妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
パパちゃんの気持ちも知らずに永子は「どうしたんだろうねえ、おにいちゃん」と繰り返した。
何か答えなきゃと焦ったが、どうやらその必要はなさそうだ。永子は玉子サンドの端っこに齧りつき、また「どうしたんだろ」と呟いた。そう、最初はきっと俺に尋ねていたはずだが、今は多分違う。誰に言うでもなく、ただ呟いている。そして何故かこっちを向こうともしない。
その視線の逸らしかたは、思わず変なことを口走った後の気まずさを連想させるが、こんな複雑な表情を見るのは初めてだ。子どもの、特に女の子の成長は早いと言うけれど、それとはまた別モノだろう。
とにかくその場はやり過ごし、店に戻ってからスマホで調べてみた。検索ワードは「子ども/亡くなった兄」。でも、これだとうまくいかない。「兄弟を亡くした子ども」や「相続問題」についてヒットするだけ。
そうか、と肩の力が抜ける。考え方を強に寄せ過ぎていた。まずは一般論に薄めないと。色々と試した結果、「亡くなった兄」は「見えない友だち」に修正し、「子ども/見えない友だち」で検索。今度はうまくいった。
――イマジナリーフレンド。
初めて知る言葉がずらりと並ぶ。ざっくり言えば、空想の中の友だち。そういうものと対話をする子どもは意外に多いらしい。
永子の場合は、友だちではなく兄。正確には、知るはずのない亡くなった異母兄弟。そんな事例はあるのかな、と画面をスクロールさせていると、三人組のサラリーマン風の客が席を立った。
「お会計して」
「はい。ありがとうございます。お会計はご一緒でよろしいですか?」
「いや、バラバラで」
「かしこまりました。少々お待ちください。えっと、アイスミルクティーのお客様はですね……」
彼らが座っていたテーブルを片付け、カウンターの中へ戻ると上から母親が降りてきた。最近ようやく二階へ上がるようになったが、まだ仮眠用のソファーベッドは使っていない。今は永子に絵本を読んでくれていた。
「寝た?」
「うん、すぐだったわよ。疲れてんのかしらね」
「別に外で走り回ったりはしなかったよ」
ふとイマジナリーフレンドのことを訊いてみようと思ったが、どんな風に切り出せばいいか分からない。結局「明太子事件」だけ話した。
「何やってんのよ」
そう言って笑う母親に違和感を覚えたが、すぐに理由は分かった。母親にとって「明太子事件」の主人公は、孫の永子ではなく息子の俺だ。めんたいこ、というふりがなに気付かなかった息子が話の主軸。一方、俺にとっての主軸は、ふりがなだろうが構わずに読み続けた永子。数日前にテレビで年配の女優が「そりゃ孫も可愛いけど、一番可愛いのは娘の方ですよ」と言っていたが、なるほどこういうことかもしれない。
イマジナリーフレンドについて、いくつかの事例やQ&Aを読んでみたが、俺の気持ちが落ち着くことはなかった。それどころか、どんどん本筋からズレているようで、妙な焦燥感がある。そのうちマキが帰ってきたので、イマジナリーフレンドのことは一旦頭の隅に追いやった。
「もしかしたらさ、永子って見えない友だちとかいたりする?」
そう気楽に尋ねられたら話は早いが、さすがにそれは難しい。だから数日後に「夜想」へ出向いた。
その間、俺の目の前で永子が永子が「おにいちゃん」のことを話す瞬間はなかった。心配するような深い意味なんて元々なく、ただの気まぐれだったのかなと思いたかったが、備えあれば憂いなし。今、俺に思いつく現実的な「備え」は、マスターの恋人・チハルさんだ。たしかタロットだけではなく、スピリチュアル系全般に詳しいと言っていた。きっとイマジナリーフレンドもカバーしているだろう。
では「憂い」は何なのか? これは難しい。実はあの日以来、何度も考え続けている。正直なところ「備え」の何百倍難しい。
もちろん強には何の非もないが、俺にそういう過去が無ければマキには「永子って見えない友だちとかいたりする?」と訊けたし、程なく「イマジナリーフレンドっていうのがいるのかもね」という結論に達したと思う。
あまり考えたくないし、口にするのも嫌だが、強は永子に何か「悪さ」をしようとしているのだろうか。分からない。いつもこの辺りで「祟り」というキーワードが浮かび、考えることから逃げ出してしまう。結局、何一つ解明できていない。やっぱり強にとって、俺はひどい父親だという苦みだけが、この瞬間も胃の奥に溜まり続けている。
今のところはっきりしているのは、隠しごとなく正直に相談できるのはコケモモだけ、ということ。ただ、それを叶えるには更に大きなハードルを飛び越えなければいけないので、俺はこうして「夜想」のカウンターでチハルさんと向き合っている。
時間は夜の七時過ぎで先客は二人。マスターがいなくてよかったと思ったのはこれが初めてだ。
「うん、知ってるよ。大人には見えない的なヤツだよね。壁に向かって話しかけてるみたいな」
彼女は予想どおり、イマジナリーフレンドを知っていた。でも「それで?」と訊かれると俺の方に答えがない。
「娘さんのことが心配ってこと?」
「心配っていうのとは違うような……」
「じゃあ何だろう。見えているのが、どんなフレンドか知りたいって感じ?」
「うーん、知りたいっていうか」
「あ、娘さんに見えなくなってほしいのか」
それでもまだ「いやあ……」とはっきりしない俺に、チハルさんはタロットで「今の状況は永子にとって良いか悪いか」を占ってくれた。出た答えは「特に悪くはなさそう」という薄味のもの。物足りなさを隠せない俺に、「私の先生、霊視ができるんだけど、育児相談もやってるから、もしよければ」と縦長のパンフレットを差し出した。
安らぎのスピリチュアル、と銘打たれた育児相談を行っているのは、マキが習っていたマタニティー・ヨガの先生、グレース・舘野だった。何だよこいつ、くだらない。
別に気にするほどのことではない、というとても遠回りなメッセージかも、と思いつつ、帰り道に立ち寄ったコンビニで、もらったパンフレットを捨てた。もちろんこのことを、マキには報告していない。
その後、何度か外でランチを食べている時に、永子は「おにいちゃん」と口にした。幸か不幸か、パパちゃんに向かって話すというより呟くような感じなので、あえてそのことに触れる必要はない。
「このまえ、おにいちゃんのほうが、はやかったんだよね」
今度は強と夢の中でかけっこでもしたのか、それとも二人並んでケーキでも食べたのか。慣れ、というのは恐ろしいもので、今では見えない誰かと言葉を交わす永子を見ながら、どこかほのぼのとしていたりする。唯一気になるのはマキの反応だが、特に何も言ってこないので全く気付いていないのかもしれない。
「イヴの日は早く上がれるんだけど、クリスマス当日は遅くなるかも」今朝、出がけにそう言っていた。「ケーキの予約、あまり入ってないから、大丈夫だと思うんだけどね」
「うん? ケーキも始めたのか?」
「いや、パンケーキね。クリスマス用ってことで、やってみることにしたのよ」
あと十日でイヴ。店のツリーに結ばれた願いごとも、少しずつ増えている。常連さんは毎日結んでいくので、明らかに客数より願いごとの方が多いが、賑わっているのに越したことはない。
「たくさん書いている人って、全部違う内容なのかしら」
マキも不思議がっていたが、無論何が書いてあるかを盗み見たりはしない。なぜなら「いけないこと」だから。その辺り、俺は少しだけ信心深い。ツリーに結ばれた願いごとは、おみくじによく似ている。子どもの頃、鳥居が書かれている電柱には、立ち小便をしなかった。
そんなことを思い返していた昼前の時間帯、今日は客の出足が鈍いかも、と一丁前に心配しながら、テーブルで絵本を読んでいる永子を眺めていた。
ここから見えるのは後頭部。さっきから細かく揺れていた柔らかな髪の毛が、突然大きく動いた。まるで魚がヒットした時のウキみたいなムーブ。思わず喉の奥が鳴る。まるで本当の釣りだ。永子の顔は左斜め前を向いている。その先にはたくさんの願いが結ばれたクリスマスツリー。どうなる? と見つめていた俺は、次の瞬間たしかに聞いた。
「え、おにいちゃん、どっちがいい?」
ツリーの方向に目を凝らす。そこに強がいるっていうのか。わからないけど、とにかく見続けた。顔も知らないくせに俺は頑張った。でも、どう頑張ってもツリーしか見えない。恨めしげに永子の揺れる髪の毛に視線を落とすと、後ろから母親の声がした。
「ねえ、エイちゃん、また誰かと喋ってる」
知ってたのか、と声には出さず目で伝えると「あんたもそうだったのよ」と微笑んだ。へ? とマヌケ面の俺に母親はテキパキと教えてくれた。
三、四歳までよく見えない誰かと話していたこと、一度名前を尋ねたら泣いて意地でも教えなかったこと、そして、いつの間にかそんな光景を見なくなったこと。
「いやあ、全然覚えてないな」
「そんなもんでしょ」
そう言って母親はランチセットに付くサラダ用のトマトを洗い始めた。
そんなことを聞かされたせいで、その後は閉店までどことなく落ち着かなかった。自分にまさかイマジナリーフレンドがいたなんて。そのうち母親が伝えてしまいそうだから、やっぱりマキには言っておかないとな、とぼんやり考えつつ働いていた。
「あんた、ちょっとトイレットペーパー買ってきて」
「え、まだあるはずだけど」
「知ってるわよ。でも今日は駅前のドラックストア、スタンプ十倍じゃない」
さすがベテラン、とからかいながら外へ出ると、スマホがポケットの中で震える。奈良に単身赴任中のヤジマーから。そういえば一昨日もかかってきたけど、タイミングが悪くて出られなかった。大事な用件ならまた来るだろう、と放っておいているうちに失念。
「おお、この間はごめん」
「え、気付いてたのかよ」
「うん、でもすぐに忘れた」
馬鹿野郎、と笑った後であいつはこう続けた。
「あのさ、やっぱりコケモモ、京都にいるみたいだよ」
「お前、そんなこと言われてもさあ……」
わざとオーバーにうんざりしてみせると、慌ててあいつは付け足した。
「違う違う。言いたかったのは、あいつ、子どもいるみたいなんだよ。知ってた? って知るわけないか」
黙っている俺をどう捉えたのか、声を潜めてヤジマーは更に続ける。
「結構大きい男の子でさ、もう小学校行ってるんじゃないかなあ」
(第27回 了)
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*『オトコは遅々として』は毎月07日にアップされます。
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