鶴山裕司講演
鶴山裕司:1961年富山県富山市生まれ。明治大学文学部卒業。詩人、小説家、評論家。
鶴山裕司氏の評論集『日本近代文学の言語像Ⅱ 夏目漱石論-現代文学の創出』刊行を記念して、二〇一八年五月二十四日に立教大学で行われた講演『池袋モンパルナスの画家たちの苦しみと喜びをともに』を掲載します。『漱石論』は十二月一日刊行です。
文学金魚編集部
主催:立教大学
日時:二〇一八年五月二十四日 午後六時三十分~八時
於:立教大学一号館一二〇三教室
Ⅰ 画家について
こんにちは。鶴山です。今日は池袋モンパルナス好きの皆さんの前でお話する機会を与えていただき、大変光栄です。僕もモンパルナスの画家たちが大好きなんですね。一番好きな画家がいるわけではないですが、明治維新以降、いろんな美術の流派や集団が生まれましたが、その中で最もモンパルナスに惹かれています。
モンパルナスのお話を始める前に、ちょっと画家という人たちについてお話したいと思います。僕は詩人で小説や文芸評論も書きます。いわゆる物書きの一人です。ただ創作者といっても物書きと画家はいわゆる人種が違う。もちろん物書きの中でも詩人と小説家、評論家は微妙に物の考え方が違っていて、それが性格や行動にも出たりしますが、物書きと画家ほど大きな違いはありません。
今日はスライドもお見せしながらお話を進めていきますが、今お見せしているのは片山健さんの鉛筆画です。一九六九年の作品かな。片山さんは現在では華やかな色をたくさん使う油彩画家で、童話作家でもありますが、若い頃はこういうシュルレアリスティックで緻密な鉛筆画を描いておられました。
僕はこの絵を一九八六年の十二月、二十五歳の時に詩人の吉岡実さんから買いました。吉岡さんから「年を越す金が足りないんだ。十八万で買ったから色つけて二十万円でどうだい」と言われたんですね。年を越す金がないというのは江戸っ子の吉岡さんらしい配慮で、僕が片山健が好きだ好きだと言っていたので、片山さんのコレクターだった吉岡さんが一枚譲ってくださったんです。冬のボーナスで買ったんですが、当時は薄給で、吉岡さんにお支払いしたら、一万円札三枚と千円札一枚しか残らなかった。その後キャッシングで借金するはめになりましたからからよく覚えています(笑)。
僕は吉岡さんに絵を譲ってもらう前に、片山さんにインタビューしていました。それ以来お会いしていないので今はどうかわかりませんが、画家という人種を強烈に印象づけるインタビューでした。
片山さんに「嫌いなものはなんですか?」という質問をしたんですが、いきなり不機嫌になってしまいました。「今、頭の中に嫌いなものが浮かんだ。それだけでも不愉快なのに、それを言葉にして言わせようなんて、あなたはどういう神経をしてるんですか」とおっしゃった(笑)。それから「絵を始めたきっかけは?」という質問もしました。片山さんのお答えは「子供の頃、泰西名画のカレンダーが家の壁にかかっていて、ボッティチェリの絵でした。ボッティチェリの絵は何人か人間がいて、絶対視線が交わらないんだけど、その理由がわかったので絵に興味を持ったんです」といったものでした。僕は当然「なにがわかったんですか?」と質問したんですが、「そんなこと、言えるわけがないですよ」というのが片山の回答でした(笑)。
片山さんは若い頃は人嫌いで、雪印の冷凍庫で働いておられたそうですから、僕がお会いした頃にはまだ人嫌いの傾向が残っていたのかもしれません。冷凍庫は氷点下で、労働基準法で労働時間が制限されているから早く仕事が終わって絵が描けた、理想的職場だったとどこかのエッセイで書いておられました。
もちろん画家もいろいろで、片山さんのようなタイプの人たちばかりではありません。ただその後、著名な方も含めて何人も画家の方にお会いして話したことがありますが、やっぱり物書きとは違う。彼らは物書きのようには論理的に物事を考えない。言葉では考えないと言った方がいいかな。画家の思考は基本的には色と線としか言いようがなくって、それが言葉という抽象で考える物書きとは決定的に違う。画家同士の会話を聞いているとわかり合っているところがありますが、物書きは最後のところ、はじき出されてしまう(笑)。また色と線で考えるというと感性に頼っているようですが、そうとも言えない。画家の色と線の思想は物書きの言葉思考と同じくらい具体的で強いものです。
ちょっとモンパルナスから離れた所からお話していますが、ちゃんとつながりますから安心してください(笑)。これはパウル・クレーの絵です。紙に黒インクのようなもので描いてあります。けっこう大きな絵です。縦四七・二センチ、横六二・六センチですね。最近見た中で一番衝撃を受けた絵です。
洋画、欧米の画家の絵は、たいていは写真ととても相性がいいんです。ほとんどの油絵は画集なんかで見てもだいたい良さが理解できます。でも日本画は圧倒的に実物の方がいい。写真ではなかなかその良さが伝わらない。最近の画集はどんどんコンパクトになっていますが、日本画は昔の大判の画集で見た方が良さがわかります。
ただこのクレーの絵は実物の方が断然いい。今写真図版で見ていますが、実物が持っている迫力が消えてしまっています。ものすごく簡単な絵なのに不思議ですね。パウル・クレーは魔法使いだったから、魔法がかかっているのかもしれません(笑)。美術家の中には魔法使いがいるんです。その人が手を触れるとガラクタが途端に素晴らしい美術品に変わってしまう。クレーは自分は本当は彫刻家になるべきなんだと考えていたところがあって、道ばたで拾ったブリキの缶なんかで彫刻を作ったりしました。それがまあ素晴らしい。クレー以外の魔法使いの美術家に、ロベール・クートラスがいます。杉戸洋さんもそうだな。でも少ないです。あ、このクレーの絵はドイツのパウル・クレー・センター所蔵ですから、ドイツまで行けば実物を見られます。
前置きが長くなりましたが、このクレーの絵のタイトルは『恥辱』です。クレーはスイス人ですが、ドイツで絵の勉強をして活動していたユダヤ人です。戦前のドイツにはバウハウスという有名な美術・建築の総合芸術学校がありましたが、そこでも教えていた。ただドイツではワイマール帝国が崩壊してナチス・ドイツの時代になります。ナチスがユダヤ人を迫害したのはよく知られていますが、クレーたちの前衛芸術も、アーリア人精神にもとる退廃芸術だとして迫害・弾圧されました。『恥辱』が描かれたのは一九三三年ですが、この年の三月にクレーはナチスの家宅捜索を受け、デュッセルドルフ美術学校の教師の座を追われます。十二月には家族でスイスに避難します。つまり『恥辱』は身に危険が迫りつつある状況で描かれたのです。
確かに絵を見ると、中央の人物は怒っているように見えないことはない。自分の回りに三角形のバリアを張って、飛んでくる矢印に負けないぞ、と頑張っている姿だと解釈することもできるでしょう。だけどそれはこの絵のたくさんある解釈の一つに過ぎないと思います。クレーは確かに怒っていたんでしょうが、絵に表現されているのは彼の独立不羈の精神性といったものであり、それをどう解釈されようと気にしなかったと思います。
第二次世界大戦中の一九四〇年にクレーは亡くなります。凄惨な戦いが行われていることは知っていたでしょうが、晩年のクレーが二次大戦に大きく影響を受けた形跡は、少なくとも絵を見ている限りありません。子供が縄跳びをしているような呑気な絵も描いています。画家もまた社会の一員であり、時に世の中の動揺に振り回されることがあります。しかし彼らの仕事は絵を描くことです。どんな状況でも描くのが画家の仕事です。
クレーさんは、はっきり言えば変わり者で、ノートに自分が描いた絵の詳細なリストを付けていたり、画家だけじゃなく、美術評論家だという自負で『造形思考』などの本も書いています。だけど読んでもなにがなんだかよくわからない(笑)。彼の根本的な思想はやっぱり色と線にあるんです。言葉では自己の創造性を十全に表現できない。
クレーは一八七九年、日本で言うと明治十二年生まれで、モンパルナスを代表する画家、熊谷守一より一歳年上です。クレーと熊谷さん、似たところがありますね。戦争はほとんど彼らの頭の上を通り過ぎていった。ではちょっと言葉は悪いですが、感覚欠落症的なところがあったから彼らはそうできたのでしょうか。違うと思います。彼らがあまりにも画家だったからでしょうね。画家は絵を描く人種だから、絵ですべてを表現する。もしかすると戦争などの社会の影響が絵に表現されているかもしれませんが、それが見る人に明確に伝わるかどうかはわかりません。
しかし熊谷さんを除く、池袋モンパルナスの画家たちの多くが戦争に振り回されました。中には戦争協力画を描いた画家もいます。では彼らには戦争責任があるのでしょうか。結論を先に言えば、基本的にはないと思います。画家の絵画的思考は微妙であっても必ず杓子定規な戦争協力とはズレる。画題として戦争は魅力的かと言えば、魅力的に映る瞬間はあります。ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』を民族意識高揚画、戦争翼賛画だと言い出したりすればきりがない。
この反対に、物書きが書いた戦争協力詩などには戦争責任があるのか。あると思います。物書きは自らの思考を論理的に整理して、それを錐のように研ぎ澄まして作品にします。書いてしまった自分の作品に復讐される、それにとらわれてしまうのが物書きという人種の業です。
たとえば明治二十年代の文語体小説の時代にデビューした作家の中で、明治四十年代以降の言文一致体小説時代に生き残ったのは森鷗外だけです。そのくらい物書きは自分が書いた過去作品を相対化し、否定して、新たな領域に踏み出すのが難しい。物書きの場合は作品から思想を読み解いて構いませんが、画家はそうではありません。
確かに画家の中にははっきりとした意味を伝えるために絵を描く作家もいます。風刺画家なんかが典型的です。でも多くの画家、もっと言えば僕が愛する画家たちは、絵を描いてから初めてそこから意味や思想が生じる。絵画的思考は当然ですが、絵が出来上がらないと完成しない。またその思考は文字と違って多様です。画題などですべてを判断できないのです。これは池袋モンパルナスという、戦争に翻弄された画家集団にも当てはまります。
Ⅱ モダンについて―池袋モンパルナスの定義
ここから本題です。池袋モンパルナスは、皆さんよくご存じのように、池袋西口一帯にあった芸術家村の総称です。今では面影がありませんが、西口方面は、池袋という名前からわかるように元々は水はけの悪い湿地帯でした。土地も家賃も安かったようです。そこに昭和三年(一九二八年)に奈良慶という女性の地主さんが、孫の画学生のためにアトリエ付き貸し住宅を建てたのがアトリエ村の始まりだと言われます。平屋で広いアトリエと、居住スペースがコンパクトにまとまった貸家です。
画家もいろいろですが、色と線にこだわる画家は基本的に昼間仕事します。電灯の下で見るのと太陽光では、色味が変わってしまうんです。天窓のある貸家もあったようです。窓は南向きではないでしょうね。普通の住居だと、太陽の光がいっぱい差し込む南向きの窓が喜ばれますが、画家が仕事をするには不向きです。北向きの窓が、実は日の出から日没まで一番太陽の光が安定しています。朝起きて日没まで仕事して、絵具をこねて筆を動かすのは適度な運動です。画家さんに長生きの方が多いのはそのせいかもしれません(笑)。
池袋モンパルナスには様々な画家が住みました。モンパルナスの主要メンバーではありませんが、シュルレアリスム絵画の先駆者・古賀春江や、伝説的版画家・藤巻義男も一時期このエリアに住んでいた。セツモードセミナーを開校した長沢節さんも暮らしておられた。長沢さんはゲイでファッションデザイナーですから、戦前のことですが突拍子もない格好をしておられたようです。戦後には高山良策という変わり種も住んでいます。初期の円谷プロで怪獣の着ぐるみを作った人です。
円谷プロの怪獣や街のセット作りにたずさわった人には、旧陸軍のジオラマ部隊出身者が多いんです。国策映画のセットや、軍事用のミニチュアを作っていたんですね。円谷プロの『ウルトラQ』には、高度経済成長で浮かれる人たちに冷や水を浴びせかけてやろう、得体の知れない怪獣が平和な日常の奥に潜んでいるんだぞ、という意図が込められていると言われますが、戦争で生死の境を経験した人たちにはそう見えたんでしょうね。ちょっと一筋縄では割り切れないところがモンパルナス的かもしれません。
で、杓子定規に言えば池袋モンパルナスはアトリエ村なのであり、必ずしも絵画動向とは言えないんじゃないか、という見方もあります。それにまあ、申し訳ないですが、池袋はあんまり名所がありませんね(笑)。最近で一番有名なのは石田衣良さんの小説『池袋ウエストゲートパーク』かもしれません。だけどあれは池袋のチーマ―といいますか、半グレのお兄ちゃんお姉ちゃんたちのお話です。けっしてイメージはよくない。テレビドラマにもなりましたが、あれを見た人は「池袋って怖いところだなー」と思ったかもしれません。僕が田舎にいて見ていたら間違いなくそう思いますね(笑)。パブリックイメージが今ひとつということもあって、これも言いにくいですが豊島区さんなんかが池袋モンパルナスを一押しにしたりしているわけですが、どうもうまくいってない。だけどだいじょうぶ。池袋モンパルナスは日本の絵画史上で最も重要な絵画動向の一つです。今後ますますその意義が高く評価されていくと思います。
美術でも文学でも同じですが、ある新しい動向が起こる時には、必ず中心になる芸術家がいます。たいていは人並み外れた高い芸術性を持っている人です。そういう人がいると周囲の人間が高みへと引っ張られる。芸術家って、意外とある世代がまとまった集団としてドンと世に出るんです。芥川龍之介の「新思潮」世代がそうです。小林秀雄の「白痴群」周辺もそうですね。「白痴群」系の作家たちは初期は富永太郎がひっぱり、それから小林、中原中也がひっぱった。河上徹太郎とか大岡昇平が周辺にいて、後に一家を成しました。白州正子や青山二郎さんも末席にいましたね。そういった芸術家集団はとても多い。池袋モンパルナスの場合、多彩な芸術家集団を引っ張ったのは小熊秀雄です。
小熊さんの晩年のスナップです。優男ですね。実際女性に大変モテたらしい。まあ酔っ払って強引に迫る人でもあったようですが(笑)。小熊さんは昭和四年(一九二九年)に豊島区長崎町に転居してきて、奥さんによると十九回引っ越ししたそうですが、昭和十五年(一九四〇年)に亡くなるまで長崎町で暮らしました。小熊さんがアトリエ村のあたりで暮らした十年間ほどが、池袋モンパルナスの全盛期だと言っていいと思います。画家で最も小熊さんと親しかったのは、俳優の寺田農さんのお父さんの寺田政明画伯です。小熊が生前に刊行した二冊の詩集の装丁も政明さんです。
池袋モンパルナスに夜が来た
学生、無頼漢、芸術家が
街に出てくる
彼女のために
神経をつかえ
あまり、太くもなく
細くもない
在り合わせの神経を――
(小熊秀雄『池袋風景』昭和十三年[一九三八年])
モンパルナスというと、必ず引用される小熊さんの詩です。週刊誌『サンデー毎日』に小熊さんのエッセイ付きで発表されました。この詩に戦後に作曲家として活躍した松井八郎さんが曲をつけて、モンパルナスの住人が酔っ払った時などに歌ったようです。確か楽譜もあるんじゃないかな。寺田政明さんは居住歴が長いので「モンパルナスの主」と呼ばれていましたが、小熊さんも長い。この詩(歌)がよく知られていたのは、助け合わなきゃならない戦前のことでそう広いエリアでもないですから、モンパルナスの住人と小熊さんが、濃淡の差はあっても交流していた証拠でしょうね。小熊さんは美術評論家でもありました。
アトリエ村を最初に池袋モンパルナスと呼んだのは小熊さんで、言うまでもなくエコール・ド・パリを象徴する町の名前から取りました。無名時代のモディリアーニ、シャガール、キスリング、ユトリロなど名だたる画家たちが住んだ町です。セーヌ川左岸ですが、反対側の右岸にはピカソらがアトリエを構えたバトー・ラヴォワール(洗濯船)というアパルトマンがあった。萩原朔太郎が「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し/せめては新しき背廣をきて/きままなる旅にいでてみん。」(『純情小曲集』大正十四年[一九二五年])と歌ってからそう遠くない時代です。
池袋モンパルナスという名前にはフランスへの憧れが込められています。それは〝遅れ〟の意識でもあります。日本は欧米先進国に比べて産業も芸術も遅れているという一種のコンプレックスであり、先進国に追いつけ追い越せの意識でもあります。これが〝モダニズム〟と呼ばれる芸術運動になります。Modernは一義的には〝現代〟の意味ですが、モダニズムには〝我々は先進国の現代から遅れている〟というニュアンスがありました。日本では戦後の一九八〇年代頃までモダニズム、つまりはほぼ無条件の欧米信仰の気風がありました。ただこれはなにも日本に限ったことでなく、文化大国フランスを頂点とするヨーロッパ周辺国、あるいはアメリカでもモダニズム運動が起こります。モンパルナスや洗濯船に集まった美術家たちもフランス以外の外国人が多い。フランスは文化的に一番進んでいるという自負がありましたから、当然モダニズムはありません。
ただずっとそんなコンプレックスを抱えていられるはずもなく、小熊さんの『池袋風景』という詩はけっこう猥雑です。「彼女のために/神経をつかえ」の「彼女」は池袋の街の女を指すのでしょうね。今はキャバ嬢を育てるといったゲームが若い女の子に人気だったりしますが、当時の街の女性たちは社会の底辺でひっそりと暮らしていた。そういう女性たちを貴女として扱ってもしょうがない。小熊さんは「あまり、太くもなく/細くもない/在り合わせの神経を」と書いていますが、〝俺はじゅうぶん街の女の心をわかっていて優しい〟くらいに思っていたんじゃないでしょうか。口説き指南だったかもしれない(笑)。しかし『池袋風景』という詩は決して彼の代表作ではない。小熊さんはもっと優れた詩人です。
しゃべり捲くれ
小熊秀雄
私は君に抗議しようといふのではない、
――私の詩が、おしやべりだと
いふことに就いてだ。
私は、いま幸福なのだ
舌が廻るといふことが!
沈黙が卑屈の一種だといふことを
私は、よく知つてゐるし、
沈黙が、何の意見を
表明したことにも
ならない事も知つてゐるから――。
私はしやべる、
若い詩人よ、君もしやべり捲くれ、
我々は、だまつてゐるものを
どんどん黙殺して行進していゝ、
気取った詩人よ、
また見当違ひの批評家よ、
私がおしやべりなら
君はなんだ――、
君は舌足らずではないか、
私は同じことを
二度繰り返すことを怖れる、
おしやべりとは、それを二度三度
四度と繰り返すことを云ふのだ、
私の詩は読者になんの強制する権利ももたない、
私は読者に素直に
うなづいて貰へればそれで
私の詩の仕事の目的は終つた、
私が誰のために調子づき――、
君が誰のために舌がもつれてゐるのか――、
若し君がプロレタリア階級のために
舌がもつれてゐるとすれば問題だ、
レーニンは、うまいことを云つた、
――集会で、だまつてゐる者、
それは意見のない者だと思へ、と
誰も君の口を割つてまで
君に階級的な事柄を
しやべつて貰はうとするものはないだらう。
我々は、いま多忙なんだ、
――発言はありませんか
――それでは意見がないとみて
決議をいたします、だ
同志よ、この調子で仕事をすゝめたらよい、
私は私の発言権の為めに、しやべる
読者よ、
薔薇は口をもたないから
匂ひをもつて君の鼻へ語る、
月は、口をもたないから
光りをもつて君の眼に語つてゐる、
ところで詩人は何をもつて語るべきか?
四人の女は、優に一人の男を
だまりこませる程に
仲間の力をもつて、しやべり捲くるものだ、
プロレタリア詩人よ、
我々は大いに、しやべつたらよい、
仲間の結束をもつて、
仲間の力をもつて
敵を沈黙させるほどに
壮烈に――。
(『小熊秀雄詩集』昭和十年[一九三五年]五月)
小熊さんは杓子定規に言うとプロレタリア詩人ということになります。これはまあ彼の出自から言って仕方がない。
小熊秀雄、明治三十四年(一九〇一年)北海道小樽市生まれ。父は三木清次郎、母は小熊マツ。三歳の時に母死去。父清次郎が継母ナカと再婚したため、親族会議の結果、秀雄は実母小熊マツの私生児として入籍される。三歳頃から父の仕事で北海道内を転々とし、樺太に長く住む。途中、秋田の伯母の家に引き取られ養育された時期もある。大正五年(一九一六年)十五歳の時に樺太泊居町で高等小学二年を卒業。これが小熊の最終学歴。漁師、農夫、行商人、工場労働者などとして働く。パルプ工場で働いていた時に右手人差し指と中指を失った。大正十年(一九二一年)の徴兵検査の際に戸籍謄本を見て私生児だと知り、以後三木姓を捨てて小熊を名乗る。同年実母マツの連れ子で、清次郎がナカと再婚後に養子に出した異父姉ハツと旭川で再会。ハツは養家から料亭に身売りされたが、この頃は年季が明け、津村広一と結婚して三味線と踊りのお師匠さんをしていた。また実父清次郎と継母ナカの間には子供がなくチエという女の子を養女にしていたが、チエが清次郎の子を身ごもって旭川のハツの所に逃げてきた。ハツと津村広一の間にも子がなく英一を養子としていたが、津村家では養子英一とチエを結婚させることにした。翌大正十一年(一九二二年)、小熊は姉のツテで旭川新聞で見習い記者として働き始めた。昭和三年(一九二八年)にツネコ夫人と長男焔を連れ東京に定住するまで北海道で新聞記者として働いた。
小熊さんの前半生を簡単にまとめると以上のようになります。ちなみに小熊さんは絵も上手でした。新聞記者といってもカメラをいつも持ち歩いているわけではないので、ささっとデッサンすることも多かった。今お見せしているのは昭和十年作の『夕日の立教大学』という小熊さんの油絵です。油絵はこれ一点かな。立教大学にとっては重要文化財クラスの絵ですね(笑)。
小熊さんの家庭環境はなかなか複雑です。頭のいい人でしたが、中学を出るとすぐに労働者として働きました。新聞記者になる前の時代を「農奴時代」だと言っています。最近になって貧富の格差の拡大が問題になっていますが、戦前は今とは比較にならないほど格差がありました。社会底辺から出発せざるを得なかった小熊さんが社会問題に敏感で、富の平等分配を謳う社会主義思想に興味を持つようになったのは当然だと思います。しかし彼をプロレタリア詩人、つまり何よりも〝政治的イズム〟を謳った詩人だとは言えません。
朗読した詩『しゃべり捲くれ』にはユーモアがあります。「私は同じことを/二度繰り返すことを怖れる、/おしやべりとは、それを二度三度/四度と繰り返すことを云ふのだ、」という詩行なんかは、ついニヤリとしてしまう。もちろん詩にはレーニンも出てきて、小熊が社会主義思想の持ち主だったことは間違いありません。ただ小熊さんの詩はいつだって、政治思想を喧伝するためのアジビラのような〝道具〟ではないのです。
『しゃべり捲くれ』が収録された『小熊秀雄詩集』が刊行された昭和十年(一九三五年)には、すでに思想統制が始まっていました。特高警察も暗躍していた。昭和八年(一九三三年)には小林多喜二が築地警察署に拘留され、特高の拷問というかリンチで死亡しています。多喜二の葬式の際の写真が残っていますが、あざらだけの顔です。かわいそうなことをしました。小熊さんも当然身の危険を感じる時代ですが、『しゃべり捲くれ』は当局の検閲をかいくぐるようなスタイルで書かれた。小熊さんの詩法がよく表現された作品ですが、簡単に言うと沈黙するんじゃない、無駄口を叩け、グチャグチャいろんな意見を言え、とにかく言葉を、しゃべりまくる自由を失うなということです。小熊さんの詩は饒舌体なんです。書き始めると止まらないようなところがある。彼には「アイヌ民族のために」という献辞を持つ『飛ぶ橇』という長編詩もあります。戦前では珍しい長編詩の成功作です。
小熊さんは饒舌体の詩法をロシア革命時代の詩人、ウラジミール・マヤコフスキーから学んだと思います。マヤコフスキーは三十七歳で自殺して亡くなりましたが、ロシア革命時代に国内にいて、しゃべりまくることで自由を確保しようとした。レーニンは時にプロレタリア革命の矛盾を指摘するマヤコを困ったヤツだといった感じで黙認していましたが、スターリン時代になって表現が苦しくなります。ただ最後まで彼の詩からユーモアが失われることはなかった。日本では岩田宏という詩人がマヤコの詩を数多く訳しました。六十年代安保世代の戦後詩人ですが、彼の詩も一筋縄ではいかない。饒舌でユーモラスで強烈な皮肉が入り混じります。あまり岩田さんの詩を論じる人はいませんが、僕の最愛の詩人の一人です。小熊秀雄の正統後継者的詩人でした。
小熊さんはいっつも金に困っていましたし、顔が広く人なつっこい方でしたから、生前刊行した『小熊秀雄詩集』と『飛ぶ橇』を、間違いなく誰かれかまわず売りつけたはずです。モンパルナスの住民の多くがその被害者になったでしょうね(笑)。モンパルナスの画家たちは小熊の詩を読んでいたわけで、実際に親しく接してもいた。モンパルナス画家たちとは高橋新吉や山之口貘、瀧口修造といった詩人たちも関わりを持っていますが、最も池袋モンパルナスの精神を体現していたのは小熊さんの存在と詩です。
小熊さんは周囲から反体制のプロレタリア詩人と見られていました。しかしモンパルナスの住人からうとまれた形跡はありません。また小熊さんが画家たちに政治思想を植え付けた気配もない。一緒に酒を飲んで騒ぎ、時々絵を描いて遊んでいた。小熊さんが住んでいるし、モンパルナスの画家たちがシュルレアリスムなどの前衛絵画を描いていたことから、特高がモンパルナスを監視するようになりますが、まったく甲斐がなかったようです。寺田政明さんなんかは特高の刑事と仲良くなって、よく立ち話をしていたらしい。では小熊秀雄の神髄は何かというと、人間個々の、なんびとにも奪えない自由精神ということです。
地球の中にもう一つ私の地球がある
小熊秀雄
私は地獄に陥ちたのだと
人々に噂されてゐる
ほんとうだ私は救い難い奴だ、
救い難いところへもグングン這入りこむ
私は乱暴で、奇怪な、感情をもつてゐる
私はそしてあらあらしい風のやうな呼吸をする。
だが、さまよふ私の心は誰も知らない
私は野原を行くが、
自然の野の中に、もうひとつ私の野をもつてゐる、
私は町をあるくが、
人々の町の外に、もうひとつ私の町をもつてゐる、
人々は私の孤独を、私の地獄と呼んでゐる
近よりがたい敬遠と
引き離された距離にわたしは立つてゐる、
人々は私を悪魔のやうに嫌がる
地球の中に地球がある、
人々の愛の中にではなく、
人々の愛の外に、私の愛がある、
(『流民詩集』昭和二十一年[一九四六年]五月)
『地球の中にもう一つ私の地球がある』は戦後の昭和二十一年(一九四六年)に中野重治によって刊行されました。小熊死去の年の昭和十五年(一九四〇年)に刊行されるはずで版もできていましたが、当局の検閲と弾圧を怖れて刊行されなかったのです。小熊は詩集序文を書き詩集タイトルは『心の城』でしたが、中野さんがそれを『流民詩集』に変えてしまった。でも『流民詩集』って中野さん好みの共産党左翼文脈ですよねぇ。
小熊さんには「中野重治」という風刺詩があって、「棒鱈のようにつっ張らずに/田作の様にコチコチにならずに/少しは思想奔放症でやり給へ、/狭心症は生命を縮めるよ/釣銭のくるような/利口ぶりを見せないで、/馬鹿か利口か/けじめのつかないような/作品を書き給へ」と書いています。痛烈な批判ですが当たってますね。
こんなことを言うと怒られますが、共産党顔みたいなものを感じることがあります(笑)。共産党書記長の宮本顕治さん、不破哲三さん、今の書記長の志位和夫さん、それに文学者では中野重治さんです。ちょっと丸っこいような四角顔。で、全員東大出身でインテリ中のインテリの皆さんです。政治家に裏の顔があってはいけないのは当然ですが、文学者の中野さんにも杓子定規なところがあった。簡単に言うと快楽が足りない。小熊さんはまごうことなき社会最下層のプロレタリアでしたが、社会批判をしつつも仕事の後に仲間と馬鹿騒ぎする楽しみを知っていた。でも中野さんにはそういった快楽がない。小熊さんはお前の文学は表層的で嘘くさいよと批判しているわけです。
ただ先にご紹介した『しゃべり捲くれ』と比べると、たった五年で小熊さんが非常に追いつめられていることがわかります。内容的には『しゃべり捲くれ』の方が過激ですが、昭和十五年(一九四〇年)には『地球の中にもう一つ私の地球がある』程度の表現ですら、当局の弾圧を怖れなくてはならない詩になっていました。
『しゃべり捲くれ』で小熊さんは「プロレタリア詩人よ、/我々は大いに、しやべつたらよい、/仲間の結束をもつて、/仲間の力をもつて/敵を沈黙させるほどに/壮烈に――。」と書いています。プロレタリア文学の仲間を信頼し、「敵」――つまり言論弾圧をする当局にしゃべりまくって戦いを挑めと書くことができた。しかし『地球の中にもう一つ私の地球がある』は「私は地獄に陥ちたのだと/人々に噂されてゐる」で始まります。多くのプロレタリア文学者が沈黙し、転向していった時代なのです。まだ沈黙も転向もしない小熊さんは「悪魔のやうに嫌が」られています。そんな小熊さんが最後のよりどころにしたのが「心の城」です。この精神は戦後の戦後詩にも受け継がれます。
小熊さんは「自然の野の中に、もうひとつ私の野をもつてゐる、」「人々の町の外に、もうひとつ私の町をもつてゐる、」「地球の中に地球がある、/人々の愛の中にではなく、/人々の愛の外に、私の愛がある、」と書いています。なんびとも弾圧も介入もできない心の城――つまりは個の独立不羈の精神が小熊さんが最後のよりどころとした人間の矜恃です。ただその表現は苦しい。
『地球の中にもう一つ私の地球がある』は、いつもの小熊さんならもっと長い詩になったはずなのです。『しゃべり捲くれ』は「。」で終わっています。だけど『地球の中にもう一つ私の地球がある』は「、」で終わっている。簡単に言えば語り尽くしていない。To be continuedなのです。これ以上書くとヤバイということでもあります。詩人は「。」「、」の使い方にそんなに意識的なのかと思う方もいらっしゃるでしょうね。意識的です。優れた詩人は間違いなくそうです。小熊は確信を持って句点と読点を使い分けています。
池袋モンパルナスの画家たちはシュルレアリスム絵画を描きましたが、シュルレアリストではありません。多士済々でしたからいろんなタイプの画家がいますが、基本的には戦争画を書いても右翼ではない。小熊さんと仲良くしていましたが左翼でもありません。政治を含むイズムは池袋モンパルナスの画家たちにとって、それほど大きな問題ではなかったのです。
では彼らにとって何が一番大事だったのか。独自の表現ですね。もっと言えば日本独自の洋画の姿を追い求めていた。それを代表するのが池袋モンパルナスの仙人と呼ばれた熊谷守一です。日本の洋画はラファエル・コランを師と仰ぐ黒田清輝の外光派の時代から、欧米最新絵画動向を必死に追いかけてきました。それもそのはずです。明治維新で洋画が生まれてから池袋モンパルナスの時代まで、六十年くらいしか経っていないのです。この六十年で日本の洋画家たちは、数世紀にわたる欧米絵画の技法や思想を驚くべき貪欲さで学んでいきました。
モンパルナスの画家たちも欧米絵画の流行を必死に追っていたわけですが、大正から昭和にかけて画家の質がじょじょに変わってきます。それまでは東京美術学校、今の東京藝大出身の画家たちが画壇をリードしていたのですが、モンパルナスの画家たちに美校卒業生はほとんどいません。ただ絵を描くのが好きで、さして家が裕福でもないのに無理して私設の美術学校で学び、自発的に画家の道を歩み始めた人がほとんどです。現代でも藝大卒業生は美術エリートですが、藝大卒の画家が最優秀とは限りませんね。また藝大生は画家の卵たちの中ではほんの一握りです。現代と同じような画学生たちが生まれたのが、モンパルナスの画家たちが活動を始めた大正末から昭和初期なのです。つまり僕らとほとんど変わらない。
モンパルナスの画家たちは、基本的にアカデミズムとは無縁に絵を描き始めました。たくさんの欧米絵画を模倣しましたが、決定的にコレといったイズムの影響はない。その中心にいたのが美校出身で、しかもあの青木繁を抑えて首席で油絵科を卒業し、その上アカデミズムにも画壇的出世にもまったく関心を示さず独自の絵画を追求していた熊谷守一です。モンパルナスの画家たちは熊谷さんのところに絵を持ち込んで批評を仰ぎ、彼の家で画集を見て勉強したりしています。
小熊は熊谷守一にインタビューして『熊谷守一芸術談』をまとめています。美術展時評でもしばしば熊谷の絵を論じている。
期せずして、でしょうがこの二人は似ている所があります。彼らが表現のよりどころにしたのは極私です。誰がなんと言おうと自分の求める芸術を、ヴィジョンを信じること、世の中で何が起ころうと誰にも奪えない心の城を持つことです。
池袋モンパルナスは大局的に見ると、小熊の思想と熊谷の絵画思想の両極に支えられていたと言っていいと思います。またこの質の違う二人の思想には、政治・文化イズムを信奉する人々にしばしば見られるような無理がありませんでした。
余談ですが、僕は戦後の思想家で一番優れているのは吉本隆明さんだと思います。文芸批評家の磯田光一さんが吉本さんとの思い出をエッセイに書いておられますが、飲んでいたときに「思想のためなら死ねるか」という話題になった。吉本さんは「子供のためなら死ねるけど、思想のためには死ねないな」とおっしゃったそうです。こういう所が吉本さんは信用できる。実存主義でもポスト・モダニズム思想でも同じですが、頭でっかちに後天的に学んだ思想は付け焼き刃に過ぎません。生死を一貫した肉体性がなければ思想の名に値しないのです。
また長野の上田市で小説家水上勉さんのご子息の窪島誠一郎さんが、戦没者の絵画を収集・展示する無言館を運営しておられます。何かのインタビューで窪島さんが、政治的な意図は一切ないんだとおっしゃっていました。安倍政権の軍国主義的風潮に対抗するために無言館を利用する人たちがいるけど、すごく違和感を覚える、と。
今もそんなに変わりませんが、息子が絵描きになりたいと言い出すと、たいていの親は猛烈に反対します。「夢でも見てるのか。食えるわけないじゃないか」というわけです。でも窪島さんは、本気の画学生がいると、必ずと言っていいほど応援する親族がいたんだとおっしゃっています。俺が家を継ぐから弟には絵を描かせてやってくれと言った兄や、画材を送ってくれた姉たちがいた。そういった画学生と、彼らを支えた人たちの無償の絵画愛の遺産として無言館はある、というのが窪島さんのお考えのようです。
池袋モンパルナスの画家たちは徒手空拳ですね。学歴といった後ろ盾はない。裕福でもない。おまけに戦争が迫っている。しかし彼らは絵を描き続け、戦後にそれぞれが独自の表現地平に突き抜けました。モンパルナスの画家たちの絵も人生も混乱しているように見えますが、そこには一貫した肉体的思想があるのです。(中編に続く)
鶴山裕司
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