妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
永子の三歳の誕生日が来た。
肝心のプレゼントは、予想通りマキが提案していたおもちゃの化粧セットに決まり、二日前から、押入れの天袋に丁重に仕舞われている。
ちなみに俺が提案していた三輪車は、二ヶ月後に控えたクリスマスのプレゼントに採用された。枕元には置けないよな、と尋ねると「気が早いわよ」と笑われたが、きっと二ヶ月なんてあっという間だ。すぐに正月が来て、春になって、永子は幼稚園に通い始める。そう訴える俺に「そんな年寄りみたいなこと言わないでよ」とマキは呆れていた。
何も言い返さなかったのは納得したからではない。今でもその辺りの感覚は違うんだなと半分感心し、残りの半分は密かに驚いていた。
もちろん永子が産まれる前のようなズレではないだろうけれど、やはり俺たちには明らかな差がある。マキは自分の身体の中で十ヶ月育ててきたが、俺はその数年前に強の父親になっていた。その時点では何も知らなかったけれど、今は違う。幼い強が過酷な闘病の末に亡くなったことを知っている。コケモモには申し訳ないが、俺も何ミリか、いや、何ミクロンかはあの子の、強の父親だ。ゼロではない。
過去二回の誕生日は、横浜のマキの実家に顔を出した。今年もそれは変わらない。マキの両親は喜んでくれるし、「ちゃんと行ってくるのよ、あんたたちだけの話じゃないんだから」としつこかった俺の母親も一安心。「店のことは心配しないでいいからね」と、朝の九時に見送られながら家を出た。
目指す駅は横浜市営地下鉄なので、JRを乗り継いで横浜に出れば早いが、俺は毎回、東京駅から新幹線に乗って新横浜まで出る。二十分弱のささやかな贅沢だ。何の意味があるのよ、と内心思っているかもしれないが、マキも特に文句は言わない。今日も永子を膝の上に乗せて、窓の外を見せながら二十分。
「パパちゃん」
「ん?」
「これ、みたことあるね」
「おお、去年な。前の誕生日のこと、覚えているのか」
「うん。しんかんせん」
永子が過去の出来事を覚えている姿は、いつ見てもワクワクするし、実は少しだけ涙腺が緩んでしまう。新しい言葉を話したり、身体のサイズが大きくなることよりも、よりストレートに成長を感じられる気がする。
「あれだね」
「?」
「来年は本当にどこか旅行に行ってもいいわよね。一泊二日くらいでさ。名古屋辺りならすぐじゃない」
そんなマキの言葉に「そうだな」と返したものの、そこまで乗り気な訳ではない。旅行は疲れる。どうせ行くなら永子がもう少し大きくなってからの方がいい。ただ東京駅のホームで新幹線に乗り込む前、京都までは二時間半くらいだったなと考えていた。それだけではない。ヤジマーが住んでいるうちは、「奈良に行ってくる」という口実も使える――。今日三歳になったばかりの永子を抱っこしながら、そんなことを企んでいた。
駅からマキの実家までは歩いて七、八分。今日は永子のペースに合わせているから、倍以上はかかるだろう。俺は正月ぶり。マキは永子と一緒に何度か顔を出しているはずだ。訊いてみると五回。両国との距離を考えると、ちょっと少ない気がする。永子に会いたいと思ってくれているなら尚更だ。そう伝えてみたが「そう? ちょうどくらいじゃない?」と素っ気ない。
「そうかなあ……」
「ほら、私もなんだかんだで忙しいからさ。じゃあ代わりに行ってくれる?」
そう切り返されると厳しい。俺はいまだにあの体育会系の義父が苦手だ。前に出ると緊張してしまう。娘の頭を撫でながらモゴモゴと答えあぐねている亭主を見かねて、マキの方から話題を変えてくれた。
「あの人、またあの話すると思わない?」
あの人、は義父。あの話、は家を建てたばかりの頃、この辺りはまだ開発が進んでおらず、夕方になると真っ暗で人通りもまばら。変質者が出没し、実際に被害者も出たので、安全を最優先に考えて、マキも姉も髪の毛を男の子並みに短くさせられていた、という話。確かに去年も一昨年も、何なら結婚前に訪れた時もしていた気がする。
「まあ、するかもしれないなあ」
「何かさ、ボケ始めたみたいで不安になるんだよね」
「そりゃある程度、歳を重ねたらさ」
「だってお義父さんはしっかりしてるじゃない。さすが元塾の先生って感じ」
「あまり喋らないから、ボロが出ないだけだろ」
我ながら良い答えだと思ったが、マキはあまり納得していないようだった。
いつも通されるのは大きな和室の客間。永子は畳がお気に入りらしく、だらしなくうつ伏せで寝そべっている。
「遠いところ、悪かったね」
上下グレー、アディダスのジャージ姿の義父に「いえいえ」と頭を下げる。緊張はするが、あらかじめマキが二時間くらいで帰ると伝えてくれていたので気は楽だ。ゆっくりしてくださいね、と繰り返す義母はハキハキとしていて姿勢も良い。数十年後のマキもこんな感じだろう。
義父はビールを飲んでいたが、あえて俺にはノンアルコールビールを勧めてくれた。わざわざ用意したのかもしれない。別にアルコールを入れても構わないが、今日の主役は永子。俺が気分良くなっても仕方ない。
ただその主役が畳の上ですやすや眠ってしまったので、結局義父とサシで話し合うことになった。話といっても大体彼に仕事のことを訊かれて、それに答えるだけ。そして今日は例の昔話を聞くことはなかった。
途中、耳に入ってきたのはマキと義母との会話。離婚して間もないリッちゃんの母、つまりマキの姉に最近年下の恋人ができたらしい。わざわざ俺に聞かせるつもりはなかったと思うが、二人とも声が通るせいで筒抜け。そのトーンから義母があまり歓迎していないこと、そしてマキが同調していることは分かった。
リッちゃんはたまに店に来て、永子の相手をしてくれる。小学生の頃と変わらず見た目は大人びているが、別に浮ついても不良じみてもいないし、クラスでは目立たない方かもしれない。ひとり、叔母夫婦が営む喫茶店に来て、まだ小さないとこと遊ぶ中学生には、何か別の思惑があるのだろうか。
数年前、人を殺したくなったことがあると打ち明けたリッちゃんの横顔を思い出す。彼女はまた新たな闇を抱えているのかもしれない。今度またトダの店に連れていこう。俺にできることはそれくらいだ。でも永子からすれば、それも夜遊び。お土産のスイーツは必要になるだろう。
去年と同じく「こども商品券」をいただき、「次はお正月にね」と見送られながらの帰り道、「今日は昔話、出なかったぞ」とマキに振ったが「一度出なかったからって、安心しちゃダメよ」と手厳しい。リッちゃんの母の話を聞きたかったが、あえて首を突っ込むのもなあと躊躇しているうちに駅へ着いた。
畳の上で睡眠を取ったおかげで永子は元気だ。抱っこをしようと身体を持ち上げると、手足をばたつかせて「あるく、あるく」と抵抗する。両腕にブルブルと伝わる、小さいけれど完成している三年目の命に一瞬気が遠くなった。
マキが選んだレストランでケーキを食べた後は、動物園へ向かった。野毛山動物園。マキが小さい頃に、よく連れて来てもらったという。
「前はね、ラクダもいたんだよ」
永子に話しながら園内を巡るその姿を見ていると、もしかしたら夢だったのかもしれないと思えた。子どもの頃に来ていた動物園に、いつか自分の子どもと来てみたい。実はそんな夢を今叶えているところなのかも。
「なあ」
「ん? 何?」
「いや、いいや」
どんな風に尋ねたらいいのか分からず引っ込めると、「おかしなパパちゃんねえ」と笑われた。こんな出来事も永子の中に積み重なり、いつか思い出してくれるのだろうか。動きの鈍いライオンを眺めながら、そんな事を考えていた。
家に帰ったのは夕方過ぎ。永子は眠そうだったが、プレゼントの化粧セットで一気にテンションが上がった。小さなメイク道具をひとつひとつ確認する度に「わー、かわいい」と歓声をあげ、時折マキに「これ、なーに?」と尋ねている。
「やっぱり女の子ねえ」
「ああいうの、貰ったことあった?」
「えー、どうだったかしら。家にはあったような気がするけど、あれ、お姉ちゃんのだったかなあ……」
なんだ忘れちゃったのか、と笑いながら階段を下りる。店はそこまで混んでいなかったが、エプロンを着けて両親を手伝った。
「今日はいいわよ。疲れてるんでしょ?」
「いや、そんなに疲れてないから大丈夫。後はやっておくからさ」
「それはいいけど、あんた、向こうのご両親はどう? お元気だった?」
マキの実家での様子を母親に伝えてから、テーブルの上に残された食器を片付ける。カウンター越しに父親へ渡すと「ちょっといいか?」と声を潜めた。
「ん? 何かあった?」
「いや、誕生日用にな、フルーツケーキを作ったんだけど、まだちょっと早かったか?」
「おお、ありがとう。で、早いって何が?」
「ほら、ラムを使ったりしたからさ」
ちょっとなら大丈夫だろ、と言うと「いや、一応ここに材料は全部書いてあるから、後でマキさんとチェックしてくれよ」とメモを渡された。改めて「ありがとう」と礼を言った後、なんとなく照れ臭く「フルーツケーキなんて作れたんだ?」と訊くと、父親は苦笑いを浮かべた。
「お前、忘れたのか? 小さい頃、喜んで食べてたじゃないか」
母親によると俺や兄貴、姉貴の誕生日だけでなく、クリスマスにも作っていたというが、まったくピンとこない。マキの化粧セットと同じだ。忘れちゃっている。
今日、永子の中に積み重なった思い出も、案外儚く消えてしまうのかもしれない。
(第25回 了)
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