世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
四十一、修羅場のにおい
何を言っているか分からない、というか分かりたくない。そんな気分だ。とりあえず一旦落ち着きたいが、その類の贅沢は許されないらしい。
「先輩ってばあ、聞いてます? 言いましたよね? ね?」
細長い画面の中で首を傾げている美人さん。ビデオ通話だから顔もしかめられない。腹に力を入れて微笑んでみる。
「たしかに言ったけど、ちょっと急すぎない?」
「ハハハ、そうですよねえ、すいません。で、今日はまっすぐ帰ってくるんですか?」
もう一度腹に力を入れる。もちろん表情は微笑んだまま。
「うん、もう帰っちゃおうかなあ」
「ハハハ、マジですか?」
マジだよ、とおどけた振りで答えると、彼女は「じゃあ、お待ちしておりまーす」と右手を振りながら電話を切った。
そうと決めたら話は早い。さあ、帰ろう。早速レジ金を数えようとしてふと気付く。こんなこと、する必要はない。しばらく店長は休みだ。作業は明日来てからやればいい。今必要なことは、早く帰って安藤さんを保護することだ。そう、きっと「保護」で合っている。その証拠にちっとも楽しくない。
掃除も片付けもせず、ただ電気だけ消して店を出た。「すぐに戻ります」の貼紙はクシャクシャに丸めて、自販機の隣のゴミ箱に捨てる。こんなに気の重い早退は初めてだ。最悪のケースを想像しながら三軒茶屋の駅に向かう。考えるまでもない。店長の奥さんが加われば即ワーストケース、修羅場になる。
休みの日だからか世田谷線は空いていた。修羅場の語源は神様同士の喧嘩。そんな安太が教えてくれた豆知識をなぞってみる。たしか阿修羅が関係していたはずだけど、アレって神様なのかな。スマホで調べれば一発だがそんな事はしない。今この状況で語源なんかクソの役にも立つもんか。
部屋のドアの前に安藤さんはいなかった。駅から来る途中でも見かけなかった。まさか、と思いながら鍵を開ける。中には誰も居ない。当然なのにホッとしちまった。一番楽なのは連絡してこの部屋で待っていることだが、それは避けたい。自宅を修羅場にはしたくない。まず居場所を突き止めて、そのまま中華街に行ってもいい。連休初日、あの辺りは賑やかなはずだ。色々考えずに呑み食いして、支払った分は明日レジからいただこう。その為にもとにかく彼女を保護しないと――。
ドアを開けると夕焼けが眩しかった。珍しい眺めだ。普段、こんな時間に出掛けることはない。錆びた踏切の音を聞きながら、安藤さんに電話をかけると話し中。嫌なパターン、修羅場のにおいだ。相手は店長の奥さんかもしれない。
心当たりがあるわけではないので、我が家を中心にグルグルと歩いてみる。途中コンビニで缶ビールを買った。喉が渇いていたらしく、味わう前に飲み終わる。再び電話をするが話し中。結局、ビールと電話のセットを三回繰り返して安藤さんと繋がった。細長い画面の中、彼女は当たり前みたいに俺の家の前にいる。
「本当すいませーん。買い物に必死過ぎて、電話出れませんでしたあ」
さっきよりも明るい。どこかで何かを呑んだはずだ。十分以内に行くから、と伝えると「お待ちしておりまーす」とウインクをしてくれた。
買い物って言ってたけど、いったい何を買ったんだろう? そんなことを考えながら家の前に戻った俺はやっぱり鈍い。見慣れた景色の中、見慣れているはずの安藤さんが、両手に買い物袋を持ったまま立っていた。見慣れたもの同士が混ざっているのに違和感が凄い。趣味の悪いコラージュだ。俺の部屋は一階の一番奥。一歩ずつスキニ―ジーンズ姿の彼女に近付いていく。
「お寿司、好き嫌いないですよね?」
「え、寿司?」
「はい。缶ビールも買ったんですけど、どれが好きなのか分からなくて」
退路は絶たれた。俺の頭では、どう考えてもここから中華街には行けない。こういう時に安太なら「まあまあ、それは後で食べるとしてさ、とりあえず中華街行こうよ」と言える、だろう。そして実際に寿司もビールも置かせて駅へと向かえる、だろう。本当、たいしたもんだ。それに引き換え俺は「じゃあとりあえず……」なんてモゴモゴ呟きながらドアを開けている。狭い玄関で靴を脱いだ彼女は、そのまま床に買い物袋を置いた。
「あ、それ、冷蔵庫に入れとくよ」
そう言い腰を曲げた瞬間、絡みつかれて体勢を崩した。片膝をついてから身体を投げ出す。安藤さんの舌がゆっくりと歯茎を伝っていくから、それに合わせて全身の力を抜いた。何ひとつ逆らわない。舌だって預けっぱなしだ。
「ねえ」口の中に彼女の声が響く。「ねえ」
「ん?」
あーん、という声が響いたから、その通りに口を開けておくと、キラキラした唾をゆっくりと垂らしてくれた。
「こういうこと、しに来ました」
「……」
「大丈夫ですか?」
「?」
怪訝な視線を合わせた俺に「誰か来ませんか?」と尋ねる安藤さん。
「いや、多分大丈夫、かな……」
「じゃ、あーん」
また従うと、今度は音を立てて俺の口の中に唾を吐く。いつの間にか彼女は眼鏡を外していた。
ねっとりと始まった割に、挿れてからは呆気なかった。仕方ないといえば仕方ない。「もう、こんなになっちゃったんです」と、電気も消さずに指を導いて触らせてくれたのも、そうしたら本当にべちょべちょだったのも、奥に押し込む度、我慢せず身体を震わせるのも、全部いやらしかった。だから「早く下さい」と頼まれるがまま、ジーンズも下着も脱がさずに挿れ、気付けば三分くらいで押しのけるようにして抜いて床へぶちまけていた。思わず「ごめん」と声が出る。
「ううん、全然いいんです」
「……」
「あの、こういうこと、しに来たんですけど、それだけじゃないんで」
下半身だけ脱いだまま「え?」と声が出る。「どういうこと?」と重ねたタイミングで、安藤さんはそろそろと立ち上がった。膝まで落ちたジーンズと下着に、一目で湿っているのが分かるあの部分。ぼんやり見惚れている俺に「ちゃんと話もしたかったんです」と教えてくれた。
ビールが微妙に温いのは、冷蔵庫にしまう前におっ始めたから。同じ目に遭った握り寿司二人前をつまみながら、俺たちは顔を突き合わせている。改めてテーブルに移動するのも面倒くさく、床に直接座り込んだまま約二十分。寿司も缶ビールも床の上だ。
話といっても、まだ何も聞いていない。安藤さんは今日の無断欠勤を謝っただけだし、俺はそれを許しただけ。どうして休んだかは分からない。少しの沈黙の後、イクラの軍艦巻きを口に入れたまま、彼女は少しだけ笑った。
「?」
「いや、違うんですよ」口を押さえたまま喋る。「何かおかしいなって」
「おかしい?」
「はい。ちゃんと話をしようと思ってて、それは本当なんです。でも、言うじゃないですか」
「?」
「男の人はしないと落ち着かない、っていうか、一回すれば落ち着くみたいな……」
俺はそんなことないよ、と嘘をつく勇気はない。おっしゃる通りだ。今こうして穏やかな気持ちで寿司をつまんでいられるのは、安藤さんとぐちょぐちょし終えたからだ。もししていなかったら、そのタイミングを見つけたり仕掛けたりしようとして、話どころではなかった。
「もちろん一般論ですよ。それはちゃんと分かっているんです。でもやっぱりそうなのかなって思って、さっきしたじゃないですか? そしたら普通に良くって、アレ私は何やってんだろうみたいな……。なんか、それが馬鹿らしいっていうか、おかしくなっちゃったんです」
うーん、と曖昧に笑ってイカの握りを口に運びながら、似てるなあと思っていた。ついこの間もこんな瞬間があった気がする。ぐちょぐちょに対しての距離感みたいなものが、俺たちはあまり変わらない。
「でさ、話って何なの?」
ゆっくり促しながら、きっともう一度するだろうなと予想していた。彼女が帰るまでに、またそうなる。次はもっと長い時間、挿れたままにしておこう。これもまた馬鹿らしい。さっきまで何とか家に入れないようにと、中華街行きまで目論んでいたのはどこのどいつだ。
「はい。あの、ちょっと待ってくださいね、順番をちゃんと考えるんで」
この感じだと話はひとつではないらしい。俺は新しい缶ビールを取る為に立ち上がった。
安藤さんの話は「実は」が多かった。
「実は今日、病院に行ってきたんですよね。店長が入院している……」
「実は店長が飛び降りた日に、奥さんが店に電話をしてきて、色々聞かされたんです」
「実はさっきも買い物の途中に奥さんから電話が来て、それでずっと繋がらなかったんだと思います」
中には知っている「実は」もあったけれど、店長の奥さんと繋がっているということが今は気がかりだ。まさかここに怒鳴り込んでくるんじゃないだろうな。
「店長には会えた?」
「……いえ、会ってないです」
「そうか、まだ具合良くないのかな」
「えっと、そうじゃなくて……私、病院の中には入らなかったんです」
「あ、そうなんだ」
「はい。とりあえず病院まで行くことは行ったんですけど、なんか……」
気分が乗らなかった訳でも、極度に緊張した訳でも、奥さんと遭遇する可能性を考えた訳でもない、と眼鏡を外したままの安藤さんは難しい顔をした。
「多分店長はパジャマとか着て、ベットに寝かされてるんですよね? そういう姿……何て言うんだろう、見なくていい姿を見て、私はがっかりすると思うんです」
残酷だが正直な話だ。答えは予想できるが、がっかりする理由を訊いてみる。
「本当は自分が付き添ってあげたいのに、それが出来ないから?」――NO。
「弱って寝込んでいるオジサンは魅力的ではないから?」――YES。
「そんな魅力的でない人とぐちょぐちょしていたことが恥ずかしいから?」――YES。
「何やってたんだろう、私って感じなのかな?」
「……そうですね。時間の無駄っていうか、損しちゃったっていうか……」
予想以上に残酷で正直な話だが、分からなくはない。きっと世の中のほとんどの人は分かってしまうけれど、あえて口に出さないだけだ。
「プライド……で合ってるかな?」
「はい、近いかもしれないです……。貧乏性なんですよ、私、昔から」
「ん?」
「お金と同じで、時間も損したくないんです」
そのつもりで生きてきたのに「実は間違いでした。損ですよ」と宣告されるのは確かに辛い。そして、そうなる可能性は店長よりひとつ年上の俺にだってある。
「奥さん、どんな感じなの?」
別に怖気付いた訳ではないが、話の矛先を変えてみた。この家が修羅場にならない為にも、その辺りはしっかり訊いておく必要がある。
「なんか変な感じなんですよね」
「変?」
「はい。ゲームをしているみたいっていうか……」
もう少し具体的に、と目で頼んでみる。自信はあまりなかったが、なんとか伝わった。
「電話で何度か話したんですけど、結局あの件に関しては何も言って来なくて……。なんか、その話をしたら負けのゲームみたいだなって。きっと向こうは分かってると思うんですよ」
正解、という気持ちを込めて頷いてみたが、今度も伝わっただろうか。
「向こうから病室の番号も教えてくるし、何となくこっちを探ってくるような感じもあるけど、あの件に関しては何も言わないんですよね」
それもプライドなのかもしれないが、あの人、そういうタイプなのかな。
「ちなみにさっき電話が来たって言ってたけど、どんな用件だったの?」
「ああ、仕事の具合はどうか、みたいな感じですかねえ。まさか無断欠勤してるとは言えないんで、適当に調子を合わせてたんですけど」
セラピスト、という肩書の名刺を見せてみる。どんな仕事なのかな、と訊いてみたが安藤さんも知らなかった。
「向こうは私の住所とかも知ってるわけですよね、最初に履歴書出してるんで。そういうことも考え出すと、ちょっと困ったなあって感じで……」
そうか。ということは、この住所も知られてしまっているのか。俺は玄関のドアに視線を投げた。大丈夫、鍵はかけてある。いや、実際に来たとしたら鍵の意味なんてないだろう。また微かに修羅場のにおいがする。
「ここに来ることは伝えたの?」
俺の質問の意味が分かったらしく、安藤さんは「もちろん言ってないですけど、まさかですよねえ」と大袈裟に笑った。乾き始めたカッパ巻きを食べながら立ち上がり、念の為にドアのチェーンもかけておく。
「ちょっと、やめて下さいよお」
「まあ一応ね。備えあれば、って言葉もあるし。あ、ビールもう一本飲むよね?」
お願いしまあす、と明るい声を出す安藤さんの頭を撫でてから冷蔵庫を開ける。缶ビールと一緒に、奥の方にあったチーズも取り出した。
「あれ、店長の奥さんと会ったのって、この間が初めてだったんですか?」
そうだよ、と答えた直後に電話が鳴った。タイミングが良すぎるから驚いたが、かかってきたのは安藤さんではなく俺のスマホ。こっちだから大丈夫、と笑ってみせたが事態はややこしくなるかもしれない。かけてきたのはナオ。鼻をくすぐるのは違ったタイプの修羅場のにおいだ。
(第41回 了)
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