世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
三、バイアグラのジェネリック
踏切の音がカンカン鳴り続けている。
赤く錆びた音。粉っぽい音。舐めたら死ぬ。経済が悪い。染色体が悪い。育ちが悪い。運が悪い。いや、悪いのは俺の呑み方だ。
まずは家の布団に到着した自分を褒めてあげよう。そして昨日の夜は……、と考え始めた頭に痛みがある。ズキズキ疼いてる。そうだ、昨日の地下のバー「ランブル」はボッタクリだったんだ。揉めた記憶はないし、暴れた覚えもないが不安になる。殴られて記憶とんでるんじゃないか?
傷はないか確認しようと動かした腕も痛い。やっぱり、と思い頭に触れるがどこにも傷はない。少し冷静になろう。そもそもズキズキ痛いのは内側。コレは御馴染みのアレ、ただの二日酔いじゃないか。別に殴られたわけじゃない。ということは腕の痛みも自損事故だ。多分、どこかにぶつけただけだろう。くだらない。
確かにあの後、先客の若い女二人が声をかけてきた。
「今ヒマしてるんですけどぉ、ねえ?」
「うん。ええ、よかったらぁ、一緒に呑みませんかぁ?」
なるほど、これにホイホイ乗るとぼったくられるんだな。猫撫で声は上手く出せていたが、残念ながら地声の「それマジかよ」「違えし」が聞こえてた。何だか随分雑な手口だ。俺、そんなマヌケに見えたのかな。
「嬉しいんだけど、時間がないからごめんなさい」
丁寧に断ってマスターに勘定を頼むと、不味いマティーニで千四百円。あのコーヒー二杯分だ。軽くぼったくられたが、まあいい。やっぱり煮え切らない日だと思い外へ出るとナオがいた。心配で様子を見に来たらしい。教えてくれたお礼にと、呑みに連れて行ったのが運の尽き。あいつ、底なしに呑めるんだった。結局朝まで付き合ってこの有様。まさかと手を伸ばし財布を確認する。どうやら百パーセント奢ったらしい。ボッタクリは避けれたが、とんだタカリに遭っちまった。
喉を潤そうと立ち上がる。酒の残り方が尋常じゃない。下を向いたら昨日の分を確実に嘔吐する。記憶も吐ければいいのにな。そういうのだけ残るんだ。見慣れた、いや見飽きた鏡の中の顔。二日酔いの時は五、六歳老けている。
水道水をガブ飲みしてトイレへ。便座の冷たさに鳥肌が立つ。下痢。酒臭い便。最悪だ。本日は労働できません。職場に電話を入れなきゃな。
安太と同じく、いい歳こいてフリーターやってます。三軒茶屋の古着屋店員、時給千百円。ドタキャンOKなのが最大の魅力で、もう四年近くやっている。この間、店長が俺より一つ年下だと初めて知った。
先月から働き始めた安藤さんは、ここ数年のバイトの中で抜群に容姿が整っている。文句なしの別嬪さん。タイムカードの字も綺麗だった。
短大の観光学部一年。CAになるの? と訊いたら笑われた。たまにロックバンドのTシャツを着てるんだよな。夏はロックフェスに行くらしい。二泊三日でテント持参。彼氏と? と訊いたら笑われた。何だか笑われてばっかりだ。あと、いつもトマトジュースを飲んでる気がする。そして眼鏡のフレームが赤。似合わないからたまらない。美人は得だ。
「はい、もしもし、『フォー・シーズン』です」
電話に出たのは、赤いフレームの眼鏡をかけてトマトジュースとロックが好きな短大一年の安藤さんだった。
「もしもし、悪いんだけどさ、ちょっと今日休ませてもらうわ。大丈夫……だよね?」
「あ、はい。じゃあシフト消しときますね。……あのぉ」
「ん?」
「また呑み過ぎたんですかぁ?」
ほら見ろ、笑われた。安藤さんにとって俺は何なんだろう。年齢は昨日のボッタクリ女たちと変わらないはずだ。まさか「マジで無理」なんて思ってるんじゃないだろうな。
バイト先にさぁ、アラサーのオジサンがいてぇ、いつも二日酔いでドタキャンしまくりでマジ無理なんだけどぉ。
やめよう。こんな朝は暗い想像しか出来ない。そもそも俺は安藤さんに何を期待してるんだ。「やりたい」のか「付き合いたい」のか。大体この二択だからな、っていうのは安太からの受け売りだ。
「やりたい」し「付き合いたい」。つまりどっちもしたいなんてことは滅多にない。もしそういう事例に出くわしたら諦めて結婚するんだ――。
そんな自前の理論に従って安太は結婚した。で、離婚。
もしかしたら俺は安藤さんと「付き合いたい」のかもしれない、と考えたら一気に憂鬱になった。
ちゃんと連絡をした御褒美なのか、ひとつ思い出したことがある。バーバラを「校長先生」と呼んだドサクサで、あのホテルに忘れ物をしちまった。いや、気付かなかったから落し物か。
ポケットに入れていたシルデナフィル。確か二錠残っていたはずだ。別にヤバい薬じゃない。バイアグラのジェネリックだ。バーバラでダメだった時の為に忍ばせていた。
元々勧めてくれたのは安太だ。ピルカッターで半錠に分ける節約術も教わった。勃たないのは苦手な相手だけじゃない。メンタル重視、つまり「付き合いたい」女も何故か勃たなかったりする。で、俺はそっちが多い。
気付いたのはナオと呑んでる時。つい、したくなった。で、ポケットを確認したらなかった。
昨日、声をかけていた女たちの中にナオは入ってない。そういう対象じゃないからだ。でも、したくなった。矛盾してるが仕方ない。
安太と一緒にぐちょぐちょやり始める前、ナオとは何度か寝た。大した事情なんかない。酔っ払いすぎたとか、終電が出ちゃったとか下らないヤツ。それ以降も別に気まずくなることなく、たまに顔を合わせれば一緒に呑んだりする。声をかけてまで会いたくはないが、実際会ったらしたくなった。よくある話だ。
声をかけなかった理由はちゃんとある。
俺とナオは同じ歳。高二の時に初めて会った。共通の友達仕切りのパーティーで顔を合わせているうちに仲良くなったんだ。初めてした時のことはよく覚えてる。
何人かで渋谷で呑んでいて、ベロベロになった俺たちは途中で抜けてホテルに入った。そこまではよかったが、二人の金を合わせてもあと千円足りない。フロントのおばさんは焦っている俺たちを見て、笑いながら千円まけてくれた。でも翌朝「いいよ、いいよ」と言う俺を尻目に、ナオは銀行で下ろした千円をおばさんに返したんだ。
「昨日は本当にありがとうございました」
ラブホテルに不似合いなハキハキした声で礼を言い、ちゃんと頭を下げる姿を自動ドアの外から見ていた。俺はあいつのそんなところが苦手だったから、一度も付き合ったことはない。もっと軽くて無責任な女がよかったんだ。自分よりもちゃんとしている女が怖かった。だから昨日も自分から声をかけなかった。全然成長してないな、俺。
古い話を手繰ったせいで、頭痛がひどくなった。もうしばらく休んでいよう。強く目を閉じて数分、そろそろ眠りに落ちるギリギリでひとつ思い出したことがある。ナオの腕には刺青が入っていた。柄は思い出せないが、そんなに大きくなかったはずだ。呑んでいる途中で、あいつから袖をたくし上げて見せてくれた。もしかしたら、そのせいでしたくなったのだろうか。分からない。ただ言えるのは、俺の知っているナオに刺青は似合わないということだ。
また眠っていた。目が覚めてもこうして寝転がっている。テレビを点けないままだから、聞こえるのはカンカン響く踏切の音だけ。通過しているのは二両編成の世田谷線。俺の通勤電車だ。全十駅、どこからどこまで乗っても一律料金、定期はひと月五千円。大らかというかテキトーというか、線路沿いのゆるい眺めも含めて気に入っている。
あー、と意味なく呻きながらデタラメに身体を伸ばし、一度で何回カンカン鳴るのか数えたりしていた。そんな時間つぶしにも飽きた頃、ようやく漂う匂いに気付く。
俺は呑み過ぎると鼻がバカになる。安太に言うと、男の老化の順番は歯・眼・魔羅だと教えてくれた。最後で良かったじゃん、と笑うと「こういうのもあるからな」とバイアグラのジェネリックをつまらなそうに指差していた。そうだ、あれ落としちまったんだ。
どんなに首を伸ばしても、布団の中で嗅ぐのは限度がある。食べ物の匂い、という事しか分からない。どうやら妹が来て、何か作ってくれたみたいだ。あまり腹は減ってないが、少しは食べた方がいいかもしれない。
でも、この匂いはなんだろう。嗅いだことはあるけれど、思い浮かぶ料理がない。いや、もしかしてバカな鼻が誤作動しているだけで、匂いなんて漂っていないのか? 考え始めると頭のズキズキがひどくなりそうだ。仕方ない、起きてみるか。
まず目に入ったのは結構な量のサフランライスのみ。まさかと思ったがこれしかない。テーブルの上のメモには「時間足りなかった。材料は買ったから、カレーは自分で作ってね」と直筆メッセージ。何なんだよ、とぼやいたが確かに時間はたっぷりある。他にやることもないし、久しぶりに作るか、カレー。
料理なんて滅多にしないが、妹直伝のカレーはたまにやる。毎回手を抜かずレシピを見ながら真面目に作るのは、料理の基本を知らないからだ。何だってそう、基本を知らなければ手も抜けない。
冷蔵庫に貼ってあるレシピを見ながら手を洗う。もちろん「1、きれいに手を洗う」と書いてあるからだ。次は玉ねぎをフードプロセッサーにかけ、取り出したらフライパンで炒める。塩、胡椒、コリアンダーとクミンで下味をつけてからトマト缶を投入。そして牛乳とヨーグルトを追加。
後はダラダラと弱火で煮込みながら、香辛料で味を調整。ターメリック、カイエンペッパー、ローレル、シナモン、ガーリック、生姜。最後はコーヒーで香り付け。所要時間三十分。フードプロセッサーをくれたのも、香辛料を揃えたのも妹だ。
なんでヨーグルトやコーヒーが必要なのかは分からないが、このカレーは美味い。一言で言うなら、福神漬けが合わない味。
半月後、閉店間際のスーパーで半額シールの貼られた惣菜を漁っていると、安太から連絡が来た。あれ以来初めてだ。
俺もバーバラのことが気にならないわけではなかったが、ぐちょぐちょやってる時の話を引きずっても仕方ない。少なくとも俺たちはこれまでそうやってきた。
「あれ、外?」
「うん、スーパー」
「あ、そうなんだ……」
用がないなら切るけど、と言わなかったのはバーバラの件で負い目があるからだ。何か用? と訊く前に「これからどう?」と誘われた。楽しい用事じゃないのは声で分かる。
鮭とふっくら卵のチャーハン、野菜たっぷり国産レバニラ炒め、若鶏ももジューシー唐揚げ。カゴの中の戦利品を全部元に戻して世田谷線に飛び乗る。畜生、総額五百円で結構豪華な晩飯だったのにな。
下高井戸の駅前、安太は缶チューハイを片手に待っていた。色の落ちたデニムにグレーのパーカー。着の身着のまま丸出しの格好で、軽く右手を挙げる。心なしかやつれたようにも見えるが、普段から貧相なので自信はない。
「悪いね」
「いや、全然」
挨拶もそこそこに歩き出し、安い中華料理チェーン店に入っていく安太。片言の外国人店員に「二人ね」と告げ、一番奥のボックス席に座る。
「好きな物頼んで、今日は出せるから」
先に頼んだ生ビールを呑みながら安太が微笑む。メニューにはさっき諦めたチャーハンも、レバニラ炒めも、唐揚げもあったが、結局枝豆だけ頼んだ。どんな話か分からないのにバクバク食えない。
それだけでいいの、と訊くこともなく安太は話し始める。
「じゃあ、楽しい方が先ね」
久々にその言葉を聞いた。安太は話が二つ以上ある時、そうやって最初に宣言する。「楽しい方と、楽しくない方」、「面白い方と、面白くない方」、言い方は色々あるが、心の準備が出来るので嫌いではない。
「俺の働いてるコンビニにさあ」
驚いた。そっち用の心の準備は出来てない。安太、こんなに呆気なくカミングアウトするんだ。それともとっくにその話はしたんだっけ。あまりにも淡々と話すので「駒場だろ?」と尋ねるタイミングを逃がしちまった。
四年前、安太はコンビニバイトの女とそうなった。その時期だと、もう俺とぐちょぐちょやってる頃だ。聞いてねえぞ、という茶茶を呑み込む。その年の差十三歳。どっちでもいいけど「可愛いのか?」と訊いてみる。
「いや、全然」
「でもそこがよかった?」
「それもない。たださ……」
「?」
「リアルな制服着てやるの、やらしいじゃん」
思わず笑っちまった。どうやら楽しい話が先で正解だったようだ。
「店内でした?」
「防犯カメラあるからそれは無理。あ、ただアレはした」
「アレ?」
「この間のリモコンローター」
ふとバーバラのことを訊こうかと思ったがやめた。今は楽しい話の真っ最中だ。というか、四年も前からあんな事をしてたのか。再び「聞いてねえぞ」という茶茶を呑み込む。いや、茶茶じゃない。これは愚痴だ。
「でもさ、さすがに勤務中は嫌がったから、何度もは出来なかったけどね」
ただそんな時間も長くは続かない。安太はぐちょぐちょだけで良かったが相手は違った。普通の「お付き合い」を求めていた。もちろん安太は応じない。あくまでも彼女は「やりたい」人であって、「付き合いたい」人ではなかった。ほどなくして向こうはバイトを辞めてしまう。
ひでえなあ、と笑うと「そうかなあ」と肩をすくめ、呼び鈴で店員を呼ぶ安太。
「すいません、生ビール、もう一杯」
「あと、チャーハンとレバニラと唐揚げ。あ、生ビールも」
きょとんとしている安太に「ごちそうさまです」と頭を下げる。やはり楽しい話は先にするに限る。
続いて安太がもうひとつの方、つまり「楽しくない話」を喋り始める。ただ何となく話が入ってこない。理由ははっきりしてる。今聞いた安太の楽しい話を、赤いフレームの眼鏡をかけてトマトジュースとロックが好きな短大一年の安藤さんに置き換えて想像していたからだ。もちろん相手は俺。ふと気付くと安太がじっと見ている。
「大丈夫?」
「ああ、ごめん」
「そうだ、これ、忘れ物」
はい、と手渡してくれたのは、バイアグラのジェネリック二錠。どんなタイミングだよ、と苦笑する俺に構わず安太は話を続ける。
つい三日前の夜、下北を歩いていると、若い女に声をかけられた。
「すいません、お店を探してるんですけど見当たらなくて……」
持っていた地図を見ると、歩いて五分くらいの場所。進行方向だったので案内してあげると、とても感謝された。そして歩きながら誘われる。その店には届け物をするだけなので、終わったら一緒に呑みませんか、と。
「お兄さん、面白い店、知ってそうだし」
なかなか絶妙なワードセンスだったよなあ、と運ばれた唐揚げを頬張る安太。何だ、結局腹減ってたのか。
「まあ確かに悪い気はしないかな……」
「うん、それにさ、楽しい時間が始まるぞって感じがしない?」
ピンと来なかったので、その絶妙な台詞を安藤さんの声で再現してみる。「面白い店、知ってそうですよねえ」。なるほど、これだと分かりやすい。確かに楽しい時間、始まりそうだ。
上機嫌で話に乗った安太が、到着した店の前で待っていようとすると、女は一緒に来て欲しいと頼んだ。
「正直よく知らない店だったから嫌だったんだ」
「場所、どこよ?」
「ほら、あのオムライスが有名だったカフェバーがあったところ、名前何だっけな」
俺も名前は出て来なかったが、場所ならすぐ浮かんだ。同時にもうひとつ、浮かんだものがある。
「その店の名前だけどさ」勢い込む俺に怪訝な顔を向ける安太。「当てちゃっていい?」
「もちろん。あのオムライスさ、かなり大きくなかったっけ?」
「いや、そっちじゃない」
「ん?」
「その三日前に行った店、『ランブル』って名前じゃない?」
(第03回 了)
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