性にまつわる全てのイズムを粉砕せよ。真の身体概念と思想の自由な容れものとして我らのセクシュアリティを今、ここに解き放つ!
by 金魚屋編集部
小原眞紀子
詩人、小説家、批評家。慶應義塾大学数理工学科・哲学科卒業。東海大学文芸創作学科非常勤講師。一九六一年生まれ。2001年より「文学とセクシュアリティ」の講義を続ける。著書に詩集『湿気に関する私信』、『水の領分』、『メアリアンとマックイン』、評論集『文学とセクシュアリティ――現代に読む『源氏物語』』、小説に金魚屋ロマンチック・ミステリー第一弾『香獣』がある。
三浦俊彦
美学者、哲学者、小説家。東京大学教授(文学部・人文社会系研究科)。一九五九年長野県生まれ。東京大学美学芸術学専修課程卒。同大学院博士課程(比較文学比較文化専門課程)単位取得満期退学。和洋女子大学教授を経て、現職。著書に『M色のS景』(河出書房新社)『虚構世界の存在論』(勁草書房)『論理パラドクス』(二見書房)『バートランド・ラッセル 反核の論理学者』(学芸みらい社)等多数。文学金魚連載の『偏態パズル』が貴(奇)著として話題になる。
小原 トランスヘイトのリストのお知らせをいただき、ありがとうございました。何者が作ったリストなのかはともかく、このトークがリストアップされていて光栄ですね。文学金魚の二行上が慶応大学出版会だったので、なお嬉しいです。恩師である大江(大出)晃先生が論理学の教科書を出されたところなので。論理的必然リスト、ということで(笑)。
三浦 出版社はもっと出てきてもよさそうだけど、反トランスのユーチューバーとか右翼系芸能人はあそこに載ってないんですよ。政治色が鮮明な人たちは除外されてんのね。もし一緒にしたらさ、やっぱり共同戦線を張られる、仲良くなっちゃうでしょ。それを避けているね。
小原 要するにネトウヨと元共産党系とを分断するっていうことですよね。
三浦 そんな感じ。基本は左寄りか、政治色がはっきりしない系統のみをリストに入れているわけ。
小原 なるほど。
三浦 実際、特例法の解釈でも、ちょっと対立が起こっている。あのヘイトリストに入っている中でも結構、分断はあるわけです。だから今日、この特例法の基本的知識をおさらいしましょう。私なんかはこの特例法、廃止するしかないと思ってるんだけれども、そういう人は少数派なんですね。
まず第一条を見ると、この法律は性同一性障害者に関する法令上の性別の取り扱いの特例について定めるものとするとなっていて、あくまで性同一で障害者なんですよね、対象が。ところが今は国際的な流れでは、性同一性障害というものがなくなっている。日本の医学界ではまだ性同一性障害っていうのがあるのだけど、アメリカ精神医学会とかでも性同一性障害というのはもう廃止されて、性別不合となっていて精神疾患ではないと。「性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律」っていうのは、違憲判断が出たのを機会に、「性別不合の取り扱いの特例に関する法律」となるでしょうね。あと、あくまで性別の「取り扱い」の特例なんだよね。性別を変えさせる法律ではない、ということですね。男性が女性になったり、女性が男性になったりということを保証する法律ではない、という。
それから第二条、この法律において「性同一性障害者」とは生物学的には性別が明らかであるにもかかわらずってなっていて、いわゆる性分化疾患の人を対象にしていない。性分化疾患で生物学的に曖昧な場合があるわけで。
小原 そういう人たちは戸籍法で性別を変更することができるんでしたっけ。
三浦 その場合には、変更とは言わずに、訂正と言うんですね。
それから心理的にはそれとは別の性別(以下「他の性別」という。)であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者であってって、これ難しいんですよね。持続的な確信ですから、願望とか、そういうものではいけない。自分は女性だという持続的な確信を持ってなきゃいけない。
そして自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者だから、身体的に、例えば女性の身体になろうという意思がないといけないわけですけど、この間の最高裁の判決では、生殖器つまりペニスがついたままでも身体的に女性に適合させようとする意思を有する者と認められることになってしまった。これは不思議な話だよね。女装していればいい、程度のものになってきちゃってる。
ホルモン打って女性らしい姿になる意思を有する必要すらないと、少数意見、参考意見でそう言っている裁判官もいたので。
小原 うーん。そうですね。
三浦 もう服装すら、おそらく関係なくなっちゃうかもしれない。意思を有すればいいんだから、実際に女性らしくする必要はないわけですね。
で、その診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致しているもの、これもまた問題で、そもそもこの性同一性障害に関しては、一般に認められている医学的知見などない。それから性同一性障害が精神疾患ではなくなるので、「診断を必要とする」っていう部分は削られるだろうと思われます。性別不合って、単なる個性ですから。
小原 うーん。
三浦 妊娠しているかの診断があるわけだから、病気でなくても「診断」は可能ではあるんだけれど、流れとしては医師の診断がなくても、おそらく改正特例法には該当するでしょう。性別違和、性別不合さえあれば、有資格者になるということだと思いますね。
問題は、この第三条です。18歳以上であること、現に婚姻をしていないこと、現に未成年の子がいないこと、これは今のところ保たれているんだけど、この四と五が今回、違憲とされたわけですね。厳密には四だけですが、生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあることっていう、四が違憲とされたっていうこと自体、おかしなことではあるんですが。なぜならば、もともとこの生殖腺をなくす手術をしたい人だけが対象の法律なわけで、それをここに念のために書いただけの話だから。
小原 身体を変えたくないという人は、そもそもこの法律の対象外だったんですよね。
三浦 だけれども、やはりこうやって書かれていると、この法律の適用される対象というのは全国民、そして性別を変えたい人のすべてであって、そういう人たちに「性別を変えるためにはこういう不妊手術をしなければいけないよ」と制限しているかのように見えてしまうんですよね。でも、それは本当は違っていて、もとの生殖機能自体に嫌悪感を抱く人たちが対象だったわけだから。そういう人たちの便宜を図って戸籍の性別を変えさせてあげましょうって法律だった。それが読み替えられて論理が逆転して、すべての性別を変えたい人が対象の法律になってしまったんですよ。性別を変えたい人に不妊手術を義務付けている、それを条件としているかのような解釈に最高裁がお墨付きを与えてしまった。
小原 不思議な話。
三浦 そして四が違憲とされたということは五も違憲とされるということなんですね。女性だけが対象だったら、四だけ満たさない、すなわち生殖腺は生きているけれども、五だけは満たしなさい、外観は男性器を持っているかのような形にしなさいということが可能なんですよね。人工的にやることも可能だろうし、クリトリスが肥大するということもあり得る。
ところが、男性の場合には無理です。男性の場合には、四を満たさず生殖機能があるっていうことは、まだペニスがある、精巣があるということですから、精巣があったら外にぶら下がってるし、ペニスがあれば出っ張ってるしね。だから四を満たさなくていいということは、五を満たさなくていいということなんです。
小原 ふんふん。
三浦 だからこの改正特例法からは、四も五も削除されるということが決定ですね。
小原 そうなります。論理的必然です。
三浦 ただ、反性自認の活動筋の人たちに、五は残すという希望をつないでいる人はまだいる。ただ、それは無理です。
次の2ですが、「医師の診断書を提出しなければならない」は、先ほども言ったように性別不合と変わりますから、診断書は必要ではなくなるでしょう。病気ではないので。
(性別の取扱いの変更の審判を受けた者に関する法令上の取扱い)
第四条 性別の取扱いの変更の審判を受けた者は、民法(明治二十九年法律第八十九号)その他の法令の規定の適用については、法律に別段の定めがある場合を除き、その性別につき他の性別に変わったものとみなす。
女子トイレあるいは女湯に入れるかというのが今、一番問題になっているわけです。男性から女性へと、その性別の取り扱いの変更を受けた人は、ここに「法律に別段の定めがある場合を除き、他の性別に変わったものと見なす」。
公衆浴場法とか、そういうのを見ても、男女必ず分けなきゃいけないとか、生殖器の見かけで分けなきゃいけないとか、書いてないですよ。となると、これは法的に女性になった人はもう女性と見なされることになって、女湯に入っちゃいけないと言うことはできない。
小原 要するに、単純に女は女湯。男は男湯って書いてあるだけだとしたら、女は、とか男は、とかっていうのにもう厳密な定義がないわけだから、法的に女だったら、それは女ってことになっちゃう。それを危惧しているわけですね。
三浦 そうそう。だから最高裁はその心配を防ぐために、管理者の運用次第で決められるんだ、なんてこと言ってるんですよ。だけれども、そんなの無理な話で、「身体の特徴で男女は決めますよ。男性器のついている方は女湯お断り、男湯に行ってください」なんてことを、もし浴場の経営者が言ったとして、これは裁判になったら負けますね。
小原 施設の所有権とか管理権っていうのは結構、強いもんだって思ってはいるんですけど。なにせ、たった一人のために女客が全部いなくなるような営業はできないでしょう。だけど現実問題、「あなたの所有権や管理権で、そういうふうにしていいですよ」と言われても、事業者が常にそれができるかって話なんですよね。事業者はとにかく営業してるだけなんだから、揉めごとに巻き込まれるわけにはいかない。いざとなったら、法律に従いましたって言った方が無難に決まってる。
三浦 未来永劫、そんな常識、身体の見かけの区別で男女が区別されるんだという、いわゆる常識が通用する保証がないんですよね。
小原 男っぽい身体、女っぽい身体っていうのもアナログなもんで。判断がつきづらいような身体をもって、そこへ侵入しようとする者は必ず現れるわけですよ。男性に特徴的な身体であるとか、女性的な身体であるとか、いつでも明確に判断がつくものなのかっていう。特異であっても個別の事案で切り崩されたら、いずれ有名無実になっていく。
三浦 だから最終的に法律的な男か女になっちゃうんですよ。
小原 そうなると思いますね。
三浦 その法律的な女たちの中で、あなたはいいけど、あなたはダメっていう区別はできないですね。もしそれをしたらこれは違憲と必ずなりますよ。
法律に別段の定めがある場合を除きって、もうここに書いてありますから、その性別につき他の性別に変わったものとみなすわけですから、だから別の法律を作んなきゃいけない。
小原 事業者なんかが使いやすい、別の法律を作ればいいんですけど。
三浦 公衆浴場法とかを改正して、きちんとそこを書くということになるんですよね。
小原 でも結局、やっぱり生まれつきの染色体の性別に従って浴場は使うべし、となったら、いったい何のための特例法なのか、ってことになっちゃいますね。
三浦 だって、そういう社会的なところで女性扱いをされないようでは、法的に女性になった意味がないですからね。だから男性器があろうがなかろうが、こういう風呂とかトイレとか宿泊とかそういうところで、公的に女性に女性扱いされないようでは、この特例法の意味がないということですよ。
小原 まあ、そのための性別変更だっていう。
三浦 そうそう。非常に偽善的なことになってしまうから。
小原 ハンセン病のときもそうだけど、事業者にその場限りで都合が悪いことを押し付けるでしょ。だけど結局、そんなこと事業者ができるわけない。その人の下着を剥いて、スタッフ何人かでじーっと見て、男湯に入れていいか、女湯に入れていいかって判断するのか。それこそすごい人権侵害じゃないですか。
三浦 そうですよ。これはまあ、本当にね、考えてほしい。で、この法律に別段の定めうんぬんは、次にも出てくるんですね。
法律に別段の定めがある場合を除き、性別の取扱いの変更の審判前に生じた身分関係及び権利義務に影響を及ぼすものではない
女性スペースの話に限定して考えると、もともと男性だった人がこの特例法によって女性に戸籍を変更した場合、まず第四条の一においてこの法律に別段の定めがないがゆえに、男子トイレは使えることになりますね。それからもちろん女子トイレにも入れますね、女性だから。トランス男性の場合で言った方がいいかな。女性から男性に変わった人の場合は、これは法律的に男性なんだけど、法律に別段の定めがないので、公衆浴場法にはどういう人が男湯を使ってどういう人が女湯を使って、なんてことを定めてませんからね。女湯に入って構いませんよ、女子トイレ使って構いませんよ、もちろん男湯も男子トイレもOKですよ、となる。
小原 だから、どっちも入れるってことですか?
三浦 そういうことになりますね。
小原 そんな都合のいい。
三浦 もとの性別で暮らしてもいい、ということです。
小原 ということは結局、普通の女性もトランス男性もトランス女性も皆、女湯に殺到するってことになりますね。
三浦 まあ、女湯の方が心地いいでしょうからね。やっぱり女性から男性に変わった人で、特に手術してない人なんていうのは男湯に行くのはちょっと怖いでしょうからね。だからそういう人は女湯に入るってことですよ。
小原 そんなの怖がってて男になろうなんて、根性ないですよ。
三浦 だから男になっても意味がないんですよ。で、次の附則ですが、
この法律の施行の状況、性同一性障害者等を取り巻く社会的環境の変化等を勘案して検討が加えられ、必要があると認めるときは、その結果に基づいて所要の措置が講ぜられるものとする。
ところがこれ、実際もう20年ぐらい経ってるわけだよね、施行されてから。じゃあその後、性別変更した人は果たして幸せになっているかっていう調査が当然行われていないとおかしいですね、ここに「この法律の施行の状況・・・等を勘案して検討が加えられ」って書いてある以上。
小原 はいはい、はい。
三浦 これは最高裁が違憲判決を出したこの機会に、この特例法を使って性別変更した人と、してなかった人、特に手術をした上で性別変更した人と、してない人の比較をして、どちらがどれだけうまくいっているか、例えば自殺率の違いとか、そういった統計を出すべきですよね。この特例法をどのように変えるかっていう参考にしなければいけないので。この法律を施行した結果として20年間の間、もう一万人だか二万人だかいるわけですから。
で、面白いのが、
3 国民年金法等の一部を改正する法律(昭和六十年法律第三十四号)附則第十二条第一項第四号及び他の法令の規定で同号を引用するものに規定する女子には、性別の取扱いの変更の審判を受けた者で当該性別の取扱いの変更の審判前において女子であったものを含むものとし、性別の取扱いの変更の審判を受けた者で第四条第一項の規定により女子に変わったものとみなされるものを含まないものとする。
国民年金法のこの部分に関して、この特例法によって女性になったからといって女性とは扱いませんよってことが書いてありますね。これ不思議なんですね。いや、じゃあ男性に変わった人はどうするのって、これは書いてませんね、つまり国民年金法ってある意味、差別的な法律なんですね。
小原 男女によって年金が多少違うのは、ジェンダーによって差が出てるのを調整しているのか、それとも平均寿命の長さによって差が出てるのか、詳しい人に聞きたいですよ。
三浦 男女で違う扱いをしている法律というのは他にもあって、で、そういった法律はどんどん改正されていかなきゃいけないとは思うんです。そういう性差別的な法律がある以上、今、性別を変えることの意味はある、ということになってしまうんですよ。もし法律的にまったく男女が平等であれば、法律的に性別を変える必要っていうのはなくなりますよね。
小原 平均寿命は女が長いったって、例えば北海道に住んでる人より沖縄に住んでる人の方が平均寿命が長いんだから、って、そういう区別はないですもんね。
三浦 国民年金法等の一部を改正する法律(昭和六十年法律第三十四号)附則第十二条第一項第四号及び他の法令の規定で同号を引用するものに規定する女子には、女子に変更した人は当てはまりませんと言ってるんですね。でも男性に変わった人には当てはまる。
小原 つまり女子の場合には生まれながらの染色体に従った性別で扱われますよ、と。年金については。
三浦 うん。生物学的な性別に従う、と。
小原 なんか年金で、ちょっと我に返った、みたいな。
三浦 とにかく、こういうことになっている。これは先ほどの「法律に別段の定めがある場合」に該当するわけですよ。つまりこういう定めがあるから、他の性別に変わったものと見なさない、ということなんですね。これがこの特例法そのものに書いてある。特例法自体にこういう定めがある、と。
小原 前もって正気の部分がある。
三浦 問題になるのは以上のようなことで、改正されるときに第四号・第五号がなくなることは決定ですが、それだけ削った形で法律を実施することは、かなりまずい。性別変更のための要件なしになって、そうすると簡単に変われることになりますよね。しかも、この四と五が違憲ということになると、一、二、三にも影響が出てくるんではないかな。そちらも次第に違憲だということになってくるでしょうね。
四と五だけをなくした状態で平気だっていうのであれば、改正したものを適用すればいいと思いますが、まあ、かなり混乱を生むと思われるので、何を付け加えたらいいかってことだよね。新しい四として、何を付け加えますか、という話になりますよね。でもそれはちょっと思いつかないでしょ。
小原 うーん。
三浦 診断があるから大丈夫だろうと言ってる人は多いんだけど、二人以上の医師の診断ね。ただ、性同一性障害のときには厳格な診断という名目が立ったけれども、性別不合となると、本人が違和感があるって言うのであれば、もうそれで性別不合なので。診断っていうのはほとんど意味をなさなくなりますね。これは難しい問題ですよ。どうするんでしょうね。
小原 まあ、「あんた、女だって気がするのね」って、聞き取る役目をするのが、いちおう医師の資格を持った二人、それ以上の意味はないですよね。
三浦 そうなんですよ。これは見ものというかね、いつまでもグズグズと何の結論も出さずに続いていくと、その間は事実上、四と五は作動できない。四と五なしの特例法が非公式に通用するみたいな、そういう感じでいっちゃうんじゃないですかね。
これがまあ、現状で。最高裁が四と五を違憲としたわけだから、その部分が違憲ということは、この法律全体が違憲ということなんですよ、結局は。だから最善の方策としては、違憲である法律は廃止。当然ですね。
小原 うん。
三浦 廃止というふうに早々に決めて。で、これが廃止されるとはどういうことかというと、性別変更の制度がなくなるということです。性別の取り扱いの特例というものをなくすんですね。
小原 そうなるといいですね。
三浦 それが唯一の戦略、やり方だと私には思えるわけですよ。
ところがね、今の反性自認運動の流れというのは、女性スペースなんとか法とか、そういったものを別に作って、付け加えようとしてるわけです。
小原 でも最高裁は、この法律全体を廃止するということはあってはならない、とか言ってたよね。三浦さん以外の人々がやろうとしていることは、その最高裁の意見に沿ってるっちゃ、沿ってるわけでしょ。
三浦 そう。最高裁の意見そのまま、それに従おうっていう形ですね。ただ、それは無理だと思うんですよ。何を付け加えようが、要は生物学的な男性である限り、たとえ法律的に女性であってもね、生物学的に男性であるんだったら女性スペースを使っちゃいけません、ってことをやりたいわけです。でもそんなことをやったら、裁判になった場合、必ず違憲ってなりますから。
小原 今の流れ的に、争えばそうかもしれません。
三浦 社会的に女性として認められるっていうことと、法律的に女性として認められるっていうことは、後者の方が敷居が高いはずです。で、敷居の高い状態をクリアしているのに、敷居の低い社会的女性として認められるってことが満たされないとしたら、本末転倒ですから。法律的に女性として認められる人が、なんで単に女性トイレを使うとか、女湯を使うとかって社会的なレベルで拒絶されるのか。法的に女性であるにもかかわらず、法律以前の段階の社会的な生活において、女性として認められないのであれば、これは当然、基本的人権に反してますよ。
小原 最初は個別に争って、そういう争点は一般化されながら微妙になっていく。つまり営業する事業者の個別の問題から、女性スペースに関する法律自体が違憲ってことになる、ということですね。
三浦 そう。今は最高裁は、要件を付け加えればいい、とか言ってるけど、どんな要件を付け加えようが、どんな新しい法律作ろうが、法的女性の中から一部を排除するような含みを持つ限り、必ず違憲となりますよ。
小原 てゆうか、そしたらさっきの、特例法の附則にあった年金のことだって、法的女性になったのに女性用の年金をもらえないのは違憲だって言う人が出てくる。そしたら附則も違憲になるけど、金が絡むとモメるぞー。
三浦 だから、論理的整合性のためには、この性別の取り扱いを変更できるという制度をなくすしかないと思うわけで。しかも今が唯一のチャンスなんですね。もし性別変更の条件を緩めた形での新しい特例法が発足しちゃったら、そこから特例法自体をなくすのは非常に難しくなる。今ですよ。なくすんだったら今なんです。今なくさなければ、時期を逸することになるでしょう。で、これに関してですね、滝本太郎弁護士に聞いてみたんです。
小原 おー、滝本先生。
三浦 滝本太郎氏は「女性スペースを守る会」で今、特例法は緩められちゃったけれども新しい法律で女性スペースを守ろう、女性スペースを守れれば目標達成、という立場のようなんですね。ただ、それで果たしてうまくいくでしょうか。
小原 弁護士さんの立場からは、違憲にならない、そういう法律があり得るってお考えでしょうから、もしそういう手法があるならば、ご意見を聞きたい感じ。
三浦 そうそう。それでね、こういう答えが返ってきました。これは滝本さんの言葉そのままの引用ではなくて、私がまとめてみました。
特例法廃止の影響について法律家の教示を仰ぎました – 三浦俊彦@goo@anthropicworld
最高裁で四号が違憲とされたということは、性別の取り扱いの変更の権利を保障する法律ができたも同然だ、ということらしいです。つまり最高裁の違憲判断というのは新たな法律を作ったのと同じような効力を持つと。つまり、手術なしの性別の取り扱いの変更というものは憲法上の権利であるとして認められたんだってことですね。特例法を廃止すると、性別の取り扱いの変更の法律がないということになる、それ自体が憲法違反になるんだ、ということらしいんですよ。
小原 なるほど。
三浦 で、特例法がない状態っていうのがもし続いたとして、そこで性別の取り扱い変更の訴えが起こった場合はどうなるかっていうと、裁判所は戸籍法百十三条によって、これは先ほど言った、性分化疾患の人が自分の本当の性別はこうでしたと訂正することができるわけですが、その戸籍訂正として性別の取り扱いの変更を認めることがまず確実でしょう、と。
小原 はい、はいはい。
三浦 そうすると、本来これは性分化疾患のための性別訂正の百十三条なんだけれども、性分化疾患以外の人にもこの戸籍法百十三条の準用をしなければ人権侵害になる、と理解されると。
小原 うーん、そうか。
三浦 そうするとですね、これはセルフIDと同じになるということですね。もう自己申告で、どんな人でも戸籍法に訴えて、性別訂正するという。最初は性分化疾患に準ずる性同一性障害にのみ適用すると言うかもしれないけれど、だんだんそれが崩壊して、もうセルフIDが事実を確立してしまうと。だから特例法を廃止するというのはセルフIDに道を開くことになるんだっていうのが、滝本さんの見解なんですね。
小原 やっぱプロっぽいなぁ。
三浦 でも、果たして滝本さんの言うとおりなんでしょうかね。
小原 そうですね…。百十三条の準用がセルフIDとして広がってしまうリスクと、女性スペースに関する法律ができてもそれが違憲だとされてしまうリスクは、パラレルだと思うんですよね。どっちも可能性としてはあり得るっていう。
三浦 それそれ。だから法律で正式に認めるのか、それとも裏から事実上、無政府状態で認めてしまうかの違いなんですけどね。
ただ裁判所による違憲判断っていうのは、もう法律の創造だ、というのは私にとっては新しい考えで、なるほどと思ったんですが。
小原 だってさ、司法試験の受験生って、六法だけじゃなくて、重要な判例も暗記しますもんね。
三浦 ただ、最高裁の言うこと全てに立法府が従う義務があるわけじゃないでしょう。
小原 三権分立ですから。
三浦 滝本さんは弁護士で司法の人だから、最高裁判断の効力を重く見過ぎ、ってことはないかなあ。最高裁判断の内容そのものについては滝本さんは徹底的に批判しているだけに・・・。
小原 違憲という結論は揺るがないでしょうけど。
三浦 その違憲ということの根拠から考えるなら、私の見解では、まず大前提として性別の取り扱いの変更の意義というのは、社会改革が進めば減少するということです。男女差別というものがなくなっていけば。
小原 でもその夢ってさ、なんか、昔の共産主義の夢みたいなのに近いかもしれないですよ。
三浦 近いけれども、性別の取り扱いの変更をむしろ奨励するような制度は、社会改革を諦めてることが前提じゃないですか。
小原 確かにそう。そこのオブセッションをなくす方が、もちろん健康ではある。
三浦 それだったら、性別の取り扱いの変更で当事者に利益がない場合、その制度がないことは権利の制限にならない。より厳密に言うなら、百十三条による戸籍訂正と、特例法による性別の取り扱いの変更は、論理的に意味が違います。訂正と変更っていうのは全然、意味が違う。つまり性別の取り扱いの「変更」をできなくさせるっていうのは、重要なことだと思うんですよ。
小原 論理的には、まさしくそうです。
三浦 訂正というのは裏口から、ゲリラ的なやり方ですよね。そのやり方で認められちゃうって滝本さんは心配してるけど、それは限界があると思うんですよ。だって嘘なんだから。その嘘で切り抜けるっていうのは限界がある。
小原 変更とは、それまで自分が例えば男であったことを認めつつ、その時点からわたしは女になるんだっていう宣言ですよね。戸籍訂正ってのは、そもそも生まれたときに男性器がなかったんだけれど、あると誤認して男として出しちゃいました、とか。どう誤認するんだって追及されたら、嘘っちゃ嘘ですよ。
三浦 そうです。生まれた瞬間は紛れもなく、その本人の認識では性が未分化な状態です。
小原 生まれたときには性染色体による身体の特徴によって、確かに男であり女であったはずであって、生まれた瞬間にさかのぼって「心」に従って訂正するっていうのは、論理的には確かにちょっと無理があると思う。
三浦 そうそう。だけど、まあ、おそらく心の性別は生まれたときから女でした、とかね。だから訂正なんです、って言い張るに決まってるんだけどね。
小原 そりゃ言うに決まってるけど。
三浦 でも、それはどうせ嘘なんだから、嘘で何とかやりくりするっていう状態であれば、いずれ逆転もできるわけですよ。
だけど、変更を特例法で正式に認める状態になっていると、まさに今がそうなんだけれども、堂々と変更しますよね。そこに嘘はないから。でも訂正ってのは、事実の確認が必要ですよね。
小原 そこは大きな違いではある。だって、この時点まではわたしは男でしたが、って認めることと、わたしは実はもともと女だったんですって言い張るってことは別物ですから。
三浦 そうなんですよ。これは非常に哲学的な問題でもあってね。訂正と変更は全然違う。「もともと」、というのがどの時点であったか、この確認が必要になるのは訂正です。
小原 やっぱり男に戻りたい、というときは、どうなりますかね。二回訂正するわけですよね。生まれたときに男性器が付いていたように錯覚したんだけど、実はなかった。でもやっぱり、よく思い出したら付いてました、っていう。そんなの通用しない、となったら戻ることはできなくなる。それも辛いんじゃないですかね。
三浦 まあ、精巣とか卵巣とかだと錯覚はありうるね。ペニスの場合には錯覚はないけど。
小原 錯覚しました、って言い張るったって、あまりにもあり得ない言い訳は、さすがの最高裁だって却下してるし。光市母子殺害事件のときだって。
三浦 それで戸籍法百十三条を使った裏技っていうのは、実は特例法があろうがなかろうが使える。今もそのやり方でやってる人、いるらしいんですよね。
滝本さんが言っているのは、特例法がない場合は百十三条が使われるということだけど、その二つは二者択一でも何でもない。戸籍法百十三条による裏技は常に使えるので、だったら特例法をやっぱりなくした方がいい、ってことになります。
小原 まあ、戸籍法を使う裏技が一般化してしまう、という心配なんでしょうけど。
三浦 裏技が増える、っていうね。ただ、性別変更自体は激減すると思いますよ。そんな無理のあるやり方で性別変更する人がどれだけいるか。
小原 それはだって、変更できないんだから。戸籍を一からいじるってことになると、ハードルは上がるでしょう。
三浦 ハードルを上げるべきだと思う。戸籍法には「性別訂正は性分化疾患の事例のみに適用すべし」というふうに、ちゃんと明記すればいい。これは微細な変更で、もともとそういうものだから、可能なはずですよ。もちろん性分化疾患以外にも、戸籍の記載そのものをミスしていたってこともあるかもしれない。そういう訂正ができる場合を明記すればいいと、私は思います。
要は性別変更を体系的に認める社会、つまり特例法がある社会と、性別訂正の準用で個別に補足的に行うしかない社会とは、「性別」の重みが大違いだということです。性別変更を認める社会っていうのは性別を非常に軽く考えているということ。
小原 ただ、性別変更できない状態そのものが違憲になるって、滝本さんは危惧しておられるんでしょ。
三浦 そうなんですよ。そこで次に行くんですけどね。原理主義的すぎるかもしれませんが、そもそも性別変更は当事者に利益をもたらしているという前提が正しいのか。そんな疑わしい前提を認めてしまうから、性別変更できないことは違憲だ、って話になるわけですよ。
小原 あー、そこへ行くのね。法益がないっていうんだっけ。
三浦 利益をもたらさないんであれば、利益をもたらさない制度がないからといって違憲にはならないですよね。だから性別変更は当事者に利益をもたらしているのかどうか、先ほど言ったように国はデータを公表する義務があるんですね。
今、生物学的女性と性別変更者との間に利害対立があるかのように言われている。でも、本当にそうだろうか、って話です。
女性スペースの確保、生物学的女性のみに確保するという、これが生物学的女性に安心をもたらすことは確実でしょう。一方、性別変更させて生物学的な性別とは違うスペースを使わせるということが、本人に利益をもたらすか、その心の安定をもたらすのかは、まだ調査中、いや調査も行われていない状態です。そもそも性別変更が当事者の利益になるのかって、実は疑問符がつくわけです。もしこれが本当に、生物学的女性に専用のスペースを確保することが生物学的女性当事者に安心をもたらすのと同じくらいの確率で、性別変更がその変更当事者に安心をもたらすのであればね、その確率が保証されているのであれば、確かに利害対立すると言えますよ。だけど、そんな保証ありませんからね。性別変更によって不幸になった人って、いくらでもいるわけですよ。後悔する人もいるし。そこがバランス取れてないんであれば、期待値計算すれば簡単なことで、性別変更の制度をなくした方が全体の幸福度が上がる。
小原 国の責任でデータを出すべきですね。性別不合の人で、性別変更をした人と、しない人の幸福度調査。
三浦 そう。性別変更させる法律がないことが違憲だというのは、憶測に基づいてるんですね。性別変更がその性別違和の当事者に幸福をもたらす、少なくとも不幸を防止すると。でも、そんなことは証明されていない。
小原 まぁ、自己決定権っていうのかな、80%が不幸になるとしても20%から10%は幸福になるチャンスがあることはあるならば、自己決定権をもらえないということ自体が違憲であるって言い出す可能性はありますよね。
三浦 言い出す可能性あるんだけど、自己決定権を与えることが判断を狂わせることもあるわけだよね。
小原 麻薬とかね。日本のような過保護社会で、性別変更の自己決定権のみ尊重するのは不思議ですよね。中絶薬ですら、当事者である女性の手に渡したがらないのに。
三浦 性別変更なんてトレンドなんで、当事者は自分の希望のおもむくままにしてもらった方がいいって無反省に思ってるけれど、そういうもんじゃないですよ。希望通りにして、その本人が良くなるなんて、ほとんどの人は前提にしてないじゃない。
小原 内心はね、うるさいからさせておけ、ぐらいの気持ち。自分は白人種なんだ、あるいは自分は実は犬なんだ、とかって言い張る人を見るような視線だと思う。わたしたちって、冷たいんだ。
三浦 そういうこと。だから、なんで性別のみ希望通りを認めるのか。人種の方がはるかに流動性があって、混じり合うことも簡単だし、生物学的にも境界線がないし。なのに人種の詐称はものすごく厳しく批判されるじゃないですか、欧米なんか。
小原 そうなんだ。
三浦 性別の方がよりはっきりした区分があって、紛れもなく分かれているにもかかわらず、人種に比べてなんで変更をそんなに簡単に認めるんだって話ですよ。年齢だってそうです。30歳と40歳の違い、20歳と50歳の違いですら、性別の違いに比べたら微々たるもんですよ。
小原 そう。女性はすべて36歳以下。本人の勝手だからほっといて。
三浦 だいたい、LGBっていうのは全然、病気扱いする必要がないし、差別されるいわれもない。他人の権利との対立もないし、だから当然、権利を認めるべきなんだけれど、そこにTをくっつけちゃったもんだからね。
小原 そういえば、そうだ。誰を、あるいは何を愛そうと本人の勝手だ。
三浦 Tっていうのは完全に錯覚に基づいているので、認知の歪みなわけですよ。LGBには認知の歪みはありませんからね。ある身体的特性を持ったカテゴリーの人を好む、というだけの話だから。そういう欲望に嘘はないんで。ところがTってのは内面の欲望ではなく、客観的な認知の話だから。じゃ、その認知の歪みを治せばって話なのに、それをLGBと同じに扱っちゃった。そこが間違いなんですよ。人権問題にしちゃったんですよね。
小原 LGBの人たちにとって、えらい迷惑ではないですか。彼らの人権問題に、Tの認知障害、医療問題が割り込んできている。
三浦 そういう原点に返るためにも、まずは特例法の廃止の機運を何とか盛り上げたいと思ってるんだけれども。そのように活動している人たちはいることはいるんだけど、少人数だし。マスコミにも訴えかけて社会を変える力として今一番見込みのある「女性スペースを守る会」がすでに、女性スペースをとにかく守る、という最低限のミニマルな目的へと後退しているように見えるんです。
小原 基本的には自己決定権というか、人の性別なんて人の好きにさせるんだけど、こっちに影響を及ぼさないでって、そういう感じですかね。
三浦 そうなんですね、女性の当面の切実な生存権の立場からすれば。ただ、部分的な陣地死守というのは無理なんだよね。全般的な問題だから。
小原 確かに無理そう。かといってラディカル、そもそも性別変更なんかさせていいのか、となると、ちょっと問題が大きくなりすぎるってことなんでしょうか。
三浦 尻込みしちゃってるというか、あえて悪く言えば負け癖がついちゃってるんだと思うんですね、あちこちの裁判でどんどんLGBT活動家の言い分が認められてきたもんだから、自信喪失してる。
小原 現実路線をとるしかない。
三浦 「女性スペースを守る会」を中心とした記者会見はたびたび開かれているし、それでテレビ、新聞も取り上げるようになったし、それ自体非常にいい流れで、あの辺りが特例法廃止に向かってくれると非常に頼もしいんですが、どうも、それをやると過激派扱いされてしまう。
小原 そうなるかもしれないですね。
三浦 気持ちはわかるんだけど。ただ、滝本太郎弁護士が中心になってやっていて、法律家だから、新しい法律を作るって大変なことだって知っているはずなんです。なのにそこまで後退しちゃったっていうのは崖っぷちというか。特例法そのものにせっかくケチがついたのに、そこを広げずに逆にフォローする法律、女性スペース法か何かで踏み止まろうっていうのは何か、元気がないというか。私は実務的な活動ができないから偉そうなこと言えないけど、市民運動の本質はやはり原理主義にあると思う。言論人はもちろん原理主義的でね。
小原 そうですね。わたしたちもそうで、何に対しても原理的ですよ。
三浦 市民運動もそうだと思うんですよ、だって素人の運動ですからね。テクニカルなところに後退しちゃったらさ、官僚とか政治家や議員の仕事ですよ。うまく通せるように計算して、ちょっとここは妥協して、このぐらいだったら確率的にこのくらいの法案だとか。駆け引きの結果、このあたりに落ち着きましたっていうのは、政治のプロの仕事であってね。市民運動ってのは、そうじゃなくて、理想を広げて原理を訴えて、大枠でもって世論を動かしていくべきだと思うんです。今ちょっとね、プロっぽい仕事になっちゃってるわけ。市民運動が。
小原 このトークの第一回から言ってるように、三浦さんもわたしも基本的に物書きなんで、物書きっていうのは原理主義的でないとダメなんですよ。だからそこは活動家の人たちと、どうしても違ってくるのかなと思いますけどね。
三浦 もちろん現実主義的な活動はいろんなことを成し遂げますよ。反原理主義でいいと思うんですよ、もう本当に実現するぞっていう。ただね、原理主義者の数が少なすぎるんですよ。やっぱり原理主義者が主体となって、一部の実働部隊が効率的に動いていくっていうパターンがいいと思うんだけど、原理主義者の全体が怖じ気づいちゃって、端正な振る舞いに自粛しちゃったかなっていう、そこは危惧されますね。
小原 滝本太郎先生は、オウム事件のときにテレビにかじりついて観ていたので、大変に尊敬申し上げているんだけども。
三浦 もうあの実行力はね、並みじゃないですよ。
小原 オウム事件のときの印象を重ね合わせると、滝本先生は、今現在すごく困っている人、身の危険が迫っている人をまず救わねばって。そういう思想もまた、その価値観からいうと、それはそれですごく原理的だってことになるのかもしれない。
だから「女性スペースを守る会」も何か原理的なものをたぶん実感してるんだと思うので、接点を見つけて協働していくのがいいんじゃないかと思いますけどね。
三浦 潜在的な原理主義ってことね。表立っての原理主義は確かに印象が悪いので、反発も受けやすいしね。
小原 あはは、そうそう。とにかく叩かれやすい。文学金魚も文学原理主義的でさ、純文学の制度も、大衆文学の制度も認めてない感じ。文学と思想のダイナミズムを原理的に追いかけてる。
三浦 核心においては原理主義的かもしれない「女性スペースを守る会」は非常に良い活動をしているんですが、ちょっとでも原理主義者の言うことに同調する気配を見せると、やはり会の支持者たちが失望の声を挙げるらしいんですよ。
小原 わかりやすいですからね。女性スペースを守るって。
三浦 そこに特化した方が、確かに賢明なんですよね。もし原理主義に同調して特例法反対とか言い始めると、果たしてこの人たち、本当に女性スペースを守る気があるのか、と。そんな大風呂敷広げて理想を唱え始めて、活動がポシャってしまうことを顧みない、そんなことになったら支持する価値があるのかと。
小原 あと、やっぱりトランスヘイトとは違うっていうことを常にアピールしていかなきゃいけないんだと思う。我々原理主義者はトランスヘイトと誤解される瞬間があるので、そこに接点を持ちたくないっていうのはあるかな、と思いますね。
三浦 そうそう、そうなんだよね。だからヘイターって言われる隙をなくしたいっていうのもある。「女性スペースを守る」を守っていれば、ヘイターと罵るやつの方がおかしいってすぐわかるし。
小原 特例法をなくすって、要するに性別は肉体のものだから、そもそも変更はできないんだってロジックで言ってるとしても、性別変更したい人たちの自由を奪おうとしているヘイターだと思われちゃいますもんね。
でも、その人たちが本当に幸せなのかどうか気にかけているのは、実はヘイターと呼ばれる方だけだ、って大声で主張するかはともかく、少なくともそういう注意喚起をする誰かは必要なんじゃないか。
三浦 確かに、現実主義者の方々が中心で目立ってるっていうのは、いいことなのかもしれないんですよ。
ただ問題はですね、そのせいで特例法反対派がやっぱり過激派だと思われてしまうわけ。特例法では少し後退を強いられたけれども、他の法律でやりくりしましょうという「女性スペースを守る会」の滝本さんたちと分断されちゃってる。で、お互いに喧嘩まではいかないけど、ちょっとね、悪い印象を持ってるみたいなんですよ。
小原 あー、なるほど。
三浦 ここはね、非対称性があると思っていて。穏健な活動が大きくなってくると、原理主義者たちの理想実現はどんどん遠のくじゃないですか。原理主義者にとっては、反原理主義者が勢力拡大すると非常に不利になる。
小原 ふんふん。
三浦 ところが反原理主義の人たちは、原理主義者の声がでっかくなってくればくるほど、むしろやりやすくなるんですよ。
小原 あそこまでは行かないんだから、せめて穏健派は信用しよう、みたいな。
三浦 そうそう、あんな過激なことをやってない、この穏健な人たちに頑張ってもらおうって、好感度が増すくらいでね。
小原 穏健っていうか、本当に女性スペースを守りきれるんだったら、それはそれで大賛成なんだけど。原理的にあやふやのままだと結局、女性スペースも守りきれんのじゃないかと。
三浦 だから原理主義者たちの過激なデモ行動とか、そういう活動は応援した方がいいんですよ、反原理主義者・現実主義者こそが。だってその利害関係がさ、非対称的なんだから。
小原 あはは。
三浦 他方で、原理主義者が反原理主義者の方に文句言うのは、しょうがないんですよ。だって自分たちの理想がどんどん阻害されていくんだから。現実派の方は、根本的な解決はやっぱり原理主義の方にあるってことは常に自覚した方がいいんじゃないかと思います。性別変更なんて無理だっていう主張をとった方が根本解決になるわけですから。そしたら反原理主義者の言い分なんて自動的に通るわけだから。
小原 まあね、わたしたち物書きはやっぱり頭でっかちというか、ロジックで考えて結論がこれしかないっていうと、そこへ最初から行っちゃうけど。世の中の大半の人たちはそうではなくて、一歩一歩、現実に起こることを確認しながら進む。まあ、そういう人たちの方がまともと思われるってことだとすると、「女性スペースを守る」ことをとにかくやったらどうか、と。で、何ができて何ができないのかがわかってくると、結局は原理的なところに徐々に近づいていく可能性もあると思うんですよね。
三浦 だから両方ある状態がいいので、お互い対立しない方がいいと思いますね。
小原 そりゃそう。昔、ケプラーの弟子が、師のところへ行って「これこれこういう研究をしようと思ってるんですけど」って言ったら、「それはきっとこうなるよ」ってケプラーが言って、それで何十年か経って、結局はその通りになったって話があって。ケプラーの先見の明はすごいっちゃすごいけど、だけど、そうなるってことを何十年かかけて確認していくっていうのも、一方ではやっぱり必要なわけで。だからスペースを守るって活動もやってもらって、そこで負けが込むなら負けるなりに、何かしら原理を発見していく。その過程って必要なんじゃないかなと思いますけどね。
三浦 そうね。とにかく現実主義は確かに、あらゆる活動の中心になきゃいけないっていうのはあるんですよね。ただ問題はね、別の方法で同じ目的を追求する人たちに悪い感情を持つ人が結構いるみたいなんですよね。
小原 運動の中で、そういう人間関係的な何かが紛れ込むとか、まあ、ない方がおかしいじゃないですか、それは。
三浦 絶対無理なんでね、純粋には。だから別の動機で合流してくる人たちを包摂してね。それこそ多様性ですよ。互いに相容れない動機で動く人たちが一緒になって、一つの目的を追求する「一点共闘」とか、よく言うけどね。
だから違う目標を持ってていいんだけど、女性を守るという目的を強く持たないまま、その意識が薄いまま、自分たちの中に入ってくるやつはミソジニーだからけしからん、と言う人も反性自認派の中に珍しくないですよね。
小原 いろんな人がいるからねえ。
三浦 私もそう言われたことがあってさ。本当は三浦はミソジニストだ、と。反性自認ということで同じような顔をしているけれども、動機が違うから、つまり理論的な興味とか、好奇心とか、そういった知的な興味でやってるから三浦みたいな変態はダメなんだ、排除しろ、とか言われたことが再三あるわけなんですが。
小原 わたしよりはフェミニストだよ。それは保証する。わたしも長年、女やってるからわかる(笑)。
三浦 ありがとうございます(笑)。でも、ミソジニストや理論家や変態が混ざっているというのがむしろ運動の強みだと思うんですよ。千差万別の輩が同じ目的を追求するってことは、それだけその目的がいろんな方面から追求するに値するものだという証拠になるわけじゃないですか。だけど女性の権利を守るんだっていう明確な理由で結束しないことには気が済まない、別の思惑を持って合流するなんていうのは耐えられないという人も結構いて。
小原 うーん。
三浦 それによって離れちゃったりする人がいるわけですよ。例えば三浦がいるんだったらもうやらないとか、三浦みたいなやつと一緒にいて平気な人たちとは一緒にやっていられない、とかね。そういうのがあるから間接的に人に迷惑をかける、ってなっちゃうわけ。
小原 そういうのは付き物だからさ、どこにでもある話だよ。だけど今、相対的に不利な立場にある組織が仲間割れしてる場合じゃないと思いますけどね。
三浦 目的としていた活動よりも、身内での好き嫌いとか、そういったことが優先しちゃう一部の人たちがいるんですよね。
小原 ほんとの敵はどこにいるんだ、って。
三浦 そうそう。非常に困った話でさ、戦争中の陸軍と海軍の対立みたいなもんだよね。海軍がさ、自分の敗北を陸軍に知らせていないわけですよ。それで海軍が隠蔽していた情報を知らずに陸軍が作戦を進めて、それで惨敗してしまう。
小原 この運動の、敵って誰かよくわかんないけど、とにかく敵を利することになるんだけどね。
三浦 今は、特例法をめぐる意見の違いというのが一番大きい分断かな。内心では、特例法なんか無い方がいいと思っている人は多いと思うけど。
小原 まあ、原理主義者としてはもう確かに、性別変更をしたいなどと誰も思わない社会を実現するのが一番いい、と言い続けるしかないですね。
三浦 そう。個別的には心理療法で治すしかない。心理療法で考え方を変えて、男とか女とかっていうレッテルをどう付け替えても結局、あなたは身体からは逃れられないでしょう、と。だから身体という唯一普遍の万国共通の区別に従ってラベルをつけるしかないでしょう、って考え方へもっていく。それしかないんですね。
小原 ラベルをつけるべき場面ではそうだし、でも、それはラベルにすぎない。本質的には、あなたはあなたなんだから、って。自分は自分なんだって確信を持っている人は、ラベリングにそんなにこだわらないんじゃないか。
三浦 皮肉なことに、性別変更を奨励する人たちは、「自分らしく」とか「本来のあなた」とかって盛んに言う。だったらカテゴリーにこだわるな、って話ですよ。
小原 カテゴリーも何も、自分自身を中心に考えてれば、いいじゃないですか。
三浦 あなた自身が個性優先って言っているじゃないですか、個性優先なんだから男だの女だのノンバイナリーだの、そんなラベルどうでもいいじゃないですか、個人レベルでやっていきましょうよ、ってことです。
小原 わたしは美しい男なんです、って言ったとき、その美しい男である個性的な存在をわざわざ女というカテゴリーに押し込める必要はもうないと思うんですけどね。ボーイッシュな女の子も、それ自体として可愛いんで。
三浦 それは再三、口を酸っぱくして言っている。で、挙げ句の果てにノンバイナリーなんていう滑稽なカテゴリーに自分を入れようとする人たちがいるわけ。
小原 カテゴライズを拒否する人々のカテゴリーなのね。
三浦 だって全員がノンバイナリーでしょ。身体はバイナリーだけど、心ってのはノンバイナリーだからさ。皆、最初から最期までノンバイナリーですよ。
小原 あのね、たぶん最近の日本で、一番深く源氏物語を理解していたのは谷崎潤一郎ですよ。その理解は、男性の研究者がよくやるように光源氏という登場人物を通してではなく、女性たち、また作者である紫式部の視点に沿おうとしていた。そういう意味では、特に優れた資質を持つ男性の一部は女性的であって、女性の一部は男性的であって当然じゃないですか。そもそも人が書いたテキストだけを読んで、書き手が男性か女性かを確実に当てることも結構難しいわけだし。
性別というものについて、審級を上げて抽象化することで、わたしたちのマインドは実はそんなに肉体に縛られてない、ノンバイナリーだってことは、よく見えてくると思うんですよね。
三浦 そうそう。肉体と心は、そんなに一対一で対応してるわけじゃないんだからね。
小原 文学の役割っていうのは、そういうことを見えやすくするってもんじゃないかなと思ってるんですよ。
三浦 まさにね。だから人間は皆、ノンバイナリーなんだけれども、明らかに男性性・女性性という二極化された、抽象化されたものがあることを率直に強調するのが文学。それが文学や芸術の美を構成してるわけね。だって女性らしさ、男性らしさみたいな雰囲気がなくなったとしたら、ものすごくわびしい世界になるよ。
小原 女性性・男性性の軸はあるんです。わたしが推奨する「テキスト曲線ⓒ」では(笑)、X軸とY軸がある。
だけど個々の存在は軸の上には載らない。漸近的に近づいていくことはあっても、理想的な百パーセントの男性とか百パーセントの女性とかいうのは存在しない。そんなものは村上春樹のくだらない小説にしか出てこないんで、人間のマインドはそのグラフのどこかに位置しているわけだけど、その位置にはX座標とY座標、つまり女性性と男性性の両方の要素があります。
三浦 だから皆、ノンバイナリーですよね。そして個人の特性と、抽象化された属性というものをいったん切り離して考えないといけない。
小原 そうです。女性性という抽象的な性差、すなわち連続的なアナログ属性と、肉体的に女性であるという単純でデジタルなカテゴリーも別物です。その審級をごっちゃにするから、わけわかんないことになる。ある人の「性」を言うとき、それが単純な身体的性別を指しているのか、抽象的な女性性・男性性の性差の度合いを指しているのか、っていう混乱ですよ。
昔、「女性」という言葉が出てきたとき、どちらか区別をつけるために、抽象的な「女性性」と思しきものにアスタリスク*を付ける、ってことをしてましたよ。なかなか有効なんでね。
三浦 だから突き詰めれば、「個人の性別」というのは結局、肉体の性別でしかないということに落ち着くはずなんですけどね。
小原 そう。日本生まれとか、アメリカ生まれとかと同じで、しかも混ざることも二重になることもめったにない。そういえば昔、バブルの頃に六本木辺りで遊んでいる連中の「血中ガイジン度」って流行ったけど、マインドとして抽象化されると、連続的に変化する。ガイジン度も(笑)。
三浦 その辺りの認識が基本、皆一致しているはずなんだけれども、表面のところで対立が生じてしまっている。原理主義へのドライブを抑えざるを得なくなっているということで、反性自認派の活動は岐路に立っていますよ。
小原 たぶん時間が経つと集約されていくので、波はあっても原理に収斂されますよ。
三浦 穏健な予測としては、現実主義者が女性スペースを保持する仕事に専念する、原理主義者は空回りしている、そういったことでずるずる動いているうちに世間では女装男の犯罪がいろいろと報道されて、もちろん偏見も生まれるかもしれないけど、その積み重ねでだんだん性自認派がしぼんで、世の中が正常になっていく、と。
あのススキノの事件も結局、被害者の女装男が、加害者の娘の動画を撮って脅しっぽいことをやっていたことが明らかになっているらしい。
小原 それについてもし本当なら、被害者であっても許し難いですね。
三浦 覚醒している人たち、自分たちのやり方が文字通りにはうまくいかないということに気づいてきている人たちもたくさんいるみたいですが。要はLGBTというスローガンがデタラメで、Tは全然違うということですよ。
小原 文学者としても、LGBについては普通に恋愛小説が書ける。でもTについては医療問題ですよね。問題が本人の認知の中に閉じているから、他者との利害の対立はあっても、本質的な他者関係性はない。小説になりにくい(笑)。
つまりLGBとTは別物。これが2023年の結論、ですね。
■参考資料■
性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律 | e-Gov法令検索
特例法廃止の影響について法律家の教示を仰ぎました – 三浦俊彦@goo@anthropicworld
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*『トーク@セクシュアリティ』は毎月09日にアップされます。
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