エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作『The Enormous Room』の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第三章 天路歴程
護送役のふたりは駅舎を通り抜けるあいだも俺を急き立てた。その片方は(いまはじめて気がついたわけだけど)相棒よりも年上だった、しかも黒々とした縮毛の顎髭をヴァンダイク型に尖らせたなかなかの男前だ。その男前が地下鉄には早すぎたなと言った、まだ動いちゃない。車をつかまえよう。それで次の汽車が出る駅まで乗りつけてもらおう。ぐずぐずするな。駅舎と狂人の群れから抜け出した。なんとかって印のついた乗合自動車に乗った。その車の女車掌は、制服は黒づくめでもほっぺにはピンク色の差した逞しくもなかなか麗しいお嬢さんで、俺の代わりに荷物を運び入れてくれたその身のこなしひとつで俺の全身に喜びが溢れた。俺は彼女に礼を言い、彼女はほほえみを返してくれた。車が街の朝を走り抜けた。
車を降りた。歩き出した。行き先が違っていた。駅まで徒歩で行くはめになった。俺はふらふらでもう疲労困憊で野垂れ死ぬ寸前で麻痺した腕から二度外套がずり落ちたところで足が止まった、「あとどれくらいです」先輩憲兵は簡潔に「二十分だ」と答えた。俺は言った、「これらを運ぶのに手を貸してくれませんか」先輩憲兵は思案して、後輩に書類の詰まった小袋のほうを持ってやるように言った。後輩は『規定違反だ』とぶつぶつ言っていた。ほんの少し進んで、またぶっ倒れた。死んだように動けなくなって、「もう一歩も進めません」と言った。俺がもう歩けないのは護送役のふたりの目にも明らかだったので、あれこれ釈明するまでもなかった。というか俺はもう釈明どころじゃなかった。
先輩のほうが顎髭をなでおろした。「じゃあよ」と口を開いた、「辻馬車に乗るか?」俺は彼を見上げるばかりだった。「辻馬車に乗りたいってんなら、こうして預かって取り上げておくことになっている貴様の金から必要経費を出して、その帳簿をつけたのち、駅までの運賃全額に足りるだけを元金から差し引くことになるな。そうすりゃ駅まで歩かなくて済むぜ、実際馬車には乗るわけだからなあ」『おねがいします』この雄弁術を前にして俺が答えられたのはたったこれだけだった。
法の番人による大演説の間に数台の空の辻馬車が通り去ってしまうと、もう一台も来る気配が感じられなかった。しかし、数分経ってやっと一台現れ、丁重に呼び止められた。しどろもどろになりながら(都会じゃ内弁慶なんだな)先輩憲兵は御者に駅を知っているかどうか訊ねた。『駅ってどの?』御者はいらいらして訊きかえした。ようやくわかって––––『そりゃ、当然知ってるがね』––––俺たちは馬車に乗り込んだ。俺は真中の席に座るように指図され、二つの袋と毛皮のコートが全員の膝の上に覆いかぶさった。
そうして俺たちは朝真っ只中の清々しい街並みを走り抜けた、俺をじろじろ眺めては互いに肘で小突き合う二三人の聖職者たちでひしめく街並み、パリの街並み……うとうとしている路地は馬車馬の蹴爪の音に目を覚まし、パリっ子たちは顔を上げて目を瞠る。
駅に着いた、俺にはうっすらと見覚えがあった。オルレアン駅じゃないか? 馬車を降りて、先輩憲兵の手でじつに気風のいい見るからに男を上げるにちがいない運賃支払が完遂された。御者は俺を一瞥するとなんであれパリ生まれの御者はパリ生まれの馬にしか打ち解けねえと言い捨て、のっそりと手綱を引いた。駅舎に入り俺はほっとしてベンチに崩れ落ちた。後輩憲兵が、たいそう勿体ぶって俺の隣に腰を下ろし、自尊心と気の小ささとが相俟って表出した混じりっけなしの女々しい仕草で制服の上着を整えた。だんだん視界がくっきりとしてきた。駅にはずいぶん多くの人がいる。その数は瞬く間に増えていく。その大部分がお嬢さんだ。俺は新世界にいる––––めかしこんだ女性たちの世界。俺の目はとても真似できないような服装のこだわりや、とても言い表せない立ち居振る舞いのニュアンスや、とても説明しきれるものじゃない若き女職人の織り成す反復模様をむさぼるように眺める。誰一人として同じ振る舞いはない。少し大胆な差し色をスカートのブラウスの帽子のそこかしこに施す。誰も戦争の話なんか口にしない。信じられない。みなじつに美しいんだ、このパリジェンヌたちは。
そして俺を取り囲む小洒落た人たちに気がつくと同時にこれまで気にならなかった俺のみすぼらしさが気になってくるんだ。顎に手をやると顎髭が優に四分の一インチは伸びているのにはっとする、その一本一本が泥汚れでがびがびになっている。目の下の隈にも泥のたまりができているのがわかる。手も泥だらけで荒れている。軍服は脂汚れにまみれて十万通りの皺でくしゃくしゃだ。革ゲートルと靴の見た目は有史以前の遺物って感じ……
俺の最初のお願いは公衆便所に寄りたいというものだった。後輩憲兵は必要以上の責任になることは一切負いたがらない。だから先輩が帰って来るまで待つほうがいい。やっと戻ってきた。彼になら頼めるだろう。先輩は俺の嘆願を快く聞き入れてくれて、相棒に意味深にうなずいて合図をし、俺は後輩に付き添われる形で目的地へと向かい然るのちにベンチに取って返した。便所から戻ると憲兵たちはおそろしく重大な協議をはじめた。その議題は、もう今にも(六時かそこらだった)出発するはずの汽車が今日は運行中止になったということだった。となればまた次の汽車を待たねばならない、十二時かそこいらに出る便だ。そこで先輩憲兵は俺の様子をつくづく眺めて、ご親切にもこう訊ねた、「コーヒーでも一杯どうだ」––––「ぜひとも」十分に誠意を込めて答えた。––––「ついてきな」と彼は命じると、すぐさま憲兵らしさを取り戻し「貴下は」(後輩のことだ)「荷物から目を離すな」
俺がそれまで目にしたじつに美しい女性たちのなかでも最もじつに美しいと言えるのが駅舎の隅っこで一杯あたり二スーで申し分なく熱い正真正銘のコーヒーを売っていた大柄で丸っこいご婦人で、大勢のなじみ客と楽しそうにおしゃべりしていた。かつて口にしたあらゆる飲み物のなかでも、彼女のコーヒーこそが最もおいしくて神聖な味がした。彼女の格好は、忘れもしない、ぴたっとした黒いドレスに身を包んでその一枚奥ではたいそう豊満で恵み深い乳房がふくらんではしぼむのを絶えず繰り返していた。俺は小さなコーヒーカップ一杯をじっくりと味わいながら、彼女のてきぱき働く大きな手や、うんうんうなずく丸っこい顔や、ふいに見せるにっこりとした笑顔を眺めていた。俺はコーヒーをおかわりしたのち、勘定はぼくが持ちますからと言って譲らなかった。俺がこれからも買って出る奢りの中でも、我が看守様に奢ってあげたことは二度とはない愉快な話になるだろうな。このユーモアセンスの発露に看守様だって半ばご満悦のようだったし。しかしながら彼の威信がそれを顔に出すことを許さなかったんだ。
コーヒー屋のご婦人、貴女のことを忘れはしまい時がしばらく経つまでは。
こうして朝食の儀が完成したのち、我が守護者は散歩でもしないかと申し出た。いいですよ。混ぜ物なしのコーヒーのおかげで俺は十人力の体力を宿したような気がしていた。それに百五十ポンドあまりの荷物を抱えずに歩けるなんて滅多にないことだ。俺たちは散歩に出かけた。
(第10回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
* 『伽藍』は毎月30日に更新されます。
■ e・e・カミングズの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■