小原眞紀子:一九六一年生まれ。慶應義塾大数理工学科・哲学科卒業。著書に詩集『湿気に関する私信』、『水の領分』『メアリアンとマックイン』。その他小説作品、文芸評論。
小原眞紀子さんの評論集『文学とセクシュアリティ―現代に読む源氏物語』の出版を記念して、制作の経緯や意図をインタビューでお話していただきました。。
文学金魚編集部
■『文学とセクシュアリティ―現代に読む源氏物語』執筆のきっかけ■
―――『文学とセクシュアリティ―現代に読む源氏物語』は、大学での講義がきっかけで書かれた本ですね。
小原 はい。二〇〇〇年に東海大学の文芸創作学科で、詩の講義の他にフェミニズム関係のものを、と依頼され、イヤだとゴネたことがきっかけです(笑)。
―――なんと。断ったことがきっかけとは(笑)。
小原 断ったのではなく、フェミニズムを文学に持ち込むことに疑義を呈したのです。当時あちこちの大学でフェミニズム講座みたいなのが流行っていて、社会学の一環としてならいいんですけど、それを文学に持ち込んだために、なんかヘンなことになっていた。
―――ヘン、とは?
小原 その辺りのことも本に書きましたが、社会学における価値観と、文学における価値観がごっちゃになってしまった。社会学における「女性」は実在の私たちですから、その権利を守ろうという思想にも運動にも賛同はします。だけど文学における「女性」とは創作物におけるメタファーです。架空の存在である「女性」の人権を守ろうとして、実在の創作者の表現の自由を制限することこそ人権侵害です。その表現を通して作家が何を表現しようとしているのか、それが文学であって、小説の中で女性がかわいそうな目にあってるから差別だ、というのはお門違いでしょう。
―――そう言われると確かに…しかし、言われないと気づかないですね。
小原 登場人物に肩入れする熱心な読者ほど、議論のすり替えに気づかない。二つの価値観が都合よく混ぜ合わされ、故意に審級が混同される。誰にとって都合がいいかというと、結局はそれを利用するアカデミズムの「強者」です。
―――当時の「フェミニズム講座」は今、ほとんどなくなったようですね。
小原 だって大学は教育機関だから。日本の実情に合わず、また日本の古典を読み解けないような批評軸は消えてなくなります。
―――古典的な文学作品の代表が『源氏物語』ですね。
小原 まさに我が国の宝で、たとえば『源氏物語絵巻』は文字通り国宝の最上級です。社会派のフェミニズムではその『源氏物語』は読み解けず、「社会的強者である源氏が、多くの女性たちを好きなようにした」というくだらない物語になってしまう。ならばフェミニストの皆さんは、自身の思想に忠実に「源氏物語なんてくだらない」と言うべきでしょう。しかし「あれは時代が違う」などと逃げる。どう違うのか。文学作品として何も違いはしません。国宝といった権威に逆らえないのは、果たして誰なんですかね。
■テキスト曲線について■
―――『文学とセクシュアリティ―現代に読む源氏物語』は、きわめて現代的な視点で『源氏物語』を読み解いています。ポストモダン的な論法が効果を上げているのには驚きました。
小原 源氏物語はプレモダンの時代の作品ですから、モダン(近代)の構造批判という意味では、ポストモダンの手法は使えます。
―――でも、それが目的ではないですね。
小原 『源氏物語』という作品構造のダイナミズムをとらえ、その中心の思想と、今日まで読み継がれている本質的な理由を明らかにすることが目的です。古典だからというだけで読んでいられるほど、わたしたちも、過去の日本人もヒマではない。どの時代にも通じる思想、価値観があるはずです。でもそれはあくまで文学としてのもので、だからこそ普遍的になり得た。時代にも状況にも左右されなかったわけだから。
―――読解の武器として、シンプルな「テキスト曲線」を多用されてますね。万能ツールで、なんだかマジックのようです。源氏物語の講義に先立って「テキスト曲線」の発見があった。
小原 魔術でも、手品でもないですよ(笑)。詩(歌)と小説との関係を突き詰めていくと、単純な曲線で表されます。作品とは構造そのもので、構造とは二つ以上の方向の異なるベクトルが組み合わさっているものなので、結果として「テキスト曲線」はさまざまな作品要素の解析に役に立ちます。
―――今、思い出しただけでも、男性性―女性性、視覚―聴覚、帝―下々の者、内裏(都)―須磨・明石(海辺)と多岐にわたっています。
小原 大事なことは、その過程で「文学とはなにか」、また詩(歌)と小説といった〈ジャンルの掟〉が見えてくることです。単純化することでしか、豊かなものは見えてきませんよね。物事を必要以上に複雑化したがるのは、情熱ではなくてエゴです。
―――もう一つ驚きなのは、東海大学で講義を始めたその日、小原さんはまだ『源氏物語』を読んでなかった。
小原 その通りですが、誤解をまねきます(笑)。いいかげんな気持ちで始めたのではなくて、「テキスト曲線」による読解がぴたっと決まる、と確信していたのです。下手に準備したり、知識を詰め込んで臨んだりしない方がいいと思って。
―――そして、ぴたっと決まった…。
小原 想像以上でした。「テキスト曲線」を使って解明したと述べていることのすべてを、著者の紫式部はとうに承知しています。そうでなければ、あんなに各所でぴったり決まるわけがない。
―――著者が同一人物であることも、証明されていますね。
小原 後半の「宇治十帖」を書いたのが別人だとか、紫式部が複数いるとか、あり得ません。冒頭から最後まで、どれほど雰囲気が変わっても、深いレベルの文学的思想と構造が一貫しています。そういう深層を他者と共有することは不可能です。創作者なら誰でも直観でわかることですが。
―――そして「紫式部が男である」という説も一蹴されています。
小原 はっきりしていることは『源氏物語』を研究し、解釈してきたのは主に男たちだ、ということでしょう。そのために間違った解釈も散見されます。著者が女性であることの証明は簡単です。『源氏物語』の中には、男でなくては書けないような箇所はない。一方で女性でなければ絶対に書けない箇所はいくつかあります。これまでその箇所が正しく論じられてこなかったのは、解釈者が男なので理解がおよばなかったから。
―――夕顔の性格や、玉鬘と髭黒大将の前妻との関係を論じたところ、たしかに画期的です。
小原 女性なら皆、「そりゃそうだよね」と言うようなことばかりです。男性からすれば、夕顔の性格は矛盾していると思えるでしょうし、玉鬘と髭黒大将の北の方は対立してもらわなくては筋が通らない。「女たちは本当は、男のことなんかどうでもいいと思っている」なんて、源氏を研究する男としては困りますよね。
―――はい…我らが光源氏を、女同士で奪い合ってもらわないと(笑)。
小原 光源氏がどうでもいい、は言い過ぎですが、少なくとも髭黒大将のことは玉鬘も、また最後には玉鬘に共感した北の方も、もうどうでもいい、と思ってますね。
■小説の構造について■
―――身につまされるな(笑)。
小原 小説には構造が必要で、構造的中心が形式上の主人公です。けれども著者の思想的中心、すなわち愛と共感は、別のところにある。『源氏物語』は光源氏が形式上の主人公ですが、本質的に女性たちの物語です。紫式部がなぜ「紫」式部とよばれるのか、昔から真の読者たちはわかっていたのだと思います。
―――紫の上が主人公ということでしょうか。
小原 夕顔、紫の上、玉鬘、大姫、浮舟…それぞれの個性と美点を備えた女性たちの存在全体が、著者の思想を直接に担っています。光源氏はそれらの女性たちの魅力を一〇〇%理解できる理想のプリンスですが、著者は常に光源氏に同情的というわけではありません。
―――光源氏はすなわち語り部、なのですね。
小原 それに近いと思います。紫の上亡き後、彼の最期が描かれないまま代替わりしてしまうことを不思議がる人がいますが、語るべき対象が失われたら語り部の存在理由はない。たったそれだけのことが、読解の軸足を光源氏寄りにしていると、わからなくなってしまう。著者が本当に愛し、描きたかったのは、女性たちの魅力とその絶望の深さです。それもまさに著者が女性である証拠の一つですが。
―――そういえば「宇治十帖」では、二人の主人公である薫の君と匂宮に対して、著者はずいぶん距離感がありますね。どちらに対しても見切ってるような。
小原 その通りです。著者が本当に心を震わせて描いた登場人物は誰か、虚心坦懐に読んでみることで、深層のテーマが見えてきます。
―――虚心坦懐ですか。つい、自分の好きな登場人物に軸足をのせてしまいます。
小原 読書の楽しみとして、お気に入りの登場人物がいるのは、悪くないと思うのです。男性ならそれが光源氏や匂宮であって当然です。そして作家は、どの登場人物も最大限に面白く描こうとする。でも読書の最大の喜びは、時を超えた著者との交流でしょう。著者の意図、心の震え、愛情の対象とその深い理由を捉えられたら、著者その人とのコミュニケーションがとれるのですよ。その上で、自分だけのちょっとしたお気に入りがいるのは素敵です。
―――とりわけ『源氏物語』は、隅々までリアリティと美点のある人物に満ちていますから。小原さんご自身のお気に入りは、朝顔の宮ですか。
小原 夕顔や紫の上は言わずもがなですが。朝顔の宮はキャリアウーマンぽくて、光源氏の方は夢中だけれど、彼女は友情しか感じてない、というのがカッコいい。
―――トレンディドラマに出てきそうな女性ですね。
小原 トレンディドラマっていう概念の方が、よっぽど古くないですか(笑)。そういう男前というか、ハンサム・ウーマンは平安時代にもいて、著者をはじめとする女性たちから共感を得ていたのです。紫式部は女性が才をひけらかすのを嫌いましたが、それは美意識からくるもので、真の才女とはどういうものかを語ろうとした。本物のフェミニストです。
―――しかし、その朝顔の存在に、紫の上はひどく傷つきました。
小原 朝顔の宮は源氏と関係を持とうとしませんでした。つまり紫の上はヤキモチを焼くことすらできなかった。紫の上は源氏の、男というものの救いのなさを直視するほかなく、このときの絶望は深かったでしょう。著者の、そして光源氏の最愛の女性である紫の上ですが、彼女がこの世に遺した宝、最愛の人は源氏ではなく、生さぬ仲の娘である明石の中宮でした。こんな小説を書く男はいませんよ(笑)。
―――「蓬生」の巻についても印象的でした。末摘花について、光源氏の似姿でもある、という解釈は他に見たことがないです。
小原 でも「蓬生」の細部に至るまで合致しているでしょう。著者は意識して書いてますよ。そもそも、そうでなければ末摘花が最後まで登場してくるわけがない。光源氏が見い出した末摘花の美点は、女性としてのものではないけれど、そして彼女は愚かしくて醜いけれど、人を感動させるものなのです。それを源氏は理解した。だから呆れながらも彼女を守るんです。〈男女の愛〉なんて関係ない。『源氏物語』というと、何でもそこに帰着させようとする解釈者がいますが、光源氏は色情狂ではありません。
―――末摘花も、というか「蓬生」の巻も、小原さんのお気に入りですね。本にも書いておられるように、九〇年代の文壇で流行った〈愚鈍〉さに価値を見い出す議論に通じるものを感じます。本当に新しい。
小原 小賢しい世間の人並みを嫌い、むしろ愚かしさに感動する。たった千年ですから。人の気持ちって変わってない。変わってないからこそ、切り口次第でいくらでも新しくなる。
―――『文学とセクシュアリティ―現代に読む源氏物語』では、現代小説や映画、さまざまな現代的事象、与太話までもが『源氏物語』各巻と組み合わされていますね。リズムよく、飽きずに読み進められます。
小原 ゆったりと『源氏物語』を読んでゆく楽しさを損なわないように、同時になぜ皆が途中で読みあぐねてしまうのかを考えました。
―――「須磨源氏」と言いますね。「須磨」・「明石」の巻ぐらいで止まってしまう(笑)。
小原 どんな物語もそうですが、著者の意図、狙いが見えなくなると、読み進めることが難しくなります。物語をエキサイティングに読み進めるには、著者の狙いを感知する必要があるのです。
―――千年前の著者の狙い、仕掛けをリアルタイムに感知するのですね。
小原 その手助けとして、現代において楽しく読まれている小説、観られた映画を援用しています。なぜならそれらを面白く感じる構造は、千年前の物語と同じだからです。
■批評の目的について■
―――一方で、それらの現代作品に対する理解も深まります。
小原 批評軸というのは、そういうものだと思うのです。あれは切れるけど、これは切れない、ということがあるなら、その批評軸そのものが間違っている。少なくともある本質、深さには届いてない可能性が高いのではないでしょうか。
―――なかなかそうやって、自分のロジックを疑うことはできないのではないですか。
小原 批評というのは〈仕事〉的な側面がありますからね。これを論じてほしい、あれを論じなくてはならないと、自分や他者のニーズに応えることが当面の目的になってしまう。だけど創作者は違います。何もないところに家を建てる。基礎の土台を揺り動かしてみたり、大前提だと思っていた設計をくるっと変えたりする。何かに固着していたら、創作者は務まらない。つまらない作品ができるだけです。
―――小原さんの批評は創作的で、創作そのものとも密接にリンクしていますね。
小原 自分の批評の目的は、創作の秘密を明かすことだと思っています。創作活動に本質的な影響を与えないような批評は意味がない。少なくともエキサイティングではないし、創作者は本来、誰よりも鋭い批評能力を有しています。
―――評論を書かない創作者も多いですが、直観的な批評眼はある、ということですね。
小原 評論にまとめるかどうかは別として、創作者は鋭い批評能力で自身の作品をブラッシュアップしていくのですから。
―――本書の批評が、『源氏物語』から『タイタニック』、『バック・トゥー・ザ・フューチャー』、江國香織、パトリシア・ハイスミスまで自由自在に流れていく理由がわかりました。一般的な批評の作法より、エキサイティングな創作のルール、掟に従っているのですね。
小原 唯一の縛りは〈構造的一致〉があるかどうか。何と一致するかは作品が、テキストそのものが見つけてくる。私的な判断で、都合のいい関連性を見つけてくるのではありません。
―――エゴを捨てて、作品につくということですね。虚心坦懐に。
小原 よくできました(笑)。大学の授業で「文学とセクシュアリティ」はシニア向けですが、詩の講義には一、二年生が多く出席しています。まず教えることはテキストの読み方で、〈テキスト・クリティック〉ということを口を酸っぱくして言います。「書いてないことを読むんじゃないっ」とブチ切れたり(笑)。
―――結構、怖い先生ですね(笑)。
小原 わたしの言うことを聞かないときより、テキストを裏切ったときに怒ります。エゴを捨ててテキストを正確に読めば、すごく豊穣なものが得られる。それを知らないのは損失だと思うから。
―――正確に読むためのコツはないですか。
小原 そうですねえ。〈意味〉を深追いすると、どうしても自分の思い出や、その言葉に対する自分だけのイメージが顔を出してきて、妥当な解釈を邪魔しますね。意味的にはごく常識的な範囲に留めて、それら一般的な意味の重ね合わせ、すなわち〈構造〉の自然な一致を探すとよいです。
―――大学生には難しそうですが。
小原 慣れないうちは、解釈をなんとなく綺麗ごとで締めくくろうとするなど、学校教育の弊害みたいなものが出ますね。だけど、こちらが素に返るというか、びっくりさせられたこともあります。創作学科の学生の詩作品の発表で、現代詩的な書き方を知っているらしく、「それっぽい難解な喩に満ちてるなー」ぐらいに思いました。各学生にコメントを求めたところ、その中の一人が「『靴を揃えた』というところで靴を脱いでいる。『下を覗き込んだ』というところで高いところにいる。これは投身自殺をしようとしている詩だ」と言います。こいつ何言ってるんだ、とよく見てみたところ、その通りでした。
―――一語一語、常識的に解釈して、テキスト・クリティックで導かれた読解なのですね。
小原 正しく読み解いた男子学生は二十歳前で、ほら、頭に赤いキツネとか緑のタヌキとか載せてるミュージシャン志望がいるじゃないですか(笑)。作詞を勉強しにきたようで、最初は「せんせー、詩って全然わかんねー」と言ってました。
―――わからないから、教えられた通りに読んだ…。
小原 そうです。当のわたしが「現代詩的だな」という先入観と知識・経験に拠ってしまい、テキスト・クリティックを忘れていました。
―――学生さんたち、さぞ喜んだでしょう(笑)。
小原 そうですね。「あっ」と言いましたから(笑)。間違いは自ら認めないといけない。いつも言うのですが、文学も「学」、学問なので。学問すなわちサイエンスです。主観や都合を押し通すために言を左右してはなりません。
■テキスト原理主義について■
―――小原さんは理工系で、数学を専攻されていたのですよね。理系出身の文学者といえば吉本隆明、岩成達也さんがおられます。皆、詩人ですね。
小原 ラディカルな考え方をする、という意味では共通点があると思います。ラディカルというのは激しいとか攻撃的という意味でなく、根本的という意味で。原理主義者ともいいますね(笑)。
―――テキスト原理主義者ですね(笑)。
小原 そこへ身を捧げる、という意味では宗教的、少なくとも思想的ではあります。
―――テキストを信仰していますか。
小原 信仰というか、テキストに必ず表れる何かを信じています。それが創作者です。
―――先ほどは創作者は土台から疑い、大前提の設計をひっくり返す、とおっしゃっていました。
小原 そうです。でもそれができるのは、もっと根本的な何かを信じているからです。
―――何か、とはなんでしょうか。
小原 うまく言えないんですが…。理系的な言い方だと〈宇宙の摂理〉でしょうか。器の中でビー玉を転がしたら、底の一点に落ち着くでしょう。そういう落としどころみたいなものが必ずあるから、心配いらないと思ってます。創作者は基本、どこか楽天的です。自分以外の、何か大きな力があって、最後はそれに任せとけばいいんだ、と思ってます。
―――すると、土台からひっくり返そうとするのは…。
小原 大きな力がやってきたとき、はたらきやすくしてあげる準備です。自分のエゴが根を張ってないか、調べている。シロアリ退治みたいに。
―――禅問答めいてきましたが(笑)。本書でもとりあげられているマルグリット・デュラスが晩年、「空の空なるかな…」と言っていたのを思い出します。
小原 デュラスの『愛人 ラ・マン』と『モデラート・カンタービレ』。いいですよねぇ。洋の東西、時代を問わず、創作者は最終的には同じようなことを言い出します。見ている先が一緒なんでしょう。
―――洋の東西といえばもう一つ、『源氏物語』の「須磨」・「明石」の巻と、シェークスピアの『テンペスト』との類似性を指摘されていて、それこそ「あっ」と驚きました。海辺に住む男が中央政権に恨みを持っている。嵐の力で娘をプリンスと娶せると、本願を果たして引退する…。
小原 奇妙でしょう。もちろん何もかも細部まで一致しているわけではないけれど、偶然だとやり過ごすこともできない。
―――構造的には、酷似と言っていいと思います。シェークスピアは紫式部よりだいぶ時代が下ります。『源氏物語』に触れた可能性はゼロなんでしょうか。
小原 それよりあり得るのは、ユーラシア大陸にウル(原)物語が伝承されていて、洋の東西の双方でそれを参照した、ということだろうと思います。そう考えれば不思議ではないですが、エピソードとしての構造的一致より、もっと重要なことがあります。この『テンペスト』=「須磨」・「明石」の巻は、シェークスピア作品群と『源氏物語』の双方において、極めて重要な位置を占め、決定的な役割を果たしている。
―――『テンペスト』は、シェークスピアの事実上の最後の作品ですね。
小原 ええ。主人公の自省には、原罪や演劇空間そのものへの自省、すなわち自己言及が含まれています。
―――「須磨」・「明石」の巻でもまた、源氏が自身の罪を振り返りますね。夢の中では父・桐壺帝が、それを原罪という概念に敷衍させる。
小原 そう。許すとか許さないとかは、神の領域である、ということです。
―――東西で、違う宗教であっても…。
小原 同じなんですね。構造は。その最も重要な概念に至るのに、海における嵐、すべてをひっくり返し、脱構築する巨大なエネルギーを必要とする。
―――そして結局は許される、と。
小原 それが創作者の楽観に繋がると思います。書くことは結局、許されてあることを確認する作業です。だから書き手はさまざまな道行きを試すのだし、登場人物には苦難が与えられる。
―――創作者の目的を理解することで、読書という道行きの愉しみも最大になりますね。
小原 そうですね。登場人物だけでなく、著者その人が気心の知れた友になるのですから。
―――本日は、ありがとうございました。まもなく大学の新学期も始まりますね。受講生の皆さんにも、よろしくお伝えください。
(2019/03/15)
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