男がいて女がいて、二人はふとしたきっかけで知り合った。運命的な出会いではなかった。純愛でもなかった。どこにでもいる中年男女のママゴトのような愛だった。しかし男は女のために横領という罪を犯し、社会から追いつめられてゆく。では女は男からなにを得てなにを失ったのか、なにを奪いなにを与えたのか・・・。詩人、批評家でもあるマルチジャンル作家による、奪い奪われる男と女の愛を巡る物語。
by 文学金魚編集部
昼頃ホテルを出ると男と女は栄まで歩き、シティーホテルのラウンジで朝食兼昼食の食事をとった。ホテルは証券取引所に近かった。かつての同僚はほとんど転勤で散っていたが、それでも知り合いに会う可能性はあった。しかし男は頓着しなかった。むしろ女といっしょのところを誰かに見られたいという不遜な気持ちがあった。食事を終えコーヒーを飲みながら男は「これからのことを考えたんだけどね」と女に話し始めた。
使い込んだ金は、自宅を売却するか預貯金を吐き出せばなんとか返却できるだろう。もちろん妻とは離婚になり、慰謝料や娘の養育費を払う必要がある。しかし金さえ戻せば会社は告訴しないのではないかと思う。もし告訴されても金を弁済しておけば、執行猶予が付く可能性は高い。だから職を選ばなければこれからも働き続けることはできる。それからお前に渡した金だが、お前はあれがどんな金なのかまったく知らなかった。お前も事情を聞かれるだろうし、金も返さなくちゃならないが、俺の方で元金を返しておけば分割返済が許されるんじゃないかと思う。最初の話しと違うが、お前の方でマンションを売って生活を精算してくれれば、苦しいけど二人でなんとか再出発できると思う・・・。
男は言葉を選びながらゆっくり話した。実際、使い込んだ金の動きについては自分の言葉通りになる可能性が高いと思った。しかし一番の問題はそこに辿り着くまでだった。東京に戻れば会社の人間や妻に、青竹を絞るような苦しみの中で金や女について説明しなければならない。その苦しさを思うと気が滅入った。しかし男はそれについてはなにも言わなかった。
女は神経を集中させて話しを聞いていた。男が話し終えると「なんとか、なりそうね。この際、いっぺんに全部片付けちゃうわけね。わたしもその方がいいかもしれない」とポツリと言った。
女は両手にコーヒーカップを持って口に運んだ。その仕草にわずかだが女の安堵が見て取れた。男は身体を起こし、椅子の背もたれ深く身体を沈ませた。女の落ちついた様子が男に余裕を与えた。男はできるだけ軽い口調で、「お前に迷惑かけることになって、ほんとに済まない。でもお前、あの金って、俺が言ったとおりのものだと思ってた?」と聞いた。
「そりゃぁ、ちょっと変だと思ったわよ。健ちゃんサラリーマンだし、そんなに簡単に稼げるものかなって。でも嬉しかったのよ。健ちゃん本気なんだなぁって。だから・・・そうだなぁ、あんまり考えないようにしてたのかなぁ。考え始めると、お金のことだけじゃなくて、いろんなことがいっぺんに不安になっちゃうから」
女はまた今の結婚への不満を口にし始めた。夫はわたしの気持ちが離れてるのに何も気づこうとしない、わかろうともしない、むしろ結婚した頃よりもベタベタとまとわりついてくるの。彼の両親はわたしを彼の所有物だと思ってるみたいで、なんでも押し付けてくるし、田舎のお母さんに相談してもそんなの当たり前で我慢しなさいって言うばっかりで、ずっとこのままなのかと思うと気が変になりそう。わがままでもなんでも、わたしだって今の生活変えたいって思い続けてたわ・・・。
「ねぇ、健ちゃん」女は口調を変えて話し続けた。
わたしたち、超貧乏になっちゃうよね。でも古くても、2DKくらいのアパート借りられるかなぁ。二人でワンルームだと、いくらなんでも狭すぎるよね。それに子供、ほしいよね。健ちゃん、頑張ってね。それに子供少し大きくなったら、軽自動車くらい買おうね。そしたらドライブとかディズニーランドとか、三人で行けるじゃない。あ、わたしと暮らし始めたら株はもうやっちゃだめだよ。それからね・・・。
「できるよ」、「そうしようよ」
相づちをうちながら男は女の話を聞いた。なにかに憑かれたようにとめどもなく話し続ける女を見ているのは苦しかった。ほんとうにそんな日がやって来るのだろうかと思った。男はいたたまれなかった。
「でも東京に帰ったらいろいろ大変で、少しの間、会えないかもしれないから、今日と明日は新婚旅行みたいなつもりでゆっくりしようや」
そう言うと男はテーブルの伝票に手を伸ばした。なんとか女の話を打ち切りたかった。「うん、そうだね」と女が嬉しそうに笑った。
男と女はラウンジを出ると証券取引所の前を通って白川通りの方に歩いていった。明後日は東京に帰るはずだとはいえ、二人ともスーツ姿だった。下着の替えなどもなかった。時間があるのでデパートを見て歩いた。男はこんな時でも真剣な表情で服を選ぶ女の姿を見守った。女の買い物に付き合うのは学生の頃以来だった。女は胸元に濃いブルーの縁取りがしてある白のワンピースを選んだ。
次は男の番だった。「ジーンズなんかいいんじゃない?」という女の言葉に「無理だよ」と答え、男はチノパンとストライブ柄のシャツを選んだ。いつもの習性で薄い麻のジャケットを合わせた。鏡の中に少しお腹の出た中年男が映っていた。「あら似合うわよ。新鮮だわ」と女が言った。男は鏡越しに女の笑顔を見た。
ビジネス用カバンとハンドバックだけでホテルに泊まるのは変なので、デパートの一階で旅行用の小さなキャリーバックを買った。その日は夕方過ぎに栄のシティーホテルにチェックインした。
翌日は松阪に向かった。とても新婚旅行のような気分にはなれなかったが、都会であと一日過ごすのはきつかった。
男は東京と同様にビルが林立し、有名デパートが立ち並ぶ名古屋の繁華街でも路地を一本入れば独特の文化が根付いていることを知っていた。しかしそんな微妙な都市文化を堪能するには今の男の神経は粗すぎた。大都会から離れたかった。できれば静かな自然の風景に包まれたかった。男は女の背中を軽く押し、名古屋駅から鮮やかな赤いストライプが胴に入った快速みえに乗り込んだ。
ワンピースに身を包んだ女はスーツ姿よりもずっと若々しく見えた。軽やかな服に着替えて気持ちも華やいでいるようだった。男の方も緑濃い車窓を眺めているうちに、少しずつ心が落ち着いてくるのを感じた。
女は車内でもだんだん田舎になってきたね、健ちゃんの実家のあたりよりもまだ都会なのかな、わたしの実家の方はこんなもんじゃないよ、すごい田舎なんだからと喋り続けた。電車は一時間ほどで松阪に着いた。男と女は松阪駅前のシティーホテルにチェックインし、荷物を預けると外に出た。
曇り空だが気温はさほど高くなく、過ごしやすい日だった。社用で数回来たことはあるが、町をゆっくり歩くのは男も初めてだった。駅前の大通りを抜け、曲りくねった上り坂を歩いてゆくと御城番屋敷に出た。江戸時代に紀州藩士たちが住んでいた屋敷町だった。女は「武士ってほんとにいたんだね」と素っ頓狂な声を上げた。多くの家にまだ人が住んでいることを知ると、「いい雰囲気だけど、暮らしにくそうだなぁ」と言って笑った。一軒だけ内部が公開されている屋敷を見学してからきれいに石畳が敷かれた道を辿って松阪城に向かった。屋敷前のよく手入れされた生け垣が鮮やかに緑で美しかった。
松阪城は立派な石垣は残っているが、建物はもう失われていた。ところどころ崩れかけた石組みが物寂しかった。しばらく歩くと広大な天守閣跡に出た。人影はまばらだった。男は柵もなにもない切り立った石垣近くまで行って、足元に拡がる松阪の市街を眺めた。「すごいなぁ」とつぶやくと「ほんと遠くまで見渡せるね。気持ちいい」と女が答えた。女の右腕が男の左腕にしっかりと絡みついた。男と女は風に吹かれながら薄い雲に覆われた町を眺めた。
男が女と初めて腕を組んだのは最初に寝た夜のことだった。ホテルでセックスしたあと、駅までのわずかな距離だった。男も女も黙ったままだったが、男は背広の上から伝わる女のしなやかな腕の感触にのぼせ上がるような喜びを覚えた。まるで少年の頃に戻ったようだった。女を抱いたことも嬉しかったが、腕を絡ませ身体を密着させてきた女により強い愛情を感じた。無防備にまとわりつく腕の感触が、女が自分に心を開いたあかしのように思われた。その時の胸の高鳴りは今も変わらなかった。男は天守閣跡の空地をゆっくり歩きながら女の腕を引き寄せた。
「あなたが本気だとはどうしても思えません。昨日のことは忘れて今からでも別れましょう」
「あなたは遊びだと思う、わたしを抱きたかっただけだと思う。わたしは本気だけどあなたはそうじゃない」
初めて女と寝た翌日、携帯を開くと女から思いがけないメールが届いていた。男は驚いた。満ち足りた気分は一瞬で吹き飛んだ。物静かでどこにでもいそうな小柄な女は、確かに男の愛撫とセックスに激しく応えてくれた。大胆だった。無防備に心も身体も男に委ねてくれた。男はそれが、女が望む愛で二人が結ばれた瞬間だと思っていた。しかし女はすぐにまた捉えがたく、逃げていきそうな存在になっていた。
「愛してる、すごく愛してる」
男は痴呆のように愛の言葉を繰り返した。
会っている間はよかった。強引にホテルに誘って身体を重ねている間は女は男のものだった。心と身体が通じ合った。しかし行為が終わると女は不安な目で男を見ながら「ほんとに愛してるの?」と何度も聞いた。男は「愛してる、ホントに愛してるんだ。どうしてわかってくれないんだよ」と言うことしかできなかった。しかし男を見つめる女の目が「ウソだ」と言っていた。
普段はどちらかといえば優柔不断なのに、愛に関してだけは女は容赦なかった。男のわずかな心の動揺も見逃さなかった。もう愛の言葉だけではダメだった。男は「なんでわかんないんだよ」と怒鳴った。「お前、どうかしてるぜ。俺はどうすればいいんだよ」と怒りながら部屋の中を歩き回った。女は裸の身体をベッドに横たえたまま、冷たい声で「だって信じられないんだもの。わたしが欲しい愛とは、なにかが違うのよ、説明できないのよ」と言った。
女との激しい愛の押し引きが続いた。一日中携帯をいじっていることも珍しくなくなっていた。女との関係が安定してきたのはここ半年ほどのことだった。
男は女が「健ちゃん」と自分を呼び始めたのはいつ頃からだろうかと考えた。女と身体の関係ができてからしばらくしてのような気がした。それまでは「健介さん」だった。女は単に親しみを込めた呼び方に変えただけかもしれなかった。しかし女の呼び声は男の心を激しく揺さぶった。心地よかった。世界中で自分を「健ちゃん」と呼んでくれるのは女しかいないと思った。
男と女は松阪城趾から坂を下り阪内川のほとりに出た。コンクリートの護岸で覆われた川は狭かったが風は寒いくらいだった。階段を降り、川縁に出てみると水は意外なほど澄んでいた。遠くに低い山並みが霞んで見えた。あの山からここまで川が流れてきているのだと思った。都会でも田舎でもなくちょうどいいぐあいに拓けた美しい町だった。
歩き疲れたので喫茶店に入った。瀟洒な外観に反して中は恐ろしく古ぼけていた。煙草の煙で黄色く燻された木の壁に、色褪せた紙のメニューが貼ってあった。
「すごい店だね」
注文を終えると女がと小声で言った。「うん」と答えたが男は急に睡魔が襲ってくるのを感じた。「悪いけどちょっと寝かせてくれないか」と言って椅子にもたれかかり、腕を組んだ。
「え、ここで寝ちゃうの? ねえ起きてよ、ねえ。信じられない」
女の声が聞こえた。怒ってはいなかった。女が笑いながらオレンジジュースをストローで飲む姿が男の目の中に残った。なにかとてつもなく幸せだった。男はこの瞬間をいつまでも憶えているだろうと思った。
夕食はせっかく松阪に来たのだからと駅前のステーキハウスに入った。「松阪牛ってこんなにおいしかったんだ」と女は目をみはった。ホテルに帰り男は女と身体を合わせた。今まで一度も泊まったことがないのに続けていっしょの夜を過ごせるなんて夢のようだった。しかしこれが今回の旅の最後の夜になるはずだった。それは女もわかっていた。
女は男の求めによりいっそうの激しさで応えた。「わたしの男だから、わたしの好きにしていいでしょ」と言って果てた男を口でもてあそんだ。男は女の白く艶やかな背中に手を伸ばし脇腹に滑らせた。両手で乳房を包み込んだ。再び股間に力がみなぎってくるのを感じた。男と女は飽くことなく互いを求め続けた。もう求め、頼れるのはこの女しかいないと思った。
(第05回 了)
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