「浅草 文学&ミステリーツアー」という特集である。どこぞの雑誌のいつぞやの、土地が文学を生むの生まないの、関西文化圏が何となく優位、といった特集と違い、なかなか興味深かった。ようするに浅草というところは面白い、ということだ。文学があろうとあるまいと。
対談は、駒形どぜうの六代目主人越後屋助七と、その三代目越後屋助七を描く小説を準備中の、時代小説作家の河治和香。対談の駒形どぜう代々の話は、江戸もすぐそこ、あたかも最近のことのような気がする。
明治以降、これもまたすぐそこの江戸から地続きの話だが、駒形どぜうの常連客であったのは永井荷風。席が決まっていて、そこ以外には座らなかったという。その席が埋まっていて、他に座ると、まるで「客」にでもなった気がしてしまうのか、それとも単に身体的に収まりが悪かったのか。久保田万太郎は必ずしもどぜうが好物ではなく、五代目主人が好きで会いに来ていたそうだ。
これらは、たまたま「永井荷風」であり「久保田万太郎」であるが、それは我々が知っている記号であるにすぎない。浅草は駒形どぜうの座敷に座ってみればわかるが、そういうジジイたちはいて、みごとなべらんめえでしゃべっている。それは文学などとは無縁の光景だ。だからこそ耳をそばだてたくなる。だからこそ書いても人の興味を惹く。文学的アトモスフィアをなぞって観光地化されているなら、喜ぶのは田舎もんだけだ。江戸っ子は田舎もんをバカにはするまいが、じれったがる。
時代小説というのは、その時代に生きた特定の人物を描く場合でも、市井の人を主人公にする場合でも、時代の雰囲気や精神をかなり核心を突くように捉えなくてはならない。でなければ、文学金魚のテレビドラマ批評でも言われていた通り、チョンマゲを結った人々の現代劇にすぎなくなる。
江戸という時代はつい最近なので、その時代に生きていた人はすでにいなくても、その時代にあった組織やら法人やらがいまだに残っていることがある。八百善とか駒形どぜうとか、老舗として昔の気風を保っている料理屋などを題材とすれば、時代の雰囲気を伝える材料には事欠くまい。名跡まで継いでいる当代が、先代や先々代の仕事について知っていることも、通常の子や孫の比ではあるまい。
しかしながら材料には事欠かないということと、時代の雰囲気の核心を捉えることとは、やはり違うように思う。組織やその当代が温存されているとなると、昔のそれが現代のそれと変わらなく見えてこよう。資料を提供してくれる当代にしてみれば、かつては今にないものがあった、と書かれても困るかもしれない。が、時代の精神を捉えようとすれば、それがなぜその時代に創業されたのかを見極める以外にはない。
辞めろコールのただ中で、突然やってきた佐藤栄作首相を、駒形どぜうの客たちが皆、拍手で送り、首相が勇気百倍を得た、という話は面白い。それも、どぜう食いに来たもんは仲間だという、文学にも社会にも関わりのない、現実にある土地の気風が、だ。
谷輪洋一
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