世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
二十三、種
幾つか質問をしたが答えは一切返ってこなかった。彼女は眩しさに顔をしかめながら、「ねえ、ねえ」と繰り返すだけ。もう少し引き伸ばそうかと数秒迷ったが、この部屋は明るいし目隠しもない。すぐ目の前には綺麗な顔と、ベトベトにしてしまった身体。欲しい興奮が過不足なくそこに在る。鍵でもパズルでも車庫入れでも、ぴったりと嵌まるのは気持ちがいい。冷静になれるはずもなく俺は陥落した。これで何度目かは分からない。ヤバい、と引き抜いた勢いで文字通りベッドからずり落ち床に転がる。そうなっても安藤さんの「ねえ、ねえ」はしばらく続いていた。
丁寧に皮を剥くのは初めてかもしれない。本当は齧りつきたいけど我慢。多分ガブリといったらそこで終わってしまう。変なタイミングで果ててしまったが、まだ安藤さんの自白は終わっていないはずだ。トウコさんについて、店長について、今日のことについて、まだたっぷり溜め込んでいるに違いない。
だから再び灯りを消してそっと覆い被さる。ここまで来たなら、全部吐き出すところが見てみたい。俺なら大丈夫。脇の辺りをクンクンと犬のように嗅ぐと、また「今にも」な状態へ戻れた。ただ、もう焦らなくていい。少なくとも俺の方は次で最後だろう。鼻や顎や唇で産毛の感触を楽しみながら、ゆっくりと薄い皮を剥いでいく。ペロンと綺麗に分離する度、表面にうっすらと蜜が滲む。きっと御褒美だ。だってこんなに甘い。夢中になってベロベロ舐めていると、ふと彼女が口を開いた。
「トウコさんがいなかったら、私、全然違ったと思うんです」
話の内容なんてどうでもいい。大事なのは声の質。身体の上でクンクンやベロベロをされているのに、安藤さんは普段と同じ声色だ。おかしい。そしてまた敬語に戻ったのがやらしい。試しにまたペロンと皮を剥き、蜜を舐めてみたけど反応は変わらなかった。
「私、昔から褒められるのが好きなんです。外見でも中身でも何でもいいから褒めてほしいんです。こういうのって……」
へえどうして? と変なタイミングで尋ねてみたのは、どうやら「会話」ではなさそうだったから。案の定彼女は質問に答えず話を進めていく。これは「自白」だ。あの粉末、桃の後でようやく効いてきたらしい。俺は邪魔しない程度に皮を剥き続けた。新しい闇の中、安藤さんの声は少しうるさい。
外見がいいことは自分の強みだが、だからこそ出し惜しむようになった。これしか褒められるところがないから、一番最後、奥の手に取っておきたい。そういう意味の話を彼女は何度か繰り返し、その度に色々と尋ねる俺の声を無視する。構ってくれないならと少々乱暴にクンクンベロベロしてみたが、それでも反応に変化はなかった。
「綺麗な顔してるね、って最初に言ってくれたのはトウコさんだったんです。学校の帰りに二人だけで高崎のスタバに行ったり、プリ撮ったりした事もあるから、絶対大丈夫だと思ってたのに、実際は全然そうじゃなくって、トウコさん、チューロクの夏にオトコが出来たんです」
湿っぽい話になってきた。結果が出るのは遅かったが、安藤さんの方が自白剤と相性がいいのかもしれない。この白い肌の内側には、きっと言葉がたくさん詰まっている。飲んだ自白剤の量は俺の方が多いはずだが、中味がスカスカだから出て来たものは生年月日に血液型、星座、好きな食べ物や芸能人くらいだった。その後も彼女のリードがあったから、何とか言葉が出て来ただけだ。
「店長にもそういう話はしたの?」
「私、何ていうか、こういう事をする時、トウコさんのことを考えないとダメなんです」やはり彼女は「会話」をしていない。「変なんですけど、やらしいことを考えたり実際にしたりする時に、トウコさんなら仕方ないって感じで自分に許可してるんです」
だからさっきは、と納得しながら疑問に思う。今、こうしているのはセーフなんだろうか。もしかしたら、まだ俺のことをトウコさんだと思っているんだろうか。
「トウコさんの好きなバンドを真似して聴いたのが、ロックを好きになったきっかけなんです。でも、今はトウコさんと音楽の話なんかしたくなくって、ただしたいだけなんだけど……」
音楽や映画にまで脱線して堂々巡りの話が続く中、俺は皮を剥くことに集中した。その度に滲んだ蜜を舐めるから舌の先が変な感じだ。軽く痺れている。さっき安藤さんは「ロックは一人で聴く音楽」と言っていたが本当だろうか。そんな寂しいものには思えないが、俺はロックに詳しくない。今度、いや、いつか安太に訊いてみよう。
「……私、面倒くさいですか?」
不意に「自白」が「会話」に変わった。やっとかよ、と上体を起こす。俺は無言のまま彼女の両脚をこじ開け、たっぷり時間をかけて挿し込んだ。さっきより熱くなっているのは気のせいではない。拒むように身体をくねらせる安藤さんの肩を押さえ、トウコさんのことを考えないように囁く、促す、そそのかす。無理無理無理無理と悲鳴をあげるけど、中の熱さはピークに達している。やらしいのはお前じゃないか、人のせいにしてるけど、俺は知ってるぞ、やらしいのはあんた自身だって知ってるぞ――。
ようやくガブリと齧り付けた。口の周りが蜜でベトベトだが気にしない。鼻の穴に入り、顎から滴っても拭わない。目が慣れ始めた暗闇の中、隣の部屋から苦情が来そうなほどの叫び声をあげながら、安藤さんはグイグイと押し付けしがみついて来る。腿の裏が痛い。本当はそのまま流れに任せたかったが、引っこ抜けないなと分かったから堪えて逸らした。
俺の身体に絡みついた彼女は、蛇のように締め付けたままなかなか離れなかった。目の前のぬらぬらした白い肌は今だけ俺のもの。ひとつの塊になったまま時間だけが過ぎる。堪えた状態のまま挿し込み続けるのは結構辛い。もうこのまま出しちまおうかな、と自棄になりかけた頃、電池が切れたように安藤さんの身体から力が抜けた。そっと右の手の甲で触れてみる。さっきまであんなに火照っていた肌が、不安になるくらい熱を失っていた。
結局最後が不発のまま、俺は闇の中を老人のような姿勢で歩き、水圧の弱いシャワーを浴びた。とりあえず下半身だけ洗っておこう。鏡の中の姿に自信がなかったから、目を伏せたまま暗い部屋に戻る。どうせ疲れた顔をしているに違いない。
風呂の灯りが洩れているから、かろうじて物の輪郭くらいは分かる。安藤さんはさっきの絶叫が嘘のように、可愛らしい寝息をたてていた。俺は髪を乾かすのもそこそこに、全裸でベッドの脇に立つ。掛け布団に半分隠れた彼女の顔を見ながら考えていたのは、不発の分をどうしようかということ。とりあえず隣に寝そべり、綺麗な顔に何度も口づけた。そのうち向こうの舌が意思を持つ。鼻と鼻をくっつけ合いながら、黒目と黒目で疎通を図る。段々と吐息が熱を持ち、さあそろそろというタイミングで予期せぬトラブルは起きた。今度は俺の電池が突然切れやがった。安藤さんの黒目がぼやけていく。恐ろしいことに直前まで自覚症状は全くなかった。
目覚めた時、俺は胎児のポーズでベッドの上にいた。背中を向けてはいるが、隣に安藤さんがいるのは分かる。なら慌てて時間を確認することもない。シャワーの水圧が弱い分、カーテンの遮光性は高いらしく部屋は程よく暗いままだ。
まだぼんやりしているが、動けないことはない。このまま振り向いてさっきの続きくらいなら出来る。そう思い身体を伸ばそうとするが、うまく信号が伝わらない。まだ夢の中かもと疑った瞬間、安藤さんの声が後頭部に当たる。
「私とは全然違うんですね。今日が初めてだけど、そういう風に思いました」
振り返ろうとしても身体に力が入らない。試しに声を出そうとしたがダメだった。
「私はああいう事をするのにトウコさんみたいな理屈が必要で、もしかしたらそんな理屈に興奮しているだけかもしれません」
声は確かに安藤さんの声だけど、聞こえ方がおかしい。後頭部にも当たってはいるが、同時に耳元で囁かれているみたいだ。しかも両耳。たしか彼女の口はひとつだけなのに。
「きっと私とは違って、スポーツやゲームみたいな感じでああいう事をしているんだと思います。あまり深く考えることなく、好奇心や性欲が少しでもあれば、どんどん見境なくやってしまえるんでしょう? お医者さんごっこをしたがる男の子に似ているような気がしました」
きつい言い方だが間違ってはいない。ちょっとは考えたりもするんだけどな、と弁解したかったが無理だった。
「あの、怒らないで下さいね。私、本気で羨ましいなと思ってます。実際さっきも気持ちよかったし。うん、私、多分初めて理屈が無いヤツをしたんです」
理屈がないヤツ、か。あまり褒められている感じはしないな。いつでも理屈が無いわけではなく、相手によると思うけど違うんだろうか。例えばナオなら、と考えて後悔した。混ぜるな危険。今は色々考えない方がいい。
「だから治らないんだと思います。理屈がないってそういうことでしょう? これからもずっとこういう事を何度も何度も繰り返していくんだわ。うまく隠せればいいけど、多分それだって無理。そういうトレーニングをしていないし、これからもする気はないんだろうから」
変なことを考えたせいで、ナオの声に変わってしまった。ということはこれ、やっぱり夢なんだろうか。もう安藤さんはここにいなくて、俺はひとりホテルに残されているだけなのかもしれない。どうすればいい? と念じてみる。夢ならテレパシーくらい使えるはずだ。もし治したいなら、俺はこれからどうすればいい?
「それは簡単です」また安藤さんの声に戻った。「毎日、桃を食べればいいんですよ」
「それ、本当?」
「冗談です」
「は?」
「今度は正解を言いますね。もし治したいのなら、私で最後にしておきなさい」
「え? それどういう意味? お前はナオなの? それとも安藤さん?」
これはテレパシーではない。やっと喉から声が出た。そして数秒前から俺の身体は揺さぶられている。「大丈夫ですか」という声がする方に、胎児のポーズのまま振り返ってみた。ほら、手足だってちゃんと動いている。
「大丈夫ですか? うなされていたから……」
顔を半分布団で隠した安藤さんが、肩を揺すっていた。サンキュー、と礼を言って起き上がる。悪夢から抜け出たみたいに額が汗ばんでいた。
「今何時かな?」
「……そろそろ六時半です」
まだ時間に余裕があった。「いい?」と黒目で訊いてみる。まだ俺は不発のままだ。安藤さんは困ったような顔で微かに微笑んだ。理屈が有っても無くてもいいから、もう一度ひとつの塊になりたい。確かに簡単には治らないかもしれないな、と思いながら俺は彼女の布団をひん剥いた。
午前九時、二度目のシャワーから出ると安藤さんは静かに眠っていた。寝息も聞こえない。産毛の付いた皮は全部剥き、蜜が溢れる実の部分も齧り尽くした。今、そこに横たわっているのは種だけ。湿った桃の種って、よく見るとグロテスク。
「種を蒔く人のたとえ」は、多分「マタイによる福音書」の十何節かに出てくる。俺は学生時代、聖書の授業の成績優秀者だった。暗記するだけだから簡単で、世界史や古文よりも割がいい。今でも脳味噌に聖書の欠片がこびり付いている。
ただ肝心の内容は面白いほど残っていない。ナザレのヨセフも、イスカリオテのユダも、マグダラのマリアも名前を知っているだけ。キリストさんのことさえよく分からない。「種を蒔く人のたとえ」も同じ。その内容を理解しているわけではない。そんな事まで知らなくても点数を稼げるテストだった。
中学と高校の六年間、ずっと週一回のペースでチャプレンの授業や説教を受けていたが、それもほとんど残っていない。そもそも彼は、聖歌の代わりにフォークギターを抱えて歌う変わり者だった。山谷の日雇い労働者やアフリカに渡った日本人医師、戦いに敗れたベテランボクサーの歌を気持ちよさそうに歌っていた。彼の求めに応じて俺たち生徒はコーラスまでやった。今も昔も生徒側の変わり者は嫌われがちだが、教師側の変わり者は心を許されやすい。みんなニヤニヤ笑いながら、「ユーアーキングオブキングス」という歌声を古い礼拝堂に響かせていた。馬鹿らしい。あんな時間が役に立つはずがない。
――桃の種は言われた。私で最後にしておきなさい。
「私」がナオでも安藤さんでも、その意味はあまり変わらない。本当、説教ってそんな感じだ。だから良いとか悪いとかではない。単にそういうもの、というだけ。
洗面所で顔を洗い、テレビを点けると民放はどこもワイドショー。いつもならまだ寝ている時間だ。今日は家に帰らず、ここから直接仕事に行かなければ。面倒だな、と内心憂鬱になっていると「おはようございます」と安藤さんが目を覚ました。夜も酒も自白剤も使っていない、聞き慣れた古着屋店員の声だ。それが良くなかった。頭、身体、心の順で反応してしまう。おはよう、とソファーから立ち上がり、もう食べる箇所どころか甘みすら残っていない種に俺は齧りついた。最初は苦労するけど慌てることはない。ほら見ろ。三年待たなくても甘い蜜が滲んで、気付けば実も皮も産毛もちゃんと出来てくる。これが栗でも柿でも同じことだ。
三度目のシャワーは一緒に入ろうかな、と企みながら腰を反らせて一番奥に届かせる。暗闇には暗闇なりの、明るい場所にはこんな感じの楽しみ方がある。その体勢のまま「朝飯、何食べようか?」と尋ねると、照れ臭そうに「ケバブ」と答えた。瞬間、目の前の彼女の腹筋が微かに歪む。それだけで一気に血が滾ってしまった。やっぱり美人は得だ。
チェックアウトは十一時だが、少し早めにホテルを出た。もちろん一緒にケバブを食べるためだ。道玄坂から渋谷駅までの道すがら、安藤さんと並んで歩く。手をつないだりはしない。見られて困る人と遭遇する可能性は少ないが、今は接触しない方がやらしい。それだけだ。
あまり眠れなかった身体に、いきなりケバブサンドとコーラは少々ヘヴィーだが、目を覚ますには丁度いいかもしれない。安藤さんも「ここのケバブ屋、朝の九時前には開いてるんですよ」と言っていた。合皮のレザージャケットの下に、ロックバンドのTシャツ。あの綺麗な腹筋の女の子が、俺の知っている短大生のコスプレをしているように見えてくる。
「このまま直接お店に行くんですか?」
「時間的にはその方がいいかな。安藤さん、今日の予定は?」
一瞬、微妙な表情を見せたのは店長のことがあるからだろう。学校行ってみようかな、と曖昧なことを呟いてケバブに齧りついた。今、これからの話をするつもりはない。彼女から尋ねられても、のらりくらりとかわすつもりだ。
「あの、ひとつお願いがあるんですけど、いいですか?」
ほら来た、と密かに身構える。昨日のことは内緒に、とか、店長のことで相談が、みたいなヤツが来るはずだ。大丈夫、全て叶えてさしあげましょう。
「後で写真撮ってほしいんです」
「写真?」俺の予想は当たらない。
「はい。えっと、ハチ公の前で撮りたいんです」
「うん、いいよ。いいけど、その写真どうするの?」
「地元の友達に送ろうかなって。なかなか頼める人がいないっていうか、頼める人と運良く渋谷に来ないっていうか……」
十分後、そんな可愛らしい願いを叶えると、彼女は「ありがとうございます」と頭を下げ、センター街の方へ歩き出した。もちろん行き先なんて尋ねない。
俺はこれから地下鉄で三軒茶屋まで。ただその前にナオへ連絡をしておこう。もうそろそろ実家から戻っている頃だ。電話をかけるとすぐに「おはよう」と聞こえる。何となく昨日の「私で最後にしておきなさい」という声は、この声だったような気がした。
(第23回 了)
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