妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
結局あまり眠れなかった。途中店に降りて、暗がりの中でハイネケンを一本空けたが、ほとんど効果はなかったようだ。ゲップも全然出なかった。
問題点が明瞭ならこうはならないと思う。例えば父親が病気を患っているなら、治す方向に進路を定めればいい。でも今の状態は違う。病気かもしれないが、まだ病名も分からない。全てがぼんやりしているから進路も決まらない。もう若くないんだからさ、と勢いよく笑い飛ばすこともできるだろう。父親自身、そっちを望んでいるかもしれない。
――俺が勝手に気を揉んでるだけじゃないか。
冷たいテーブルに突っ伏し、握った空き缶をベコベコいわせながら一応そう思うことにした。
モヤモヤした気持ちは晴れなくても朝は来る。鼻歌を歌う永子の頭を撫でながら歯を磨き、口を濯ぎ終えたタイミングでテーブルの上のスマホが震えた。父親だ。何を言われても動じないよう腹に力を入れる。
「おはよう。よく寝れた?」
「おお、朝から悪いな。まあ寝れたは寝れたけど、今日休んでも大丈夫か?」
「あ、マキもリッちゃんもいるから大丈夫だけど……今から病院?」
「ああ、本人は平気そうだけど、結果が分からないと気持ち悪いからな」
兄貴が車で送ってくれるという。父親は終始すまなそうな口調だった。無論すまないことなど何もないが、その伝え方が難しい。「いなくても大丈夫」だけが先走りするのは避けたかった。
これはこれで新たなモヤモヤだよな、と考えながらオープンの準備を始める。改めて確認するつもりはないが、鏡に映った俺の表情はきっと冴えないはずだ。
店を開けて一時間半、客が引けて二組だけになった。リッちゃんに「上にいるから何かあったら呼んで」と告げると、一瞬何か言いたげな表情が浮かんだ。きっと心配してくれているのだろう。何か話してあげたいが今は本当に状況が分からない。後でちゃんと話すから、という気持ちを込めて深く頷く。それまで少し仮眠を取るつもりだ。
Eテレを見ていたマキと永子に「ちょっとだけ寝るわ」と告げエプロンを外す。ゴロリと横になって数秒、意識が落ちるのと同時に枕元のスマホが震えた。電話だ。病院からだろうと画面を見ずに出ると久々の姉貴。用件は分かっている。そして騒々しいことも。
「ねえ! 母さんは? 大丈夫なの?」
うんうん、と意識的にゆっくり対応しクールダウンさせようとするが、なかなかうまくいかない。子どもの頃から変わらんなあ、と寝そべりながら鷹揚に構えること数分、ようやく会話が噛み合ってきた。
「あのさ、今二人とも病院だから顔出してくれば? 大久保、そんなに遠くないでしょ?」
「いや、私、引っ越したの言わなかった……よね?」
こういうところも変わらない。たしか吉祥寺の近くに住んでいたはずだが、数ヶ月前から埼玉県民とのこと。しかも知らない市の市民。何か一言かましてやりたかったが、意外と世間の兄弟姉妹はそんな感じかもと堪えて呑み込む。
「そりゃ茨城とか栃木なら言うわよ? さすがに遠いからさ。でも埼玉なら別にいいかなあって」
そんな屁理屈に笑ってしまったから俺の負け。なんかあったら連絡するのよ、と姉貴は慌ただしく電話を切った。その余韻は喧しく、以降数回トライしたが一向に眠くならない。あまり粘っても仕方ないので店へ戻ることにした。「あれ、もういいの?」というマキにワケを話すと「店は私が出るから休んでなよ」と言う。
「でも眠くならないから……」
「ダメダメ、ただ横になってるだけでも違うんだから。それに……」
「それに?」
「何が起きるか分かんないでしょ」
それもそうだとお言葉に甘えてもう一度横になる。すると眠らなくてもいいという心構えのせいか少しずつ瞼が重くなり、今度は何かに邪魔されることなくぐっすり寝ることができた。そして見たのは短い夢。まだ小学校に入って間もない頃、習い事の候補に剣道が挙がり、近所の中学校の体育館まで母親と見学に行った、その夜の情景だった。
何ていうか、俺は凡人だ。母親のことでバタバタしたから母の夢。つまらない感性だなとがっかりする。ただ夢自体は懐かしかった。記憶の奥底に埋もれていたのか、本当に綺麗さっぱり忘れていた場面だ。
何が気に入らなかったのかは忘れたが、結局剣道を習うことはなかった。たしか他にもいくつか見学に行ったような気がして、寝そべりながら思い出していると再び枕元のスマホが震えた。今度は画面で相手を確認する。父親だ。
「もしもし、まだ病院?」
「おお、そうなんだけど、今話せるか?」
「うん、大丈夫だよ」
「あのな、レントゲンの結果なんだけど、昨日転んだ箇所は大丈夫らしいんだ。ただ……」
「ただ?」
「……医者が気になるところがあるって言うんで、精密検査をすることになっちまってな……」
セイミツケンサ、と言う響きはどこか恐ろしい。苦手だ。きっと病気や病院とあまり縁がないからだと思う。平気な人は平気だろうけど免疫のない俺は、マキ、リッちゃん、姉貴と計三回報告したがちっとも慣れなかった。
父親だって似たようなものだろうと、ランチタイムの混雑が落ち着いた後、いつもの公園から電話をかけると「どうした?」と兄貴が出た。
「え、どうしたは俺のセリフ……」
「いや、病院からの帰りに美味いものでも食べようってことで、今、富津で寿司食ったところ」
「フッツ?」
「千葉な。で、俺は今仕事の電話待ちで、二人は海辺を散歩中。何でか分からないけどスマホ置いていったから出た」
どうやら半休ではなく全休にしたらしい。色々悪いな、と思わず礼を言いそうになる。年度末は忙しいはずだ。
「まあ、今日は別に変なところないかな。いつも通りって感じだよ」
何の話か理解するまで変な間ができてしまった。そうだ、セイミツケンサより先に、俺は父親の様子を心配してたんじゃないか。
「まあ、今は緊張っていうか気が張ってるだろうから」
「そうか……」
「店の方さ、しばらく二人とも休んで大丈夫か?」
リッちゃんが春休みのうちはまったく問題ない。パン屋が休みの日はマキも手伝ってくれる。その先のことはその時々で決めればいい。そう考えて「大丈夫だよ」と答える。悪いな、と言われてしまった、
「で、病院の先生は何て?」
そう尋ねてはみたものの、当然まだ何も分からない。唯一決まっているのはセイミツケンサの日取りだけ。五日後の午前中になったという。
「明日とか明後日とかじゃないんだ」
「そりゃ病院にも都合があるんだろ。実はこれでも少し早くなったんだ」
本来は一週間後の予定だったが、父親がずいぶん粘って早めてもらったという。あの人のそんな姿はなかなか想像できない。
それからの五日間は案外早かった。間違いなく仕事が大変だったからだ。正直なところ、両親二人がいない大変さは一日では実感できなかった。二日目、三日目と連日積み重なるにつれ徐々に気付くタイプの疲労らしい。
セイミツケンサの日は店の定休日。何となく病院へ行く気だったが、兄貴から「マジでやることないから、来なくて大丈夫」と言われたので取りやめにした。
何かの為にとパン屋を休んでいたマキは、せっかくだからお花見に行きたいという。いつもの公園にも申し訳程度に桜の木はあるが、そういうことではないらしい。
リッちゃんは友達と約束があるというので、謹んで臨時のボーナスを支給させていただいた。無論内情は違うにしても、身を寄せている叔母の家でこき使われていることは確かだ。その辺りのことも話さなければと思い、久々に家族三人で出かけてきた。
結論からいえば人出の多さに気持ちが折れ、人気の少ない裏道を選んで上野・浅草辺りをぐるり。混む前に帰ろうかと電車に乗れば十分で到着。時間はまだ四時前。俺とマキだけでなく、永子さえもどこか物足りない顔つきで改札を出た。
明日からはまたいつもよりハードな労働が待っている。せめて外食にしようか、と言いかけた時に兄貴から連絡が入った。
「もしもし、どうだった?」
勢い込んで尋ねる弟に、「結果は今日出ないよ」と苦笑する兄。訊けば結果が分かるまで更に五日かかるという。
「また五日かあ。結構時間がかかるもんなんだなあ」
「本当本当。この間オヤジが早くしてくれってうるさかったせいでさ、今日は『これが一番早いスケジュールです』ってわざわざ言われちゃったよ」
確かに俺より父親の方が落ち着かないはず。そう思えば少しは気持ちも鎮まってくる。
今日は両親ともに様子は変わりなく、母親に至っては食欲旺盛だったらしい。その調子で何もないといいけどな、と兄弟で言い合っていると、マキが目の前にスマホの画面を差し出す。そこには「結果が出る五日後、リッちゃん春休み終わってる」とのメッセージ。ということは……と考えること数秒、思わず「そっか」と声が出た。「ん? どうした?」という兄貴には「いや、大丈夫」と返したが、やはり不安は拭えないので一応尋ねてみる。
「で、その結果があまり良くないと入院?」
「そうだと思う。また五日間とか待たされるかもしれないけど」
だね、と応じつつマキに向かって頷く。来週からマキがパン屋勤務の日は、リッちゃんが帰ってくるまで完全にワンオペだ。しかも子連れ、と我が娘の顔を見る。俺の気持ちを知ってか知らずか、永子は身体を揺らしながら大きなあくびをし始めた。
(第41回 了)
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