「僕が泣くのは痛みのためでなく / たった一人で生まれたため / 今まさに その意味を理解したため」
by 小原眞紀子
干
うつぶせでいれば
水がにおう
コンクリに染み込んだ
温まり鼻腔をくすぐり
ちょっとつんときて
それからすうと抜ける
ぼくの裏側へ
蒸気となって天に還る
ぼくの魂とともに
世の中をめぐり
遠いところで風にのり
やがて戻ってくる
笛の音が聞こえる
それで起きなければ
背中は赤く
なお赤く
水に飛び込む
ひりつくのは背ではなく
ぬれている心が
さらにぬれるから
ぼくは泳ぎながら
溺れている
ぼくがぼくであることに
どこまでもぼくであることに
誰かが見かねて
タオルを投げる
ぼくに敗北したぼくは
ふらふらと陸に上がり
ぼくの裏側を干す
晩
ドラマチックな日暮れはすぎた
空間と時間の
魂を揺さぶる伽藍は
聞こえない音をたてて崩れ落ち
こんな晩がやってくる
いつもの通りの
いつもの灯り
自転車のブレーキの音も間延びして
焼き鳥屋からは焼き鳥の匂い
すばやく逃げるのは
路地裏の猫だけ
僕の行く手は暗く
先はなお暗い
ただ、時が流れる
ここはどこでもない
ただ、晩である
ここに空間はない
なぜなら何も起きない
起きても何ごとでもない
人はすれ違うだけだから
たった一度
合席になっても
昔から知っていた気もするし
遠縁の者に挨拶しても
人違いのような気もする
なぜなら道は暗すぎ
店の中は明るすぎる
晩はだから独りにかぎる
僕だけで時はすぎるから
未
はるかな宇宙から
ほら、あれがやってきた
未就学児のぼくは走り出し
どこまでも追いかけた
おどろいて振り向く大人たちに
あれ、あれと指差して
だけど彼らは見つけられない
見るたびに
家の高塀の角に
電信柱とビルのつくる影に
あるいは雲の後ろに
隠れて消えてしまう
未確認飛行物体
その漢字の羅列を読める頃には
ぼくも遭遇しなくなった
月に二回は空に浮かんでいた
未知と疎遠になって
ぼくは学校に通い
既知の友だちとともに
既存のテキストの
既読の量を競えば
未来に繋がると信じた
日々はただ
現在が積み重なるばかりだったが
ほら、あれが、と
いつか突然やってくるものと
ぼくの見上げる空の
未来ははるか
ぼくの過去だった
写真 星隆弘
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* 連作詩篇『ここから月まで』は毎月09日に更新されます。
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