人と人は、文化と文化は、言語と言語は交わり合いながら、新しいうねりを作り出してゆく。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもある、ラモーナ・ツァラヌさんによる連載短編小説!
by 文学金魚編集部
「ジュマラウの山の中に、叫びの滝と呼ばれる大きな滝があるのはご存じですよね。小学校の夏休みに、一人で叫びの滝に行ったんです。お父さんに一度連れて行ってもらったことがあるだけで、一人で行くのは初めてでした。祖父母に、危ないから行っちゃダメと禁止されていたんですが・・・。
ただ僕の父親は、叫びの滝で滑落事故にあって亡くなったんです。夏休みに週末を一緒に過ごしに来ていた父は、朝一人で山に入ったんです。叫びの滝でなにをしていたのかはわかりません。今は鉄柵に囲われて入れなくなっていますが、滝の裏に洞窟があるんです。父はその洞窟に行こうとしていたらしい。でも洞窟に行くための岩に沿った小道が、父親の身体の重さで突然崩落してしまった。父は岩といっしょに滝に落ちて亡くなってしまった。
なぜ叫びの滝に行ったのか、ですか。
そうですね、子どもっぽい冒険心もありましたが、やはり父が亡くなった場所を見たかったんでしょうね。父が亡くなってから一年も経っていませんでしたから。
その帰り道でした。疲れていたのか、父のことを思ってボーッとしていたのか、僕は足を踏み外して崖下に転落してしまった。そのあたりのことは記憶が曖昧なんです。でも目覚めてからのことはハッキリ覚えています」
僕の目の中に小川の村の光景が浮かんだ。子どもの頃と同じだった。すべて覚えているわけではないが、記憶の中にある小川の村は絵だった。絵が心に浮かび、それが動き出すのを言葉で説明すればよかった。僕はマリアさんには決して細部まで伝わらないだろう、僕の目に浮かぶ小川の村を伝えようと夢中で話した。
「最初に目覚めて見たのは大きな木でした。僕は大きな木の下にいた。真っ白な木が空に向かって枝を伸ばしていました。鮮やかな緑色の葉っぱが透明なドームになって、世界を包んでいました。枝の間から、虹色の長い羽の鳥たちがこちらを見ていました。つばさを広げて木の上を飛ぶ鳥たちもいた。枝の下に、幹を囲んで踊る人々がいて、みな昔の民族衣装を着ていました。絵本のような世界でした。額に心地よい風を感じながら眠りにつきました。
再び目覚めたとき、また同じ木の下にいました。でもよく見るとそれは、壁に掛けられていたタぺストリーの絵でした。木も、葉っぱも、虹色の鳥たちも踊子たちも、すべて細かい織物の模様だったのです。
僕は真っ白なシーツのやわらかいベッドに仰向けに寝ていました。空気はひんやりしてメボウキの匂いがしました。起きようとしたら、背中と胸がすごく痛かった。胸が繃帯でぐるぐる巻きにされているのに気づきました。
部屋の中には簡素な木の家具があり、真っ白なカーテンを通して窓から太陽の光が部屋の中に差し込んでいました。窓辺のテーブルの上に、紫や黄色の小さな花がいっぱい入った黒い花瓶がありました。壁の片隅に、ロウソクの光に照らされたマリア様のイコンが飾ってあった。お婆ちゃんの部屋に似ていましたが、知らない場所です。僕はマリア様を見てお母さんを思い出し、泣き出してしまった。
「あら、目が覚めたわいの? 神様のご慈悲はかぎりないのぉ。痛いかい?」
優しい目のお婆さんでした。ソフィアお婆さんでした。髪の毛を覆う茶色の被り物をして、白地のブラウスに黒いスカートをはいていました。
「お母さんに会いたいんじゃの。よしよし、元気になったらすぐに、お母さんのところに連れて行くわいの」
お婆さんの言葉で僕は少し安心しました。
「おなかすいただろ。チキンスープ持ってくるわい」
パンが乗った器を両手で持ったお婆さんの後ろに、スープボウルを大事そうに両手で抱えた女の人がいました。彼女もお婆さんと同じ民族衣装でしたが、頭の覆いは白くて少しだけ金髪が見えました。僕のお母さんと同じ年くらいの女性でした。
「やっと目覚めたわねぇ。心配したのよ」
二人に身体を支えられ、お母さんのような女性から、木のスプーンでスープを飲ませてもらいました。
「名前、何て言うの?」
「アン… アンドレイ」
「アンドレイ君ね、いい名前だわ。うちにアンドレイ君と同い年くらいの男の子がいるのよ。すぐ友だちになれそうね」
ふと気づくと、ドアの後ろから小さな女の子が目を丸くして僕を見ていました。僕の視線で振り向いたおばさんが、「マリオアラ、おいで、お客さん、元気になったわよ。新しいお友だちね」と言いました。
女の子はちょこちょこと部屋に入ってきました。四歳くらいで布でできた人形を抱きしめていました。明るい金髪の子で、白い服を着たかわいらしいお人形さんのようでした。
「娘のマリオアラちゃん。クリスティー君の妹。もうすぐクリスティーも戻るはずだわ。昼間は羊たちの面倒を見てるの」
クリスティーは肩まで金髪を伸ばした子で、長めの白いシャツに白いズボンをはいていました。腰に巻いていた太い布帯だけは黒地で、赤と緑のきれいな模様が織られていました。
クリスティーは人見知りで恥ずかしがり屋でした。最初はお母さんのスカートに両手でしがみついて、じっと僕を見ていました。僕はその目の青さにびっくりした。
クリスティーとマリオアラちゃんのお父さんはニコライおじさんで、背が高くてがっしりとした身体つきでした。
僕のベッドの側に来ると、「やっと目覚めたか。叫びの滝近くの岩場で君を見つけたときは、どうしようかと思ったよ。血まみれで息もしてないみたいだったから。山のふもとへ連れて行くか、わしらの里に連れて行くか迷ったんだが、日が沈もうとしてたからここへ運んだんだ。ヴァシーレ先生の手当がよかったんだな。坊や、ヴァシーレ先生と神様に感謝せよ。元気になったらすぐにお家へ連れて行ってやるからな」と快活に笑いました。
「先生、ありがとうございます」
往診に来たヴァシーレ先生にお礼を言うと、丸眼鏡を指で押し上げて、「崖から落ちたにしては君は幸運だよ。どこも骨折してない。出血と裂傷、つまりちょっとひどい怪我だな。頭を打たなくてよかった。君くらいの年だと、そうだな、十日も安静にしていればまた歩けるようになるだろ」と僕の状態を説明してくれました。
「アンドレイ、ベッドに寝てばかりじゃよくないな。もっと太陽の光を浴びなさい」
ニコライおじさんはそう言うと、まだ歩けない僕を軽々と抱き上げて家の縁側に運びました。僕の背中を家の柱にもたせかけると、毛布で身体を包んでくれた。
僕は初めて外を、小川の谷を見ました。驚きでした。風景の半分は空でした。山の縁まで広がる草原にはちらほらと小さな家が建っていて、ところどころに干し草の山がありました。静かで、羊が首から下げた鈴の音がハッキリ聞こえるんです。僕はクリスティーとマリオアラちゃんの目があんなに青いのは、こんなに空に近い場所に住んでいるからだと思いました。
ニコライおじさんに言われたのでしょう、クリスティーが僕の横に座りました。人見知りなのでモジモジして、チラチラ僕を見るのですが話しかけません。僕も何を言っていいのかわからなかった。クリスティーが羊飼いだということは知っていましたから、「羊、いるの?」とバカみたいなことを聞いてしまった。
「いるよ!」
クリスティーは目を輝かせて僕をまっすぐ見ました。
「三十匹もいるんだよ。この村で一番多いのはうちなんだ!」
クリスティーは駆け出すと、白い子羊を腕に抱えて戻ってきました。
「抱いていいよ」
子羊を近くで見るのも抱くのも初めてでした。毛がとてもやわらかくて、いくらなでても飽きません。でも子羊は震えながら、メエメエと弱い声で鳴いてばかりいます。
「この子、お母さんから離れて怖がってるんじゃないかな」
「こいつのお母さんは放牧に出てるよ。子羊たちは、もう少し大きくなるまでは山に行かせない。ワシにさらわれちゃうからね。もっと上手に遊んであげなきゃぁ」
あまり年が変わらないのに、クリスティーはもう一人前の羊飼いでした。それに村にとって羊は大事だから、クリスティーは村を支える仕事をしていたんです。
歩けるようになってからクリスティーのお母さんに連れられて、放牧から帰った羊たちを見に行きました。納屋の半分に羊たちが入れられて、乳しぼりの順番を待っていました。鈴の音や鳴き声、忙しく歩き回る羊飼いたちのかけ声でとても賑やかでした。乳しぼりが終わった羊を奥の大きな囲いへ引き入れるのがクリスティーの仕事でした。彼の背よりも高い杖を振るいながら、きれいに響く口笛を吹いて羊たちを誘導していました。
村で使う道具はホントにきれいだった。納屋の入り口に、木の桶やバケツ、大きなおたまなんかが並んだ棚があり、羊の毛が詰まっていたブラッシも十本くらい置いてありました。すべての道具に小さな花や葉っぱなど、細かい木彫りの模様が施されていました。
乳しぼりをしていた一人が、たっぷりと真っ白な牛乳が入ったバケツをクリスティーのお母さんに渡しました。
夜は必ず家族揃っての食事でした。チーズとサワークリームとママリーガは毎日食卓に並びました。メインディッシュは肉料理や野菜料理ですが、最後は必ず温ためた羊の牛乳料理が出た。
ママリーガの釜で温めた牛乳がクリスティーの大好物でした。「おいしいよ」と僕にもすすめてくれました。初めて食べる料理でしたが、とてもおいしかった。木のスプーンで釜から直接食べるんですが、お焦げがとっても香ばしいんです。「もっと食べなよ」毎晩クリスティー君は釜の牛乳を僕にすすめてくれた。優しい子でした。
ベッドに寝ていた時から、トントンという規則正しい音が聞こえてくるのに気づいていました。なんの音だろうと思っていたのですが、マリオアラちゃんが僕をその音がする場所に連れて行ってくれた。
台所の奥にクリスティーのお婆さんの部屋があり、部屋の半分以上を大きな織り機が占めていました。クリスティーのお母さんがテンポよく機を織っていました。ソフィアお婆さんはベッドに腰掛けてふわふわの羊の毛を束ね、糸にして糸巻きに巻きつけていた。
マリオアラちゃんはお母さんが織った布も見せてくれました。僕が最初に見たタペストリーもお母さんが織ったんです。まるで魔法でした。お母さんは素早く無数の糸をより分けてパタパタと機械を動かすんですが、気がつくと広い草原や森、美しい花や木々、鹿や鳥たち、そして幾何学的な模様が次々に生まれるんです。
お母さんの織物は村中で評判で、ニコライおじさんが山のふもとの村へ降りる時に持っていって売ることもあるそうです。そのお金で小麦粉やトウモロコシの粉など、奥山では作れない食材を買うんだとクリスティーが教えてくれました。
僕の一番の友だちはなんといってもクリスティーでした。クリスティーは牧童だから毎日羊の放牧に行きます。僕もいっしょに行くようになりました。お母さんが彼とお揃いの帽子と杖を貸してくれた。織物のバッグもお揃いで、水の入った瓶と昼ご飯が入っていました。「まるで兄弟ね」と見送りに出てきたお母さんが言いました。
早朝だと、羊たちは露がまだ残っている草原のほうへ走っていきます。僕らも追いかけなきゃならないんですが、日が昇るにつれて羊たちの歩みもゆっくりになる。僕らは干し草の影に座って、小川の谷や遠くにうっすらと見える街の話をしました。
太陽が空のてっぺんに上ると昼ご飯の時間です。バッグのチーズとママリーガを食べるんです。外で食べたせいかな、あのチーズはびっくりするほどおいしかった。ご飯を食べるとどうしても眠くなるんですが、クリスティーは小さいけど本物の牧童でした。寝てしまわないように帯から笛を取り出して、きれいな音を響かせていた。ひばりのさえずりと競い合うように、その旋律は谷中に響いていました。何度か借りて吹いてみたんですが、枯れ葉を散らす凩のような音しか出ませんでした。笛にも葉っぱや花の模様が刻まれていましたね。
日曜日はもちろん安息日です。家族全員で教会に行くんです。僕は普段着はクリスティーの服を借りて着ていましたが、「新しい服を作ってあげるわ」とお母さんが言いました。白い麻の布でできたシャツでしたが、襟と袖にきれいな刺繍が入っていました。これもクリスティーとお揃いでした。嬉しかったな。
小さいけど立派な教会でした。村人でいっぱいで、マリオアラちゃんと手をつないだお母さんとソフィアお婆さんは、女性たちの場所である玄関のところに残りました。クリスティーと僕はニコライおじさんにくっついて、祭壇近くからミサを聞きました。大きなイエス様のイコンがありました。その周りに無数の聖人や天使たちの顔が描かれていた。ニコライおじさんは、いつも僕とクリスティーの肩に手を置いてくれた。
神父さんは二人で、白い髭の神父さんと黒い髭の神父さんでした。聖書を読んだり祈りの歌を歌ったりしました。村人がときおり僕を見て、軽く会釈したり笑いかけるのに気づきました。知らない人ばかりでしたが、狭い村ですから僕がニコライおじさんの家に転がり込んだことは、村人全員が知っているようでした。
教会の敷地に学校があったので、クリスティーが連れて行ってくれた。村の建物と同じ白い建物でした。
「夏休みだから授業はないけど、奥の図書室は毎日開いてるよ」
狭い廊下の両側に教室が二つありました。左側のドアを開けて、クリスティーは中に案内してくれました。木の机と椅子が三列に並んでいましたが、僕の学校よりずいぶん小さかった。
「あんまり生徒はいないの?」
「僕は小学二年生だけど、小一が三人、小四が一人、中一が三人、中二が四人いるよ。先生は一人で、生徒それぞれに違う授業をしてくれるんだ」
村の子どもたちがみな同じ教室で勉強しているのは驚きでした。教室の外に出ると、怪我を手当てしてくれたヴァシーレ先生にばったり会いました。
「おおクリスティー、アンドレイに学校を見せに来たんだね」
「そうです先生。先生はみんなの先生なんだよ」クリスティーが言いました。
「ヴァシーレ先生は学校の先生でもあるの?」
「最高の先生だよ。下の村のことも、街のことも、世界のすべてのことをよく知ってるんだ」
「クリスティー、それはおおげさだろ」
照れくさそうに笑うと、ヴァシーレ先生は奥の図書室に入っていきました。
「先生は街で生まれ育った人なんだ。この村で外から来た人は、先生だけなんだ」
「どういうこと?」
「ヴァシーレ先生以外はみんなここで生まれ育った人ばかりだよ。僕の父さんのように、たまに下の村へ降りる男たち以外、だれもここを離れたことはないんだ。男たち五人だけ、山のふもとへ行く道を知ってるんだ」
「そうなんだ…」
「僕もね、大きくなったら、下へ行ける男になって、街まで行ってみたいんだ! 羊たちの面倒を見なきゃいけないから、長くはいられないだろうけどね。二三日くらいかな」
遊びに来て、と言いたかったけど言葉をのみ込みました。子ども心に、クリスティーがとても大事なことを話してくれたのがわかったんです。
教会の庭の奥には、もみの木の影に小さな十字架がたくさん並んでいました。ソフィアお婆さんがお墓の前にいました。
僕はクリスティーといっしょにお婆さんのところに行って、「なにしてるの?」と聞きました。
「お墓のロウソクに火をつけてるんだよ。今日だけじゃないよ、毎日ここに通ってるんだ。この世を去った人たちのこと、ソフィアお婆ちゃんはいつも思ってるからね」
「ばあちゃんが亡くなったら、僕が代わりに毎日火をつけてあげるんだ。だからあんまり長く村を離れられないね」
クリスティーはほんとうに大人でした。仕事だけじゃなく、村のいろんな行事を行う男の一人だったんです。
そう、教会、墓地、葬儀・・・。
あなたがたまたま用意してくれた本に載ってた、「未婚の人の葬式の歌」ですよ!
あれを僕は実際にこの耳で聞いた、聞いたんです!
サクランボが降ってきた。家の裏にあったサクランボの木に上っていたクリスティーが、サクランボがたくさんついた枝を折って、下で待つ僕とマリオアラちゃんに投げてくれた。いっぱい日ざしを浴びたサクランボの粒は大きくて、甘くておいしかったな。
「なんだろう」
クリスティーが木から下りてきて遠くを見ました。
「行ってみよう」
僕らは墓地に駆け出しました。黒い喪服の村人たち、白と黒の髭の神父さんたち、そして花嫁衣装を着た女の子・・・。
そうだイリャナ! クリスティーはあの子は焼物師の娘で、三歳年上の子だって教えてくれたんです!
なぜ花嫁姿だったのか、ようやくわかりましたよ。
僕らはニコライおじさんに、葬儀の輪の中から連れ出された。おじさんは「死んだ人は大人が見送るからね。子どもは遠くから見送ってあげなさい」と言った。
(第03回 了)
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