ルーマニアは正教の国であり森の国であり、ちょっと神秘を感じさせる物語の国でもある。ドイナ・チェルニカ氏は作家で翻訳家、ジャーナリストだが、小説ではなく〝物語〟作家を自任しておられる。彼女の清新な物語文学を、能楽の研究者であり演劇批評家でもあるラモーナ・ツァラヌさんの本邦初翻訳でお届けします。
by ドイナ・チェルニカ Doina Cernica著
ラモーナ・ツァラヌ Ramona Taranu訳
第2章 旅が始まり、タンポポが登場する
少女と王子たちがいっしょに歩きはじめてから、しばらくたちました。赤い子馬たちも高い草のなかをはしゃぎながらついてゆきます。河原松葉のいい香りがしていました。ときどき一匹の蝶々がちかづいて、ちいさな声で彼らをはげましてくれます。突然、アイレが心配そうな声をあげました。
「いまのは雨かしら? ほっぺたに一滴の水を感じたわ」
子馬たちが注意深げに鼻をあげました。少女もしばらく空の様子をうかがいました。
「だいじょうぶ、晴れてるわ」と姫を落ちつかせるように少女が言いました。「雲ひとつ見えないから」
「でも言われてみると、たしかに空気のなかになにかあるんだ」、と空中に飛んでいる白い粉を指さしながらイルが心配そうに言いました。
「それは涙だったの。たった一滴の涙だったのよ」と草のなかから泣き声が聞こえ、みんなの目の前にほっそりとした生き物があらわれました。
「今のは、誰?」王子たちは目を大きく開いて少女にたずねました。
「さあ…タンポポのように見えるけど」と少女が答えました。「だけどあなたの花びらはどうしちゃったの?」
「タンポポ、タンポポよ!」とうなずきながら、その生き物は細い糸のような体をまげて、さめざめと泣きだしました。少女はその頭をなでてやり、アイレとイルもタンポポをなぐさめようと、そっと小さな体を抱きしめました。
「あのボズガがまたここを通ったの。イヤな臭いをまきちらして、まわりのものを何もかも無残に壊しながら。あたしの花びらを散り散りにして、なにも生えない、なんの花も咲かない石の谷へ飛ばしてしまったの」
「誰なの、ボズガっていう者は?」
いやな思い出にうなされているかのようなタンポポは、イルの質問を聞きのがしてしまいました。少女はアイレの頬についていた白い涙をやさしくひろいあげ、タンポポに見せました。
「希望をうしなってはダメよ。私たちは今、深い森へむかっているの。これを森のはじっこに埋めておくから、来年の春、あなたはそこで以前のようにきれいに咲くのよ」
「え、本当におぼえていてくれるの?」とタンポポが元気をとりもどして言いました。
「忘れないわよ」と少女はまた彼女をなぐさめてあげました。「ところで銀狐に会ったこと、ないかしら」
「あの方は歩きかたが優しいから、花をけっして傷つけないのよ」とアイレが言葉をつけくわえました。
「そして少女のように優しい目をしてるんだ」と、温かいまなざしでイルが言いました。
「あたし、あの頃は金色で、若くて、なにも気にせずに生きていたんだわ」とタンポポは考えこみました。
それから王子たちをふたたび見て、赤い子馬たちにも目をむけました。
「でもおぼえているわ。あの光る姿が、真夜中に河原松葉の間を通りすぎたのを見たのよ。まるで稲妻のようだったわ。銀狐はとても急いでいたと思う。彼女が通りすぎてから、河原松葉たちがつぶやいていたの。銀狐の心臓が危険なんですって。それ以外は聞いてないの。あのボズガがあらわれたから。意地悪で、ひどい臭いのするボズガが!」
タンポポは一瞬震えだしましたが、そのあとすぐ、なにかを思いついたように続けました。
「もしかしたら、銀狐を追いかけていたんじゃないかしら。あいつは良いもの、美しいものを憎むんだから。そうでなければいいんだけど、間違いないと思う。気をつけてほしいわ。ボズガが近くにいるなら、これから先は大変よ。毒のまじった臭気や、あいつが住んでいる荒い淵には、絶対にちかづかないで。そして深い森のはじっこにたどりついたら、さっきの約束を思いだしてね。そのひとカケラの涙を土の中に埋めてくれたら、次の季節にはまたお会いできるかもしれないわ」
「そう願ってるわ」と少女がささやきました。アイレとイルは、しばらく息をとめていたようでした。
三人はタンポポのやせた体をもう一度抱きしめてから、子馬たちの元気な足どりを目で追いながらまた歩きだしました。
注:河原松葉(ここでは「西洋河原松葉」をさす)
ヨーロッパから西アジアに分布している花。道ばたや河岸の堤防などに生え、高さは六〇~九〇センチになる。六月から八月ごろ、茎の先や上部の葉腋に小さな黄色い花をいっぱい咲かせる。アカネ科ヤエムグラ属の多年草で、学名は Galium verum。英名は Lady’s bedstraw, Yellow spring bedstraw。
第3章 銀狐と亀の再会
まばゆい日ざしのなかを、銀狐は熱い砂利をふんで苦しそうに進んでゆきました。彼女の姿が遠くにあらわれた瞬間から、芥子粒のような亀の目が銀狐からはなれませんでした。銀狐の痩せた体、疲れて腫れたまぶた、傷だらけの足、そして灰色になったふさふさとしたしっぽを、心配そうに見つめていました。
「虹をこえるたびに、あなたの寿命が縮まってしまうと言ったのに…」
「苦しい…なにもかもが痛いわ」と、暗い頑固さのようなものを見せて、銀狐が言いました。
「アイレとイルが虹の向こうにいられること、あなたが望んでいたのはそれだけだったのでしょう。子供たちが火にも、きびしい寒さにも、石や刃物にも傷つけられることのない場所、ゴン・ドラゴンでも手がだせない場所にいることが」
「私、心臓を残してきたのよ」と銀狐がうめき声をだしました。
「それはわかっているよ。大胆にもゴン・ドラゴンに立ちむかってからというもの、一歩一歩が千本のトゲの痛みをあなたにもたらしていたにもかかわらず、あとをふりかえることなく、ほこらしげに虹をわたっていったんだね」
銀狐はその言葉に新たな力をえたかのように、気持ちが高まりました。
「子どもたちには毎晩毎晩、私がここにのこしてきたものについて話しをしたのよ。アイレもイルも私が生まれた場所のことをよくしっているし、寝ているときは、ときどき私たちの世界のことを夢で見ているの。私の心臓は、今、ヴズに見守られているわ。あなたは彼のことを知らないかもしれないけど、彼を倒す眠りはないの。彼を押しつぶす山もない! 十人、百人もの敵に囲まれても、彼は命をかけて心臓を守ってくれるし、あの塔から離れずに、ずっとあそこにいてくれるのよ!」
そう言いながらも銀狐は、自分でも不思議なほど不安を感じていました。なにがあったでしょうか?
亀はひとことも言葉を発しませんでした。銀狐はまたうめいてつらそうな声をだしました。
「苦しい。なにもかも痛いわ…」
「ボグザのことは知ってる?」
「ううん。なんなの、それは。淵の中の獣?」と興味なさそうに、だけどすこし気味悪そうに銀狐がたずねました。
「たまに、竜王や鬼女などと対決するのは、あの獣と戦うよりずっと楽なんだよ」と、亀が思いなやんだように言いました。
「それはどうしてなの?」銀狐はおどろいてききました。
「真正面から攻めてくる相手なら、いつか尊敬できるときがくるからね」
しかし銀狐の心は、べつの悩みでいっぱいのようでした。
「私どうすればいいの? いったいなにがおこっているの? この苦しみは、どうしてなの? アイレとイルからはなれて、虹をこえなければならないほどのこの痛みは、なぜおこるの? 理由がわからないから、まずあなたに聞こうと思ったの。心臓は安全な場所にあるはずなのに、体中の血が危険を感じて、ものすごい勢いでさわいでるの…」
「はやく塔へいきなさい。一秒もムダにしないで。いまはまだ目に見えてこないけど、もうすぐ雨がふりはじめるよ」これだけ言って、亀は沈黙にとじこもってしまいました。
絵 アンナ・コンスタンティネスク
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■