世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
三十九、喫煙スペース
確かに俺は昨日言った。「また電話してもいい?」と尋ねる店長の奥さんに「大丈夫ですよ」と言った。でもそれにしても、タイミングってものがあるだろう。
今バックヤードには、膝の辺りに下着をまとわせた安藤さんがいる。電話があと十分遅ければ、スッキリした声で余裕のある対応が出来たはずだし、あと数時間早ければこの場に店長がいたはずだ――。
でも、そんなグジャグジャした思いを一発で鎮める「ちょっと!」だった。甲高く、なりふり構わず、高圧的。理由はどうあれ、今日はもう安藤さんとできないと悟る。
「……はい」
「ちょっとバイト君?」
「はい」
「来て!」
「え?」
「いいから来て!」
もう一人バイトもいるので行くのは構いませんが、まずは場所を教えていただけませんでしょうか、という思いを込めて「はい」と溜め気味に告げてみる。あまりうまくいかなかったが、どうにか「病院よ!」と返ってきた。奇跡的に思いは伝わったらしい。その後同じテンションのまま、病院への行き方を指示して一方的に電話は切れた。
とりあえず安藤さん直筆の「すぐに戻ります」を手に取り、もう一度ドアに貼る。世の中にはタイミングの悪いヤツが結構いる。今この瞬間に入ってこないとも限らない。まあでも、とりあえず病院には行かないとな……。だけど、何のために?
バックヤードに戻りかけたタイミングでまた電話が鳴る。また店長の奥さんからだろう、という予想は当たった。別に驚かない。昨日もこんな風にかけ直してきたはずだ。
「慌て過ぎてて言い忘れたけどさ、あの人、ベランダから飛び降りたのよ」
そんな言葉にもあまり驚かなかった。はい、と応えて数秒、物言いたげな沈黙の後に電話がプツリと切れる。このことを安藤さんにどう伝えるべきか、それとも嘘をついた方がいいのか。考える時間はほとんど無い。バックヤードに戻ると、彼女はちゃんと服を着て机の上に座っていた。
「大丈夫ですか?」
少し前まで下着が突っ込まれていた口元を見ながら、「よく分かんないんだけどさ」と身をかわす。一度こうしたら、後はかわし続けなければいけない。
「電話、どこからだったんですか?」
「病院」
「え? 病院?」
「うん、ちょっと来てほしいって」
「え? 全然分かんないんですけど」
よく分からないんだけどさ、と俺は再び繰り返した。結構な難問だ。「店長の奥さん」なんてワードは出したくないし、「店長が病院にいる」という事実も出したくない。ここで、この人を動揺させるのはマズい。
「金、ないから持ってきてほしいみたい」
「え、誰がですか?」
「店長」
我ながら良い嘘だと思う。安藤さんも「なんですか、それ」と苦笑いだ。
「だからさ、ちょっと留守番お願いしていい?」
少し前まで自分の尻を打ちつけていたベルトを俺に渡しながら、「あの……すいません、その前にトイレ行かせて下さい」と彼女は微笑んだ。
奥さん御指定の病院までは電車に乗ればすぐ。歩いても二十分くらいだろう。けれど俺は、わざわざ通りに出てタクシーを捕まえた。早く行かなきゃ、なんてこれっぽっちも思っていない。ただ頭を切り替えたかった。
バックヤードのぐちょぐちょと、病院にいる店長との間を埋めるにはタクシーの車内が丁度良いい。うまい具合に道も混んでいるし金もある。店を出る間際にレジの中から持ち出したのは二万円。非常事態のどさくさだ。何も問題はない。病院から戻ったらすぐに店を閉めて、安藤さんと中華街に行こうかな。何ならもう二万、持ち出したっていい。美味い御馳走を食べた後に、若くて綺麗な顔の女とぐちょぐちょの続き。頭を切り替えるには、そのくらいの糖分が必要だ。
いったい店長はどうしたんだろう、大丈夫かな、なんて心配しても仕方ない。それよりまず、店長の奥さんと会う方法を考えなければ。
「あのお、すいません」
「え?」
見た感じ俺と同世代の運転手に声を掛けてみた。鏡越しに視線が合う。
「携帯の番号も知らない人と待ち合わせてるんですけど、どうすれば一番早く会えますかね?」
「えっと、病院で、ですか?」
「ああ、そうですそうです」
うーん、と考えてくれる初対面の運転手。ノロノロとしかさっきから動かない車列。俺は二万円の使いみちを考えながら、欠伸を噛み殺している。
予想外に綺麗な病院だった。中で人が亡くなったり、大怪我をした人が運ばれたりするのが似合わないような感じ。大きめの窓から外光が注ぎ込み、壁の色は真新しい白。もしかしたら新築なのかもしれない。
運転手の提案どおり、受付窓口で店長の苗字を告げる。出来るだけ慌てた感じの方がいいんじゃないですかね、と真面目な顔で彼は付け加えた。一応それにも従ってみる。ぎこちないような気もしたが、紺色のカーディガンを着た若い女性は、恐縮するほど丁寧に対応してくれた。
用紙に名前を書き、面会者用のバッチを受け取り、教えられた通りにエレベーターで三階まで上る。一階と変わらない外光と真新しい白の眩しさの中、廊下の両脇に並んだ洒落た形の椅子。その列の奥の方に女性がひとり座っていた。病室の番号からして多分彼女だろう。
教えてもらったおかげで無事に会えましたよ、とあの運転手に伝えたいが、きっともう二度と会うことはないし、会えたとしても気付かないと思う。
何となく俺が分かったように、向こうも何となく俺のことを分かるだろうと考えていたがそうではなかった。自分の傍に立った来年三十歳の男が、昨日酔って話していた「バイト君」だとは思えなかったようだ。
「え……?」
迷いのないその怪訝な表情に、内心俺が間違えているのかと動揺してしまった。視線を逸らすことなく「フォー・シーズンの……」と告げ、ようやく分かってくれたようだ。
「声、若いのね。学生かと思ってたわ」
すいません、と頭を下げると「座って」と隣の椅子に視線を投げる。洒落た形の椅子は座り心地も抜群に良かった。レジの前の椅子、これに変えてくれないかな。
「お店は?」
「はい。もう一人いますんで」
あの女か、と思ったはずだがそれ以上は何も訊いてこない。ただ黙って目の前の真っ白い壁を見つめるだけだ。今時の病院は消毒臭などしないのか、それともこの病院だからなのか。帰り際、あの受付の子に尋ねてみようかな。
「私、言わなかったっけ?」
「……」
「飛び降りたって」
「いえ、連絡もらいました」
「そうよね。そりゃ言ってるわよね。いくらなんでも、さすがに忘れないわよ」
はい、と控えめに相槌を打つとまた沈黙。結局そのまま二、三分が過ぎた。
「命に別状はないんだって」
「あ、そうなんですね。良かったです」
そう答えて少ししてから、奥さんが笑った。「私のこと、変だなあって思ってるんでしょ? でもね、あなたもちょっと変わってるわよ」
いやあ、と言いながらそっと奥さんの横顔を盗み見る。命に別状はないとはいえ、旦那がベランダから飛び降りたというのは、相当インパクトのある、きっと死ぬまで忘れないような出来事……でもないのかな。とはいえ、今この場で他人に笑顔を見せるのはやっぱり変わっている。
「昨日、あんな風に喋っちゃったからね、今更体裁つくってもしょうがないじゃない?」
切れ長の目のせいか、それとも動きの少ない表情のせいか、どこかきつく険しい顔に見える人だ。般若ってこういう感じじゃなかったっけ。
「あの人、最近お酒の量が増えたのよ。缶ビール飲みながら帰ってきたりしてさ。さっきもそう。ちょっと店に行ったと思ったら、さっさと帰ってきて、また飲んだんでしょってカマかけたら、まんまと引っかかって」
自分だって電話しながら酒飲んでたくせに、という思いを込めて「ストレスとかですかね」と呟いてみる。間髪入れず鼻で笑った三十五歳の女は、立ち上がり「煙草、吸いに行かない?」と言い残して歩き出した。
綺麗な病院の、ということを差し引いても喫煙スペースはみすぼらしかった。建物を出て、敷地の一番隅っこに古くさいスタンド式の灰皿が二つだけ。順路を示すものもなく、結局店長の奥さんは受付で教えてもらわなければならなかった。俺たちの他には誰もいない。
「ずいぶん追いやられてんのね」
くわえたのは電子煙草ではなく紙煙草、しかも細くて長いヤツ。彼女は冗談みたいに深く吸い込み、目を閉じたままゆっくり鼻から煙を出した。
「あ、吸わないんだ」
「や、まあ、はい……」
「吸う?」
見たことのない銘柄の煙草に興味はあったが、俺は「いや、やめときます」と断った。一番最近吸ったのは……ナオのマンションのベランダだ。あの後熱を出したんだよな。あの頃はまだ付き合ってなかったはず。あいつの父親の病院の喫煙スペースもこんな感じだろうか。
高い壁の向こうから、数人の子どもたちのはしゃぎ声と足音が聞こえる。どうやら追っかけっこをしているらしい。
「そういえばお子さん……」
「うん、大丈夫。友達に預けてきた。それよりさ、お店、あの人がいなくても大丈夫?」
すぐに答えるのも変だろうと、とりあえず考える振りをする。答えは決まっているから、あとは伝え方だ。
「店長、退院するまでかなりかかるんですか?」
「ニカイよ」
「え?」
「飛び降りたっていっても二階からなの。だからたいしたことないのよ」
聞きたい答えではなかったが、「何とかオープンできます」と伝える。彼女は「お願いね」と首を回し、鼻からゆっくり煙を出した。お願いされなくたって、店は開けるつもりだ。安藤さんとぐちょぐちょやれるから、は二番目の理由。フリーターは出勤しないと稼げない。
付き合わせちゃって悪いわね、と言いながら彼女は三本煙草を吸った。そして色々な言い方で「店長とはもうダメかもしれない」と口にした。そういえば巨乳って言ってたよな、と思い出す。教えてくれたのは安藤さんだ。でも大きめのパーカーを着ているからよく分からない。
「あのさ」
「はい」
「いや、やっぱりいいわ。あの人ね、二、三週間で退院できるはずよ」
言いかけたのは多分、安藤さんのことだ。ついさっきまでのぐちょぐちょを思い出し、煙草を吸いたくなる。「すいません。やっぱり一本、いいですか」と頼むと、店長の奥さんは笑いながら火を点けてくれた。
「悪かったわね。わざわざ来てもらって」
「いえ、大丈夫です」
「お店のことで何かあったら私に連絡ちょうだい」
ハイ、と渡された名刺には「セラピスト」と書いてあった。それがどんな職業なのか俺は知らない。
店までは歩いて帰ることにした。久しぶりの煙草、それもメンソールの後味を冷たい缶コーヒーで紛らわす。大通りから商店街に入ったタイミングで、街灯が鈍い光を放った。気付けば日が暮れかかっている。
結局肝心なことはよく分からないままだ。店長がどうして飛び降りたのか、さっぱり見当がつかない。決まっているのはこれからしばらく店長がいないこと。ネット販売のことは安藤さんに任せればいいのかな。いや、それより先に考えなければいけないのは、このことをどう伝えるかだ。濁すような嘘で店を出た手前、余計にハードルが高くなっている。
客観的に考えれば「バイト先の店長が飛び降りた」は結構なトピックだ。実感があまり湧かないのは当事者だからか、それとも本当に興味がないからか――。そんなことを考えながら歩いていたせいで、案外早く店に戻ってしまった。店内にはまあまあ客がいて、安藤さんは新しく届いた段ボールを開けながら「お疲れ様でーす」と声を張った。
伝えるなら早めの方がいい。中華街にも誘いやすくなるし、と思うものの、なかなかチャンスが来ない。あのさ、と切り出そうとする度に接客業務が邪魔をする。
「今日だったんですかね、放送」
「放送?」
「あれ、聞いてませんか? 先月だったかな、テレビの取材があったって」
「へえ、そうなんだ。何チャンネル?」
「いや、そういうんじゃなくて、何ていうんですか、ケーブルテレビ?」
理由はどうあれ、客が多いのに越したことはない。普段なら面倒くさがるところだが、これは店長の一件のせいだろうか。心のどこかで、俺はこの店がなくなるような気がしている。
閉店間際になって、ようやく話せる状態になった。ここは小細工せず、ストレートに伝えた方がいい。
「あの、店長なんだけどさ」
「足首、折ったらしいですね」
そうなの、と思わず訊いてしまった。我ながら間抜けな声だ。怪訝な顔で安藤さんがこっちを見る。
「いや、さっきそんな話は……」
「奥さんから電話ありました。迷惑かけるけどよろしくって」
美人の無表情は怖い。今日は中華街、無理かもしれないな。驚いたよね、なんて鈍い言葉しか出てこない。
「うーん、まあいつかこうなるかなって感じでしたけど」
そうなの、という二度目の間抜け声を何とか飲み込む。できれば一服したいところだが、あいにくこの店には煙草も喫煙スペースもない。
(第39回 了)
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