妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
「……どうした?」
頑張って何気ない感じを出したつもりだが、あえなく失敗。裏返りそうなほど声が震えてしまった。新年一発目の大仕事だっていうのに。
「どうもこうもない」
マキの声から怒りの矛先を探ろうとしたが、これも失敗。小さくて聞き取りづらいし、何より考える時間がない。仕方ないから「まあ落ち着けよ」と言いながら距離を詰める。これを嫌ってマキが外へ出ていくなら、きっと原因は俺。最悪の正月だ。でもあいつは険しい表情のまま動かなかった。
「どうした?」
「だから、どうもこうもないって」
苛立ちに歪んだマキの顔を見ながら、密かに息を整える。多分大丈夫、俺に怒っているわけじゃないはず。
「じゃあさ、どこに行こうとしてるかだけ教えてくれ」
「……」
「理由は言わなくていいから、行き先だけは分かるようにしないと」
しばらく沈黙が続いたが、マキは「うん、そうだね」と呟き大きく息を吐いた。本当は俺も一息つきたかったが、この激しい苛立ちの理由を聞くまで安心はできない。
「さっきLINEが来たのよ」
「LINE?」
「うん、お姉ちゃんから」
ようやく肩の力が抜ける。そうか、原因は俺じゃなかったか――。本当は椅子に腰掛けだらしなく身体を伸ばしたいが、ぐっと気持ちを奮い立たせて「何て?」と尋ねる。
マキはもう一度深呼吸をした。まだ気持ちは落ち着いていないようだが、数秒俯いてから顔を上げて話し始めた。姉は「あけましておめでとう」の後にリッちゃんの様子を尋ね、平穏無事であることを伝えると「やっぱりいないと寂しいんだよね」と送ってきたという。
「もうその時点で『は?』って感じだったんだけどさ」
元日から揉めたくないので返信を控えると、数分後に再び連絡が来たという。
「何て来たんだ?」
「『これから迎えに行ってもいいかな』だって。本当、あの人勝手すぎると思わない?」
まあな、と応じようとしたタイミングで「あのお……」とリッちゃんの声がした。今階段を降りている、ということはここまでの話は聞こえていないだろう。右手で軽くマキを制して振り返ると、少し硬い表情のリッちゃんと目が合った。
「どうした?」
「あの友達から初詣に誘われたんで、もしよかったら行ってこようかなって……」
もちろん、と答えるタイミングは少し早すぎたかもしれない。それだけ俺は安堵していた。今の話はリッちゃんに聞かれていないし、俺の話はマキに知られていない。ゲッツーだ。一時はどうなるかと思った。
「ありがとう。じゃあ支度しちゃうね」
そう言って二階に上がっていく姪っ子を見送ってから振り返り、妻に「で、どうする?」と尋ねる。
「うん。一応電話だけはする」
マキの表情には険しさが残っていた。今のリッちゃんとのやり取りも含め、てっきり気持ちは落ち着いたかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
「分かった。で、場所は?」
「うーん、やっぱり川沿いかな」
川、は隅田川のことだ。確かにあそこなら、元旦に電話で言い争いをしていても何とかなるだろう。遅くなるようなら連絡しろよ、という軽口にようやく笑顔を見せたマキは「ちょっと」と声を潜めて顔を近付けた。
「ん?」
「リッちゃん、多分初詣は嘘だと思うから、適当なところで帰りやすいように連絡入れてあげて」
そういうことか、と驚きつつ感心し、少しだけ落ち込んだ。何の疑いもなく、これから初詣に行くものだと思っていた。ああやって声をかけることで不穏な空気を何とかしようとしたか、もしくは一旦外に逃げたかったのだろう。新年早々、変な気を遣わせてしまった。
さすがにこれじゃ寒いよね、とマキは上着を取りに二階へ上がり、俺もお絵描き中だった永子の相手をするため後に続いた。さっきまでの静けさが一転、家中がバタバタと騒がしくなる。
「ごめんね。帰ったらまた続きやろうね」
永子の頭を撫でているリッちゃんは、昨日同様マキのコートを羽織っている。遅くなるようなら連絡して、と声をかけた俺に「多分そんなに遅くならないはず」と微笑むその仕草は極めて自然で、これなら騙されても仕方ないさと自分を慰める。
マキ、リッちゃんの順に家を出て、残されたのは父娘二人。再び家の中に静寂が訪れた。ふっと一人になり、お絵かきをする手も止まりがちな永子に提案してみる。
「お絵かきはリッちゃんが帰ってきてからにしてさ、ちょっとお散歩しにいこうか?」
うん、と笑顔になったところへ「そうだ、三輪車で行ってみよう」と畳み掛けると、もう一度元気な「うん」が返ってきた。
実は家の外で三輪車に乗るのはほぼ初めて。あまり自覚はないが、何だかんだで年末は慌ただしかったらしい。もちろん永子にとって大きいのはリッちゃんの存在で、あの両親からのプレゼント、赤いおもちゃのピアノも彼女が来てからはあまり触っていないようだ。
もう夕方ということもあり、予想以上に空気は冷たい。父娘ともに厚手のマフラーを巻いてきて正解だ。
「パパちゃん」
「なんだい?」
「おねえちゃん、さむくない?」
「あ、マフラーしてなかったか」
「うん。さむくないかなあ」
街灯が点き始めた道を、三輪車の手押し棒を押しながら歩く。元旦だからか人通りは少なく、開いている店はコンビニかチェーン店の居酒屋くらい。今この瞬間、川沿いで白い息を吐きながら姉と言い争っているマキを思うと不謹慎ながら微笑ましい。出会った頃のあの感じなんだろうな、と予想がつく。
マキがあそこまで怒った原因は、直近のLINEのやり取りではない。そういう具体的な細々した部分ではなく、もっと大きくて、もっと根本的なところに苛立っているはずだ。自分のお腹から産まれてくる子が、将来犯罪者になるかもしれない、その子に殺されるかもしれない。そんな想いを乗り越え母親になったマキには、姉のリッちゃんに対する向き合い方が理解できず、結果的に許せないのだろう。
「パパちゃんはさむくない?」
三輪車の運転中、何度も振り返りながらそう尋ねる優しい永子が将来犯罪者になったら……。まったく想像できないが、当然可能性はゼロではない。もしそうなったら俺はどう思い、どう振る舞うのか。正直なところ、そんな難しいことは考えたくもない。
「パパちゃん、どこいくの?」
行き先は公園と決めている。着いた頃にリッちゃんへ連絡をして、うまくいけば合流しよう。コンビニで度数の高い缶チューハイを買ってから目的地の公園へ。まずは防寒対策。アルコールをグーっと飲み、腹の中をカーッと熱くしなくては。俺の手から離れた永子の三輪車は、ぎこちなく揺れながら前進している。
リッちゃんには「今、三輪車の練習中。そっちが終わったら手伝って」と、ベンチに座りながら鈍いメッセージを送った。もう辺りは暗い。もし本当に初詣だったとしても、そんなに長くはかからないような気がする。
スマホには何件かの年賀メッセージが届いていた。ヤジマーたちからはグループLINEで、そして「夜想」のマスターや親しい客からはLINEやメールで。意外と一番早いタイミングで届いていたのは母親。何でだよ、と呟きながら短い文章を返す。
また先日実際に来てくれたからだろう、トミタさんは直筆の年賀状を送ってくれた。遠くの親戚や店関係のものと一緒に束ねられていたそれは予想通りの達筆で、今度会ったら礼を言おうと思っている。
「パパちゃん、みてえ」
気付けば予想以上に永子が三輪車を乗りこなしていて、ちょっとだけ誇らしくなる。誰かに伝えて「すごいですねえ」と言ってほしい感じ。マキや両親は身内だから範疇外。じゃあ誰に、と一歩踏み込むと案外思い浮かばない。トミタさんやヤジマーたちとも違う。しばらく考えて答えが出た。そうか、こういう時にヒトはSNSに投稿するんだな。
三輪車を乗りこなす永子の姿にどこか気が緩んでいたらしく、俺はまた懲りずにコケモモのインスタを覗こうとしていた。気を緩めたいから度数の高い缶チューハイだったくせに、とツッコんだのも俺自身。その瞬間だった。
「あ、まだやってた」
予想よりもずいぶん早くリッちゃんが到着した。助かった、とスマホをしまう。「三輪車、全然乗れてるね」という一言が嬉しいけれど、彼女も身内だから範疇外。永子の将来のためにもジャッジは厳しくないと。
気を遣わせたね、と隣に座ったリッちゃんに声をかける。ううん、と俯きながら「大丈夫だった?」と尋ねる姪っ子はかなり大人だ。
「うん。っていうか、別にケンカしてたわけじゃないよ」
「え、そうなの?」
実は君のお母さんのことでね、とは言えないから曖昧な笑顔でごまかす。「あ、おねえちゃん」と気付いた永子に手を振りながら「絶対やらかしたと思った」と笑うリッちゃんはやはり大人びている。
「何を?」
「え? 分かんないけど浮気とか?」
どうしてそう思った? と訊きたい気持ちをぐっと堪えて「してるっぽいかな?」と探りを入れてみたが、返事は「いや、分かんないけど」だけ。多分ごく一般的な連想だろうけど、気をつけなくちゃと背筋が伸びる。
女の勘は……なんて言うと今のご時世、呆れられ蔑まれ笑われるかもしれないが、現在我が家には女性が三人。注意するに越したことはない。
(第34回 了)
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*『オトコは遅々として』は毎月07日にアップされます。
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