月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第五幕(後編)
わたしの目つきが気に入らなかったか、刑事は突然、不快感を露わに畳みかけてきた。
「あんたは日常的に美希さんを虐待していた。夕飯を取り上げて、ゴミ箱に突っ込んだろう。真っ暗な公園に放置されていたと、近所の人も言ってる」
「夕飯じゃなくて、古くなった残り物よ」わたしも大声を上げた。
「教室が終わる頃には帰ってきなさい、と言ってあったわ。放置されたもなにも、四歳の子供じゃないんだから、自分で帰れるのよ。遊びに夢中だったんでしょ」
「ま、家の中のことは証人もいませんからね」
婦警がふいに澄ました声を出した。「だけど公道の真ん中で、怒鳴りつけたりしてはねえ」
その気になれば嫌味も言えるのよ。そんな誇りが婦警の満面に表れていた。
「外聞はあまり気にされない性格なんですか。テレビにも出てるのに」
わたしの性格。
大きなお世話だ。
「すねている子供の言いなりになるのは、」
我慢できない、と言おうとしたが、これも揚げ足を取られそうだった。
「美学が許さないんです」
「なるほど」と、刑事は肩をすくめた。
「美学。ありましょうな。演劇人でいらっしゃる。しかも、こんなに弁も立つ」
ようは、口が減らない、と言いたいらしい。
「で、美学にかなう趣味嗜好の持ち主を見つけた」と早口で続ける。
「あなたと真田さんはこそこそ内緒話をし、嫌らしいことをしていた。これは美希さんの言葉、そのままです」
「君の親族の悪口は我慢してたがね。実に無責任だ」
八ヶ月ぶりに見る文彦の顔も手足も、真っ黒に日焼けしていた。
暇を見つけては海辺を歩き回っているに違いない。これでもちゃんとクリームを塗っているのだろうか。
「しょうがないわ。夾子たちの方が大変なんだから」
リビングのテーブルで、わたしはパーコレーターの準備をしていた。コーヒーは文彦しか飲まないので、扱いをもう忘れかけている。
「ふん。だいたい好女子の娘なら、夾子には姪だろうが、こっちにすれば遠縁みたいなもんだろ」
ホノルルの大学はクリスマス休暇に入ったばかりで、学会の準備を中断して帰ってきた、と言う。
ただ、美希を預かった、としか知らせてなかったので、経緯のいちいちに怒りを露わにする。
「昨日の教室だって、ずいぶん欠席が多かったみたいじゃないか」
「天気が悪かったからでしょ」と、わたしは受け流す。
が、迎えに来た親たちの様子から、少しずつ噂が広まりはじめている感じはあった。
「それで。警察は美希の言い分を信じてるのか?」
「さあねえ。まあ、それを前提にしているみたい」
床に放られたままのキャリーバッグは、コーヒーを運ぶのに邪魔だった。相変わらず、彼の荷物はほとんど本や資料ばかりだ。
「呑気に構えるのは危険だな」
キャリーバッグをソファの脇に寄せながら、夫は呟く。
「今夜、弁護士に来てくれるように頼んだよ」
「弁護士、ねえ」わたしは笑ってみせた。
帰るなり、保護者のように振る舞われるのには抵抗があった。が、久しぶりのパーコレーターの響きで、自分自身、相当に安堵していたのも確かだった。
岐波英郎弁護士は、彼の高校の同級生だった。
階下のテーブルに寿司やオードブルを並べ、キッチンで氷を用意しているわたしの耳にまで、他の同級生らの噂話や笑い声がとどく。まるでこの機会に、旧交を温めにきたかのような雰囲気だった。
国内でも一、二を争う事務所にいるという岐波は、丸顔で頭髪が薄く、白髪交じりの文彦より老けてみえるが、満面に楽しそうな笑みを湛えている。
そのグラス片手の弁護士が笑みを残したまま、バッグから紙と筆記具を取り出したとき、文彦の顔は微かに緊張を帯びた。
「ええと、では奥さん。警察が無根拠に疑っていると思われるのは、三点ですね。亡くなった男の子への暴行を、奥さんが姪御さんに指示した。姪御さんへの虐待。それと妹さんの婚約者で現在、警察から別の事件で取り調べを受けている方との関係」
「姪といってもね、」
文彦が几帳面に口を挟んだ。
「家内は次女で、美希の母親は三女、預かっていたのは四女。この妹二人は、出奔した継母の娘なんだ」
ふんふんと、岐波は系図らしきものを走り書きする。
「まあ、姪御さんは児童精神科にかかっていて、診断もついているんでしょ。十一歳という年齢とは別に、証拠能力は疑われますね」
美希は神経症だ。まともじゃない。
そう決めつけることが、今の救いとなるのだった。美希の回復を誇らしく感じた自分は、何だったのだろう。
「虐待に関する近所の目撃証言も、単発的なものですね」
岐波は慣れた様子で言った。「夜遅く公園に独りでいたのを見たといっても、日付や時刻、回数が明確でない」
「もしかして、わたしが留守していたときかもしれないし」
「ええ。故意に家に入れなかった事実が証明されでもしないかぎり、虐待とは言えません」
「道端で叱ったのだって、子供のわがままがあってのことなんだ」と、夫は言う。
「うん。隣家が日常的に折檻を見聞きしていた、というのとは違うな」と、岐波も頷いた。
「だが他人ってのは、無責任に便乗するからなあ」と、文彦は気むずかしそうに眉を寄せる。
「両隣りとも親交があるわけじゃなし。どっちか一軒、日常的な折檻を見た、なんて言い出したって、不思議じゃないよ」
「そのときは偽証罪、証拠ねつ造罪ってもんがあるって教えてやるさ」
岐波は事もなげに笑った。
「正式に証言しろなんて求められたら、記憶が曖昧だったと撤回するか、拒否がほとんどだよ」
そうだろうな、と文彦が片頬を歪めた。
「言いたい放題は、自分に火の粉が降りかからないうち、か。こっちに何の恨みもないはずなのに」
何の恨みもないはず。
鉢植え荒らし、夜道での尾行。それにゴミ漁りのことを、まだ話してなかったと思い出した。
「まあ、問題は物証だよ」
愉快そうな岐波の表情に、微かに真剣な影が差した。
「姪御さんの身体の痣や傷」と呟くと、確かめるようにわたしを見た。
「前々から、普通でない暴れ方をしていたとか、そのことで周囲の関心を引くとかいった性行が認められるなら、虐待の証拠としての立証は困難でしょうが」
そして、もう一つの美希の言い分。
わたしと真田との関係ついては、二人とも触れようともしなかった。
岐波弁護士は、同級生の面子を慮っているに違いない。それとも、男女関係それ自体は刑事罰に当たらない以上、当然の無視なのか。
「ようは、さほど心配ないんだな」
文彦はやっと眉間を開いた。
「うん。対応には注意が必要だろうが、現時点では気を楽に持っていい」
「家内の親族はどうもね、ごたごた続きなんで」
参った、と言うように頭を振る文彦に、岐波はあの笑みを向けた。
「ちょいとタイミングが悪かったね。医療過誤の捜査の余波を食らったんだろ」
聖清会病院の状況は伝えてあるはずだが、岐波は医療過誤と軽く言い放った。
「ま、姪御さんも一種の病気には違いないし。医者じゃないが、たまたま医療訴訟に巻き込まれた、とでも思ってさ」
電話が鳴った。
立ち上がったわたしは、壁際で受話器を取った。
「楡木子姉さんね。どうしてくれるのよ!」
いきなり好女子のきんきん声が響いた。
「そっちに全責任のあるけんね。美希は夾子に預けたつもりだったつ」
「どうしてくれるは、こっちのセリフよ」
なんて間の悪い。しかし、黙ってはいられなかった。
「全責任って、親のくせに。こっちは夾子から押しつけられて、どれだけ迷惑したか」
「知ったこつね」と、好女子は叫んだ。
「現に美希を見とったのは、楡木子姉さんだろたい。ジャングルジムから落ちて死んだのも教え子ってね。余計なこつばせんだったら、美希は巻き込まれんで済んだとよ」
「巻き込まれたですって。転がり込んできて、なんば言うね」
「ああ、もう。母さんじゃなくて、姉さんの消えてしまえばよかったのに」
「そっちこそ、後からのこのこ生まれてきたくせに」
そう怒鳴り返した目の端に、岐波が吹き出したのが見えた。
夫が電話をラウドスピーカーに切り替え、録音ボタンを押す。
が、それ以降は、好女子の意味不明な喚き声と嗚咽とが交互に聞こえてくるだけだった。
「これで絶交たい、」と、最後にようやく耳にとどいた。
「もう姉妹てちゃ思わん。美希にも、二度と会わんでちょうだい」
「望むところよ!」
そう言い返した声は、我ながら怖ろしいものだった。
受話器を置き、振り返ると、やや蒼ざめた文彦が腕組みをして立っていた。
「お恥ずかしい、ところを」
岐波弁護士は愛嬌のある表情で、日常茶飯事、というように首を振った。サラミを突き刺したフォーク片手に、悠然とメモを読み返している。
「あの女、」と夫が吐き捨てるように呟いた。
「娘の虚言癖を簡単には認めそうにないな」
ようやくサラミを飲み込み、岐波は言った。
「そもそも娘に問題があるから、医師の妹に預けてたんだろ」
だが好女子は以前から、美希にはこっちの水が合う、とのたまっていた。横浜在住の妹が偶然、医者だっただけだと主張でもしかねない。
「そういえば」
あの刑事が帰り際、隠し球のように告げたことをふいに思い出した。
「夾子が、美希は自分といたときは、さほど暴れて傷をつくったりしなかった、って言ったそうなの」
「ふざけやがって」
案の定、夫は激怒しはじめた。
「てめえの都合で子供を押しつけておいて、自分の家では暴れたりしなかった、だと」
もし事実、そうだったとしても、あまりに迂闊な物言いではある。
「君の腹違いの妹らは、低能ぞろいだ」
「でも、図書館での騒ぎのこともあるし」
今の電話の醜態を取り戻すべく、わたしは冷静であろうと努めていた。
「かかっていた児童精神科に、自傷の記録が残っているかも」
「まあ、虐待のあるなしは、ともかく」
岐波弁護士が、のんびりした口調で言い出した。
「先ほどの熊本の妹さん。あのご様子では、すでに弁護士を付けられたようですね」
わたしと文彦は、思わず顔を見合わせた。
「つまり、奥さんの指示で男の子を突き落とした、という姪御さんの証言は疑わしい。満十一歳で、神経症の病歴がありますからね」
文彦は神経を尖らせた表情で頷いた。
「もっともそうなると、本人の刑事責任能力も疑わしくなる。そのぶん民事の損害賠償訴訟では、保護者の監督責任が重く認定されるかもしれない」
監督責任、とわたしはオウム返しに繰り返す。
「好意からとはいえ、奥さんは姪御さんの状態を知った上で世話をなさっていた。すなわち民事裁判では、保護者としての損害賠償責任を負う可能性があるということです」
「美希が男の子を突き落としたというのが、もし本当なら、だろ」
岐波は頷くが、あの微笑みは消えていた。
「そう。しかし、たとえ刑事裁判で、それを奥さんが指示したという間接正犯が立証されなくても、です」
「そんなの不公平よ」と、わたしは言った。
「ですから、最初に姪御さんを預かった末の妹さん、奥さん、姪御さんの御両親という三者の連帯債務でしょう。責任割合は話し合いか、姉妹間での民事の争いになりますね」
そういうことか。
さっきの好女子の物言いが、腑に落ちた気がした。
美希の件では、これまで好女子は電話に一切出ようとしなかった。万事に口を出したがるくせに、厄介事はきょとんとした顔でやり過ごすのが常の好女子が、今回も黙んまりを決め込んだのだと思っていた。
が、好女子も、おそらく自分の弁護士から同じ説明を聞き、責任逃れの先手を打ってきたのだ。そういう反射神経だけは人一倍発達し、子供の頃はあれで結構、気が利いて見えたものだった。
「まあ、ジャングルジムから突き落としたといっても、お子さん同士のことです。喧嘩より事故に近いものでしょうが」
確かに、美希よりも陽平の方がずっと大きい。遊具の上でやりあったところで、敏捷な少年が腕力で美希にかなわないはずはない。
とすれば逆に、美希が発作的に暴力の欲求を生じ、背後からいきなり突き落とした、という解釈も成り立つ。
その場合には、美希が神経症であることが不利に働くのだ。
事実関係を明らかにすることに、好女子が踏み込もうとしないのは当然だった。さっきの電話で、虐待うんぬんと言い出さなかったのは、さすがにそこまでは疑えないのだ、とばかり思っていた。
「いいさ、損害賠償なんか」
怒りを通り越し、呆れたように夫は肩をすくめた。
「この家を叩き売って払ってやる」
いや、と岐波弁護士が首を振った。
「連帯債務なんてのは結局、潔いやつの負けなんだぜ」
その段階になったら、それこそ俺に任せろと、あの笑みを取り戻した。
再び電話が鳴ったのは、岐波が帰った後、十一時半過ぎだった。
出ろ、と文彦は硬い表情で合図をする。
おそらく、また好女子だ。岐波に言われた通り、受話器を取ると同時に録音ボタンを押した。
「楡木子姉さん、わたしよ」
しかし相手は夾子だった。
「忠くんが、」と息を喘がせている。
「今、警察が来て、逮捕されたの。窃盗罪で」
(第10回 第五幕 後編 了)
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