様々な音楽を聴きそこから自分にとって最も大切な〝音〟を探すこと。探し出し限界まで言葉でその意義を明らかにしてやること。音は意味に解体され本当に優れているならさらに魅力的な音を奏で始めるだろう。
ロック史上最高のバンドの一つとして名高い「ザ・バンド」(ロビー・ロバートソン、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、リック・ダンコ、リヴォン・ヘルム)を論じ尽くした画期的音楽評論!
by 金魚屋編集部
第八章 いつの日か、ロックはザ・バンドのものとなるだろう
●映画『ラスト・ワルツ』をどう観るか
映画『ラスト・ワルツ』(一九七八年)は、いろいろな意味で誤解されている映画だ。一般的には一九七六年十一月二十五日に行われたザ・バンドの「解散コンサート」を撮影した記録映画として紹介されることが多いが、これはれっきとしたマーティン・スコセッシ監督の作品、しかもドキュメンタリー映画ではなく、音楽映画(Musical film)、別の言い方をすればミュージカル映画である。
この映画はコンサートの実写を使っているが、音源は映画用にオーバーダビングがほどこされたもので、インタビューやスタジオでの撮影を巧みに入れ込んで『ラスト・ワルツ』という物語にした作品だ。コンサートでは撮影する曲を事前に決め、歌詞に合わせて撮影用の台本が用意された。インタビューは一見ドキュメンタリーのように思えるが、シーンによっては台本があったり、自然に見えるまで何度も撮り直しをしたりしている。
フランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールはさすがにスコセッシの意図に気づいており、『ゴダール 映画史』(一九八〇年)の中で、『ラスト・ワルツ』はスコセッシのほかの作品と比べるとあまりできがよくないがおもしろいと思った映画だと言い、「音楽を演奏する人たちは俳優とは違ったものをもっている」「言葉によっては表現できなかった事柄が、音楽をつかうことによって表現できるようになる」「演技することのできるミュージシャンを撮影し」「物語と呼応するような音楽を……メロディが物語を語り継ぐような音楽を発見すればいい」と述べている(奥村昭夫訳)。
イベントとしての「ザ・ラスト・ワルツ」(The Last Waltz)は、ザ・バンドが一九六九年四月十七日に初めてコンサートを行ったサンフランシスコのウインターランドの経営者でもあったプロモーターのビル・グレアムが取り仕切り、一九七六年十一月の感謝祭の日(二十五日)に「さよならコンサート」(farewell concert)として同じくウインターランドで行われた。しかし、ロビー・ロバートソンはこの時点では、ザ・バンドは解散するわけではないがコンサート活動はしない、これが最後のコンサート(final concert)だ、と言っていた。実際、コンサート後の一九七七年三月にはアルバム『アイランド』をリリースし、映画『ラスト・ワルツ』用にMGMのサウンドステージで演奏を撮影したり、サウンドトラック・アルバム『ラスト・ワルツ』(一九七八年)用に新曲を録音したりしている。
ビル・グレアムは「ザ・ラスト・ワルツ」のために会場をきれいに改修し、コンサート前には観客に感謝祭のディナーをふるまったり、オーケストラを入れて観客がワルツを踊れるようにした。映画ではこういった会場の様子も、ライブ中の観客もほとんど撮影されていないため、試写会を観たビル・グレアムは「これは〝ザ・ラスト・ワルツ〟ではない!」と怒ったという。映画の製作者はロビー・ロバートソンなのだから、これは確信犯だろう。ロビーもスコセッシも、「ザ・ラスト・ワルツ」をイベントとして撮影すれば、『ウッドストック』のようにドキュメンタリー映画になってしまうことがよくわかっていたのだと思う。
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ビル・グレアム(上)。下は感謝祭のディナーを取る観客
また、ステージセットのデザインをしたボリス・レヴィンが、せっかくサンフランシスコ・オペラの『椿姫』の舞台装置や映画『風と共に去りぬ』で使われた豪華なシャンデリアを借りてきたのに、あまり映えるようには撮影していない。
スコセッシは「僕の心に近い大切な作品」「僕が撮った中では最も完璧な作品」と語っているが(メアリー・パット・ケリー『スコセッシはこうして映画をつくってきた』齋藤敦子訳)、この映画制作の背景に、「最後のコンサート」や映画『ラスト・ワルツ』を企画したロビー・ロバートソンと、これらの企画に反対だったリヴォン・ヘルムの確執があったことを知ってから観ると、まるでロビー・ロバートソンを主人公にした「男同士の友情と裏切り」という、『ミーン・ストリート』(一九七三年)の系列に連なる作品のようにも思える。
しかし、ザ・バンドの音楽を理解するうえでは、映画の物語に気を取られることなく、コンサートの実写シーンをよく見たい。
この映画は見たいところでギターの手元が撮影されていなかったり、リチャード・マニュエルとガース・ハドソンがピアノやオルガンを演奏する姿がほとんど撮られていなかったり、カメラワークにもどかしさがあるが、スコセッシは演奏そのものではなく、ミュージシャン同士の感情のやり取りをとらえようとしている。例えばグリール・マーカスが『ミステリー・トレイン』(日本語版付録「ラスト・ワルツ」)の中で、映画の最もドラマチックな瞬間として挙げているように、「Forever Young」をゆっくりと歌い出したボブ・ディランが、少しすると後ろをチラッと見て、その後もう一度振り返り、肩をすくめて目配せをする表情が印象的に撮影されている。ディランとザ・バンドは表情だけでコミュニケーションができる関係だとわかる一瞬だ。
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コンサート前にはオーケストラの演奏で観客がワルツを踊った
ロビー・ロバートソンの自伝によれば、これはディランのギターから始まったイントロのテンポが少し遅かったので、「もっとテンポを上げていいか」と確認したドラムのリヴォン・ヘルムに、ディランが「Sure, why not?」と仕草で答えた瞬間だという。この後、コンサートの聴衆や映画の観客が気づかない程度に少しずつテンポが上がっていく、ザ・バンドの職人芸が発揮された場面でもあるのだが、しかし、ライブ録音で音だけ聴いていると、ザ・バンドの演奏が走って(だんだん速くなって)いるように思えてしまう。実際、映画を観ていない友人は録音で聴いて、「ザ・バンドでも走ることがあるんだ」と驚いていた。
映画では、ロビー・ロバートソンのエモーショナルなギターソロを聴いたディランがハッとしてロビーのほうを向く一瞬の表情も印象的なのだが、これもライブ録音を聴いただけでは、ディランがザ・バンドの演奏にどう反応しているのかはわからない。映画『ラスト・ワルツ』がザ・バンドの音楽を理解するうえで重要なのは、こういったライブ録音だけではわからない、ザ・バンドとゲストのミュージシャンたちのやり取りを見ることができるからだ。
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リック・ダンコ(写真左)とロビー・ロバートソン。左下はリチャード・マニュエル。一連の写真はロック写真家のウイリアム・ヘイムス氏がコンサート「ラスト・ワルツ」で撮影したもの。写真から音楽が聴こえてくるようだ
●共同体としてのザ・バンド
井波律子はザ・バンドの音楽から、見果てぬ「共同体の夢」を聴き取っていた。
「中心となる存在のないこのグループでは、五人の猛者がそれぞれ誰にも支配されず、誰をも支配せず、個人個人として自立しながら、共生している。なんとあっぱれなことではないか」「ザ・バンドは私にとって、まさしく見果てぬ夢の証なのである」(井波律子「夢の証」『ラスト・ワルツ 胸躍る中国文学とともに』)
一九七〇年代にザ・バンドを聴いていた若い知識人にとって、初期のザ・バンドというバンドが体現しているヴィジョンは、「共同体」であった。これには世代的な体験が影響していると思われる。井波律子は一九四四年生まれで、『ミステリー・トレイン』を書いたグリール・マーカスは一九四五年生まれだ。ロビー・ロバートソンも一九四三年生まれで同世代だ。だが、二〇二〇年に公開されたロビー・ロバートソンが語る映画『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』(Once Were Brothers: Robbie Robertson and The Band)を観れば、知識人がザ・バンドに見た共同体ではない、リアルなザ・バンドの共同体の物語を知ることができるだろう。井波律子はザ・バンドのファイナル・コンサート「ラスト・ワルツ」が催された一九七六年という年を思い起こし、こう書いている。
「あのころは、六〇年代末から七〇年代前半の激動も沈静化され、生活を変えてやり直してみよう、「終わりの始まり」だと思い決する人が、私も含めて多かったのかもしれない。そんな時代のエートスにあふれた『ラスト・ワルツ』を見るたび、私はいつももう少しがんばってみよう、という気になる。『ラスト・ワルツ』は終焉の物語であると同時に、再生の物語なのである」(「私の人生を変えた映画『ラスト・ワルツ』」同前)
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ボビー・チャールズ(上左)。下左からガース・ハドソン、ドクター・ジョン、リヴォン・ヘルム
実際にザ・バンドの最後のコンサートを観た室矢憲治は、こう回想する。
「〝ザ・ラスト・ワルツ〟。それは、ミュージシャンたちが互いに支え合い、競い合い、インスパイアしながら、不可視のコミュニティを作り、音楽の水準を高めて、世界への愛を告げに旅をして地球を回してきた日々……そんな時代にハロー・グッドバイした、グランド・フィナーレだったのだと思う」(「〝ラスト・ワルツ〟見聞録」『ギター・マガジン』二〇二三年十一月号)
一九七六年十一月二十五日のコンサート「ラスト・ワルツ」のアンコール曲「Don’t Do It」が終わったのは二十六日午前二時で、ちょうど時を同じくしてセックス・ピストルズの「アナーキー・イン・ザ・U.K.」がイギリスで発売された。十二月八日にはイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』が発売され、ロックは巨大産業になっていく。一九七七年八月十六日にエルヴィス・プレスリーが亡くなり、そして一九七八年四月二十六日に映画『ラスト・ワルツ』が公開された。
映画『ラスト・ワルツ』の4K UHDエディション(The Criterion Collection)。MGMのサウンドステージで「ラスト・ワルツのテーマ」を撮影しているところ。監督のスコセッシが、ドブロ・ギターを弾くリチャード・マニュエルに指示を出している(右端にいるリヴォン・ヘルムは無関心)
ぼくは一九六一年生まれなので、井波やマーカスが思い入れた「共同体」についての体験はなかった。しかし、一九七六年のぼくは、鮎川信夫、田村隆一、北村太郎、黒田三郎、中桐雅夫といったいわゆる「荒地」派の詩人たちによる『荒地詩集1951』に出会い、田村隆一の詩「再会」に衝撃を受け、鮎川信夫が同人誌「荒地」の出発時に「無署名」で書いたマニュフェスト「Xへの献辞」を読んだ。
「親愛なるX‥‥。詩について考えることは、とりもなおさず僕達の精神と君の精神とを結びつける架橋工作である。たった一人の君に語りかけるために、僕達が力を併せて荒地を形成している意味を理解してくれたならば、僕達各個人が如何に分裂し、模索の方向を異にし、未明の混沌とした内乱状態にあろうとも、なお一つの無名にして共同なる社会に於て、離れ難く結びあっていることも、より一層深く理解してくれるだろう」(「Xへの献辞」『荒地詩集1951』)
ぼくは、「一つの無名にして共同なる社会」とは何か、そして「僕達の精神と君の精神とを結びつける架橋工作」とはどういうことなのかを考えていた。一九七七年になってザ・バンドの音楽を聴き始め、グリール・マーカスの『ロック音楽に見るアメリカのイメージ』(『ミステリー・トレイン』の旧訳)を読んで、ザ・バンドというバンドが共同体のイメージでとらえられていると知った。ぼくの中では「一つの無名にして共同なる社会」はザ・バンドの音楽に重なっていった。
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左写真はブルース・ハープを吹くポール・バタフィールド。リヴォン・ヘルムとツインボーカルで「Mystery Train」を歌った。右写真はロビー・ロバートソンと共作の「Dry Your Eyes」を歌うニール・ダイアモンド
●いつの日か、「ロック」はザ・バンドのものとなるだろう
映画『ラスト・ワルツ』には、ザ・バンドがザ・ステイプルズ(父親のポップス・ステイプルと三人の娘から成るゴスペルのグループ)とスタジオで「The Weight」(ザ・ウエイト)を演奏するシーンがある。
グリール・マーカスが『ミステリー・トレイン』(日本語版付録「ラスト・ワルツ」)で論じたように、この演奏でついに共同体というユートピアのヴィジョンが顕現したと見ることもできるだろう。マーカスは「男が女にうたいかけ、女が男にうたいかけ、黒人が白人にうたいかけ、白人が黒人にうたいかけ、北部人が南部人にうたいかけ、南部人が北部人にうたいかけ、若い世代が年寄りにうたいかけ、年寄りが若い世代にうたいかけるのをぼくらは目にする。そこには隔たりがない」(三井徹訳)とこのシーンを描写した。
しかしながら、コンサート「ラスト・ワルツ」後に撮影されたこの「ザ・ウェイト」の演奏に耳を澄ませば、すでにザ・バンドのメンバー間の感情のやり取りは失われ、映画を観れば、ザ・ステイプルズが見せる親子間の親愛の表情に対し、メンバーにギョロリと眼で指示出しするロビー・ロバートソン以外のザ・バンドのメンバーは無表情になっていることに気づくだろう(リヴォン・ヘルムに至ってはほとんど眼をつぶったままだ)。それでもコンサート「ラスト・ワルツ」後にザ・ステイプルズとスタジオで撮影した理由は、ロビー・ロバートソンが映画『ラスト・ワルツ』をこの時代の音楽のショーケースとしたかったからだ。
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上右はカナダ人のニール・ヤング。下左は同じくカナダ人のジョニ・ミッチェル
コンサートでは、「ロカビリー代表」がロニー・ホーキンス、「ニューオリンズ代表」がドクター・ジョン、「シカゴ・ブルース代表」がマディ・ウォーターズ、「ブルース・ハープ代表」がポール・バタフィールド、「ブリティッシュ・ブルース代表」がエリック・クラプトン、カナダ人の「フォーク系シンガー・ソングライター代表」がジョニ・ミッチェルとニール・ヤング、「ブルー・アイド・ソウル代表」がヴァン・モリソン、「ティン・パン・アレー代表」がニール・ダイアモンド、「ウッドストック派代表」がボビー・チャールズ、「フォーク・ロック代表」がボブ・ディラン、それにビートルズからはリンゴ・スター、ローリング・ストーンズからはロン・ウッドと、実によく考えられた人選になっている。
だが、「ゴスペル代表」がいなかったので、ザ・ステイプルズとスタジオで撮影し、加えて「カントリー・ミュージック代表」としてエミルー・ハリスを呼んでスタジオ撮影したわけである。まるでいずれザ・バンドの音楽が「アメリカーナ」と呼ばれるようになることを予見していたかのようなラインナップだ。
ロビー・ロバートソンが映画『ラスト・ワルツ』の監督にスコセッシを選んだのは、スコセッシの作品として『ラスト・ワルツ』が歴史に残ると思ったからに違いない。『ラスト・ワルツ』が単にザ・バンドの解散コンサートのライブ・アルバムであれば、廃盤になってしまえばそれまでだ。音楽は眼に見えないので、残りにくい。しかし、映画は眼に見えるうえ、ミュージック・アルバムよりはずっと作品数が少ないので、はるかに歴史に残る可能性が高くなる。
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上左は「Caldonia」を歌うマディー・ウォーターズ。下右はエリック・クラプトン
映画マニアのロビー・ロバートソンは、マーティン・スコセッシは少なくともアメリカ映画史には残る映画監督だと見定めたのだろう。そして、百年後になるのか、二百年後になるのかはわからないが、いつの日か映画『ラスト・ワルツ』を観た人々が、この映画で演奏されている多種多様な音楽を指して「ロック」と呼ぶ日が来ることをロビー・ロバートソンは確信していたのではないだろうか。もちろん、その中心にはザ・バンドがいる。いつの日か、ロックはザ・バンドのものとなるだろう。
コンサート「ラスト・ワルツ」が重要なのは、本編に出演した十一名のゲスト・ミュージシャンのすべての曲をザ・バンドが演奏したことだ。自分たちの最後のコンサートなのに、ザ・バンドの曲がおよそ十五曲で、ゲストの曲がおよそ二十曲と、コンサートの半分以上でゲストの曲を演奏するなんて、ほかのロックバンドでは考えられない。「ザ・バンド」というバンド名を名乗る資格があったのは、ザ・バンドだけだったとわかるだろう。
「ラスト・ワルツ」は、一九六〇年代後半から一九七〇年代前半、つまり〝ロックの時代〟の各分野を代表するようなミュージシャンたちが、それぞれ記憶に残るすばらしいライブ演奏をしたコンサートだ。コンサートのゲストは全員ノーギャラで友情出演だった。映画『ラスト・ワルツ』を観れば、すべてのゲストが、ザ・バンドと演奏できる喜びを感じていることがよくわかる。ザ・バンドもゲストを精一杯盛り立てることで、バンドとしてのかつての絆を取り戻した夜だ。
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上は「Who Do You Love」を歌うロニー・ホーキンス。下はbackbeatを叩くリヴォン・ヘルム
ロニー・ホーキンスもボブ・ディランもヴァン・モリソンも、この夜のザ・バンドと一緒にやることで生涯最高のロックを演奏することができた。フォークシンガーであろうが、ブルースシンガーであろうが、ザ・バンドと演奏すればロックになった。なぜか。それは、ザ・バンドがゲストの「バックバンド」として演奏したわけではないからだ。
ザ・バンドが演奏したのは、ゲストの音楽であると同時にザ・バンドの音楽でもあった。それは「Xへの献辞」の表現を借りて言えば、「僕達の精神と君の精神とを結びつける架橋工作」であり、この夜のザ・バンドは、「たった一人の君に語りかけるために」「僕達各個人が如何に分裂し、模索の方向を異にし、未明の混沌とした内乱状態にあろうとも、なお一つの無名にして共同なる社会に於て、離れ難く結びあって」いたのである。
セカンド・アルバム『ザ・バンド』について、リヴォン・ヘルムは「ぼくたちはこのアルバムに《ハーヴェスト》というタイトルをつけた。なぜなら、ぼくたちはこのアルバムで、ぼくたちが生まれる前、はるか昔にまかれた音楽の種が実 らせたものを刈りとっていたからだ。しかし、同時にこのアルバムを《アメリカ》と呼ぶこともできた。そこにある音楽は、ぼくたちがまわりにある空気のなかからとってきたものだった」と自伝に書いている(『ザ・バンド 軌跡』菅野彰子訳)。
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上はボブ・ディラン。下は「Further On Up The Road」のソロを弾くロビー・ロバートソン
映画『ラスト・ワルツ』の中でロビー・ロバートソンは、ウインターランドで最後のコンサートをやることにしたのは、そこがザ・バンドとして初めてライブ演奏をした場所だからだと言い、「ザ・ラスト・ワルツ」を単なるコンサートではなく「祝祭」(celebration)にしたかったと語った。そして、スコセッシの「始まりの? それとも終わりの?」という問いに、「the beginning of the beginning of the end of the beginning.」とレトリカルに答えた。
「ザ・ラスト・ワルツ」は十一月の第四木曜日、すなわち感謝祭(Thanksgiving Day)の日に行われた。連邦法定休日なので、その年の九月に企画されたにもかかわらず、ゲストもスコセッシも撮影スタッフもスケジュールが空いていたのである。感謝祭は、メイフラワー号で新大陸アメリカに渡ったピルグリム・ファーザーズが、荒野を開拓し初めての収穫を得たことを神に感謝して、ネイティブ・アメリカンを招いてごちそうを食べたことが始まりだと言われている。
「ザ・ラスト・ワルツ」は、アルバム『ザ・バンド』を制作中にザ・バンドとして初めてのコンサートを行った「始まり」の場所であり、ザ・バンドとして最後のコンサートを行うことになった「終わり」の場所でもある「アメリカ」のウインターランドで、「ザ・バンドによってまかれた音楽の種が実らせたもの」をゲストとともに自ら刈り取り、五千人の観客と分かち合った、「収穫(ハーヴェスト)」の祝祭だったと言ってもよいだろう。
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フィナーレでは、ゲストがコーラスに参加してボブ・ディランの「I Shall Be Released」が演奏された。左からニール・ダイアモンド、ジョニ・ミッチェル、ニール・ヤング、リック・ダンコ、ヴァン・モリソン、ボブ・ディラン
●『ラスト・ワルツ』は終わらない
ザ・バンド最後の「歌」となったのは、映画『ラスト・ワルツ』の公開(一九七八年四月二十六日)に先立ちサウンドトラックとして四月七日にリリースされたアルバム『ラスト・ワルツ』に収録されている、スタジオ録音の「The Last Waltz Refrain」である。この曲はザ・バンド唯一のメッセージソングだ。そのメッセージとは、リチャード・マニュエルとロビー・ロバートソンがデュオで歌った「The Last Waltz was through/But that don’t mean/That the party is over」という歌詞のとおりである。
ぼくがこの歌を初めて聴いたのは、一九七八年七月に日本で映画『ラスト・ワルツ』が公開される少し前だった。なぜ『The Last Waltz』というタイトルのアルバムに「The Last Waltz Refrain」という曲があるのか釈然としなかったが、この歌のメッセージを素直に受け取れば、「ザ・バンドは解散したわけではない」という意味であるはずだった。
しかし実際には、一九七七年にリック・ダンコとリヴォン・ヘルムはそれぞれソロアルバムを発表し、一九七八年五月にリック・ダンコが、六月にはリヴォン・ヘルムが来日コンサートを行い、映画『ラスト・ワルツ』が日本で公開された七月の時点で、すでにザ・バンドが事実上解散していることは明らかだった。つまり、「ザ・ラスト・ワルツ」は「解散コンサート」として行われたわけではなかったが、映画『ラスト・ワルツ』に描かれていたのは結果的にザ・バンドの「解散コンサート」だったわけである。
映画『ラスト・ワルツ』が公開されてから四十五年以上にわたり、ぼくはこの映画を、試写会、映画館、ⅤHSビデオ、レーザーディスク、DVD、ブルーレイ、4K UHDと、メディアの変遷に従って何回観たのか、もう覚えていないくらい繰り返し観てきた。アルバム『ラスト・ワルツ』もLP、CD、完全版、40周年記念盤、サブスクリプションと、収録曲が増え、音質が変わりながら、もう何回聴いたかわからない。
「ザ・ラスト・ワルツ」が行われる約一か月前の一九七六年十月十九日付「ニューヨーク・タイムズ」紙で、ロビー・ロバートソンは「The Band will never break up,」「It’s too late now.」と語っていた。ひとつだけ言えるのは、「The Last Waltz Refrain」という歌のとおり、イベントとしての「ザ・ラスト・ワルツ」は終わっても、「the party」、つまり「ザ・バンドとゲスト・ミュージシャンたち」の音楽、すなわち『ラスト・ワルツ』は終わってはいないということだ。
ロックの歴史上で、ひとつのバンドが、十一名のミュージシャンそれぞれと、これだけ多様な音楽をライブ演奏した作品はアルバム『ラスト・ワルツ』以外にはない。しかも、これらはザ・バンドの曲をゲストが歌うトリビュートではなく、ザ・バンドがゲストの曲を演奏しているのである。W・H・オーデンは芸術作品を「第二の世界」と呼んだ。『ラスト・ワルツ』は、「一つの無名にして共同なる社会」、すなわち「第二の世界」の現存を示し続けていると言ってよいだろう。
●ザ・バンド的なるもの
音楽にジャンルはあるのだろうか。もちろんジャンルが実在するわけではないと思うが、音楽をクラシックやジャズというジャンルとして認識することは可能だろう。問題はロックがジャンルとして認識可能な音楽なのかどうかということだ。仮にDJアラン・フリードのラジオ番組「The Moondog Rock & Roll House Party」(この番組でアラン・フリードはチャック・ベリーやリトル・リチャードなどの黒人音楽を「ロックンロール」と呼んで紹介した)が始まった一九五一年から二〇五〇年までの百年間を「ロックの時代」と位置づけてみよう。すると二〇二四年の現在はまだ「ロックの時代」の中にあるため、ロックという認識のフレームが確立されていないということになるだろう。
ミシェル・フーコーは「いつの日か、世紀はドゥルーズのものとなるだろう」と予言した。だが、それがどういう意味だったのかは、まだわからない。ぼくがフーコーの言葉をもじった、この文章のタイトル「いつの日か、ロックはザ・バンドのものとなるだろう」という予言がどういう意味なのかも本当はまだわからない。しかし、この予言が自己成就していることは疑いない。この文章では自己成就した予言を書いたというわけである。
これは音楽評論ではない。その証拠に白石美雪の『音楽評論の一五〇年――福地桜痴から吉田秀和まで』(二〇二四年)を読むと、「音楽評論とは、いったい何なのだろうか」というテーマで書かれたこの本には、ロックという言葉は一度も出てこない。それどころか、ジャズもポピュラー音楽も邦楽も「音楽評論」には含まれていない。音楽学者/音楽評論家の白石美雪が「音楽」という言葉で指している意味内容は、この二〇二四年にあっても「クラシック音楽」と「現代音楽」だけである。しかも「クラシック音楽」という言葉さえこの本にはほとんど出てこない。「音楽」という言葉はイコール「クラシック音楽」なのだ。
白石は「インターネット社会が到来した現代だからこそ、音楽評論とは何なのだろうかと、日本の近代一五〇年のスパンで、あらためて問いたいのである」と「はじめに」で書いているが、答えは明らかだ。日本の「音楽評論」とは「クラシック音楽批評」のことである。白石の〝音楽評論史〟は数多くの文献に基づく労作だが、もし外国の読者がこの本を読めば、福地桜痴から吉田秀和まで、「日本の近代一五〇年」の音楽評論やメディアには「クラシック音楽」しか存在しなかったと思うのではないだろうか。
この本を読んで、ぼくは第二章で触れた某新聞社の「音楽担当記者」の「音楽」が「クラシック音楽」という意味だったことにようやく気づいた。「己の不明を恥じる」しかないだろう。
もっとも栗原裕一郎と大谷能生による『ニッポンの音楽批評150年100冊』(二〇二一年)を読めば、「ニッポン」の近代一五〇年の音楽批評やメディアには、クラシック音楽だけでなく、ジャズもロックもポピュラー音楽も邦楽もあったことがわかる。「日本」と「ニッポン」の表記の違いが何かを物語っているようだ。
いずれにせよ、フーコーの「予言」もそれをもじったぼくの「予言」も、どちらも詩的な表現ではあるものの文意がはっきりしない日本語だ。実は、ミシェル・フーコーは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの『差異と反復』および『意味の論理学』という二つの著作を論じた一九七〇年の文章の中で「Mais un jour, peut-être, le siècle sera Deleuzien.」と書いており、フランス文学者の蓮實重彦は「だがおそらくはいつの日か、時代はドゥルーズ的なものとなっていよう」と訳している(「劇場としての哲学」『フーコー・コレクション3 言説・表象』)。
ぼくがこの文章で言いたかったことを、この表現に倣って言い直せば、「いつの日か、ロックはザ・バンド的な音楽となっていよう」ということになる。「ザ・バンド的な音楽」というのは、ぼくの考えでは「音楽が持つ多様性をバックビートの中に内包することができる音楽」のことだ。言い換えれば、「音楽が持つ多様性」を「バックビート」の中に「内包」することができるのが「ロック」という音楽の本質だとぼくは考えているわけである。
●日本人は本当にロックを感じ取れているのか
一度、音楽学者の友人たちに「バックビートってわかる?」と質問してみたいと思っているのだが、さすがに失礼なので、まだしたことはない。だから実際のところはわからないが、案外「身体的に」理解していない人もいるのではないかとぼくは疑っている。
「バックビート」とは、四分の四拍子の二拍四拍(オフビート)にアクセントを置くことである。こう書くと、こんな単純なことなら誰でもわかると思うだろう。
しかし、この二拍四拍(オフビート)にアクセント(というか重心)を置く「バックビート」(one, TWO, three, FOUR,)はアメリカの黒人音楽が起源で、ヨーロッパのクラシック音楽にはなかったものだし、もちろん日本の音楽にもなかったものだ。「イチ、に、サン、し、」のように「強拍、弱拍、中強拍、弱拍」と、一拍三拍にアクセントを置く音楽教育を昭和期の公立小・中学校で受けたぼくのような普通の日本人が、自然に身に着けているような「ノリ」ではない。
だが、「バックビート」はロックにおいてはリズムの要であり、生命そのものだ。だから、もし「バックビート」が「身体的に」わからないのであれば、その人はロックという音楽のいちばん基本的なことが理解できていないのである。つまり、ロックを本当には感じ取れていないのだ。ロックのようなプリミティブな音楽を感じ取れていないなんてことはあり得ない、と思うかもしれないが、しかし実際に感じ取れてはいないのである。
「バックビート」は単に音楽的に「二拍四拍にアクセントがある」ということではない。「バックビート」とは、「強拍(オンビート)」ではなく「弱拍(オフビート)」を強調するノリのほうがcoolだという、「ヨーロッパのクラシック音楽の価値観」と「アメリカの黒人音楽の価値観」の逆転なのである。
普通の日本人やヨーロッパ人には「バックビート」のほうがむしろ不自然なノリで、たいていは自分で意識せずに一拍三拍にアクセントを置いていると思ったほうがいいだろう。ザ・バンドがデビューした一九六八年にアメリカでブレイクしたポール・モーリアは、同年エド・サリヴァン・ショーに出演して「恋はみずいろ」(一九六七年)を演奏した(音は録音)。この映像はとても興味深い。バックバンドが二拍四拍にスネアでアクセントを入れていても、チェンバロを弾くポール・モーリアはバックビートでは演奏していない。だが、番組に出演している、舞踏会の貴族に扮してチェンバロに合わせてダンスするアメリカ人のダンサーたち(センターは黒人男性)は、サビになるとバックビートで踊り出すのだ。
ロックをあまり聴き慣れていなければ、「バックビート」で手拍子を取ることだって思いのほか難しいはずだ。自分でやってみればすぐにわかる。ロックやソウルやファンクの曲に合わせて手拍子を取ってみれば、ほとんどの普通の日本人は、ノリのないまま、ただ二拍四拍で手拍子しているだけになってしまうはずだ(YouTubeで日本の〝ロック〟のライブ映像を見れば一目瞭然)。こんなシンプルなことなのに、オフビートを強調するという「ノリ」を自分で表現することが難しいことを実感できると思う。ぼくだってアタマでは理解しているつもりでも、「バックビート」が身に着いているわけではない。
例えばグリール・マーカスが『ミステリー・トレイン』でザ・バンドと並ぶ重要なミュージシャンとして取り上げているSly and the Family Stoneの「In Time」(一九七三年)という曲に合わせて手拍子を取ってみれば、音楽の専門家だって自分のノリのわるさを感じる人がいるはずだ(ぜひ、やってみることをおすすめしたい)。ちなみにぼくは「In Time」は「来たるべきファンク」だと考えている。
あるいは、ザ・バンドが「ラスト・ワルツ」の「Old Dixie Down」でもホーン・アレンジを依頼したアラン・トゥーサンの「What Do You Want the Girl to Do?」(一九七五年)という曲のイントロのスネア(ドラムはミーターズのジガブー・モデリステ)に合わせて手拍子を取ってみてほしい。自然なノリで手拍子できるのであれば、少なくともザ・バンドの音楽は感じ取ることができるはずだ。もしリズムが取れないようであれば、自然に取れるまで繰り返しやってみるとよいだろう。これが、リヴォン・ヘルムのドラム演奏の「ツボ」を身体的に理解するための、いちばん簡単な方法だ。
●日本語ロック論争の誤解
なぜぼくは「backbeat」を「バックビート」と万葉仮名から生まれたカタカナで書いているのだろうか。それは、中国由来の漢字による訳語がないからだ。戦後の日本では明治期の日本のように外来語を積極的に漢字を使って訳すことはせず、カタカナで表記するのが一般的になった。いまでも時々外来語の氾濫を嘆く言説を目にすることがあるが、カタカナで表記された外来語は「日本語」だ。しかも、柄谷行人が『日本精神分析』(二〇〇二年)で指摘しているように、外来語であることが一目でわかるユニークな書記法だ。
これなら、どんなに新しい概念であっても、たとえ意味がわからなくても、「日本語」にすることができる。つまり「backbeat」がどういうものかよくわからなくても、「バックビート」という日本語として読み書きできるようになり、「理解」あるいは「誤解」することも可能になるのだ。
その点で、ぼくがおもしろいと思っているのは、「J-POP」だ。少し前なら「Jリーグ」のように「Jポップ」とアルファベットとカタカナのハイブリッドで表記されそうなものだが、アルファベットで表記されている。これは、「sushi」「Zen」「anime」のように、「寿司」「禅」「アニメ」という日本語をヘボン式のローマ字で表記したものではない。「J-POP」という「アルファベット表記の日本語」なのだ。外国語の中では横文字の「J-POP」として英語になる「輸出仕様の日本語」だ。これは日本語の歴史上では画期的なことだろう。J-POPが、オリエンタリズムとしての日本のポピュラー音楽としてではなく、日本製のポピュラー音楽として輸出することに成功したということでもあるのだろう。
かつて一九七〇年頃に、日本語でロックが可能かどうかをめぐり、「日本語ロック論争」があった。しかし、ぼくはこの論争は前提が間違っていたと思う。「Rock」は米語または英語で歌う音楽だからだ。日本語で歌えば、いくらサウンドが「Rock」だとしても、それはもう「Rock」ではなく、それこそ「日本語ロック」と言うべきものだろう。もしボブ・ディランがすべての曲をフランス語で歌っていたら、ディランは革命的なシャンソン歌手と呼ばれていたに違いない。もしビートルズがすべての曲を日本語で歌っていたら、革新的なグループ・サウンズだと言われていただろう。「歌曲」においては、言語と音楽は不可分一体だ。
柄谷行人は『日本精神分析』で芥川龍之介の小説『神神の微笑』を取り上げて論じているが、この小説は、日本があらゆる外来の文化を日本的に変容させて取り込んで土着化してしまう、ある意味、怖ろしい国であることを描き出している。
「支那の哲人たちは、書道をもこの国に伝えました。空海、道風、佐理、行成――〔中略〕彼等が手本にしていたのは、皆支那人の墨蹟です。しかし彼等の筆先からは、次第に新しい美が生れました。彼等の文字はいつのまにか、王羲之でもなければ褚遂良でもない、日本人の文字になり出したのです」(『神神の微笑』)
日本人が「Rock」を受容し始めて半世紀以上経つが、「Rock」は「ロック」という日本語になり、いつの間にか日本的な変容を遂げて、ユニークな「日本語ロック」になったのだ。「はっぴいえんど」の「風をあつめて」(一九七一年)がいまや世界中でカバーされ日本語で歌われている理由は、別にサウンドが「Rock」だからではない。日本語の「歌曲」、つまり「日本語ロック」として魅力があるからだ。「はっぴいえんど」というバンド名が、「HAPPY END」でもなく「ハッピーエンド」でもなく、ひらがな表記だったのは、その意味では象徴的だろう。
●「backbeat」と「バックビート」
しかしその一方で、「backbeat」もカタカナの日本語になり、日本的な変容を遂げ、日本的「バックビート」として土着化したのではないだろうか。
荒井由実の「中央フリーウェイ」のオリジナルは、ベースがリー・スクラー(Leland Sklar)でドラムがマイク・ベアード(Mike Baird)だ。なぜ荒井由実が「ザ・ラスト・ワルツ」直前の一九七六年十一月二十日にリリースされたアルバム『14番目の月』で初めてアメリカ人のリズムセクションを起用したのかは知らないが、この二人の演奏こそロックの「backbeat」だ。ロックの「backbeat」とは、二拍四拍にはっきりとしたアクセントでスネアドラムを打つのが特徴で、これがジャズ・ドラマーのようにスネアのアクセントの入れ方がジャズ的だとロックの「backbeat」には感じられないのである。例えばヴァン・モリソンの「Tupelo Honey」(一九七一年)という曲ではMJQのコニー・ケイがドラムを演奏しているが、いかにもジャズ・ドラマーがロックっぽい「backbeat」にしている感じだ(でも不思議な味わいがある)。
なお、「中央フリーウェイ」の二回目のサビのところで、マイク・ベアードはシンバルでエイト・ビートの裏拍を強調して街の灯が瞬き出す様子を描き出し、リー・スクラーはフリーウェイを流星のように疾走するクルマのエンジン音をベースで見事に表現している。彼らの演奏を聴くと、この曲に参加している日本人のミュージシャンよりも、アメリカ人のふたりのほうが、ユーミンの歌詞の世界をよく理解して演奏しているようにぼくには思える。
ところが、オリジナルの「中央フリーウェイ」からおよそ二十年後に日本人のリズムセクションで演奏された松任谷由実のライブアルバム『Yumi Arai The Concert with old Friends』(一九九六年)の「中央フリーウェイ」を聴いてみると、二拍四拍にはっきりしたアクセントでスネアドラムを打っているのに、なんだかバンド全体のノリがもったりしていて、とてもフリーウェイを疾走しているようには感じられない。ベースはフレーズは似せているがフラットな演奏で、リー・スクラーとはノリがまったく違う。ユーミンのヴォーカルも、もう少しでこぶしが回りそうになっている。音楽学者でもミュージシャンでもないぼくには「どうしてそうなのかわたしには分らない/ただどうしてそうなのかをわたしは感じる」(田村隆一「幻を見る人」)としか言えないが、まさに日本的「バックビート」という感じだ。
もちろん、「backbeat」であるかどうかと音楽的価値とは別の話だ。「backbeat」だから音楽的にすぐれているということではない。日本的「バックビート」だからダメだという話ではない。例えば、荒井由実の『ひこうき雲』(一九七三年)はすばらしいアルバムだ。しかし、一曲目の表題曲「ひこうき雲」と『14番目の月』の一曲目の「さざ波」を聴き比べてもらえば、ぼくが感じている日本的「バックビート」と「backbeat」のノリの違いが感覚的にわかってもらえると思う(日本的な「バックビート」とアメリカ的な「backbeat」のどちらのノリを心地よく感じるかは、人によるだろう)。
もっとも「backbeat」が変容したのは日本だけではない。ザ・バンドに比べると、イギリスのロックバンドのノリは、総じてストレートで硬いようにぼくは感じる。しかし、このイギリス的「バックビート」こそが、一九五〇年代の「ロックンロール」ではない新しいリズムの音楽「ロック」なのだと言う人もいるだろう。ハード・ロック、プログレッシブ・ロック、パンク・ロック……レッド・ツェッペリンに「Rock and Roll」という曲があるが、何度聴いてもぼくにはロックンロールとは感じられないノリの演奏だ。ちなみに、ぼくは、こういったイギリスのロックは「ブリティッシュ・ロック」という「イギリス英語」の歌曲だと考えている。
もしザ・バンドの演奏で「backbeat」を体感してみたければ、映画『ラスト・ワルツ』でロニー・ホーキンスの「Who Do You Love」やエリック・クラプトンの「Further On Up The Road」を観ながら、リヴォン・ヘルムが叩くスネアの音に合わせてリズムをとってみるとよいだろう。このビートが文字どおり腑に落ちるようになれば、それが「backbeat」であり、リズムのツボ(ポケット)だ。
ただし、リヴォン・ヘルムは、ザ・バンドの曲ではテンポが半分になったように(ゆっくり)感じる「ハーフタイム」(half-time feel)でドラムを演奏していることが多い(「The Weight」や「Up on Cripple Creek」や「Old Dixie Down」はハーフタイム)。これがザ・バンドのノリの特徴だ。繰り返し聴いてみれば、ザ・バンドのリズムの不思議な魅力がわかってくるだろう。
コンサート「ラスト・ワルツ」では、多種多様な曲が演奏されているが、すべて「backbeat」だ。このザ・バンドの演奏こそが、「音楽が持つ多様性をバックビートの中に内包することができる音楽」、つまりぼくの考える「ロック」だ。
●ロックとは何か
ロビー・ロバートソンの自伝を読むと、ザ・バンドの音楽を「ロックンロール」(Rock’n’ Roll)と呼んでおり、「ロック」(Rock)とは言っていない。グリール・マーカスの『ミステリー・トレイン』のサブタイトルは「Images of America in Rock’n’ Roll Music」で、「ロックの殿堂」も英語では「Rock and Roll Hall of Fame」だ。ザ・バンドの初期のプロデューサーだったジョン・サイモンの自伝のサブタイトルも「A Memoir of a Musical Life in and out of Rock and Roll」だし、二〇二一年に刊行されたジョナサン・タプリン(ボブ・ディランやザ・バンドのツアーマネージャーを経て、映画『ラスト・ワルツ』のエグゼクティブ・プロデューサーも務めた)の自伝のサブタイトルも「Scenes from a Rock-and-Roll Life」である。少なくともザ・バンドに関わった当事者たちは、ザ・バンドの音楽を「ロック」ではなく「ロックンロール」と呼んでいたということがわかる。
では、「ロック」という言葉は何を表現しているのだろうか。まず考えられるのは「ロックンロール」を短縮した表現としての「ロック」だ。「ロックンロール・ミュージック」では長いので「ロック・ミュージック」と表記するような場合である(ロビー・ロバートソンも自伝の中で「folk-rock sound」という表現は使っている)。次に「ロックンロール」から派生した音楽ジャンルとしての「ロック」だ。対になるのは「ポップ」という表現だろう。あとは「ロック・スピリッツ」のような比喩的な表現だ。これは音楽用語ではないうえに、英語でもない。
一九五〇年代に使われ出した「ロックンロール」や「ポップ・ミュージック」という言葉に加えて、「ロック」という新しい言葉がアメリカの音楽ジャーナリズムで広く使われるようになるのは、ぼくが調べた限りではおそらく一九六七年前後だ。一九六七年六月十六日~十八日に行われた「モンタレー・ポップ・フェスティバル」(Monterey Pop Festival)は、ザ・フーやジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスやジャニス・ジョプリンなど「ロック」ミュージシャンが多数出演した「ロック・フェスティバル」だが、名称はまだ「ポップ」であった。日本の「ミュージック・ライフ」誌も一九六七年二月号までは「ポピュラー・ミュージックの雑誌」というキャッチコピーを表紙に使っていた。しかし、一九六七年頃までには、やがて世界中で「ロック」という言葉で呼ばれるようになる「新しい音楽」がリスナーに広く認識されるようになっていたと考えてよいだろう。
この頃に「ロック」という言葉を意識的に音楽評論で使っているのは、世界初のロック専門誌と言われる「クロウダディ!」(Crawdaddy!)を一九六六年に創刊した、ロック批評の先駆者ポール・ウィリアムズだ。
一九六九年に刊行された『アウトロー・ブルース』(室矢憲治訳)という評論集に収載されている「ロック・シーン’67」(一九六七年六月)という文章で、彼は「ロック――ポップ・ミュージックから成長を遂げたそれが、いまやポップをはるかに凌駕するものとして存ること」とか、「ロックはもっとも広く、また非特殊的な音楽カテゴリーとして他のどんな音楽よりも種々様々な嗜好、好みを吸収できるだろう」とか、「新しい音楽、ロックは変わる音楽だ」と書いている。
ポール・ウィリアムズの文章には「〈ロック〉なる言葉はある特殊な音楽内容を示すのではなく、衝迫力、緊張、スタイルを語る言葉としてよく使われるようになってきた。イゴール・ストラヴィンスキーとロバート・ジョンソンはともに、フリーディアン以前のロック・アーティストと呼ばれるべきではないだろうか」という記述もある。この「フリーディアン」という言葉は死語だが、室矢憲治の訳注によれば「ロックンロール」の命名者と言われるDJのアラン・フリードにちなんだ表現で、一九五〇年代の「ロックンローラー」のことだ。一九六七年の時点ですでに「ロック」という言葉が多義的に使われていたことがわかる。
一九六五年頃からビートルズやローリング・ストーンズやボブ・ディラン&ザ・ホークスなどのミュージシャンたちが、イギリスとアメリカで同時多発的に始めた、エレクトリック・ギターを中心に据えたバンドサウンドの「エレクトリックなロックンロール」を、ポール・ウィリアムズは一九五〇年代のロックンロールとは異なる「新しい音楽=モダン・ミュージック」ととらえ、それを「ロック」と呼ぶことで、「ロック批評」という音楽評論の分野を成立させたと言ってもよい。
つまり「ロック」という言葉は、「エレクトリックなロックンロール」をバンドというスタイルで演奏していたミュージシャンが自分たちの音楽を指して使っていたわけではなく、音楽批評の用語として音楽評論家たちが使い始め、やがてそれがジャーナリズムで音楽の「ジャンル」を示す言葉として機能するようになったのであろう(ただし「ジャンル」としての「ロック」の定義はいまだにコンセンサスが得られていない)。そして、一九七〇年代になると、アメリカの雑誌「ローリング・ストーン」誌の成功が象徴するように、「ロック」はミュージック・ビジネスの「キーワード」になった。
なお、ぼく自身は一九五〇年代のロックンロールと一九六五年以降のロックの違いは、ロックンロールはダンス・ミュージックで黒人も白人もソロ・アーティスト中心、ロックはロックンロールのようには皆で踊らない(または踊れない)音楽で白人によるロックバンド中心、と考えている。ミーターズ(The Meters)のようにファンクとロックの境界領域で活動していたバンドを除けば、一九六〇年代後半~七〇年代前半には黒人だけの有名ロックバンドはなかった(もちろん東洋人だけの「ロックバンド」も英米にはなかった)。コンサート「ラスト・ワルツ」の観客だって、ほぼ「白人」だけだし、当時ロックを聴いている黒人は仲間から非難されていたという。コンサートの出演者で黒人は、マディ・ウォーターズと彼のバンドのピアニスト、パイントップ・パーキンスだけである。ロックが「白人」中心の音楽だったことは間違いない。
いずれにせよ、音楽をジャンルに「分類」して批評しようとするのは、近代以降の「人間」の抜きがたい思考法であろう。本来は眼に見えないはずの音楽を可視的に表現して認識したいのだ。そう考えれば、映画『ラスト・ワルツ』は、ゲスト・ミュージシャンと多種多様な音楽を演奏するザ・バンドを撮影することで、図らずも「音楽が持つ多様性をバックビートの中に内包できるロックの本質」を可視化した、「映画によるロック批評」として見ることも可能だろう。
●再び「来たるべきロック」とは何か
ジル・ドゥルーズは「流れの中で流れをとらえること」を考えた哲学者だ。哲学研究者の檜垣立哉は、『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』という著書の中で、「生成とは、新たなものが生み出されていく流れである。流れをそのまま捉えようとするならば、それは分断されてはならない」と書き、「流れ」のわかりやすい例としてメロディーを挙げている。メロディーは分解するとメロディーではなくなってしまう。メロディーは分解不可能だから「流れ」なのだ。
しかし、この新たなものが生み出されていく「流れ」を「可能性」としてとらえてはならないと檜垣は言う。なぜなら可能性は「あらかじめそれが何であるかを描きだしうるもの」だからだ。仮に複数の可能性があるとしても、それはすでに決定されているから、あらかじめ可能性として語ることができるのだ。
もし「流れ」を可能性としてとらえてしまうと、それは新たなものが生み出されていく「流れ」、つまり「生成」ではなくなってしまう。とすれば、ぼくが第三章で「まだ現れていない「あらゆる音楽」が内包されている」と「Jupiter Hollow」について論じた「内包」も、可能性として考えてはならないということになるだろう。もし可能性としてとらえてしまえば、それはあらかじめ「どこか」にすでにある音楽ということになってしまうからだ。
では、どう考えればよいのか。
それは「潜在性」だと檜垣は言う。「力の潜在性とは、本質的に未決定なものである。未決定であるから、流れのリアリティーが産出されうることを理解しなければならない」(前掲書)。つまり、「潜在的なものは、あらかじめ何であるかを描き出すことのできないもの」なのだ。
二〇二四年現在、J-POPのトップランナーと言ってもよいYOASOBIが、ユーミンとのコラボで二〇二三年に発表した「中央フリーウェイ」を聴いてみるとよい(これはオリジナルのカバーではない、YOASOBIと松任谷由実の「中央フリーウェイ」だ)。この「中央フリーウェイ」には、一九七六年に発表された荒井由実のオリジナルの「中央フリーウェイ」のサウンドではなく、一九七五年に発表されたザ・バンドの「Jupiter Hollow」のサウンドがエコーしているように聴こえるはずだ。
注意してもらいたいのは、YOASOBIがザ・バンドの影響を受けているわけではないということだ。そうではなくて、一九七五年に発表された「Jupiter Hollow」には、二〇二三年にYOASOBIが展開することになる音楽が内包されているのだ。
現在の時間と過去の時間は
ともにおそらく未来の中にあり
また未来の時間は過去の時間の中に含まれる。
(T・S・エリオット「バーント・ノートン」、上田和夫訳)
もう一度、ロックの歴史にとらわれずに「Jupiter Hollow」を聴いてみてほしい。「Jupiter Hollow」にはYMOやYOASOBIの音楽が鳴り響いていることに気づくだろう。誤解してほしくないのは、これらの音楽が最初から「Jupiter Hollow」の音楽に「あった」わけではないということだ。YMOやYOASOBIが真に新しい彼らの音楽を生み出したからこそ、「Jupiter Hollow」にその音楽が現れたのである。これが、「未来をこえてやってくるもの」であり、「現にそこにありながら来ることを止めない」音楽、つまり「来たるべきロック」だ。
「来たるべきロック」は、可能性としてあらかじめ決定されているものでもなければ、ジャンルでもない。それは、ザ・バンドの音楽にある潜在性であり、内包されているものが何であるかをあらかじめ語り得るものではない。
それなのに、ぼくは語りすぎたようだ。この辺で終わりにしよう。
もしザ・バンドが好きだという人に会ったら、こう尋ねてみてほしい。「どうしてそんなにザ・バンドに入れ込んでいるのですか?」と。問われた人がもし本当にザ・バンドの音楽を深く聴いているなら、その人は生涯をかけてその問いの意味を考え続けるに違いない。
(第08回 最終回了)
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*『いつの日か、ロックはザ・バンドのものとなるだろう』は毎月21日にアップされます。
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