ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
11(前編)
訪問の前に電話を掛けてきたのは、最低限の礼儀、形式的なものだろう。そのぐらいのことは、自分にだってわかる。とにかく逃がさないようにしたに違いないが、無論、逃げる気遣いなどいらない。
玄関を開けると、背広姿の男が二人、立っていた。
一人は三十代、もう一人は瑠璃と同年輩か、少し上だろう。
リビングに通し、並んでソファに掛けさせた。この間、瓜崎の妻が坐った場所だ。仁はおらず、お茶の用意もないが。
二人は各々、名刺を出した。山本警部補に、若い方は堀田という。
「瓜崎さんが今朝早く、東京湾の堤防にうち寄せられて」と、山本警部補が言った。
「どこです?」
「品川です。最後に姿が見かけられた、お店に近いところで」
「でもあの辺り、海なんか」と言いかけ、瑠璃は黙った。
湾岸、埋め立ての再開発地域だ。周り中がすべて海。が、コンクリートとビル、エンタテイメント施設で視界が遮られている。
「ショッピングモールを抜けたところに、小さい公園がありましてね。排水溝と水質管理の施設を取り囲む形で。コンクリートの壁が切れ込んでいて、高い鉄の網壁がある。海が覗けるわけです」
「そこに瓜崎くんが?」
山本警部補は頷いた。「よそで水死して、流れ着いてきたのかもしれません。排水溝があるというものの、排水量はそう多くなくて、むしろ海流が流れ込んでくる場所ですし」
「いつ頃、亡くなったものですか?」
口に出してから、まさにそれが訊きたかったことだと気づいた。
「それはまだ、ちょっと」と、若い方の堀田が制するように言った。
「今、鑑識が調べています」山本警部補が続けた。「あの場所、エビが釣れるらしいんですよ」
「エビ?」
「排水の温度が高いせいでしょう。栄養分も豊富で、必ずしも有害物質を垂れ流しているわけでなく、水質管理もされてる。意外といいエビだそうです。もちろん捕獲なんか禁止ですがね。鉄網を乗り越えて、釣り糸を垂れてるのがしょっちゅういる」
そういう連中の一人が、瓜崎を見つけたということか。
「ええ。さすがにすぐには通報できなかったらしくて。家に戻って釣り道具を置いて、着替えてから電話したってわけです。葛藤もあったでしょう」と、山本は可笑しそうに言う。任意の事情聴取というより、世間話に来たようで、やっぱりお茶を出さなくてはならない気がしてきた。
「ま、これで当分あそこには、エビ釣り仲間は近寄ってこない」
「ええと、香津さん。瓜崎さんの姿を最後に見られたのは?」
堀田が割り込んできた。見かねて本題を、という感じではあったが、最初からの役割分担とも思えた。
「五月の、あの、」瑠璃は言いよどんだ。
「九日の晩ですか」と堀田が促す。
「はい。ええ、金曜で。芝のシーサイド・ビアという店です。そう、さっき電話がかかってきましたが」
二人の警察官は、とうに承知している、というように頷いた。
「そこで瓜崎くんと食事して。お会いしたのは二十年振りくらいです。いえ、以前に同窓会で、ちらっとお見かけしたけど」
その同窓会で、姫子が倒れて亡くなった。
あざみ野でのその出来事は、湾岸署だという二人に伝わっているのだろうか。今、瑠璃があえてそれに触れなければ、何とか思われるだろうか。
「同窓会か」
迷っている間に、山本警部補は息を吐いた。
「そういう年代ですよね。同窓会に呼ばれて、旧交を温めるきっかけになる」
はい、と瑠璃も苦笑いで応じる。
「二年前まで、主人とロスにいたものですから。大学卒業以来、ずっとあちらで。もちろん、ちょくちょく日本に戻ってはいましたが、同級生との交流などは一切なくて」
「九日の晩、瓜崎さんと二人で食事されることになったのは、どういう経緯で?」
瑠璃の話を無視するように、堀田が訊いた。
「瓜崎くんが、わたしに話したいことがあると、人伝てに聞いたんです。それで連絡を取ってみました」
「その話は、何でした?」
瑠璃は一瞬、宙を眺めて言葉を探した。実際、何と説明したらいいのだろう。
「取り立てて話したいことがあるわけではなかった、ということでした。ただ、話したかったな、と言ったのが、そう伝わったと」
「では、昔話を?」
「ええ、まあ。そうです」
堀田は黙り込んだ。警察官二人の間でスイッチが切り替わったかのように、山本警部補が、うーん、と首を傾げる。
「お店の人は、何だか、ずいぶん熱くなって話しておられた、と言ってましたが。ちょっと言い合いみたいにもなっていた、と」
瑠璃は内心、舌打ちした。やはり見られていたのだ。瓜崎の妻にも、それが伝わっているだろう。
「そういう瞬間も、あったかもしれません」
率直に。できるかぎりは事実に沿って。
「昔の出来事に関する記憶が互いに違っていて、苛立つことってあるじゃないですか。今となっては、思い違いを正す術もないけれど」
「瓜崎さんが、昔のことで事実と異なる解釈をしていたわけですか? つまり、あなたを苛立たせるような解釈を?」
些細なことです、と瑠璃は言った。「学生時代の友人だから、つい遠慮なく言い合ったんです。お酒も入ってましたし」
同級生同士で酔っぱらって、くだを巻いたとでも思ってもらっていい。ただ、それが男と女だっただけだ。
「具体的に、どんなことだったかお聞かせ願えませんか」
山本警部補は微妙な笑みを浮かべていた。機嫌をとるようでもあり、事務的な冷たさもあった。
そうですね、と瑠璃は呟く。「あまりにも馬鹿馬鹿しくて」
「お願いしますよ」山本は言う。「思い出せるだけで結構ですから。今、わかっているかぎり、瓜崎さんの最期に一番近い様子ですし、ご家族にとっても」
「二十二年前、同級生が山で事故死しまして」
ややこしい話に、警察が介入してくるのは避けたい気分だった。
「彼に最後に会ったのが瓜崎さんだったので、そのときに、二人でどんな話をしたのか、と」
今と同じ状況ですね、と堀田が口を挟んだ。
確かにそうだった。
死んだ鮎瀬が死んだ瓜崎に、最後に会った瓜崎が、最後に会った瑠璃に入れ替わっただけだ。しかも肝心なところは互いに記憶がないときている。瓜崎は故意に、瑠璃は、よくわからない体調不良で。
「で、どんな話をしたと言ってました?」
「はっきりとは答えてくれませんでした。覚えてない、とかで」
二人の警察官も、あのときの瑠璃と同様、腑に落ちない顔つきだった。
「実は学生時代に、瓜崎くんに付き合ってほしいと言われたことがありまして。わたしは別にお付き合いしていた人がいて。結局は、今の主人と結婚したんですが。そんなこんなで多少、感情の行き違いがあって。亡くなった同級生は、わたしのことで心配していて、それで瓜崎くんを訪ねて話していたんだ、と言う人がいて」
山本と堀田は、ちっともわからない、という様子だった。
「まあ学生の戯言で、よくある馬鹿げたことです。だけど、亡くなった同級生とわたしとは、さほど親しくもなかったので、それも信じられないし。昔のこととはいえ、彼がその直後に事故に遭ったと思うと、はっきりさせたい気持ちがありました」
「瓜崎さんは、それに応えてくれなかったわけですね」堀田が言った。「どうしてでしょう?」
「ですから覚えてないそうです。そもそも瓜崎くん自身、わたしに言い寄った事実もない、と」
なるほどね、と山本警部補は頷く。「それで、あなたと言い合いになった。プライドの高い人だったんですね」
「わたしだって、今さら瓜崎くんとの過去の経緯なんか、ほじくり返したいわけではありません。ただ、そんなことで彼の、つまり死んだ同級生の最期の記憶をねじ曲げてしまうなんて」
わたしだって、やってやると瑠璃は内心、思った。
瓜崎の最期など、知ったことではない。誰だって、自分に都合のいいことしか思い出さないのだ。
「その頃、根も葉もない噂がいろいろ流れたんです。振られた瓜崎くんが腹立ち紛れに、わたしのひどい悪口を言っていた、とか。そんなのも思い出して頭にきちゃって。でも今、考えると、瓜崎くんが言ったという証拠もないし。わたしを貶め、その機を捉えて瓜崎くんにも嫌がらせしたい連中もいたようで」
「どんな悪口です?」と案の定、堀田が身を乗り出す。
「口にしたくもないことです」瑠璃は答えた。「売春婦とか、その類の」
やれやれ、というように、山本は首を横に振った。
「歳月が経ったとはいえ、そんな人と、よく二人で食事しようなんて思いましたね。ま、温めなきゃならん旧交なんてのは、多かれ少なかれ、そんなもんでしょうが。気が合うなら、ずっと付き合いが続いている」
哲学ですね、と瑠璃は笑った。
「肝に銘じます。話がある、と聞いたものですから。弁明でもするつもりかと」
「されたのは昔話だけですか? 共通の友人の近況とか、よもやま話とかは?」
ええまあ、同窓会もあったことですし、と瑠璃は言葉を濁した。
「同窓会でも人が倒れて、亡くなられたんでしょ」
堀田が、メモ帳に視線を落として言った。
「はい」瑠璃は仕方なく頷いた。やはり知っているのだ。
「彼女の話もしました。瓜崎くんは大学院時代、彼女と親しかったようで」
それ以上の質問は、なぜかなかった。堀田はメモ帳を見たまま、山本は自分の鞄の金具をわけもなく眺めている。すると姫子はやはり、単なる病死だったのか。
「自殺、ということはないんでしょうか?」
瑠璃はふいに思いついたことを口にしていた。「瓜崎くんのことですが」
「そんな素振りが?」山本警部補は向き直った。
いいえ、と瑠璃は言った。「でも、」
でも。でも、もしそうなら、あのメールもなんとか説明がつく。
「香津さんの携帯から送信された、メールのことですが」
堀田が低い声で言い出した。「確かに、ご自身で送られた覚えはないんですね?」
「受け取った皆さんからお聞きになったなら、その通りです。絶対にありません」
「携帯を手から放されたのは、洗面所に立たれたときですか?」
瑠璃は頷いた。警察に対する、ほぼ初めての明確な嘘。これだけなら許されるだろう。許されなくてはならない。
「ハンドバッグを持たずに、洗面所へ?」堀田が突っ込む。
「もちろん持って行ったと思います。ええ、持って行きました。ただ、携帯は置いていった、と」
「テーブルに?」
「いいえ」瑠璃はゆっくり答えた。「たぶん椅子の上に。腕時計をしないものですから、時間を見ようと思ってバッグから出して、そのまま」
椅子の上なら、あったとしても店の者の目にはつきづらい。
「すると、そのときに誰かが椅子の上から携帯を取り上げて、例のメールを打ったというわけですかね」と山本が言った。
誰かと言っても、その状況では瓜崎以外はあり得ない。
「さあ。でも、他には考えられません」
なぜか記憶が飛んでいる、などとは口が裂けても言えない。あることないこと、すべて自分のせいにされても仕方ありません、と降参するのと同じだ。
「携帯を置いて行ったというのは確かですか? 洗面所には、どのくらいいました?」堀田の質問は切り口上だった。
「わかりませんよ」瑠璃はのらりくらり答えた。「時計代わりに取り出して置き忘れるのは、よくやります。洗面所にいた時間は、はっきりしません。だいぶお酒が入ってましたから」
そうだ。酔っぱらって意識朦朧、記憶が曖昧というのはよくある話だ。そのひどいやつだった、と思えばいいではないか。
「かなり飲まれたわけですね」軽い調子で山本が訊いた。
はい、と瑠璃は頷いてみせた。「今、思うと。洗面所で眩暈を覚えました。吐きまではしませんでしたが」
「すると瓜崎さんにも、あなたが洗面所にしばらくいるだろう、という予想はついたってことですね」
「かもしれません。とにかくわたしの方は、どんなメールでも、およそ打とうという気にならない状態でした」
「でも、お店の人は、お二人ともしっかりされていたと言ってましたよ」と、また堀田が口を挟む。
「顔に出ないタイプなので」と、瑠璃は気にせず受け流した。「みっともないし、堪えてました」
山本警部補はしばらくメモを取っていたが、「では、どうも長い間、お邪魔いたしました」と、あっさり立ち上がる。
「あの、」と、瑠璃の方が慌ててしまった。「今、お茶を」
「いや、お構いなく」
二人は廊下を玄関に向かった。瑠璃は急に、手持ち無沙汰な気分に襲われた。
「では、失礼いたします」
「あのう、瓜崎くんの方は酔っぱらってなかったと思うんですが」
瑠璃はつい、余計なことを訊いた。
「わたしと別れてから海の近くまで行って、足を滑らせるってことがあり得るでしょうか。もし、自殺でないなら」
うーん、と山本は低く呻る。
「とにかく、まだ何とも。ただ、事故ではないと見ています。いずれ報道でも出るでしょうが、実は足に錘が付いてまして」
「錘?」
足に錘。やくざのやり口ではないか。
(第21回 第11章 前編 了)
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