かつて三日月美術館に併設されたレストラン・クレッセントで幼少期に未知なる味覚と料理への情熱、自らの食い意地を発見した三日月クイイジーヌ。27年の経験を活かし、古今東西の文学に描かれた一皿を、確かな技術と自由な解釈で蘇らせる。行間に隠された美味が五感を刺激し、一口ごとに物語の新たな風景が広がる。形は変われど本質は変わらず、エプロンを締めて五感を研ぎ澄まし、素材と向き合おう。食卓に夢と文化のスパイスを添えて。
by 金魚屋編集部
『不思議の国のアリス』は、食べ物の話である。
これは言い過ぎではない。アリスがウサギの穴に落ちてから地上に戻るまでのあいだ、彼女はほとんど絶え間なく何かを食べたり飲んだりしている。「EAT ME」と書かれたケーキ、「DRINK ME」と書かれた瓶の液体、イモムシが教えるキノコ、帽子屋のお茶会のスコーン、トランプの女王の庭のタルト。ルイス・キャロルが描くワンダーランドは、食べ物に満ちた世界であり、同時に、食べることが常に予測不能な結果をもたらす世界でもある。
アリスが何かを口にするたびに、彼女の身体は変容する。大きくなりすぎて部屋に詰まったり、小さくなりすぎて水たまりで溺れそうになったり。現実の食事というものも、突き詰めれば身体を変えていく行為であるのだが、私たちはその変化があまりにも緩やかであるために気づかずにいる。キャロルはその過程を極端に加速させ、戯画化することで、「食べることへの根源的な不安」を物語の中心に据えた。口に入れたら最後、何が起こるかわからない。それでもアリスは食べる。空腹と好奇心は、不安よりも強いのである。
なかでも私が最も惹かれるのは、イモムシが教えるキノコの場面である。キノコの片側を食べると大きくなり、反対側を食べると小さくなる。アリスは両手にキノコの欠片を握りしめ、少しずつかじっては自分の身体の変化を確かめる。これは子どもの読み物としてはあまりにも示唆的な場面だが、料理人の目で読むと別の面白さがある。キノコとはつまり、それ自体が「変容」の象徴として選ばれた食材なのだ。菌類であり、土から突然現れ、毒にも薬にもなる。キャロルがりんごや人参ではなくキノコを選んだのは、偶然ではないと思う。

「EAT ME」のケーキについても、一言触れておきたい。小さな瓶の液体を飲んで縮んだアリスが、次に見つけるのがガラスのテーブルの上に置かれたこのケーキである。干しスグリで「EAT ME」という文字が書かれている、とキャロルは描写している。干しスグリ——つまりカラントで文字を書いたケーキ。なんとも手の込んだ、しかし奇妙な代物だ。食べろと命令するケーキを、アリスはためらいながらも食べる。その従順さと好奇心の混在が、アリスというキャラクターの核心にある。
以下に記すのは、そのケーキの私なりの解釈である。ドライカラントを使った、素朴で少し不思議な風味のケーキ。食べても身体は変わらない。たぶん。
【EAT ME ケーキ(18cmパウンド型一本分)】
材料
・薄力粉 180g
・バター(無塩) 150g
・砂糖 120g
・卵 3個
・ドライカラント(または干しぶどう) 80g
・ベーキングパウダー 小さじ1
・バニラエッセンス 少々
・レモンの皮(すりおろし) 1個分
・塩 ひとつまみ
作り方
① バターは室温に戻してやわらかくする。カラントはぬるま湯で軽く戻し、水気を拭く。
② バターと砂糖をボウルに入れ、白っぽくなるまでよく混ぜる。溶き卵を少しずつ加え、そのつどよく混ぜる。
③ 薄力粉、ベーキングパウダー、塩を合わせて篩い、②に加えてさっくりと混ぜる。バニラエッセンス、レモンの皮、カラントを加えてひと混ぜ。
④ パウンド型にバターを塗って薄力粉をはたき、生地を流し入れる。170度に予熱したオーブンで45〜50分。竹串を刺して何もついてこなければ完成。
⑤ 粗熱が取れたら型から出し、ラップに包んで一晩おく。翌日の方がしっとりして旨い。
仕上げに、もし気が向けばアイシングでEAT MEと書いてもいい。書かなくても味は変わらない。
【応用:アリスのアフタヌーンティー仕立て】
薄く切ったケーキを皿に並べ、バターとレモンカードを添える。紅茶はアッサムかダージリンを濃いめに淹れ、ミルクを先にカップに注いでから注ぐ(ミルクファーストの作法で)。
帽子屋のお茶会はいつも時間が止まったままだったが、こちらはゆっくり時間をかけて楽しんでほしい。不思議の国と違って、ここでは誰も席を立つ必要がない。
次回もまだ決めていない。キノコを買いに行きながら、考えることにする。
三日月クイイジーヌ
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■


