母親の様子がおかしい。これがいわゆる認知症というやつなのか。母親だけじゃない、父親も年老いた。若い頃のキツイ物言いがさらに先鋭化している。崩れそうな積木のような危うさ。それを支えるのは還暦近いオレしかいない・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家による苦しくも切ない介護小説。
by 金魚屋編集部
十三.
休職中の会社をこのまま辞めてしまおうか。未練はなかった。大宮に転勤して二年。いまの仕事にぼくはまったくやる気がわかなかった。コイツは埼玉に自転車遊びをしに来ただけの天下り野郎だ、と支社の連中が陰口をたたいているのは知っていた。事実にはちがいないが、当初からそうだったわけではない。まあどのみち鶏と卵、どちらが先かという話にすぎない。しかし辞めてしまえば、ほどなく生活に行き詰まる。辞めずに休職手当なんぞもらっても向こう三ヶ月分がいいところ、もともと貯えも乏しい。辞めたところで退職金と残りの企業年金一時払いとを併せてもせいぜい二、三年分が関の山だ。この家のカネの出入りと預貯金はすでに洗い出した。デカいわりには、これほどカネの臭いがしない家とは思ってもみなかった。俗にいうタンス預金なんて、何ひとつ見あたらない。書画骨董のたぐいと言えば平山郁夫のシルクロードのリトグラフと上村松篁の息子の淳之の水彩画、それに九谷の大きな壺、造り付けの戸棚いっぱいに詰め込まれた数十もの茶器とティーカップ&ソーサ―、それも現代モノだ。あとはカビの生えたニコンのカメラと望遠レンズというところ、合わせてもせいぜい数万円、よくて二、三〇万円だろうか。ゼニコはないかゼニコはと家じゅうハイエナのように漁って回っているみたいだがなにせ死活問題である。収入と言ったら父に給付される年金月二十万円、それだけ。一人で食べていくには十分すぎるが、入院と今後の在宅介護に要する費用を思うと暗澹としてくる。ぼくの持ち家は習志野にある3LDKのマンションだが、築三十年近くを経たそいつを売っぱらっても二年、もって三年分の生活費がせいぜいだ。鎌倉のこの土地と家を処分し、父には早々に施設へ入ってもらわねばいずれ自らの食費も賄えなくなる。ぼくは最終判断を迫られていた。
夕食の頃合いを狙って病院を訪う。
「来たよ」
「ああ」
「どう調子は」
「まあ悪くはないよ。現状維持というところだ」
目を瞑りながら答える。
看護師が来ると目を開き、窓の外を指差しながら「あれを」と問い質す。ただしベッドに寝ている父には、窓外の景色は空以外に見えない。
「伊豆の×△川が大暴れしよったんだな」
当惑顔でぼくを見る看護師。
この日の夕食の献立は、片掌の中に収まってしまうほど小さなおにぎりが二つ、大根の煮付け、蒸した鶏肉、菜っ葉のおひたし、味噌汁、それにプリンまでついている。
「旨そうだね」
「そうか」
いつもは半分残していたが、この日はよく食べた。箸を持つ手はおぼつかないけれど、箸の正しい持ち方がこの歳になってもできないぼくに比べたらずっと器用である。不味い不味いと文句を言いながらムシャムシャ食らっているのでこっちは思わず吹き出してしまう。
「お袋は毎日東急ストアで買い物してるんだろう」
質問には答えず、
「ご飯もいっぱい食べられたし、あとはゆっくり風呂へ入れるようになるといいね」
「風呂は入ったよ、今日な。こんな温泉街なのに、湯舟が小さくてなァ。まったく最近の温泉街ときたら、人件費を削るために湯舟を小さくするんだよなァ。湯舟ってのはこう、とにかくデカくないとな」
かなりやばい。
「これからの人生を考えるとなあ、生きてたって無為徒労だよなァ」
「そんなことないさ。あんな酷い状態からここまで立ち直ったんだぜ。よく頑張ってきたよ。これからは何も考えずにゆっくり楽しめばいいじゃん。残りの人生をさ」
「まあそういう考え方もあるな。八十七年、振り返るとそう悪くなかったとは思うよ」
そう語る父の目はずっと閉じられ、眉間には皺が寄ったままだ。
翌日、ぼくが病室へ入るとすぐに目が合う。黙って頷く。どう調子は。
「悪くないよ。ただ、もうこの病院には飽き飽きしたよ」
「そうだよねえ。オレも転院の日をいまかいまかと待ってるよ」
「お前、先生に懇ろに頼んでみてくれんか。鎌倉高校前のあの聖なんとかいう病院へ早く入れるように。五〇万か百万か、袖の下を使えんか。この病院はどうか知らんが……こんな処にいてもつまらん。何か目標がないとな。希望が、やる気が湧いて来ないんだ」
こんな状態に陥っていても、生臭い話ができるのだな。
「急かしちゃいるんだよ。だけどなかなかね……」
今日も食事はわりと良く食べた。食べている様子をじっと見ていると、
「いつも旨い料理を作ってくれてるか」
「お袋のこと?」
「そう。いつも作ってくれてるんだよな」
そうか。父はほんとうに壊れたわけじゃない。このところ訪うたびに一度ならず母の話題になる。必ず様子を訊いてくる。父の心はいつも母の周りを衛星のように巡っているのだ。
ぼくは問いには直接答えず、
「家へ帰ったら、毎日美味しいものばかり食べられるよ」
「うん」
この日、珍しくニッコリと笑った。切なくなった。
「もう六時半だろ。そろそろ家へ帰りなさい」
親らしい態度へ戻った父だった。
ふらついてはいけない。金策をどうする、勤めをどうする、あれこれ悩むのは二の次じゃないか。ぼくは誰のためにここへ来ているんだ。後のことは後で考えればいい。ぼくには何ひとつできない。けれど、杖くらいにはなれる。
十四.
看護師が早朝、病室へ巡回に赴くと父の方から「お早う」と挨拶する。そしてニコッと笑いかける。いつも渋柿を食ったような顔をしているひとから思いがけない笑顔を向けられると「ついほろっとするのよ」と看護師のOさん。ひと誑しの本領発揮である。きっと会社でもそうだったのだろう。
「リハビリはそれなりに頑張りはしたがな、何かこう……盛り上がらないんだ」
「もうちょっとの辛抱だよ」
「シズ子はしかし、何も知らなくて幸せだなァ」
オレのところにはちっとも顔を見せんで、と言いたげに仏頂面をしている。
「いや、お袋はちゃんと知ってたよ。毎日祈っていたんだ。仏壇に向かって、元気になれー元気になれーってね」
「そうか」
「うん」
「お前、会社は休んでいるのか」
「あ、うん」
「いつまでも休むわけにはいかんだろう。オレはこの先そう長くはない。こういう役に立たない、人の足を引っ張るだけの存在は、早くいなくなった方がいいんだ」
父は珍しくぼくの方を真っ直ぐ見つめていた。母が逝ってはや一ヶ月、固くて狭くて手足も動かせない不自由なベッドの上で過ごす独りきりの夜は、ずいぶんと長かったことだろう。
「お前、シズ子が風呂へ入る時だけは気をつけて見ててやってくれな。オレも気をつけているが、いつ事故が起きるかわからんからな」
エントランスから出ると、暗い帷の中を冷たい雨が降りしきっていた。ぼくはずぶ濡れになりながら自転車を走らせた。
翌日の正午、聖ヨハネ病院への転院の日取りが決まったとの報せがやっと入った。待ちに待っていた報せだ。何よりも本人が精神的に限界を迎えていた。父はよろこびながらも、
「シズ子はこのことを知っているのか」
「……」
「シズ子は死んだんだよな。死んで生き返ったというのか、いや、復活したと言うのかな。そこがよくわからないんだ。また生き返ったんだよな。それで東急で買いモノをしたり、毎日出歩いたりしているんだろ」
ぼくはハッとした。
「お袋が枕元に現れたのか。だからそんなことを言うんだね」
「何度も見かけたよ。だからな、生き返ったんだろ」
「うーん。人に生きるも死ぬもないんじゃないかなあ。みんなついそこに境界線を引いちゃうけど」
「おい、明日は退院じゃないのか」
「明日って」
「シズ子は迎えに来ないのか」
思い返したくもない記憶であるならば、二度と浮かび上がらないようこころの奥深く沈めてしまうだろう。ところがぼくが顔を見せるたびに、それがトリガーにでもなっているのか、亡き妻を冥府から呼び出さずにはおれないらしい。いつかその死を受け止めることができる時まで、母の亡霊は父の目の前をうろうろしているにちがいない。
「退院は結構だがな、この先の人生の行く末が見えん。何かこう光が、後光でも射して見えればいいのだがなァ」
そして退院前夜。
「あの時なァ、あのまま死んでおれば良かったという思いと、お前が言うように、それほど酷い状態からようやっとここまで来たと言うならだ、もっと頑張って取り返さなくては、元通り元気にならなくてはという思いと、両方あるな」
「やっとここまで来たんだものねえ。長かったね」
「そうだなァ。長いことずっと旅をしていたよ。あちこち旅をして回っていたんだ。迷子になったり追いかけられたり、ずいぶんとイヤな目に遭ってなァ。でもいざ終わってみるとな、涙が出るほど悲しくてなァ。なのに、その後はただ虚しさだけが残った。そんな旅をずっと続けていたよ」
「人生、やっぱ旅だよねえ」
さすがに薄っぺらい受け答えだなと、われながら情けなくなる。
「さあ、シズ子が待ってるからそろそろお前は帰りなさい」
転院の日を迎えた。
季節は真冬からすっかり春になった。庭先の梅は鶯の宿木となり、白い花弁からいつしか夥しい碧い実を結んでいる。その足元には著莪の花たちが小さな異界のような群落を作っている。凛然とした白木蓮のたたずまいはひときわ高く茂る広葉樹にうって変わり、隣家の二階の窓を覆い隠してしまった。庭の主役である大躑躅はいよいよその艶容を現しつつあった。もうじき紅白に分かたれた滝のような花が窓からの眺めを埋め尽くすだろう。
朝九時ちょうど、S総合病院の五階を訪ねる。
主治医はいつものごとく不在だった。ナースセンターへ挨拶を済ませると、介護タクシーの運転手さんが車イスを用意して待機してくれている。
看護師のOさんとTさんが、エレベーターまで見送ってくれる。
彼女らスタッフの人たち、病室とフロアの殺伐とした光景、薬液の混じった独特の臭い、窓外に乱れ咲く玉縄桜、いつ見ても繁盛している広大なショッピングセンター、大船駅のバスターミナル、何よりも母を連れて病院を往復した日々。駅の階段を、バスのステップを上り下りするさいも息子の手を借りようとしないばかりか、ヨタヨタだろうとカニ歩きだろうと、ぼくにはけっして前を行かせようともしなかったあのガンコぶり。それに比べて会うたびに確実に壊れていく父との毎日・・・・・・。
(第04回 了)
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*『春の墓標』は23日にアップされます。
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