやお互いの下半身を見るか触れるかする機会をあえて設けるわけでなく、そういうのは超越しているのさ的自己満足を暗黙にキャッチボールしあいながら聖女崇拝に酔い痴れ続け、それでありながら別れていた何ヶ月の間にあのアロハの軽薄男とまさかヤッてしまいでもしていたらという一抹の疑念の影をだましだましなんとなくデートを重ねていた日々の欺瞞的恍惚にプレッシャーを感じてきていたその反動が精神にいよいよ皺寄せてきたのではと、しかし川延はすんでのところで気がついた。大便を盛り上げられて失神している男たちはかつて自分が狙いつづけたチーマー風ではなく、どう見ても四十過ぎの革鞄背広男たちばかりだったのである。いくら夢遊病的錯乱に自分が陥りかねないとしても、ターゲットをすべて取り違えるほど外しまくるとは考えられない。ここにはただの外しではなく何か厳密無比なネガポジ反転的意思が働いているかのようだ。しかも問題のモノは川延が信念をもって排泄している黄土色の健康極太便でもドブ臭タール便でもなく(もともと芳恵が川延のもとを去った原因である色と臭いは両極端になるよう綿密配慮していたということを想起せよ。ほどなく川延は、同時に黄土便と黒便とを分離混合しながら放出できるようになっていた。縞模様便、日の丸便、墨流し便などの芸を身につけるようになった。深筋忠征の博物誌の分類にないものさえ含んでいたのである。その種の混合便を盛り上げられたチーマーがその後仲間内で・街でどういう運命を辿ったか、大方想像はつくとはいえ実証的な体系的研究が待たれている)、店先の灯りも消えた暗がりの隙間ではあれはっきりと、不徹底な下痢便や、消化不良の軟便やコロコロの便秘便であることが多く、行き当たりばったりの便質たること一目瞭然、しかも時として不条理に大量でありかつ中途半端に色とりどりであったりしたため、どう見ても単一自我の職人芸的誇りや統一感のひとかけらも感じられないのだった。つまり素人複数犯の仕業であることは明らかだった。このプリンシプルのかけらも垣間見えないニセ怪尻ゾロ、廉価版怪尻ゾロの杜撰きわまる犯行に川延雅志は、
「おのれ、くそう。誰だ! 何のために!」
オリジナルな犯罪者が拙劣な模倣犯の出現に抱く感情というものは、得意げなニセ犯人の出現を知って真犯人が憤然と自首してくる事例があることからも察せられ、それはとくに川延のような職人芸的犯行の場合はなおさらであった。誇りを傷つけられて激怒した川延は、本家怪尻ゾロの築いた貴い伝説や背後の熱誠を踏みにじられ無にされる危機感と使命感と焦燥とに駆り立てられて、不届き者ニセ怪尻ゾロの脱糞現場を押さえようと、夜の街で千鳥足踏み越えた背広姿の酔漢をマークしはじめたのである。
川延の怒りをいっそう掻き立てた事情がもう一つあって、それは、ニセ怪尻ゾロどもの残してゆくブツがどれもみな、少なくとも川延が目にした時点でほっかほかの湯けむりをたてていたことである。先ほど川延の目撃した光景を「湯気の立ったほやほやの現場、顔全体にびったりエイリアンの幼虫のように張り付き乾いて固まっている現場、半生乾きの最も異臭強き現場等、さまざまである」と記しておいたが、それは劇的効果上の初期錯覚であった可能性が高い。夢遊病的な我が仕業でないと悟って、自分のものでない確信を得てからはつぶさにブツの有様を観察するようになったのだが、自分のものがどれも時間相応に冷えて乾いたり固まったりしているのに対し、ニセ怪尻ゾロのブツは、どれもこれも温度低下が見られず、出したて同様に物凄い水蒸気を放ち続けているのだった。たまたま出したてばかりに出遭っているのかという非確率論的な疑いを確認するためにじっと小一時間観察し続けたこともあったが、いっこうに冷める気配がなく、というより逆に熱が高まっているとも見えるほどで、とにかく顔面を覆うブツの湯けむりは衰えないのだった。
「俺のはすぐ冷えてしまうのに、なんでだ!」無方針の素人脱糞丸出しの悪質便であるにもかかわらず……、川延は怒り心頭に発し、血眼の犯人捜しにのめり込んでいった。
苦い情緒的過去に裏打ちされた川延製玄人脱糞が達成できていない保温効果を、なぜにニセ怪尻ゾロどもにはすんなり実現できているのか。多数の個体から成ると推測されるニセ怪尻ゾロの全員が川延なみの胆汁的経験を経ているとは考えられず、したがって、このときの川延には思いもよらないことだったが、個人を超えた霊的何事かがここに宿り灯っているとしか言いようがないのだった。そう、ニセモノにはニセモノなりの「厚い背景」というものが控えていて、それが「冷めないブツ質」として余熱または廃熱を遠隔的に洩らし続けていたのである。人生折々における微教訓のおろち的現われ方を知れということらしい……。
(第10回 了)
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