
幸田露伴という作家は、読んでいると不思議と腹が減る。これは紛れもない褒め言葉である。
『五重塔』の大工・十兵衛が、棟梁の源太に仕事を横取りされながらも塔の建立にすべてを捧げていくあの物語に、べつに料理の描写がふんだんにあるわけではない。あるのは、貧しさと意地と、江戸の職人気質の息苦しいほどの矜持である。それでも読み終えると「蕎麦でも手繰りたい」という気持ちになる。なぜそうなるのか、自分でも説明できずにいた。
おそらく露伴の文章には、ものを食べるという行為と地続きになっている「生きていること」の手触りがある、というのが今の私の考え。十兵衛が徹夜で設計図と格闘する場面も、源太の女房お雪が夫を気遣って黙って膳を置く場面も、すべてが身体的なリアリティとして迫ってくる。文章が肉体に届くとき、人は腹が減るのだ。それだけのことかもしれない。
露伴自身、食にうるさい人だったらしい。蕎麦については特に一家言あって、茹でたてでなければならない、湯切りが甘いのは論外、つゆは辛めが正しい、というようなことをどこかの随筆に書いていた気がする。うろ覚えで申し訳ないと言いたいところだが、露伴の随筆はどれを読んでもそんな雰囲気、なかなかよい気持ちにさせられるので、細部の出典はご容赦いただきたい。
明治の文士たちにとって、蕎麦屋というのは喫茶店であり、打ち合わせ場であり、煮詰まった頭を冷ます場所でもあった。原稿料が入ればちょっと奮発して天ぷら蕎麦、財布が寂しければ素の「かけ」、それでも蕎麦だけは食う。そういう一種の矜持が、露伴の食へのこだわりと通じているように思える。旨いものを旨く食うのは、怠惰とは違う。むしろそれは、自分の仕事に対する態度と表裏一体であって、露伴のような作家にとっては美学の問題でもあったはずだ。
さて。露伴が手繰ったであろう蕎麦を再現するとしたら。本格的な蕎麦打ちは今回ははなから諦める。三日月クイイジーヌは蕎麦職人ではなく、単なる文学読みの食いしん坊であるから。市販の乾麺で構わない。ただし、つゆは手を抜かない。露伴ならきっとそう言うと、勝手に思っている。
【露伴風・辛口かけつゆ(二人前)】
材料
・水 400ml
・昆布 10cm角ひとかけ
・削り節(かつお) ひとつかみ(約15g)
・醤油 大さじ3(濃口、できれば良いもの)
・みりん 大さじ1と1/2
・酒 大さじ1
・塩 ひとつまみ
作り方
① 水に昆布を入れて三十分以上おく(時間があれば一晩、冷蔵庫で)。
② 中火にかけて、沸騰直前に昆布を引き上げる。ここで昆布を煮てしまうと出汁が濁るので注意。
③ 削り節をたっぷり入れて弱火で二分。火を止めてそのまま三分おき、漉す。絞らない。絞ると雑味が出る。
④ 漉した出汁を鍋に戻し、みりんと酒を加えて一煮立ちさせてアルコールを飛ばす。
⑤ 醤油を加え、塩で調える。冷めてから味をみること。温かいうちは塩気が強く感じられる。
茹でた蕎麦に熱々でかけて、薬味はねぎだけ。わさびは添えてもいいが、まず一口はそのまま食べてほしい。出汁と醤油だけで、ちゃんと旨い。それが露伴の蕎麦の精神だと、私は思うことにしている。
【応用:翌朝の「露伴の残りもの雑炊」】
蕎麦を食べた翌朝、残ったつゆに飯をひたして雑炊にする。卵をひとつ落として、ふたをして蒸らす。仕上げに刻みのりとごま。これが、へたな朝食よりずっと旨い。大作を書き上げた翌朝、露伴もこういうものを食べたのではないかと、根拠もなく想像している。そういう想像を許してくれる作家が、私は好きだ。
次回は……まだ決めていない。腹が減ったときに、また考える。
三日月クイイジーヌ
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