Interview:鶴山裕司著『夏目漱石論―現代文学の創出』出版記念(1/2)
鶴山裕司:一九六一年生まれ。著書に詩集『東方の書』『国書』(力の詩篇連作)、評論『夏目漱石論―現代文学の創出』などがある。『正岡子規論-日本文学の原像』近刊。
寅間心閑:一九七四年生まれ。大学卒業後、少々不安定な時期を経て会社員になる。労働と飲酒の合間を縫って、日々鋭意創作中。
■小説を書き始めたきっかけについて■
鶴山 寅間さんとは前に一度お会いしましたよね。
寅間 文学金魚大学校セミナーの時にチラッと。もう三年前になりますが。
鶴山 あの時は何を書いてたんだっけ。
寅間 文学金魚で『証拠物件』を連載していた時期だと思います。
鶴山 『助平ども』は全部読んでるんだけど、かなり吹っ切れた感じですね。昔は相当ヤンチャだったの?(笑)。
寅間 人並みに(笑)。
鶴山 小説ではリアルな体験を書くわけじゃないけど、ある程度の体験がないと書けないですよね(笑)。寅間さんの小説は処女作の『再開発騒ぎ』から読んでるけど、母親の影が薄いね。蓮っ葉な女が母性を体現する女性に変わってゆくことが多い。
寅間 子どもの頃は、母親との距離があまり近くなかったかもしれません。子どもが気づいちゃうくらい、過保護な親だったので(笑)。もちろん家で暴れたりはしてませんけど。
鶴山 お父さんは?
寅間 父親は仕事が忙しくて、ほとんど家にいなかったです。だから子どもの頃にいっしょに遊んだ記憶とか、どこかに連れていってもらった記憶もあまりないんです。
鶴山 寅間さんの小説では女性の解釈が独特ですね。もちろん普遍的なリアルな女なんて存在しない。だから作家が設定した女でいいわけだけど、男にとって女性は異性で謎を託しやすいから、特に女性登場人物の処理方法に男性作家の癖みたいなものが出ます。
寅間 今とは違う女性の書き方をすると、多分、下手くそな女性像になっちゃうんでしょうね(笑)。
鶴山 作品を読んでいると、やっぱり作家の人となりがある程度はわかって来る。寅間さんはお坊っちゃんというイメージがあるね。でないとあんなにたくさんレコードは買えない(笑)。
寅間 実のところ、あまりお金で苦労したことはないんです。親から仕送りをもらっていたとかじゃなくて、大学に行きながら、アルバイトでちょっと割のいい仕事に就けたりしたんですね。元々は教育営業職だったんですが、だんだん問題のあるお子さんとかご家庭が専門になっていったんです。「あなたは髪が長いんだから、ちょっとあの家に行ってくれない?」という感じで、難しい子どもとご家庭専門の家庭教師みたいなことをやるようになりました。人様のお宅に上がり込んで悩みを聞いたりしたんです。大学時代ずっとそのアルバイトをやってました。四年くらいやってたのかな。
鶴山 寅間さんは今年で四十五歳ですよね。僕は文学金魚新人賞を受賞した大野露井さん、小松剛毅さん、原里実さん、青山YURI子さんに一回くらいは会ったことがあって、彼らと話していると、全員文学仲間はいなかったって言ってたんです。寅間さんはどうですか?
寅間 僕もそうですね。
鶴山 それは今じゃ普通のことなのかな。
寅間 モノを書いている人って、外にバレにくいですよね。バンドや演劇をやっているとグループ行動が多くなりますから、あいつはこんなことやってるんだってことがわかりやすい。だけど小説を書いていてもバレない。僕は文学金魚で新人賞をいただいてから、初めて回りの人に小説を書いていると話して、「ああそういうことしてたの」と言われました(笑)。大学とかで文学サークルに入っている人はまた別でしょうが、誰にも知られずに書いている人は意外と多いかもしれません。
鶴山 一方でツイッターなんかで小説や詩を書いています、どこどこに作品を発表していますと自己発信している人も多いでしょう。寅間さんはSNSでそういう自己発信はしてなかったんですか?
寅間 してなかったですね。文学金魚新人賞をいただいてから、ペンネームでアカウントを作って多少の発信はするようになりましたが。それでも文学上の人格と普通の生活の人格は分けています。
鶴山 小説はいつ頃から書き始めたんですか?
寅間 ちゃんと小説を書いてみようと思ったのは二十九歳の時です。今はもうないんですが、公募ガイドの第一回目の賞の時に運よく次席に選ばれたんです。それもあって、なんとなく小説を書き続けるようになりました。だけどやっぱり大きな賞の受賞を狙いたがるところがありましてね(笑)。そうするとあまりいい結果が出ないというのが十年くらい続きました。
鶴山 多くの小説家が通過してきた道筋だね(笑)。ただ寅間さんは小説を書くのに苦労しないタイプだな。
寅間 書くのは辛くはないです。
鶴山 さっきSNSの話をしたのは、二分化しているのかなと思ったんですね。二分化というのはSNSで自分の創作を発表したりする人たちがいる一方で、純文学小説の文芸五誌とか大衆文芸誌の新人賞に応募する人たちがいると。紙媒体をターゲットにしている人たちは、SNSでの活動はあまりしないのかなとチラッと思ったんです。
寅間 両方ともガンガンやっている人は少ないかもしれませんね。売れている方だけかな。
鶴山 売れっ子作家は自分の読者に向けて情報を発信してゆくという面がありますからね。
寅間 これは僕の個人的な考えですが、SNSで情報を発信するのは敷居が低いと言いますか、やろうと思えば誰でもできる。ですから僕はSNSで、たとえば自分の小説を百四十文字にして発表するといったことはあまりやりたくない。ピンと来ないんです。そうじゃなくて、古いかもしれませんが、何かの媒体に小説を応募してなんらかの評価を得て初めて、ああこれで自分は何かを言う資格があるのかなと思えた方がいいんです。そういう積み上げ方の方が自分に嘘がなくていいと思います。
鶴山 そうするとまったく文学仲間がいない状態で、どうやって自己と他者との距離を取ってゆくんですか? 他者からのダメ出しがない状態だと、いくらでも自分に甘くなることができますよね。また誉められたり激励されたりすることも少ないわけだから、これはいけるといった感覚も掴みにくいでしょう。
寅間 僕にとっての一番はっきりとした他者、社会の評価は、小説を応募したけど受賞できなかったという結果です。細かくどこがダメだったのかは、最終候補くらいまで残らないとなかなか教えてもらえませんが。ただ落選というのが、唯一の自分の作品に対する評価というか、作品について考えるための手がかりだったんです。それにたまたま知り合った仲間を読者にしても、クールな批評をもらえる可能性は低いでしょう。そういう意味では仲間がいなくてただ賞に応募し続けたというのは、あまり気が散らなくてよかった面もあります。小さい成功をものすごく大きな成功だと勘違いすることがなかったので、それはそれでよかったかもしれません。
■物語について■
鶴山 小説に限らず詩のジャンルでも、作家のレベルがすごく低下しているという実感があります。僕は一九八〇年代に本格的に詩を書き始めたんですが、その頃はまだ小説で食べていけた純文学作家がいました。でも今では大衆作家ですら、だんだんそれが危うくなっている。文学といえども経済と密接に関係していて、やっぱり食えないジャンルに優秀な人は来ない。むしろ現実社会のどのフェーズでも脱落した人たちが集まってきている気配がある。以前はそこに、実社会にあえて反旗を翻す反逆者が混じっていたんだけど、そういう人じゃなくて、文学なら好き勝手できるという根拠のない幻想を抱えて、文学の世界に逃避するように人が雪崩れ込んできている気配があります。
寅間 ただみんな小説を読まなくなったかもしれませんが、それでも物語、ストーリーは好きなんじゃないでしょうか。だから若い俳優がテレビの中で物語を演じるのをみんなが見たりする。みんなが物語に対してまで興味を失ってしまったらちょっと絶望的かもしれませんが、まだみんな物語に強い興味を持っていることは、唯一の小さな灯りというか、希望じゃないかと思います。
鶴山 人間が物語に興味を持たなくなることはないと思います。物語に興味を失えば、テレビ、映画、マンガ、小説といったジャンルがすべて消滅してしまう。エンタメがこの世からなくなってしまいます。中上健次が晩年、盛んに物語の力について語ったでしょう。物語が持っている力はものすごく強い。ただ従来的な物語の作り方が、少しだけ変わらなければならない時期に近づいていると思います。寅間さんは基本的にオーソドックスな小説の書き方をしますよね。起承転結の物語展開で男女の痴情を中心にする。ただ原里実さんの『佐藤くん、大好き』とかは、ちょっと現実世界から足が浮いているでしょう(笑)。いい悪いの問題ではなくて、オーソドックスな小説を基盤にして、少しだけ新しさも追求していかなければならない。
江國香織さんの初期作に『神様のボート』という作品があります。あれは母と娘が交互に語る小説なんだけど、ママはパパは素晴らしい人でいつか迎えに来ると言っている。シングルマザーなんですね。でも娘はだんだん大きくなって、パパは迎えになんか来ない、ママは男に捨てられただけの女だってことに気づく。でも最後までママはパパが迎えに来るのを待っている。お釈迦様が来迎するように、パパが迎えに来るのを待っているんですね。これは原里実的といえば原里実的で(笑)、地上の物語でありながら、小説の枠組みを少しだけはみ出している。でも江國さんは『東京タワー』などで、きちんと地上の物語に戻って来る。『東京タワー』は観念幻想が破れた中年女が地上で若い男と戯れる小説でしょう(笑)。その両方のベクトルが小説には必要だと思います。
小説で一番マズイのは、物語が天上に舞い上がってしまうことです。詩人の小説が典型的ですね。詩人は「雨ニモマケズ」に慣れてるんだな。宮澤賢治の「雨ニモ負ケズ」は四十行くらいの詩ですけど、「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」は耳で聞いた瞬間に理解できる。たいていの人が「そうだね、こうありたいね」と思う。でもこの詩は冒頭の二行で終わっている。この後、五十行続こうと百行続こうと同じ。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」を例にしても同じですが、これが詩の一つの典型的なあり方で、ピタッと焦点が合ってしまった。それ以上誰にも動かせない。狙撃手がロックオンしたようなものです。
詩人はこういった観念的断言に慣れているのですぐに天上に行きたがる傾向がある。地上の出来事を総括して天上で決着をつけようとするんだな。だけど小説は雨が降って風が吹いているけど傘がない、金もない、濡れるのもイヤだ、傘を盗もうか、それじゃあ犯罪者になってしまう、ああそこに傘を持ったいい女がいるじゃないか、あの女をナンパして・・・から始まる(笑)。観念では決して解決できない地上の人間関係のもつれを書くのが小説なんですが、詩人さんたちはそういった俗事に対する免疫がない。昔大江健三郎さんが谷川俊太郎さんとの対談で、「小説を書く詩人はいっぱいいるけど、ろくな作品を書いてないじゃないか」とホントのことを言っちゃったけど、それはまあたいていの小説家が腹の中で思ってることですね(笑)。小説のセオリーは確実にあります。まずそれを押さえないと新し味のある小説を書くのは難しい。
寅間 音楽でも詞はいいのに小説だと一気にクオリティが下がる人がいます。職業作詞家の方がきちんとした小説を書ける傾向がある。詞とメロディ両方を作るソングライターは、う~んという小説になることが多いですね。具体的な名前を出すとマズイですが、歌詞と小説両方をうまく書いてゆくためには、やはり頭を切り替える必要があると思います。
鶴山 ステージに立つソングライターは、専門作詞家とは快楽原理が違うでしょう。もしかしたら足が短いという点では、いい詩が書けたときの詩人の気持ちよさに少しだけ通じる面があるかもしれないけど、小説家のような長距離ダンプの運転手には向いてない(笑)。ジャンルの垣根って、越えられそうで越えられないんだな。
今は混沌とした時代だから、詩人や歌人、俳人が小説を書いたり、小説家や批評家が詩を書くといったことがけっこう行われています。でもたいていは、見よう見まねで小説のようなもの、詩のようなものをなぞってるだけなんだ。じゃあジャンルを混交するのかというとそれも難しい。ジャンルの混交はジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』一冊で十分でしょう。パウンドは「一冊傑作を書いた作家は数作駄作を書く権利がある」と言って、ジョイスの詩集『ポームス・ペニーチ』を擁護したけど、それは『フィネガンズ・ウェイク』に対しても言えますね。小説家としてのジョイスは『ダブリナーズ』と『ユリシーズ』で終わっている。『フィネガンズ・ウェイク』は革命だったけど、永続革命はあり得ない。革命を引き延ばそうとすると必ず堕落する。元に戻るしかない。元に戻ったときに、少しだけ何を変えるのかが作家のセンスかもしれません。
各文学ジャンルの根本を押さえないといい作品は書けないと思いますが、そんなことを考えるのは僕が元々は詩人だからでしょうね。読者の数という面でも経済面でも、小説家は社会とつながっています。現代ではなかなか難しいけど、いったん小説家のレールに乗ったらあとは考えなくてもいい面がある。どんどん作品を書いて、本が売れるか売れないかだけ気にしていればいい。だけど詩人はそうはいかない。社会との接点が薄いというだけでなく、詩というジャンルの定義自体が曖昧なんです。
詩は原理として自由詩で、形式的にも内容的にも一切の制約がない。とすると何が詩を成立させる要件なのかということになるわけだけど、これが意外と厄介な問題でしてね。たとえば詩として電話番号をずらりと並べたとします。数字の羅列ですね。たいていの人がこれは詩じゃないと言うでしょう。じゃあ最後の方に、これは昭和二十年八月十五日の広島原爆投下で亡くなった人たちの家の電話番号です、いくらかけても電話が繋がらない指の記憶から戦後が始まるといった詩行を付け加えてゆくとどうなるか。三分の一くらいの読者は「詩かな?」って言い始めるかもしれない。小説は物語の整合性がとれていれば一応は作品として成立するけど、詩はある瞬間に詩に変わってしまうところがあるんです。そういう詩の原理を考えざるを得ない詩人が、今みたいな混沌とした状況の中で、詩だけじゃなくて小説、俳句、短歌も書こうと思うと、どうしても各ジャンルの原理を考えざるを得ない。
お名前をあげると殺されちゃうのでやめますが(笑)、数々の優秀な詩人が小説を書いて、中途半端な小説家の域にしか到達できなかったという歴史があります。誰だって同じ轍は踏みたくない。小説作法を表面的になぞるように書いても限界があるということです。そうすると小説の原理は何かということになる。極論を言えばやはり物語に収斂するでしょうね。詩ではある程度可能ですが、面白く奇抜なレトリックを使うだけで優れた小説を書くことはできない。寅間さんは、ベタな大衆小説はどう思いますか?
■純文学と大衆文学について■
寅間 読者に喜んでもらえればいいのかな、という思いは少しあります。でも作家がどういう小説なら読者は喜んでくれるのかハッキリわかっていなくて、読者の方でもどんな小説を求めているのかハッキリ掴んでいない。そこは探り合いで、方法とかロジックは存在しなくて結果でしかわからないんじゃないかと思います。結果しかヒントにしかならない。もちろんあるラインの作品が当たったからといって、また同じ路線で書いたりすると失敗するかもしれません。ただみんなまだ物語に興味を持っているなら、僕がテレビドラマや映画を見てまだこんな物語をやっているのかという質のものが、もしかすると一番みんなが求めている物語なのかもしれません。十年前、百年前の物語をリメイクしたものが、もしかすると皆が求めている物語の姿かもしれない。商品として流通しやすいという意味ですけどね。ただ物語という背骨がある分、そこからステップアップするような方法は見つけにくいのかなという気はします。逆に言うと物語という背骨があるわけですから、そのやり方を守ればある一定のニーズはあるんじゃないかなと思います。僕は物語という背骨を抜いた小説を書くのは恐いですね。もし書いても、読み返して自分で自分を評価できないんじゃないかと思います。
鶴山 大衆小説を書くのなら、時代小説かサスペンスを書くのが一番近道でしょうね。現代を舞台にした男女モノは曖昧でジャンル分けし難い。大岡裁きか謎解きか、はっきりわかる方が読者は獲得しやすいです。エンタメ小説は、それがテレビドラマや映画原作になるにせよ、読者・視聴者は基本的に楽しく物語を終えたい、誰もが楽しいエンディングを期待する。もちろん十本に一本は悲惨な物語があってもいいけど、それはあくまでアクセントでね。大衆小説である限りハッピーエンドは守らなければならないわけです。それを逸脱しようとすると、間違いなくいわゆる純文学的要素が入ってくる。大衆文学に関してはセオリーが厳然としてあるわけで、それを逸脱せざるを得ないなら、自分なりに新しい小説要素を考えなければならないと思います。これは小説の長さとも関係してきます。『助平ども』はもう二十回くらい連載してるでしょう。数えてないけど一回二十枚として、すでに四百枚を越える長篇になっていますね。この枚数になると書き尽くす勢いで書かないとおさまりがつかない。純文学、大衆小説といったステレオタイプな分け方とは別に、作家が極端なところまで連れていってくれないと読者は納得しないと思いますよ(笑)。
鶴山裕司 文芸評論『日本近代文学の言語像Ⅱ 夏目漱石論-現代文学の創出』
金魚屋プレス日本版刊
四六判 400ページ 2018年12月1日発行
寅間 僕は読者にインパクトを与える小説の要素としては、人が殺されたりするよりは、性描写の方が書きやすいところがあります。思いっきりイヤらしい小説を書いてみようかなと思って『助平ども』を書き始めたところがあります(笑)。
鶴山 僕は歴史小説がいいんだな。与えられた雁字搦めの社会の中での人の自由や秩序を描くのが好きですね。原里実さんは純な心を描くのが好きで、小原眞紀子さんはサスペンス小説で人が死ぬのが大好きです。人それぞれ得意な小説の書き方はある(笑)。
寅間 子どもの頃に、大人向けの江戸川乱歩の本ばっかり借りて読んでいたことがあります。ちょっとイヤらしいイラストが何枚か入っていて、それを見ながら読むのが好きだったんです。親に見つかって怒られましたけど。「子ども向けの乱歩の本があるでしょ」って(笑)。
鶴山 『助平ども』の性描写は面白いですよ。あれは意外と女性に受けがいいんじゃないかな。女性は男の自由にさせてやることで男をコントロールできるってことを、どこかでわかっているからね。男は結局女にコントロールされるんだな(笑)。恋愛における男女関係は多かれ少なかれサドマゾでしょう。男はサドのつもりでも、そんな欲求が強ければ強いほど女に支配されるマゾの面が大きくなる。谷崎潤一郎の小説がそうですね。男の女に対する執着の方が、女の男への執着より強いですから。強く執着する方が支配されざるを得ない。
寅間 別れる段になると、女性の方があっさりしていて話が早いですね。あまりストーカー化する女性はいないような……。
鶴山 寅間さんは、今までどんな作家の作品を読んできたんですか?
寅間 小説を書いているのにこんなことを言うと叱られそうですが、あまりたくさんの作家の作品を読んでないんです。音楽ばっかり聞いていたところがあります。ただ図書館に行って本を借りたり読んだりするのは昔から好きでした。
鶴山 江戸川乱歩だけ読んで『助平ども』は書けないよ(笑)。
寅間 何回か引っ越してもまだ持っているのは、野坂昭如さんの本ですね。
鶴山 『エロ事師たち』か。まんまじゃないか(笑)。でも『エロ事師たち』は傑作ですね。よくあんな小説が書けるよなぁ。
寅間 野坂さんは好きで、町田康さんを読んだ時に、これは野坂さんだと思ったので町田さんの作品も好きです。
鶴山 全盛期の野坂昭如さんは凄かったというか、酷かったね。蛍雪時代という高校生向けの雑誌があって、そこに野坂さんが連載している小説を毎号読んでたんです。不良少年がペニスにヒロポン打って、オナニーして精液垂れ流しながら死んでゆく小説があって、この人は正気なのかなって子ども心に思いましたよ(笑)。
鶴山裕司詩集『東方の書』
A4判箱入 110ページ 1998年10月1日刊
寅間 野坂さんの時代の作家たちの浮世離れした感じは、今とぜんぜん違いますね。野坂さんの時代のムチャ話はちょっと夢があります。今同じようなムチャ話を書いても、なにか生々しいものになってしまいます。
鶴山 野坂さんの世代は戦争で生死の境を見たからだろうね。生と死の極限状態になると、どうしたって物語は神話的になる。野坂さん原作、高畑勲監督のアニメ映画『火垂るの墓』は、イギリスで二度と見たくない映画ランキングで堂々一位に輝いたでしょう(笑)。それだけインパクトがあるんだな。もちろん実体験そのままを書いたわけじゃないだろうけど、生死の境を見た人の切迫感がなければ『火垂るの墓』のような傑作は生まれない。僕は従軍派・戦中派の作家たちがバリバリで活動していた時代を知っているから、生死の境を見た作家たちの作品が神話的になり、その現実面での表れが無頼になる原理も肉体感覚でなんとなくわかる。ただそういった戦後的な精神風土がスーッと消滅してゆくのも見てきました。古井由吉さんが全盛期だった一九九〇年代頃までが戦後文学が残存していた時代かな。それ以降はあっさり霧散した。二〇〇〇年代以降は作家たちが多かれ少なかれ共有できる新たなパラダイムが求められる時代になったわけだけど、今に至るまでそれは見出されていません。作家たちはみんなバラバラになってしまった。
■批評と信頼関係について■
寅間 シンプルですが、だからこそ情報を発信し続けなければならない面もあると思います。SNSは一定の役割を果たしているということですね。だけどSNSでの情報発信は、イージーだからやり方を気をつけなければならない。自分で書いた作品は誰だって可愛いわけですから、その可愛がり方としてSNSを活用するのはもちろんアリだとは思います。しかしSNSは、創作にとってはあくまでサブの使い方しかできないかもしれません。
鶴山 小説はムリだけど、短歌俳句ならツイッターで毎日作品を発表できますよね。そして毎日「いいね」をもらうと。でもそれを肯定的評価として捉えちゃいけないよね。
寅間 ええ、それが作品発表の方法として一番マズイと思います。
鶴山 誉め合いは人間関係のフリクションを避けるための方法の一つで、その意味では炎上が本音かな(笑)。だって批評は信頼関係がなければ成り立たないでしょう。具体的に言うと、批評ではけっこう厳しいこと、痛いことを言われたりするわけです。誰だって自分の作品は可愛いから反発する。「このやろう」と思うわけですが、毒づいたあとに考えなきゃならない。反発しても結局は考える糧になるのが信頼関係です。アイドルの男の子なら「いいね」で伸びるかもしれないけど、作家はダメだね。男の子のカッコよさは相対的だからね。醜さがカッコよさになったりする。女のアイドルは見た目で半分くらい立ち位置が決まっちゃうけどね(笑)。
寅間 男の芸能人なんかは、「いいね」と賛辞を贈っているファンも含めてカッコよく見えてしまうことがありますよね(笑)。僕は新人賞に応募して落選することを創作の糧としてきたわけですが、SNSの「いいね」を信じちゃう方が、よりマズイことになると思います(笑)。
鶴山 原さんも寅間さんも書き方はほぼ固まっているから、あとは信念を持って書き続けるしかないね。書き続けると『助平ども』のような小説も出て来る。よくあんな恥ずかしい小説が書けるもんだと思います。これは誉め言葉だけどね。野坂さんが『エロ事師たち』を書いた時も、親戚一同はちょっと隠れたいような気持ちになったと思いますよ(笑)。
寅間 世の中の規制が少し緩かったからかもしれませんけど、野坂さんの小説を読んでいると、今より遙かにバラエティに富んでいます。だけど現代では小説に野坂さん的バラエティを持たせるのはなかなか難しい。
鶴山 小説は時代時代の風俗を取り込まなければならないから、どんどんバラエティの質が変わっていきます。日本が単一民族国家だと言うとアイヌの人たちに怒られてしまいますが、極めて単一的な民族国家であるのは確かです。この平板な日本社会を戦後一貫して泡立たせてきた要素は在日とヤクザですね。ビートたけしさんの『アウトレイジ』を見ていると、出てくるのは在日とヤクザばっかりでしょう。たけしさんは在日とヤクザの時代を肌身で知っているから、それを題材にしやすいんだと思います。だけどそれももう古い。フランスに、三十年くらい前からクレオール小説というジャンルがあります。ル・クレジオなんかが初期作家だけど、要は移民を巡る小説です。日本でもそういった小説が増えるんじゃないかな。小学校でハーフ――ハイブリッドって言った方がいいのかな――の子どもが十パーセントを超えているでしょう。様々なコミュニティも成立しつつある。日本に移住や帰化した人たちは今までは同化することが多かったんだけど、増えれば独自の文化を保持する方向にも進む。風俗を取り込むなら、そんな多様性を描く小説が確実に増えるでしょうね。
鶴山裕司詩集『国書』
B5判箱入 160ページ 2012年3月1日刊
寅間 ちょっと前だと大沢在昌さんの『新宿鮫』ですね。あんな世界がもう特殊な世界ではなくなって、日本社会全般に拡がってくる。今はまだまだ過渡期ですが、外国人やハーフ、クォーターの人たちの割合がもっと高くなれば、何かが変わるでしょうね。
鶴山 同化と異和はけっこう難しい問題でね。日本語で小説を書くなら、かなりの程度まで日本文化に同化しなくちゃならない。でも日本人と異なるルーツを持つ人は、当然異和を小説で表現しなければならない。だけどそれが日本社会で受けた差別などであれば、小説の形をした社会批判に過ぎない。そこを越えて自分のルーツの本質を、日本文化の本質と対立させるか、混交させなければいけないと思います。日本文化、異なる文化、両方を相対化して捉えないといい小説にはならないでしょうね。
寅間 人が顔をしかめるような角度から世の中を描くことが小説の面白味につながるのかな、と思いながらも、人に嫌な思いをさせる小説を書くのもなんだかなぁという思いもあります(笑)。
鶴山 男と女の話に関しては、男が女性を惨殺しない限り、本当の意味で読者は眉をしかめないと思います。
寅間 男と女の一対一の関係なら、どんな過激なことでも書けるような気がするのですが、それがグループ、社会概念につながってしまうと危ういですね。ただ男女一対一だと顔が見えるわけですから世界が小さくなってしまいます。一方であまり社会概念に寄りかかるとステレオタイプになってしまう。難しいです。
鶴山 寅間さんはちょっと危ない人をたくさん知ってそうだから、一対一関係でもネタは尽きないんじゃないですか(笑)。
寅間 僕は年上の人とばかり付き合ってきて、今もそうなんですが、年下の人とはあまり交流がないんです。いまだに年上の人と話したり飲んだりする方が楽です。兄弟のいない一人っ子ですしね。子どもの頃は、休みのたびに母親の田舎に帰っていたんですが、そこにいる従姉妹たちは全員女性でみんな年上だったんです。お姉さんがたくさんいる年下の弟という感じで育ってきたのが、モノを考えるときや書く時に、なんとなくベースになっていると思います。
鶴山 年上ってどのくらい?
寅間 五十五歳とか六十歳くらいの方と話したり飲んだりすることが多いんですが、皆さん元気ですね。
鶴山 僕はそのくらいの年だから、元気と言われてもねぇ(笑)。でもホントにすべて過渡期なんだな。ちょっと前に年金だけじゃ、二千万円足りなくなるっていう報道があったでしょう。今の年金制度は六十歳くらいで退職して八十歳くらいで亡くなるという平均値を元に作られたわけだから、当然ですよねぇ。人生百歳という時代が現実味を帯びているわけだけど、そうなると八十歳近くまで働かないと今のシステムは維持できません。それはともかくとして、現実に平均寿命百歳になると、最初と終わりの十年はわけがわからないとしても、人間には五十歳までと、五十歳以降で人生を二分して考えることができるほどの時間があることになる。スポーツ選手や芸能人のように若い頃に才能を開花させる人もいるし、五十歳以降が全盛期になる人が現れても不思議じゃない。そういう時代に僕らは生きているわけです。
ただ宮崎駿監督が、「人間の全盛期十年説」を唱えていましたね。彼はビートルズを念頭に置いて言ったんだろうけど、それは確かに一理ある。十年くらいの活動で、一個の人間が持っている可能性がほぼ出揃うということです。それを越えるには相当な努力が必要だけど、やっぱり一個の限られた人間存在では提示できる可能性には限りがある。ゆるやかに下り坂を下ってゆくということになるでしょうね。だけど少なくとも人間の知性を表現のベースにした芸術や芸能ジャンルでは、十年の全盛期の時期がどんどん後ろに倒れ込んでいるでしょう。才能があってもそれを若い頃にパッケージ化するのが難しくなっている。寅間さんは今年四十五歳でけっこういい年ですが、あんまり年を取ったという自覚はないでしょう(笑)。
寅間 僕は父親と三十歳違うんですが、僕が十五歳の時に父親は今の僕の年だった。父親の四十五歳と僕の四十五歳は違いますねぇ(笑)。
鶴山 文学金魚新人賞選考委員長の辻原登先生は今年で七十四歳ですが、大人になったら何になろうかって考えているような感じですからね(笑)。この前お話したら、「もう僕の作品が面白いはずだとか、そんなことを言っている場合じゃないんだ」ということをおっしゃっていた。評価基準がない時代だからそうなります。とにかく書いて、これはというポイントを探ってゆくしかないのは確かです。
(2019/07/25 後編に続く)
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