女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
もう一つのハイライトシーンについては、少し前から何となく分かっていたし、実際その予想は間違っていなかった。ひめゆり学徒隊が絶命し最期を迎えるシーンだ。
撮影の日程が近づいて来るにつれ、具体的な情報が少しずつ入ってくるようになった。「どうやら撮影場所はふたつあるらしい」という話が、「壕の中か、海の中らしい」と具体的になり始めた時、おチビちゃんは強く祈った。絶対に壕の中になりますように!
元々水が苦手な身として、それはごく自然な願いであり、どうしても守りたい一線だった。だがしかし、である。やはり人生は思い通りになってくれない。数日後おチビちゃんは、安座間京子が海で最期を迎えることを知らされる。何でよりによって、と落胆したものの、こればかりはどうにもならない。
――こうなったらやるしかないのよね。
そう決意して日々の撮影に臨むうち、気付けば世間は年の瀬ムード。クリスマスが目前に迫ってきた。沖縄の冬は晴れ間が少なく、天気が崩れやすい。もちろん撮影のスケジュールは大きく左右される。それでなくても最近は予定の変更が多く、共演者同士で「年が明けるまでには帰れるのよね?」と半ば本気で確認し合ったりもした。
おチビちゃんが懸念していた海のシーンも、現場までは行ったものの天候不順を理由に中止が決定。これが自然相手の難しさだ。しかも一日だけはない。なかなか天候が回復しない「太陽待ち」の状態で、翌日も撮影は行えなかった。
タイムリミットは明日、十二月二十七日。明後日二十八日には東京へ帰らなければならない。天気だからどうにもならないこととはいえ、焦りと苛立ちで雰囲気は悪くなるばかり。そして肝心の三日目、今井監督以下スタッフ、そして出演者全員の願いが届き、ようやく天気が回復した。
「もし今日がダメだったら、帰って東京湾で撮るからそのつもりで!」
そんな助監督の言葉を真顔で聞きながら、それぞれ撮影準備に入る。海岸にいるのは命からがら生き延びた、正に極限状態の少女たち。中でもおチビちゃん演じる安座間京子は腕を吊り、頭から顎にかけて包帯を巻いた満身創痍の姿だ。まずJAC(ジャパン・アクション・クラブ)のスタントマンが、海の中に入ってお手本を示してくれる。
シーンとしては、米軍の襲撃から逃れ海の中へ入っていくところ。考えていたのは身長差のことだった。スタントマンの男性は百七十センチくらい。自分とは約二十センチの差がある。私があの場所まで進んだら、胸まで浸かってしまいそう……。頭の中でイメージを作り、水への恐怖を追い払う。
海へと逃げた少女たちは、途中上空からの襲撃を避けてUターン。海岸へと戻ったところを撃たれてしまう――。なるべく水に浸かりたくないおチビちゃんは、みんなの後ろから行こうと考えた。それが一番安全だろう。衣装が濡れてしまうから、出来れば一発で成功させたいシーン。いよいよ撮影が始まった。
考えたとおり、みんなの最後尾について透明度の高い沖縄の海へと足を踏み入れる。予想外の温かさに驚きながら前へ前へと進んでいると、足袋のゴム底がゴツゴツした岩に引っ掛かったらしく滑ってしまった。あ、と思った時にはもう遅い。上半身だけでなく顔も海に浸かっている。どうしよう、と焦ったのが運の尽き。頭から顎にかけて巻いていた包帯が解けて、口をべたりと覆ってしまった。あ、息ができない! 無論目も開けられないので慌ててバタつく。バタつくから更に溺れるという悪循環。何とか力を振り絞り、Uターンをして浜辺を目指した。だから海は嫌だったのよ、なんて思う余裕はなく、水への恐怖を振り払いながらどうにか生還。
「助かった……」
大袈裟ではなく心からそう思ったおチビちゃんの耳に届いたのは拍手。……え、拍手?
顔を上げると、既に海から上がった共演者やスタッフが笑いながら拍手をしていた。
「?」
困惑した表情のおチビちゃんに、スタッフから声がかかる。
「いやあ、とてもいいねえ。素晴らしかった。本当、迫真の演技だったよ」
学徒隊役の少女たちも、駆け寄ってきた。
「カットがかかっても、まだやってるなんて、本当すごいわ」
「カット?」
そう、もうとっくにカットはかかっていたのだ。水中で慌てていたから聞こえなかった。ただ実際に溺れかけたとはいえ、迫真の演技と評していただいた。地獄で仏とはこのこと、と喜びかけたがそれにしては様子がおかしい。スタッフたちはドラム缶で火を焚き、みんなはその周りで衣装を乾かし始めている。
聞けば今のシーン、撮り始めて間もなく日が陰ってしまい、早々にカットがかかったという。気付かなかったのは自分だけだったようだ。だから拍手が起こったのか、と恥ずかしくなる。
慌てて衣装を乾かしながら、二回目に備える。今度うまくいかなければ、本当に東京湾かもしれない。沖縄の海はこんなに温かいけど、きっと東京の冬の海は凍てつくほど冷たいはずだ。絶対に失敗できない。
途中JACのスタッフに「実は水が怖くて……」と相談し、アドバイスのとおり、水をはじくコールドクリームを下着の上から塗ったりもした。その効果はあまり感じられなかったが、二回目は無事成功。
海から上がった後は、砂浜に用意された人型の枠に倒れ込む。すると枠が爆発し、被弾を表現するという仕掛けだ。ぶっつけ本番ではあったが、その場面も成功。火薬臭い浜辺に倒れ込みながら、おチビちゃんの沖縄ロケは終わりを迎えた。
昭和五十六年の年末、そして昭和五十七年のお正月をのんびりと過ごした後、『ひめゆりの塔』の都内での撮影、そして既に撮った映像に自分の声を重ねるアフターレコーディング、通称アフレコを東宝のスタジオへ出向いて行った。思い返すまでもなく、四季時代を含めて初めての経験だ。
映像に合わせてセリフを話すということは分かっていたけれど、声を重ねる場面は、あの長い畦道を伝令として走ったシーン。必要なのは荒い息づかいだという。驚きつつも実際に試してみると難しい。案外奥が深いかも、と練習していると「あまりやり過ぎると、ぶっ倒れるから注意してね」と声がかかった。確かにあり得る。そう思いながら本番に臨んだおチビちゃん。何テイクか録ったこと、そして緊張感も手伝ってか、倒れはしなかったものの、息苦しさからその場に座り込んでしまった。
残された大きな仕事としては「舞台挨拶」があるけれど、それはもう少し先になるらしい。今、目の前にあるのは、四月から始まる連続ドラマ『さよなら三角またきて四角』の撮影だ。
ただおチビちゃんには、それより先に決着をつけたい話があった。無論、現在は劇団四季・映放部所属である自分の身の振り方について。やはり、夏目雅子さんと共演予定のコマーシャルが実現間近で叶わなかった一件は、自分でも驚くほど内側でくすぶっていた。加えて今回、沖縄ロケで経験した事柄が未来への自信にもなっている。マネージャーがいなくなってしまうのは不安だけど、きっと何とかなるわよね。我ながら危なっかしいとは思うけど、それが今の正直な気持ち。予定が何もないある日の午後、おチビちゃんは浅利先生に電話をかけた。
「おお、元気でやっているか?」
聞きなれたはずのその声が、思いがけず懐かしい。自分の家の中、おチビちゃんは直立不動のまま、受話器を握りしめて気持ちを伝えた。
「そうか」
先生も、もう引き止めはしなかった。もしかしたら、こんな日が来ることをとっくに予感していたのかもしれない。どんな言葉で気持ちを伝えればいいのか分からず、「除籍にはしないよ」と言われたタイミングで、初めて「ありがとうございます」と伝えられた。
「うん、頑張るんだよ」
聞き慣れたその声に深く頭を下げて、おチビちゃんはフリーになった。
夏目雅子さんの事務所の其田社長と話をして以降、自ら積極的に所属したいと思うところはあまり見当たらなかった。冷静に比較してみると、四季・映放部の条件はとても良かったので、無意識のうちに慎重になっているのかもしれない。ただおチビちゃんがフリーになったということは、現場でも知られていたので、その点は動きやすかった。
ある日現場で出会った女優さんと話をしていると、実はパントマイムをやっているという。詳しく聞いてみると、今の事務所は「ちょっとの間お世話になっているだけ」らしく、そのフットワークの軽そうな感じにおチビちゃんは興味を持った。
テレビ、映画の枠にとらわれない感じや、アート/芸術に対して理解がある感じは、これからの自分の活動に必要なものかもしれない――。そう思いつつも、自分から積極的に売り込むこともなく、数日が過ぎていった。
まだ決めなくてもいいかな。そんな気持ちがあったことは否めない。そのうち、その事務所の女性社長――小林さんとも挨拶を交わし、話をするような関係になっていく。所属の俳優さんも少なく、それこそ小林社長がひとりで回しているような感じに見えたが、他のタレントのマネージャーやスタッフからよく声をかけられている。コネクションが大事なこの業界において、この顔の広さは頼もしいなと感じた。
そして、その瞬間は思いがけずやってくる。ある日、おチビちゃんは撮影が終わった帰り道、偶然小林社長と一緒の電車になった。普段どおりに挨拶を交わし、空いていた席に並んで座り、雑談を交わす中でふと尋ねられた。
「これからどんな仕事にチャレンジしてみたいの?」
何の気なしに話し始めたから、特に気負わず頭の中にあることを伝えられた。小林社長も話をしっかりと受け止め、いいところへ投げ返してくれる。実は『野々村病院物語』の時から、おチビちゃんに関心を持っていた、という嬉しい言葉まで飛び出し、話が弾むのに時間はかからなかった。ふと気付けば、次は小林社長が降りる駅。
「あ、私はここで降りるから」そう言って席を立ち、電車を降りる前に彼女はこう言った。「じゃあ、六・四で」
はい、と思わず返事をした後で、「?」と目を見開く。一瞬振り返った小林社長は、微笑みながら頷いた。それってもしかして、ギャラの配分のこと? そう気付いたのは電車が走り出した後だった――。
こんな感じでおチビちゃんは、芸能事務所「オフィスK」へと所属することになった。四季を辞めるまでに長く悩んでいた反動だろうか、自分でも驚くほど呆気なく決まった感じ。高校卒業以来、初めて四季以外のところへ所属するので、当然不安がないわけではない。ただ今は新しいドラマの撮影中ということもあり、幸か不幸かそこまで気を回す余裕がなかった。
四月にスタートする連続ドラマ『さよなら三角またきて四角』は、TBS系列で放映、制作はテレパックと『野々村病院物語』と共通点が多い。もちろんプロデューサーは武敬子さんで、脚本は高橋玄洋先生。高田馬場を舞台にした、二つの家族――豆腐屋の野沢家と、うどん屋からピザ屋に鞍替えした桜木家――の確執を中心に描かれるホームドラマだ。
おチビちゃんが演じるのは、野沢家の四男の恋人で、桜木家が営むピザ屋の元従業員・河相スズ子。山岡久乃さんや小野みゆきさん、山田辰夫さんなど、『野々村』の時に一緒だった共演者の方もいるので、どことなく安心感はある……はずだった。
当然台本は読んでいるので、ストーリーや雰囲気は理解できている。一言でいえば、華やかな感じ。病院が舞台だった『野々村』のシリアスさや重厚さとは、また違うテイストのドラマであることは間違いない。ただ、その「違い」はあくまで内容に関することで、それ以外は『野々村』の時と変わらないのでは、とおチビちゃんは考えていた。
もちろんTBSのスタジオに通い、メイクと衣装で役柄に近付き、組まれたセットの中でカメラに向かって演技をすることは変わらない。ただ、それを行う人間が変われば、その場の空気も当然変化する。『野々村』の時の中心人物、いわゆる座長の位置にいたのは宇津井健さんで、そのまとめ方や雰囲気はおチビちゃんにとっても親しみやすいものだった。
今回、その位置にいるのは堺正章さん。喜劇俳優・堺駿二の息子で、子役として映画デビュー。グループ・サウンズの人気バンド、スパイダースでヴォーカルを担当し、『時間ですよ』、『西遊記』などのドラマで主役を務め、高視聴率を叩き出したお茶の間の人気者だ。テレビを通して見ていても分かるように、宇津井健さんのキャラクターとはまったく違う。そしてその違いは、現場の空気に直接反映されていた。
(第38回 了)
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