世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
三十一、イチョウ色の爪
すみません、と言いながら気付く。昨日、コンビニから戻ってくると待っていた、イチョウ色のワンピースの子だ。
「あ、昨日……」
ハイ、とはにかむ彼女は意外と背が高かった。そしていい香りがする。そういえばあの後、店に入ってきたのに驚いて椅子を倒しちゃったんだよな。
「今日はアンドウさん……」
いるんですけど現在取り込んでまして、とはさすがに言えない。振り返って店の様子を確かめる。判定が難しいところだが、多分オープン状態には見えないだろう。
「すみません。本日トラブルがありまして、もうしばらく開けるまでに時間がかかりそうなんです」
「あ、そうなんですねえ」
そう呟いた表情が微妙だった。特に驚いた様子もないし、がっかりした雰囲気でもない。この子、待つ気なんだな。そう思える顔だった。まあ、昨日も来たんだから仕方ないか。このまま立ち去るのはおかしいけど、これもまた仕方ない。その前に鍵だけはかけておこう。開ける時は音がしないように気をつけたが、さっきの様子なら大丈夫。雑に鍵を突っ込む。
「じゃあ、私はこれで……」
俯き加減で振り返り、ダサいWELCOME足拭きマットから一歩踏み出す。そのタイミングで呼び止められた。
「あ、待って下さい」
「……?」
「もうお帰りになるんですか?」
「いや、今日は遅番なんで……」
言いながら筋が通らないなと思う。店は現在トラブル発生で開店時間が遅延。だとしたらこの店員は今、中から出てきて何をしているんだ?
「あの、アンドウさんの先輩の方ですよね?」
「え?」
「ごめんなさい。私、彼女の学生時代の知り合いなんですけど、少しお話は聞いていて……」
学生時代? 思わず無遠慮に青いワンピースの顔を見る。ああ、そういうことだったのか。さっき聞いたばかりの「トウコさあああん」という声が蘇った。
店から少し離れたファミレスを選んだのは俺だ。「お店開けるまで付き合ってもらっていいですか?」という、不意打ち且つ真っ直ぐな要求の断り方なんて知らない。あの場で色々詮索されたくなかったので、「これから食事するんですけど、それでもよければ」と口走ってしまった。嘘を言ったつもりはない。今日は長くなりそうだ。これから一悶着あるかもしれない。さすがにトースト一枚では乗り切れないだろう。
道すがら「何かすいません」「いえ、全然」を何度か繰り返しながら、彼女が知っていることの範疇について考える。いったい安藤さんから何をどこまで聞いているんだろう。無論細々と考える必要はない。ポイントはひとつ。あの晩のぐちょぐちょを知っているか否か、だ。
メニューの一番最初に載っていたハンバーグの定食を頼み、ドリンクバーから帰ってくるまで、また「何かすいません」「いえ、全然」を数回。アイスコーヒーにガムシロを入れてから、やっと簡単な自己紹介をし合った。真正面から見る彼女は端正な顔立ちだったがどことなく男性的、ハンサムで、女子校でモテていたというエピソードを思い出した。
名前:アユカワトウコ
年齢:二十四歳
職業:出版社勤務
――そう、出版社だ。あの夜、道玄坂のホテルで安藤さんが話していた。頭に記憶の断片がぼんやりと浮かんでくる。たしか大学は都内ではなくて、中国人の友達が多くて……。いや、違ったかな。ぐちょぐちょのせいか自白剤のせいか元々の記憶力のせいか、確信が持てない。
「お待たせいたしました」
彼女の注文はパンケーキだった。普段あまり縁がない食べ物だ。皿の上の物体をチラチラ見ながら、蕎麦が好きだったという話も思い出す。
「蕎麦屋の方が良かったですかね?」
そう口走りそうになってしまった。ダメだ。早すぎる。こっちの手の内はまだ明かさない方がいい。
「どうぞどうぞ、食べちゃって下さい」
「はい、では遠慮なくいただきます」
彼女は器用にナイフとフォークを使ってパンケーキを口に運ぶ。両方の薬指と小指の爪がイチョウ色に塗られていた。昨日は安藤さんと同じ歳なら大人っぽいと思ったが、二十四歳だと知った今でもまだ年上に見える。
「なんか、ごめんなさい。私ばっかり……」
「いえ、全然気にしないで下さい」
一通りの自己紹介は終わっている。これから先は何を話そう。自分から「付き合ってもらっていいですか?」と切り出した彼女は俺から安藤さんのことを聞きたいはずだ。いや、もしかしたら安藤さんに頼まれて、俺のことを探っているのかもしれないし、俺越しに店長のことを調べようとしているのかもしれない。色々と考えすぎたせいで、まもなく運ばれてきたハンバーグ定食の味はよく分からなかった。
先に食べ始めたのは彼女だったのに、食べ終わるのは俺の方が早かった。残っていたアイスコーヒーを飲み干してドリンクバーのコーナーに行く。頭の薄い中年サラリーマンが、グラスのギリギリのところまでメロンソーダを入れていた。時間のせいか店内は空いている。ゆっくりアイスコーヒーを注いで席に戻ると、彼女はちょうど食べ終わったところだった。
「ごめんなさい。私、食べるの遅くって」
「いいえ、全然です。甘い物、好きなんですか?」
「元々は苦手だったんですけど、ヒメがかなり甘い物好きだったんで、それに引きづられてというか……」
「ヒメ?」
「あ、彼女のあだ名っていうか……。昔はみんなそう呼んでたんです」
「安藤さんを?」
「はい。彼女、昔からとても綺麗だったんです。本当にお姫様って感じで」
その姫は今、あの店のバックヤードで店長とやりまくって、あなたの名前を何度も呼んでいるんだけどな。そんな皮肉めいた気持ちとは裏腹に、さっき蝶番の隙間から覗いていた痴態を思い出し、足の付け根にまた血が溜まる。「トウコさあああん」という声を聞いたら、この子はどんな反応を示すだろう。それとももう、とっくに聞いたことがあるのだろうか。
「姫は本当に人気があって、あ、うちの学校は女子校で、駅からバスに乗るんですけど、電車の中でもバスの中でも、他校の男子から告白されてたんですよ。なんか一度盗撮騒ぎみたいなこともあって、結構目立っていたんです」
あの夜の安藤さんは、自分が「姫」と呼ばれていたことや、そんなに人気があったことを言わなかったが、その気持ちは何となく理解できた。そんな話をしながら、初めての相手といやらしい時間を過ごすのはきっと難しい。
仲良くなったきっかけは、と知らないふりで訊いてみる。たしか同じ部活だったはずだ。
「部活が同じだったんです、軽音部だったんですけど」ほら見ろ、正解だ。「私たち、二人ともベースだったんで、それがきっかけかもしれません」
ベースは意外な気がしたので素直にそう伝えてみる。そうなんですかねえ、と彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「確かに姫ならもっと目立つパートでもよかったんですよね。ギターとかヴォーカルとか。でも、同じベースだったから何となく話すようになったんで、私にとってはかなりラッキーだったんですけどね」
楽しそうに話す人は眩しい。その眩しさを避けようと、俺は薬指と小指のイチョウ色の爪を目で追う。うちの学校って変わってて高一が中学四年なのでチューヨンなんですよ、という話にも「へえ」と初めて聞いたふりをした。
中五の時に入部してきた安藤さんとの距離がぐっと縮まったのは、夏の合宿だったという。懐かしそうな表情を崩さない彼女にはもっと細かなところまで話してほしかったが、俺をただのバイト先の先輩だと思っているなら、あまり前のめりになってもおかしい。この人はいったいどこまで知っているんだろう、とジリジリしながらアイスコーヒーを飲む。
「部活がある日は必ず一緒に帰ってたんですよ。学年も違うし、組んでるバンドだって当然違うから、時間が合うことは珍しくて、どっちかが必ず待つことになるんですけど、大体学校の近くの児童公園で待ってるんです。女子校のくせにコソコソして変だなって思うかもしれないんですけど、私たちの場合学年の差もあったし、色々面倒くさいこともあったんですよね」
もうバックヤードの二人は服を着た頃だろうか。それともまだ店を開けずに貪りあっているのか。こうして彼女と向かい合っていると、嫉妬とはまた別の感覚が膨れ上がってくる。
どうして俺はあの二人のことを、このトウコさんに知られたくなかったんだろう?
もちろん最初は普通の客だと思っていたからだが、彼女の正体が判った今、ここで真実を打ち明けたって構わないのに、何故俺はそうしないのか? ちゃんとした理由があれば安心できるが、なかなか見つかりそうにない。案外、ただ俺が面倒くさいだけかもしれない。
「でも中六になると私の方が色々とあって、あまり一緒にいれなくなっちゃったんです」
理由は分かっているが「え?」と驚いてみる。トウコさんは「彼氏ができちゃったんです」と正直に白状した。ほら見ろ、安藤さんから聞いた話と同じだ。
「今思えば舞い上がってたんですよね。男の人と付き合うのが初めてだったし、しかも大学受験もあったから余裕がなくなっちゃって、姫との時間をあまり作れなくなったんです」
女の人とは付き合ったことがあったのかな、とイチョウ色の爪を見ながら考える。もしストレートに尋ねたら答えてくれるかもしれない。
「せっかく姫と一緒にいても、勉強のこととか彼氏のこととかが少しでも気になると、すぐバレちゃうんですよ。姫がすごいのか、私がダメなのかは今も分からないんですけど」
トウコさんの話を信じるなら、安藤さんにはそれこそ「姫」のような部分があるのかもしれない。ふと「私で最後にしておきなさい」というあの声を思い出した。
「で、部活は引退して行かなくなるし、LINEのやり取りなんかも無くなっちゃって、気付いたら大阪で大学生になってたって感じなんですよね」
それ以降はまったく連絡がなくなっちゃって、と彼女は声を潜める。大学時代の四年間を大阪で過ごした後、都内の出版社へ就職。六年近く安藤さんとは何の接点もなかった。まるで今現在の話のように暗い表情で話し続けるトウコさんを見ていると、安藤さんがその間こっそりフェイスブックを覗いていたことを教えてあげたくなる。それだけではない。余計な言葉だってぶちまけたい。たとえば「安藤さんはトウコさんとしたいだけなんですよ」と。会話や食事は望んでいないことも伝えてやりたい。
普通に考えればあまり嬉しくないような気もするが、彼女がどう捉えるかは分からない。物事の良し悪しなんて、ぐちょぐちょが絡めば簡単に覆ってしまう。
だから「結構六年って長いですよね」という言葉に意味はなかった。「そうっすねえ」とか「まあまあ」とか「ったくよお」とかと同じ、息をする為の発声にすぎない。でもトウコさんはその言葉に食い付いた。
「ううん、全然長くないですよ」
すぐに返事をしなかったのは、俺に向けての言葉ではないと思ったから。彼女の視線は俺を飛び越えて、もしかしたらまだ貪り合っているかもしれない安藤さんを見ていた。
「本当、びっくりしたんですよ。たしかに私、フェイスブックはやってますけど、ずいぶん放ったらかしにしていたんで、あの日チェックしたのも本当偶然っていうか、理屈じゃ説明しづらいっていうか」
休日の昼下がり、彼女が見つけたのは差出人不明の自分宛てのメッセージ。よくあるスパムの類でないことは、タイトルに記された「姫」の一文字で分かった。
「特に文章なんかはないんです。ただ、あのお店の住所と『フォー・シーズン』という名前、あとは写真が一枚……」
「写真?」
「はい。ハチ公の前で撮った姫の写真なんですけど」
軽く鳥肌が立った。実はその写真を撮ったのはボクなんですよ、と打ち明けてみたい。でも躊躇したのは、あれが道玄坂のホテルから出てきた直後だったから。朝からケバブサンドとコーラを食べて、安藤さんは合皮のレザージャケットにロックバンドのTシャツだった。そうか、あの後でトウコさんに連絡を取っていたのか。じゃあ、やっぱりあの晩のぐちょぐちょは知られている――。
「私、すぐに分かったんですよ。姫が私を必要としてるんだなって。ああ、やっとこの日が来たんだなって」
これも俺に向けての言葉ではない。トウコさんは安藤さんに対して話している。もちろん本気だ。俺は邪魔にならないよう細心の注意を払いながら、話の続きを促した。
「すぐに返信しました。次の日に来た姫からのメールはすごく長くて、でも長くなるにはちゃんとした理由があって、私、泣いちゃったんです」
きっと店長のことは知っているに違いない。そして五分五分、いや六分四分で俺のこともトウコさんは知っている。とりあえずまたアイスコーヒーを飲み干して立ち上がった。一度頭の中を整理したい。そしてこれからどうするかを決めておきたい。ドリンクバーのコーナーではさっきの中年サラリーマンが、メロンソーダとアイスティーを注いでいる。スマホを取り出し店に電話をしてみた。二回試したが留守電になってしまう。まだあの二人、飽きずに貪り合っているのか。
このアイスコーヒーを飲み終えたら店に戻ろう。きっとトウコさんもついてくる。その結果、壁に手をつき、バックから犯されながら「トウコさあああん」とよがる安藤さんを見てしまっても仕方ない。そこまでは決まった。別に自棄になっているつもりはない。ただ段々と分かりかけているだけだ。
今、トウコさんが生きている世界で俺は重要な人間ではない。彼女にとって今日は安藤さんに会える日で、それ以外のことはどうでもよくなっている。だからうまく噛み合わないのかもしれない。向かい合って話してはいるが、彼女はずっと安藤さんを見ている。疎外感、と浮かんだがどこか違う。自分の世界で生きていないという居心地の悪さが全身に広がっている感じだ。もう一度店に電話をしてみた。トウコさんより早く、安藤さんにタッチしたかった。でもまた留守電。渋々左手にアイスコーヒー、右手にガムシロを持って席に戻る。彼女は一瞬微笑んだ後、また喋り始めた。
「でもね、姫は悪くないと思うんです。あんなに綺麗だけど、まだ十代なんだし、きっと流されやすいんだろうなって」
何の話かは見当がついた。俺もまた流した側かもしれない。若干の後ろめたさを抱えながら視線を落とす。イチョウ色の爪はくっついたり離れたり、落ち着きなく動き続けている。
(第31回 了)
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