妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
リッちゃんが公園に来てから十分も経たないうちに、これから帰るとマキからLINEが届いた。それなりに時間がかかったんだなと思ったが、家に帰ってから聞くと「ダメダメ。平行線も平行線。結局明日直接話すことにしたの」という。
「直接?」
「うん。ごめんね、新年早々」
「いや、それはいいんだけど場所はどこ? どこまで話しに行くの?」
「まだ決めてないけどファミレスならやってるんじゃない? 店の中ならヒートアップできないしね」
そう言って苦笑する姿に、俺も苦笑いを返す。なにも正月から、と呆れる気持ちがないわけではないが、一番は仕方ないかという諦め、あとどこか懐かしがるような感覚もある。最近忘れがちだったが、元々マキってこういうヤツだ。
そんなこんなで元旦の夕食は少々遅め。賑やかなバラエティ番組を眺めながら、刺身メインの酒が進むメニューをのんびりと楽しんだ。途中、打ち合わせ通りにマキが「明日なんだけど、ちょっとお店の方に行かなきゃいけなくて」と切り出し、永子とリッちゃんに予定を伝えた。
「ママ、おしごとなの?」
「うん、ごめんね。でもすぐ帰れると思うから」
そんなやり取りの中、リッちゃんの様子は普段と変わらなかったが、もしかしたら思うところがあるかもしれない。さっきの公園での会話を思い出すまでもなく、彼女は大人じみた気の遣い方ができてしまう。
どっちにせよ明日はのんびりできなそうだ。新しいハイネケンを冷蔵庫から取り出すと、「パパちゃん、よっぱる?」と永子に見つかったので「大丈夫だよ」と頭を撫でる。この子はまだ「酔っ払い」とうまく言えない。
昨晩はいささか飲みすぎたらしく、目覚めると微かに頭が痛かった。上半身だけ起き上がる。永子だけでなくマキの姿も見えないが、時間は九時前。さすがにまだ出かけていないだろう。
今日も正月だしな、と再び布団に身を横たえる。何の気なしにスマホを手に取ると、奈良のヤジマーからLINEが届いていた。体調が良くなったので、今日東京に帰ってくるという。ずいぶん急な話だが、単身赴任の身としては多少無理してでも家族に会いたいものらしい。
家に帰る前に会えるヤツはいるか、というメッセージにトダが「いつでもOK」と返していた。どうするかな、と考えるまでもない。今日はマキが出かけて、家にはリッちゃんと永子がいる。外出は無理だ。
NGメッセージを打っていると、イノウエに先を越された。「今日は親戚宅に来訪」とのこと。会えるのがトダだけだと話が流れそうで、それは何となくヤジマーに悪い。数分考え「外出NGだけど、来てくれるなら喫茶店が貸し切り」と送ってみる。さあどうなるかな、と想像する間もなくヤジマーとトダから「貸し切りに一票」と返信があり、本日NGのイノウエからも「貸し切り、いいじゃん」とダメ押しが来た。
布団の中、五分もかからずに予定は決まったが、これをマキに伝えるのは意外と面倒くさい。きっとヤジマーの忘年会欠席から話すことになる。面倒なことは先送りするに限るので、俺は速やかに目を閉じて二度寝の態勢に入った。
次に目が覚めたのは正午前。「ねえねえ、おきないと」と永子に肩を揺すられながらだった。
「お、ママは?」
「ごはんできたって」
考えるまでもなく昼飯のことだろう。朝食を抜いた分、腹は減っている。
寝坊と朝食のサボりをマキに謝りながら食卓へ。見ればリッちゃんが部屋着ではない。もしかして一緒に連れていくのか、と目で尋ねる。
「これ食べ終わったら、友達と会ってくるんだって。ね?」
「あ、うん。そんなに遅くならないから」
何となくモジモジと気まずそうだが、今日が本当の初詣なのかもしれない。
「というわけで、永子と留守番、お願いね」
もちろん、と答えた後に間髪入れず、これから来客二名があること、そして店舗スペースで軽く新年会を行うことを伝える。もちろん永子も参加すること、そしてヤジマーは家に帰る途中に寄るので、そんなに長くならないことも付け加えた。マキの反応は少々微妙だったが、自分の外出と秤にかけたらしく「うん、分かった」と頷いた。
「トダさんって、あのマスターの?」
「そうそう」
「あ、そうか。リッちゃん、何度かお店に行ったんだもんね」
「うん」
食べ終わったら、店に降りて簡単な準備だけでもしておこう。俺は忘れないうちに、ハイネケンを買ってきてとLINEで頼んでおいた。
リッちゃん、マキの順番で出かけていき、俺は永子を連れて準備を始めることにした。冷蔵庫から刺身を何品かチョイスし、物を運ぶのが手間にならないよう、使うのはカウンターに一番近いテーブルにする。
「わあ、ひろーい。ねえ、パパちゃん、ひろーいの」
貸し切り状態の店が珍しいらしく、さっきから永子は小走りで駆け回っている。
程なくトダから電話があった。そろそろ待ち合わせた両国駅にヤジマーが到着するという。
「ハイネケンは買ってあるから」
「お、悪いな」
「あと、濃いめのコーヒー用意しといてくれる?」
「え?」
「あいつ、新幹線の中でビール飲んだらしくて、少々酔ってるんだ」
二人がやって来たのはその電話の三十分後。駅近くで何か買ってこようとしたが、正月なので閉まっている店が多かったらしい。とりあえずこれ、と部屋着みたいなラフな格好のヤジマーにコーヒーを渡す。その意味は分かっているらしく、「ロング缶二本だけだよ」とぼやきながらコップに口を付けた。
学生の頃から着ている革ジャン姿のトダにも勧めたが「覚えてたら帰り際にもらうよ」と言う。確かに呑む前に濃いめのコーヒーは合わないかもしれない。永子はそんな俺たちの様子を、少し離れた場所から静かに見ている。普通のお客さんとは何かが違うことを察して、あいつなりに用心しているようだ。
「永子、こっちおいで」
「……うん」
さっきまでの元気はどこへやったのか、しずしずと歩いてくるその姿にヤジマーもトダも表情を和らげた。
「月並みだけど可愛いなあ」
「本当、本当。お前に似なくてよかったよ」
子どもがいるヤジマーはさておき、トダもこんな表情をするとは予想外だ。二人のオジサンの顔を見て大丈夫と判断したのか、永子は「こんにちは!」と声を張った。
用意しておいた刺身に二人が買ってきた惣菜を合わせると、それなりに豪華な感じは出た。
「俺たちがもうちょい若かったらさ、写真撮ってイノウエに見せてやるんだけどな」
そんなトダの言葉に同意しながら乾杯。ヤジマーは「オジサンたちだってね、やろうと思えばできるんだよ」と永子に訴えている。訊けば明日の昼には奈良へ帰るらしい。
「ところで奥さんは?」
「ああ、今ちょっと出かけてるんだ」
無論詳細を話す気はないので、姉に会いに行っているとだけ伝える。これなら嘘にならない。
「奥さんのお姉さんってことはリッちゃんの?」
さすがにトダは察しがいい。早めに帰ってくるかもしれないから、我が家で一緒に暮らしていることは伏せておく。ちょっとしたサプライズにはなるだろう。
ヤジマーの帰宅時間から逆算して今日は二時間弱の新年会。居酒屋の飲み放題プランのように、三人ともどことなくペースが早い。まだ簡単な近況報告をし合っただけなのに、気付けば俺も三本目のハイネケンだ。当然永子はオジサンたちの宴に飽きて、窓際のテーブルで折り紙を始めた。そんな姿を確認したヤジマーが一段声を落とす。
「で、コケさんの話なんだけどな」
この空間で何に気を遣っているのか、聞きなれない呼び方でコケモモの話を切り出した。
「お前、インスタの方、チェックしてるか?」
「いや、遠慮してる」
トダは数の子入りの松前漬けで冷酒を飲みながら、俺たちの密談に耳を傾けている。きっと頭の中で話の輪郭を描いているに違いない。
「まあ、コケさんもさ、子どもの写真をアップしたりする普通のお母さんになったってわけだ」
「そりゃ普通でいいだろ」
「ほら、えっとこれは……あ、USJに行ったのか。ますます普通っていうか……」
当時のヤジマーからすると、コケモモは相当ぶっ飛んでいたらしい。まあ分からなくもない。
「よし、新年だしな。俺が代わりに『いいね』しとくから」
おいおい、と止めてはみたが、そのキレは悪かったかもしれない。やはり俺はコケモモの状況――正確には息子である強について知りたい。
「まあ大丈夫だ。アカウントで俺だなんて分からないはずだから」
そう言いながら、俺の肩をポンポンと叩くヤジマーのことを不思議そうに永子が眺めている。
もうそれくらいにしとけ、とトダが制したタイミングでリッちゃんが帰ってきた。どうも、と頭を下げるその姿にきょとんとするトダ。更に状況が分からないヤジマーは、小声で「誰? 誰?」と訊きながらスマホを慌ててポケットに隠している。
これでマキまで帰ってきたら大変だな、と考えた後、ヤバいかもと俺は密かに後悔した。こういう時に限って悪い予感はよく当たるからだ。
(第35回 了)
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