世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
四十、アタリとハズレ
とりあえず一度トイレに逃げた。安藤さんは無表情だが、それが本音でないことはよく分かる。この店のトイレはスタッフ専用で狭い。鏡もタオルも芳香剤もない。そんな場所で立ち尽くしながら考える。
自ら飛び降りて足首を骨折した店長について、何も話さないわけにはいかないのか?
答えは分かっている。「いかない」。即答だ。素知らぬ顔で別の話題を振ることもできないし、適当なところでウヤムヤにして中華街で飯を食う訳にもいかない。本当、厄介だ。でも安藤さんだって俺と同じだろう。別にこの場で店長の話をしたい訳ではないと思う。ただ避けて通れないだけだ。
いい手はないかなあ、と首を回してみる。お互いに避けたい話題なら避けられるはず――じゃないのか?
「うーん、理論的にはそうなるよな」
安太ならそう言ってくれるような気がする。情けないがこんな時に思い出しちまった。畜生、さっき妙な感じで電話を切りやがって……。でも、まあ結果的に役には立った。ふと浮かんだ安太の顔のせいで、トイレから出る気になれた。その因果関係はよく分からない。
安藤さんはレジから離れ、女性客と話をしていた。そういったものならこちらにございます、という感じでワンピースのコーナーまで案内してから戻ってくる。やはりこのままウヤムヤにはいかないらしい。
「で、どうしましょうか、シフト」
全く予想していなかった言葉だった。たしかに大事だけどな、シフト。平静を装ったつもりだが失敗したらしい。「いや、ほら、あの、二人になるから……」と微かに安藤さんの方が慌てている。別に変じゃないよ、というトーンで「明日と明後日は出るんだっけ?」と尋ねてみたが伝わっただろうか。昼前に彼女が教えてくれたように今日は金曜日。来週月曜も休みなので、世間的には明日から三連休だ。
「三日間は開けておきたいですよね」
「うん。ケーブルテレビのこともあるなら、結構人が来るかもしれないしな」
そこから互いのシフトを微調整しつつ三連休のオープンを決めると、店内に客の姿はなかった。確認するまでもなく閉店時間だ。さっきまで病院に行っていたからか一日が短い。
「あと、店長のことなんですけど」
何となくその話はかわしたつもりだったけど、やっぱりダメか。また顔から表情が消えた気がするが、案外安藤さんはこの話題を嫌がっていないのかもしれない。
「すいません。今日はなんか疲れちゃったんで、連休中にまたお願いします」
これも予想していなかった。てっきり今から話さなければいけないと思っていたのに、何だよ、もう帰っちまうのか。まあ、でも、助かった。
お願いします、という言い回しに幾分引っ掛かるところはあるけれど、それこそが無表情の裏に隠している本音なのかもしれない。ふと昨日覗き見た、バックヤードでの店長とのぐちょぐちょを思い出す。
「そうだね、じゃあ、そうしようか」
おかしなもので、俺まで表情が消えてしまいそうだ。ありがとうございます、と少しだけ微笑んでから、彼女はいつも通り店の片付けを始めた。
触れようと思えば触れられる小さな背中。今まで何度も触れてきたあの背中。舐めたり、嗅いだり、擦り付けたりした白い背中。今、向こうを向いている顔も無表情なのか確認したい。そんな気持ちを堪えつつ、レジ金の勘定に取り掛かる。
味気ない数字を目で追いながら気付いたことは、今日は中華街に誘えないという事実。俺はさっき持ち出した二万円をそっと戻しておいた。
お疲れ様/今日は疲れたので、まっすぐ帰って爆睡しまーす/じゃあね
そんなナオからの短いメッセージを読みながら、俺も寄り道せずに帰宅した。
今日はこのまま寝るに限る。飯もシャワーも明日の朝で構わない。色々あったはずなのに、思い出すのはあの病院の白ばかりで、店長の奥さんの顔は全然出てこない。面白いほど乾いている。パサパサだ。唯一、店を出る間際に「やっぱり連休中って、中華街とか混んでるんですかねえ?」と尋ねてきた安藤さんの声だけ僅かに湿っている。
もう一度安太に電話をかけてみようと思いついたのは、次の日、連休初日の夕方前だった。きっかけはある。五十嵐先生がまた訪ねてきてくれたのだ。開店十分後にお辞儀をしてから入ってきた先生は、俺の目の前で更に深く頭を下げた。
「この度は本当にありがとうございます。よろしくお願いいたします」
安藤さんが遅番でよかったと思う。初老の教師から感謝をされるところなんて絶対に見られたくない。その後、五十嵐先生とは二、三分立ち話をした。
「オーケーしてもらえたよ、と伝えたら、生徒たちも大変喜んでおりまして。本当にありがとうございます」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします」
「私は常々、生徒たちにはたくさんの経験をしてほしいと思っているんです。でもまあ、時間には限りがありますからね。どれもこれもというわけにはいきません。まあ、そこは運ですよね。今回、こちらにお邪魔させて頂く子たちが、みんな運の良い子であってくれればいいなあと、そんな風に思っているんです」
そんな先生の言葉を聞きながら、子どもとの触れ合いというベタなものに寄り掛かっていると心配してくれたナオや、その結果占ってもらうことになった寛十郎を思い出す。
「あと申し訳ありません。一度店長さんにも御挨拶をと思っているのですが……」
実は昨日飛び降りてしまい現在入院しているんです、とは言えないので「ちょっとこの時期忙しくて、なかなか店には来れないんですよね」とごまかした。この歳になって教師に嘘をつくのは変な気分だ。
時間には限りがあるので、結局は「運」。五十嵐先生の真意とは違うかもしれないが、俺にはそう聞こえた。
運、というかクジ引きだ。安太に電話して出たらアタリ、出なきゃハズレ。ただそれで終わりではない。出た場合もアタリとハズレに分かれる。昨日みたいに変な切られ方をしたらハズレ、アタリは……分からない。今日中に会えることがアタリのような気もするが、そうなったらそうなったで多分またアタリとハズレに分かれるだろうし、会えないと言われた場合でも、きっとまたアタリとハズレに分かれてしまう。そんな合わせ鏡のような数珠つなぎを浮かべているうちに、徐々に馬鹿馬鹿しくなってきた。だから安藤さんが出勤してきた直後に、外へ電話をかけに出た。
店から少し離れたスーパーの駐輪場辺りで、スマホを耳に当てて安太が出るのを待つ。自転車のベル、若いお母さんが子どもを叱る声、小さな犬の鳴き声。これくらい騒々しい場所の方が気が紛れていい。呼び出し音が七回鳴った後、留守電に切り替わったので店に戻った。
出なかったからハズレ、とは限らない。大アタリの可能性だってある。そう思えば馬鹿馬鹿しいが気は楽だ。これから安太への電話を、一日一度の日課にしてみようかな。そんなことを考えていたから、「あれ、帰ってくるの早くないですか?」と驚く安藤さんに「大丈夫、大丈夫」と明るく応えて怪訝な顔をされた。
三連休初日、ケーブルテレビ、そもそも土曜、と重なった結果、店はそれなりに忙しかった。人手が必要なほどではないが、一息つく暇はない。結局閉店するまで、安藤さんとゆっくり話す機会はなかった。
もしかしたら、このまま店長の話をしなくてもいいなら楽だがそうではないだろう。あの人は死んでいない。生きている限り、きっとこの店に戻ってくる。松葉杖か奥さん同伴か分からないが、それは確実だ。だから、俺はレジ金の確認が終わっても、彼女が切り出すまで椅子に座って待っていた。
「そういえばさっきさ、テレビに出た時に映っていた赤いトートバッグありますかって訊かれたんだけど、それってもう売れちゃったのかな? ていうか、そんな赤いのなんてあったっけ? まったく覚えてなくって」
「ああ、昨日の午後に出たヤツのことですかねえ? ほら、そこの棚の上に立て掛けていたはずですけど」
昨日の午後なら、俺が病院に行っていた頃だ。この流れから店長の話に持ち込めなくもないかな……。そんな思惑を押し流すように安藤さんが駆け寄ってくる。
「すいません」
「……ん?」
「ちょっと今日約束があって、早めに帰らなきゃいけないんです。戸締り関係、お願いしてもいいですか?」
もちろん大歓迎だ。「全然大丈夫だよ」と微笑んでみる。こうやって一日一日引き伸ばしているうちに、全部ウヤムヤになればいいのに――。
安藤さんが返った後、ひとりで全てのチェックを終え、あとは電気を消すだけというタイミングで店の電話が鳴った。
「はい、もしもし、『フォー・シーズン』です」
「あ、こんばんは。分かります?」
硬い声。店長の奥さんからだろう。「はい、お疲れ様です」と答えると「あ、昨日の……」と声が少し和らいだ。
「あの、店長の具合は……」
「うん、あまり変わらないけど、心配するほどじゃないわね。今、あなたひとり?」
なんとなく安藤さんの動向が気に掛かるのだろう。さすがに「もうひとりは今帰りました」ではわざとらしいから、「はい」とだけ答えた。店長の奥さんは何か話したそうな間を取ってから、「そう。では明日もよろしくね」と電話を切った。
連休二日目の日曜日、安藤さんは定時に姿を見せなかった。別に焦ることはない。オープンの準備はひとりで出来る。こういう時はまず最悪のパターンを想像すればいい。
安藤さんがいない状態のまま、昨日の倍の客が来たらどうだろう?
これは何とかなる。古着屋の客はスーパーやレストランの客と違うから、店員がワンオペで頑張っている時に騒いだりしない。それよりジャンルの違う「最悪」の方がヤバい。
さっきから気になって仕方ないのは、昨日帰り際にかかってきた店長の奥さんの電話だ。「今、あなたひとり?」と訊いてきたのは、俺が思っていた「なんとなく」という曖昧な理由なんかではなく、明確な目的を持って、安藤さんがいるかどうか――つまり、ちゃんとお店を出たかどうかをチェックしていたんじゃないか?
店長の足首骨折を知らせた電話の際に、二人が今日会う約束をしていたとしたら、あながち有り得ない流れではない。店長の奥さんの顔は思い出せないが、代わりに般若のお面が脳裏にチラつく。あの二人の組み合わせじゃ、トラブル発生率はかなり高くなるだろうな。大丈夫か?
結局夕方になっても安藤さんから連絡はなかった。それでも俺から連絡をしないのは、子どもっぽい見栄だ。こんなことで慌てていると思われたくはない。ただ思ったより客の数も多くなく、余計なことばかり考えてしまう。暇すぎるのも考えものだ。
まさかとは思うが、救急車やパトカーが出動するような展開なのか?
一度その可能性を考えてしまうと、じっとしているのはもう無理だ。客が途切れた瞬間を狙って、店長の奥さんへ電話してみることにした。安藤さんの方へ連絡をしないのは、見栄というより怖かったから。パトカー云々の可能性ももちろん怖いが、それより「この店を辞めるんじゃないか?」いや、「もう今日付けで辞めてしまったんじゃないか?」という怖さがある。俺は安藤さんに辞めてほしくはない。
セラピスト、というよく分からない肩書きの名刺を見ながら、電話をかけてみたが、三回呼び出しただけで留守電に切り替わってしまう。一瞬迷ったが、何も吹き込まずに電話を切る。まだ店内に客はひとりもいない。俺は昨日使った「すぐに戻ります」の貼紙をドアに貼ってから、それを書いた安藤さんに電話をかけた。もしつながったとしたら、長引いてしまいそうな気がする。
「もしもし?」
ワンコールで彼女は出た。呆気なさに声も出ない。安堵と苛立ちが一瞬で混じり合う。
「もしもし? もしもし? 先輩でしょ?」この声の感じだと、酒を呑んでいるのかもしれない。「もう、全然心配してくれないんだもん」
「いや、別に……」
「じゃあ心配してくれたんですか?」
「そりゃあ、こんなに遅れるのは……」
「違います」
「え?」
「聞きたいのはそういうことじゃありません。心配してくれたんですか? もしそうなら大きい声で叫んでください。オレは心配してたぞおって」
酒ならいいけど、違うものでこうなっているとしたら厄介だ。とりあえず場所だけ確認して……。
「早く言わないと、私が代わりに叫びますよお」
その声だって結構なボリュームだ。仕方ない。やってやるか。ドアを閉めておいて正解だった。思い切り叫んでみる。
「心、配、した、ぞ!」
「……先輩、ありがとうございます。っていうか、お客さん、びっくりしてるでしょう? すいません……」
「いいから、今どこだ?」
「じゃあ、ちょっと待ってください。かけ直します」
面倒くさい展開だ。ちゃんとかけ直す可能性がそんなに高いとは思えない。
「いいから、とりあえず教えてくれない?」
「じゃあ、すぐかけ直しますね」
ブツっと切れた数秒後、たしかに安藤さんはすぐにかけてきた。しかもビデオ通話だ。まあ、この方が場所の確認ができるからいいか。
「ね、すぐかけたでしょ? あ、本当にお店にいるんですね。え、今話してて大丈夫ですか?」
何とか大丈夫だよ、と言いながらバックヤードに移動した。店のドアを閉めていることがバレると、更に面倒くさい事態になるはずだ。
「え、じゃあ、私待ってますから、仕事終わったら来てくれませんか?」
来ないのかよ、と思わず言いそうになったが、これはアタリだ。こんな状態で来られても仕事にならない、いや、俺の仕事が増えるだけだ。画面は彼女の顔のアップで、周囲の様子が分からない。
「顔が近過ぎてよく見えないんだよね」
「あ、すいません。これでどうですか?」
それで大丈夫だよ、と返した俺の声は後半おかしかったかもしれない。安藤さんの後ろに映っているのが、あまりにも見慣れた光景だったからだ。毎日、俺がドアを開けた瞬間に見えるヤツ。さっきもここに来る前に見たばかりだ。
「ねえ、そこって……」
「だって先輩、この間、家に行ってもいいって言ってくれたじゃないですかあ」
(第40回 了)
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