
小説に限ったことではない。短歌や俳句、自由詩、絵画、歌、楽器、陶芸、大工仕事でもいきなりプロになれるわけではない。プロとは素人が足元にも及ばない高い能力を持っている者のことである。プロになるには修練が必要だ。修行期間は短い人もいれば長い人もいる。短ければいい、長ければドン臭いというわけではない。勘のいい人は比較的短期間で技術を習得したりするが伸び悩むこともある。気がつくとじっくり修行した人に置いてきぼりをくらっていたりする。うわべではなく原理をつかんだ者は手強い。
ただ不思議なことに、コト文学に関してはいきなり書き始めて傑作が書けると思っている人が多い。少なくとも作品を読む限り文学に関する技術を習得しようとした痕跡が見当たらない。日本人の識字率は百パーセントに近いので紙と鉛筆(ワープロ)さえあれば誰でも小説や詩らしきものは書ける。しかしそれが作品に、言い換えれば商品になっているかどうかは別だ。自分が書いた作品を名作と並べてみて劣っていると感じたらもうアウトだ。小説について言えば文庫本になっている小説と自己の作品を比較してみて、なんだか書き方が違うなと感じた時点で顔を洗って出直した方がいい。
こういうことを書くと、小説だっていろんな書き方があるじゃないか、前衛小説などは普通の小説の書き方と違うんだから好き勝手に書いていいはずだという反論が来そうだ。しかし日本の前衛小説で傑作と呼ばれる作品は恐ろしく少ない。なぜか。たいてい小手先の前衛だからである。ジョイスだかバーセルミだかピンチョンだか知らないけどさ、んなもん真似て小説を書いてもロクなものにならない。前衛小説は本質的に極めて高度な小説である。小説の原理をつかみ、オーソドックスな小説技術を完全習得していない者に前衛小説など書けない。また奇矯な書き方だから前衛小説とは限らない。根源的な、つまり普通の小説の顔つきをした前衛小説だってある。
では技術を習得していなければマトモな小説は書けないのか。その通り、絶対書けない。では技術はどうやって習得すればいいのか。カルチャーセンターの文章教室に通って指導を受けるのもいいと思う。それが難しいのなら真剣に秀作名作を読むことだ。好きな短編小説を数編、鉛筆で紙に書き写してみるのもいい。身体が小説とは何かを覚える。小説を読むことは書くことである。両者は一体だ。努力しなくても天からインスピレーションや才能が降ってくると布団の中で夢想している人は絶対に小説は上達しない。
今回は文学金魚で新人賞の選考をしておられる辻原登さんの小説を取り上げる。『不意撃ち』(令和六年[二〇二四年]集英社文庫刊)の中の「いかなる因果にて」をできるだけ詳細に読解する。ささやかな出会いや出来事が〝不意撃ち〟的結果をもたらす小説を集めた短編集である。五編収録されているが四篇はフィクション。「いかなる因果にて」だけノンフィクションの体裁で主人公の日常が淡々と綴られる。しかしこの作品は実に遠い地点にまで読者を連れていってくれる。まったく奇を衒わない優れた前衛小説である。
二〇〇八年十一月十七日夕方、さいたま市南区別所の山口剛彥宅襲撃事件が起こった。山口と妻が刺され、死亡。翌十一月十八日夕方、中野区上鷺宮の吉原健二宅が襲撃されて、吉原の妻が刺されて重傷を負う。吉原本人は外出中で難を逃れた。
最初の事件から五日後の十一月二十二日に、実行犯の男が警察に出頭し、犯行を自供した。マスコミは、この事件を大きく取り上げ、二〇〇七年に年金記録問題が発覚するなど政府の年金行政に対して国民は不信の念を抱いていた、また襲われた二人の元厚生事務次官が、一九八五年の年金大改正において年金局長(吉原)、年金課長(山口)として携わっていたことから「年金テロ」であるとして、大きく報道した。
しかし、被告小泉毅(46)は警視庁への出頭直前に、「今回の決起は年金テロではなく、三十四年前に保健所に飼犬を殺された仇討ちである」旨のEメールを新聞社、テレビ局などマスコミに送りつけていた。被告の押収品からは、氷川神社の守り札に入れた犬の毛とみられる古い体毛もみつかっている。
辻原登「いかなる因果にて」
「いかなる因果にて」の主人公は〝私〟で小説家・辻原登だと言っていい。私は小説家の性で奇妙な事件に惹きつけられている。元厚生事務次官宅襲撃は実際に起こった大事件である。当時「消えた年金」が大きな社会問題になっていてそれに怒った何者かの「年金テロ」事件ではないかと先走り報道された。しかし自首した犯人・小泉毅の供述で、幼い頃に保健所のいわゆる犬狩りで殺された愛犬の「仇討ち」だということが明らかになった。今では野良犬はほぼ絶滅したが昭和三、四十年代はまだまだ多かった。また当時は犬の飼い方も雑だった。放し飼いに近い飼い方をしていた家もあり野良犬と間違われて愛犬を殺されてしまうケースも多々あった。
私は事件の詳細を注意深く追ってゆく。小泉が愛犬を殺されたのは昭和四十九年(一九七四年)十二歳の時のことである。しかしなぜ彼は三十四年も経って愛犬の仇討ちを決行したのだろうか。少年時代の小泉を知っている人は「明るく、クラスの人気者だった」と語った。家族は確かに愛犬を殺処分されたが「(小泉は)それほど引きずっているようすはなかった」とマスコミに話した。しかし彼は年月が経つにつれその怒りを増幅させていた。
さいたま地裁の第一審裁判で公開された手記で小泉はマスコミはウソばかり報道すると批判した上で「チロは首輪をしていたんだぞ!!! しかも、狂犬病の予防注射をした証のプレートなどを首輪に付けていたのに! なぜ、犬捕りはチロを捕まえた! なぜ保健所は予防注射をしたチロを殺した! 絶対に許さない!!!/俺は、厚生省(厚労省)の官僚どもを死んでも絶対に許さん!!! 死して屍が朽ち果てようとも絶対に許さん!!!/最後に、チロは茶色い犬ではない! 真っ白い犬だ!!!」と書いた。
もちろん私は小泉の犯行に共感しているわけではない。「小泉が犯した罪は罰せられなくてはならないし、死刑判決は当然だろう」「しかし、正直言うと、私はこの(小泉の)手記の文章に動かされるところがあった」。「私は男の手記を読んで、抗いようがないやりかたで少年に襲いかかった現実・外的な力の恐ろしさに思い至り、息を飲んで立ち竦んだ」のである。
大伴は、芝原くんが彼の授業内容をまるで理解していいないことを詰り、強い平手打ちを数回繰り返した。それからなぜか小声で叱りつけ、再び猛烈な往復ビンタを加え、それからまた独り言のような叱責を反復して、さらに平手打ちをする。
芝原くんは俯いたまま立ち尽くしていたが、顔は赤く腫れ上がっていたものの、姿勢は変わらなかった。教室にいた誰もが芝原くんの得点に驚き、教師の罵声と叱責、執拗な暴力行為に辟易していたのだが、私はその後に何があったのか全く覚えていない。どのようにその日の授業は再開されたのか、芝原くんのようすはどうだったか、とにかく何一つ記憶に残っていないのである。
私の芝原くんに関する思い出は、以上がすべてである。一学期が終わり、夏休みに入って二学期が始まった時、彼は東陽中学に在籍していなかった。和歌山市内の親戚宅に預けられ、転校したという噂を聞いた気がするが定かではない。
とりとめのないエッセイのように小説は進む。弟夫婦が面倒を見ていた母親の自宅介護が難しくなり、施設に入所する手続きのために私は故郷の和歌山県田辺市に帰省した。辻原さんは田辺市隣の日高郡印南町出身だが和歌山が故郷である。帰省中に出席した伯父の法要で従兄から中学時代の同級生・芝原が阪神・淡路大震災で亡くなったと聞かされる。友だちだがさほど親しかったわけではない。しかし芝原の死で中学時代のある事件が脳裡に蘇る。
中学三年生の期末テストで芝原は三点か四点の落第点を取ってしまった。当時数学の担当は三十歲くらいの大伴教師で「数学の得点が学年の平均を下回っていたら、必ず体罰を与えた」暴力教師だった。今ではあり得ないが大伴は生徒たちの前で芝原を激しくビンタし執拗に言葉で詰った。私を含むほかの生徒たちは暴力をふるう大伴とじっと耐える芝原を呆然と見ていただけである。芝原は二学期には教室におらず転校したようだがその記憶も曖昧だ。
ただ芝原を思い出したことで私の中に澱のように溜まっていた小説主題が明らかになる。年を経るにつれ過去の出来事がじょじょに重みを増し今を生きる人間にとって決定的な傷になってしまう機微である。そこには当事者にしかわからない大きな飛躍がある。内科医の次男だが大学には進学せず専門学校に通って歯科技工士になり、一度結婚したが離婚して独身のまま大震災で亡くなった芝原の人生の分岐点は中学時代の殴打事件にあったのではないか。しかし芝原はもう亡くなっているのでその機微を知るすべはない。が、一方の当事者である大伴教師はどうだろう。もしかするとそのヒントのようなものがわかるかもしれない。
私は地元で役所に勤めている弟に頼んで大伴教師について調べてもらった。大伴は健在でいくつかの中学を転任して校長を勤めたあと、定年退職して実家のある新宮市三輪崎で暮らしていた。自宅住所と電話番号もわかった。私は大伴に会いに行こうかと思う。しかしなんのために。黙って殴打されていた芝原の敵を討つためか。あのとき何が起こっていたのか大伴に問いただすためか。大昔の出来事である。大伴は忘れているかもしれない。「大伴に会ってどうしたいのかと訊かれても、私自身にも分からない」。
鶴山裕司(後編に続く)
*『鶴山裕司の小説について考える文芸誌時評』は不定期連載です。
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