世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
三十五、寛十郎とオシュマレー先生
七階にいる占い師の名前を鶏蜥蜴から聞く為に、ナオが電話を持って席を立ってから十分。俺は新しいテカテに塩とレモンを振りながら、本当に自分が弱っているかどうかを知ろうとしていた。でも多分、この程度の弱り方だと確認するのは難しいはずだ。幸か不幸か中途半端なダメージ。死にそうなくらい弱っているなら話は早いんだろうけど――。
まあでも、ナオの診断は間違っていない気がする。俺は普段なら、ベタな親切やベタな優しさを馬鹿にしているタイプだ。だからといって、さっきの修学旅行の中学生たちに何かをしてあげたいという想いや、小学校の授業に協力したい気持ちに嘘がある訳ではない。もしかしたら、普段の俺はベタなものを馬鹿にしているのではなく、避けているのかもしれない。どうして? と考えると気が重くなる。きっと人気の占い師ってそういうことも教えてくれるんじゃないのかな。
「ごめん、時間かかっちゃった」
ふと後ろから声がかかる。ナオが帰って来た。お疲れ、と挙げた右手に二度軽くタッチしてから、年季の入った木製の椅子に腰を下ろす。
「ねえねえ、ラッキーだったかもよ」
「ん?」
「ちょうどその先生、空いてるんだって」
「え? 今から行くのか?」
「ううん、九時からだって。あと四十分ちょっと」
もう少しここでゆっくりしたい気もするが、こうなってしまったら身を任せた方がいい。「占いって酒呑んでてもいいのか?」という軽口を、ナオは真剣な顔で受け止めた。
「多分、占う方は平気だと思うんだよね。問題はさ、私たちがその結果をしっかり覚えられないってことなんじゃない?」
占い師に見てもらった経験は一度もない。元々興味がないから料金の相場も分からないし、イメージだって貧弱だ。ドラマやマンガのシーンくらいしか浮かばない。薄暗い部屋でマント姿の老婆が、目の前の水晶玉を覗き込むあの感じ。
「先生の名前、結構インパクトあるよ」
「ああ、何となく分かる。漫画のキャラクターみたいな感じじゃない? プロレスラーのリングネームっていうか」
「ううん、逆」
「逆?」
「ヤマモト・カンジュウロウ」
思わず「ん?」と訊き返した俺に、ナオは笑いながら字を教えてくれた。
山本寛十郎。
うん、確かに「逆」かもしれない。
「なんかさ、おっかなそうな爺さんが出てきそうだな」
「私の方の占い師の名前は、まあまあオーソドックスかな。替える?」
「あれ、寛十郎に見てもらうんじゃないの?」
「その先生が空いてるの、九時からの枠だけなんだって」
一瞬迷ったが、きっと最初で最後の経験だ。だったらインパクトのある方がいい。寛十郎なら俺がベタなものを避けている理由も教えてくれるだろう。あまり呑み過ぎていると怒鳴られるかも、と思いながらもう一度テカテを頼む。あんなに美味しかったワカモレが、少し変色し始めていた。
エレベーターで七階に上がる。扉が開くといかにも占いサロンらしい雰囲気に仕上がっていたので、思わずナオと目を合わせて笑ってしまった。薄暗い照明と微かに流れる妖しげな音楽。やっぱり寛十郎で正解だな、と思いながら壁のフロアガイドを確認する。全部で八部屋、ナオが見てもらう占い師はエレベーターの一番近く、寛十郎は一番奥だ。そう来なくっちゃ。時間は三十分らしいが鶏蜥蜴によればオーバーしがちだという。
「じゃ、終わったらこのエレベーターの前で待っとこうかな」
「オーケー」
時間は九時一分前。ナオがドアをノックする音を聞きながら奥の部屋へと移動した。他の部屋のドアにはプレートがかかっている。ボエーム前橋、シャーマン瑠美子、跋折羅梵天丸……。予想通りそれらしい名前が多いと思っていたら、最後のヤツは何だろう、ちっとも読める気がしない。やっぱりこれくらいがちょうどいいや、と目的の部屋のドアの前に立ち「山本寛十郎」のプレートを見る。一度深呼吸をしてからノック。返事がないので「失礼します」とドアを開ける。一歩踏み入れた俺は思わず「すいません……」と謝った。部屋の真ん中あたりに座っていたのは、「寛十郎」らしさが微塵もない黒のチャイナドレスを着た女性だった。部屋が暗いので顔はよく見えないが、女性であることに間違いない。今出したばかりの一歩を元に戻す。
「お待ちください」か細いが、よく通る声だった。「あなたは九時からご予約されていた……」
「あ、はい。いや、でも、もしかしたら部屋が違ったかもしれなくて……」
「いいえ、大丈夫ですよ。私が山本です」
かろうじて「え?」と不躾に訊き返さずに済んだ。寛十郎、は読み方次第で女性の名前になるのかもしれない。すいません、ともう一度頭を下げてから再び部屋に一歩踏み入れる。予想以上に広い部屋は小ざっぱりとしていて、それはそれで予想外だ。
そちらにお掛け下さい、と示されたのは飾り気のないパイプ椅子。寛十郎は複数のリモコンを操り、部屋の雰囲気を整えていく。よく見ればこの部屋は薄型のモニターだらけだ。俺の椅子の左右にも、ちょうど目線の高さにそこそこ大きいモニターが一台ずつ置かれているし、床の上にもサイズの異なるモニターが不規則に置かれている。一番大きいのは、天井から吊り下げられた寛十郎の背後のスクリーンだろう。
「はい、お待たせしました。では、始めましょうか。あの、もう少し前に来てください」
一番小さいモニターは寛十郎の机の上にある。他には数冊のノートとデスクトップのパソコンとスタンドライト。残念ながら水晶玉はない。
近くで見る寛十郎は端正な顔をしていた。二十代後半に見えるけど、意外と三十代かもしれない。とびきりの美女というわけではないが、質感が普通とは違う。街角で芸能人、特に女優を見かけた時の一際目立っている感じと似ているかもしれない。化粧のせいなのかな、と思ったタイミングで寛十郎は小声で「ありがとうございます」と言った。しかもはにかんだような表情で。聞き間違いでも見間違いでもない。もしかしたら考えたことが読まれている? そんな突拍子もない疑問を抑え込むように、寛十郎は改めて自己紹介をした。
「本日はようこそお出で下さいました。私、ヤマモトカンジュウロウと申します」
やっぱりカンジュウロウ……! そんな驚きを無視して、一斉に全てのモニターの電源がつく。映し出されたのは緑色の恐竜……ではなく爬虫類の顔。これは多分――イグアナだ。寛十郎は「正解です」という感じで、にっこりと俺に笑いかけた。
サイズの異なる複数のモニターが、同時に同じ映像を流すのは変な感じがする。映し出されているのがイグアナなら尚更だ。基本的に動きが少ないから、微かな変化がとても目につく。名前、生年月日、血液型、家族構成を寛十郎に問われるがまま答え、両方の手相を見てもらっている間、俺は天井から吊られた大きなスクリーンに映るイグアナに釘づけだった。
「よかったです」
「?」
「中には苦手な方もいらっしゃいますから」
一点を凝視し続けるイグアナの目を見ているうち、これはただの映像ではなく、今実際に中継しているのではないかと思えた。
「この部屋の中に先生はいらっしゃるんですよ」
寛十郎はイグアナを「先生」と呼んだ。再び考えが読まれたことより、そっちの方が気にかかる。
「こうすると正面からの映像になりますね」
寛十郎がパソコンのキーボードを軽く叩くと、一斉に複数の画面が切り替わった。まるでたくさんのイグアナに睨まれているみたいだ。
「さあ、後は気持ちを楽にして下さいね。そのまま先生の目をご覧になりながら、何度か息を大きく吸ったり吐いたりしてみましょうか」
これは「イグアナが占う」というコンセプトなのだろうか。イグアナ占い、なんて聞いたことがないけど、ただ俺が知らないだけで結構よくあるタイプなのかもしれない……。こんな風に邪念が積もっていく俺を、何も言わずに寛十郎は見守ってくれる。彼女、ではなく彼、いや、やっぱり彼女はこれくらい簡単に見通しているはずだ。
「寛十郎は本名なんです」
ほら、この通り。その名前だと今まで結構苦労しただろうな。でも今こうして名乗って商売をしているということは、案外気に入っているのかもしれないし。
「学校は中学、高校と男子校だったんで、そんなに気になりませんでした。でもカンジュウロウって、響きがいかついでしょう? そういうのでからかわれたりはしましたけど」
黒いチャイナドレスの胸のふくらみを見ながら、その言葉を聞くのは不思議な気がしたが、こっちを覗き込むイグアナのせいか疑う気持ちはこれっぽっちもない。もしかしたら寛十郎、俺とタメくらいかな。
「今度の誕生日で三十二歳です」
もう即答されても驚かない。気付けば俺は数分無言のままじゃないか。これが占いかどうかだって、もはやどうでもいい。イグアナが気難しい表情のまま、微かに顔を動かした。
「私はオシュマレー先生と向かい合ったお客様の内側を覗かせて頂くだけです。そういう意味では、占っているのは私かもしれませんが、私自身にあまりその意識はないんです」
先生にはちゃんと名前があった。そうか、もう俺は占われているってことか。でも何を? 金運とか恋愛運とか仕事運とか、何を見てほしいかをまだ決めてない状態なのに――。
寛十郎はそれに答えることなく、軽く微笑んでから頬杖をついた。元々男だったと聞かされても、その表情から名残を探し出すことはできない。オシュマレー先生と寛十郎に見つめられながら、ゆっくりと時間は過ぎていく。
気付けばBGMは小さなピアノの音だ。簡単そうな曲を子どもが弾いているようなたどたどしい調子で奏でている。まさかこれもこの部屋のどこかで実際に、と考えると寛十郎がすっと背筋を伸ばした。黒いチャイナドレスに浮き上がる身体の輪郭を遠慮なく見つめる。
「この部屋に入っていらした時から、ひとつとても気になっていることがあります」
ああ、これから嫌なことを言われるんだな、という予感がする。医者から重い病気の宣告をされる時ってこんな感じなんだろう。自然と厳しくなった表情のまま「はい」と話を促す。
「とっても綺麗なんですよね」
予想外の言葉だった。その真意を知りたくて、また「はい」と話を促してみる。
「あなたはほとんどすり減っていないんです」
その言葉を聞いても真意は分からない。俺の何がそんなに綺麗だというんだろう?
当然この内側の声を寛十郎は聞いている。慎重に言葉を選びながら、ついさっきまでメキシコ料理を堪能していた俺に答えを教えてくれた。
「どの部分、ということではなくて、全体なんですよね。あなたの心全体が外気に触れてこなかったというか……、つるっとしている。本当、そんな感じなんです」
自らカメラに近付いたらしく、さっきよりもアップになったイグアナの顔に視線を合わせたまま数分が過ぎた。心が綺麗、といえば聞こえはいいが、きっとそういう意味でないことは寛十郎の表情から分かる。言っちゃった、という感情と申し訳なさが混ざり合った複雑な表情。
「すり減っていた方がいいんですよね?」
わざわざ口に出したのは、内側を読まれたくなかったから。無駄な抵抗だろうけど、それ以外には何も浮かばない。
「いいかどうかは分からないんですけど、そっちの方がノーマル、というか多数派だと思います」
「あの、これからどうすればいいんですかね? 気を付けた方がいいこととかありますか?」
これではまるで診察に来た患者だ。名医・寛十郎はさっきメモした俺の名前や生年月日に目を走らせ、机の上の小さなモニターに映るオシュマレー先生と意思の疎通を図っている。BGMが、このたどたどしいピアノの音でよかった。
もうそろそろ三十分になる頃だが、寛十郎はモニターを見つめたまま動かない。時折目を閉じる瞬間があるが、あのタイミングで俺の内側を覗いているようだ。
心を外気に触れさせていない、という言葉が意味するところと、今までベタなものを避けてきた可能性は同じ結果を指している。そう受け取ればいいのだろうか。ベタなものから自分の心を守る理由に心当たりなどないが、寛十郎がそう言うならそうなのかもしれない。
「もう少しだけ、具体的にお伝えしてみようと思います」
寛十郎が視線をモニターから俺に移した。もう少しと言わず、全部教えてほしいくらいだ。
「今もあなたは、心の全体を外気に触れないようにしています」
「今も……」
「はい。多分、頭では分かっている大きなこと、ショックなことを、心に伝えたくないのだと思います」
ようやく閃いた。そういうことか。安太と冴子のことが浮かび、寛十郎はそれを覗き込む。オシュマレー先生は目を閉じているが、きっと必要な所作なのだろう。
「その人たちと会えますか?」
「……」
「会えるけど会いたくない。そういうことですか?」
「……いや、会いたくないというか……」
「それが、外気に触れさせないという意味です」
明らかに寛十郎の口調が厳しい。たしかに安太たちに会えば、心はすり減りそうな気がする。ノケモノであることを認めるのはつらい。
「大丈夫ですよ」
「?」
「心がすり減るのは、悲しいことではありません。正確に言えば、その悲しさを乗り越える経験が待っています」
「経験?」
「チャンスだと思って大丈夫です。悲しみを乗り越えるチャンスなんです」
寛十郎のか細い声を聞いているおかげで、今なら大丈夫だと思える。あの二人と会って、自分がノケモノだと突き付けられても、俺はそれを乗り越えられるだろう。
「あの、先生、最後にひとつだけ教えてください」
「何でしょうか」
「いつ頃会うのが良いでしょうか?」
そんなことか、という感じで寛十郎はリラックスした表情を見せる。
「出来るだけ早いうちに、そうして下さい」
当然と言えば当然の答えだ。大きなスクリーンに映ったオシュマレー先生は、「分かったか」という感じで口をパクパクと動かした。
(第35回 了)
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