エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作『The Enormous Room』の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第2章 途上
鉛筆一本手に入れられずにいる自分に呪いの言葉を並べたり、我が独房独特の壁飾りを眺めたりしてだいぶ暇をつぶす。
突然自然の摂理の面白半分の手で問答無用にひっ掴まれたのを悟る。こういうとき人は迷わず臭い缶の上にまたがる。用を足し終え、悪臭にあえいで、俺はベッドに倒れこみ、さてどうするかと考える。
藁でいいか。痛っ、でも汚ねえし。––––数時間経過……
コツコツという足音とがさごそ。ガチャン。サヴィーさんへの空約束を繰り返すなど。
獄卒面ならびに獄卒面。そっくり瓜二つの顔つき。片方の図体がしっかり身を屈めて分厚いパンの一切れと水を一杯差し入れる。
ボウルをよこせ。
俺はボウルを差し出し、にっこり笑って言った。「ところで、鉛筆の話は?」
「鉛筆?」獄卒どもが互いを見返した。
そして連中は次の単語をそらんじてみせた。「明日な」ガチャンコツコツコツ。
そこで俺はマッチを取り出し、火をつけ、六十本使ってあるバラッドの第一連を書きつけた。明日は第二連を書こう。明後日は第三連。その次の日は反復句。その次は ––––まあ、あれだ。
ペトルーシュカの口笛を真似てみてもこの夜はなんの反応もなかった。
そこで俺は臭い缶によじ登った、俺はいまじゃもうこいつとはすっかり親友だった。新月が夕闇にべたべたした羽を広げ、近くの物音が遠く聞こえた。
俺は小汚ねえフランス人から教わったモナミ・エ・モアという歌をくちずさんだ。歌詞はこうだ、こんばんは月華夫人……大声で歌い上げたりはしなかった、なぜって単純にお月様はお嬢さんという感じだったし、それでお月様の機嫌を損ねたくなかったから。俺の親友は小さな影法師とお月様、臭い缶はまた別だ、こいつはもう俺の一部といってもいいくらいだったから。
それから俺は横になって、小さな影法師くんが何かあるいは何者かを貪るのを(目には見えずとも)聞き……それから臭い缶の香りが薄明の空気の流れ込むなかに恐る恐ると立ち昇って交じり合うのを、聞こえはせずとも、眺めていた。
翌日。–––サヴィーさんへの空約束。ガコン。「鉛筆は?」––––「鉛筆なんかいらねえだろ、出て行くやつにゃあ」––––「いつです?」––––「すぐだ」––––「すぐってどのくらい」––––「一、二時間のうちだ。お前のダチはもう行ったぜ。支度しろ」
ガチャンコツコツコツ。
どいつもこいつも俺に当たり散らしてくる。が、もう知ったことじゃない。
一時間は経ったと思う。
足音。不意に開け放たれる扉。一瞬の間。
「来い、アメリカ人」
ベッドと巻き布団を抱えて牢を出るところで、「寂しいけどこれでお別れです」と別れの挨拶をしたらこれが獄卒の気に障ったらしくて、みすぼらしい口髭をもごもごさせて怒りをかみ殺していた。
事務室まで付き添われ、そこで俺の身柄はでっぷり太った憲兵に引き渡された。
「こいつが例のアメリカ人かよ」とでぶ憲が俺をじろじろ眺め回すので、俺はそのブタみたいな眼球に俺の罪状を読み取った。「いそげ、歩かにゃならんからな」そう言ってでぶ憲は仏頂面で偉そうに冒険への一歩を踏み出した。
でぶ憲は息苦しそうに腰を屈めて分別してあった小袋を拾い上げた。俺のほうでは簡易ベッドと巻き布団、毛布、それから大柄の毛皮のペリースをまとめて片腕に抱え込み、150ポンドのズック袋をもう片方の腕に抱えた。そこで俺ははたと立ち止まった。そして「自分の杖はどこにやったんです」と訊ねた。
『杖なんぞどうでもいいだろう』新任の我が看守様はぶくぶくと泡吹くように言い捨てた、その赤みがかった凶眼が忿怒にふくれ上がっていた。
「自分はここを動きません」と俺は落ち着き払って答え、縁石に腰をどかっと下ろし、重くかさばるつまらない品々に囲まれて陣取った。
そしてでぶ憲の取り巻きに囲まれた。牢獄に杖は持ち込めないとか(これからどこに向かうのか知れてよかった、ありがとうおしゃべり紳士)、罪人に杖の所持など許されないとか、あとはここがどこだと思ってるんだ、チュイルリー宮趾公園を散歩するとでも思ったか、と詰問する映画から飛び出してきたかのようなイモくさいお巡りもいた。
「もうけっこうです、みなさん」と俺は言った。「一言申し上げてもよろしいですかね」(俺は赤蕪みたいに真っ赤な顔をしていた。)『アメリカじゃこんな真似をするやつはいねえよ』
この高慢な余計な一言がおどろくべき成果をもたらした、というのは、でぶ憲が手品みたいにぱっと消えたんだ。でぶ憲の大勢の仲間たちは恐れおののいて髭の先をくるくるといじくっていた。
俺は縁石に腰を下ろしたまま紙の包みにポケットに入っていたものを詰め込み始めたが、煙草が見つからなかった。
ドタバタドタバタハアハアブプッ ––––でぶ憲が戻ってきた、振り上げた手に大きな樫の枝木を握りしめ、悪口雑言をずらずら並べて、怒鳴りまくっていた。「このばかでかい棒切れが杖だってのか、そうだろ、ちがうか? なんだ、どうだって、なんだってこんな–––– 」という具合だ。
俺はぱっと明るく微笑んで、彼に礼を言い、それからこの杖は小汚ねえフランス人から記念にもらったんですと説明した、これでようやく出かけられますよ。
ズック袋の口を輪っかに結んで杖の柄をねじこみ、残りをまとめて小脇に抱え込んで、俺は二度ばかり荷物を背負い上げようと試みた。いそげいそげいそげいそげいそげいそげいそげい……という応援歌までつけてもらって。三度目でうまく乗せられたが、俺は汗だくでふらふらだった。
道をくだって。市街に入って。通りすがりの人にじろじろ見られて。荷馬車の馭者は車を停めて蜘蛛男と捕われの渡来蝿を眺めた。俺はもういつから顔も洗わず髭も剃っていないんだろうと思うとくつくつ笑いがこみ上げてきた。その拍子に倒れそうになって、何歩かよろめき、荷物をふたつ取り落とした。
これはきっと厳格な菜食主義者の食事のせいだ。荷物を背負ったままじゃもう一歩だって進めそうになかった。太陽の照りつけで波打つように滴る汗が鼻筋を通ってむずかゆい。もう目が見えない。
ここにきて俺はでぶ憲に荷物をひとつ一緒に持ってもらえませんかと提案し、こんな返答を受け取った。「ただでさえ貴様のために働きすぎてるくらいだ。罪人の荷物を運ぶ憲兵がいると思うか」
俺はそこでこう返した。「もうへとへとなんです」
でぶ憲が言った。「持って行かんでもいいものは置いていってもいいんだぞ。本官が預かってやろう」
俺は憲兵殿を見返した。憲兵越しに数ブロック先を見た。俺の唇はほくそ笑んでいるようだった。両手は拳を握りしめているようだった。
一触即発のこの場に現れたのは、幼い少年だった。天よフランス国中の七歳から十歳の子供達に祝福を。
憲兵殿からの提案は、こんな言い草だった。「いくらか小銭を持っているかね」衛生検査官の最初の検査で一セントも残さず没収されたことはもちろん承知の上でこれだ。憲兵殿の目玉が上機嫌に色めく。俺の脳裏に……なんでもない。「小銭を持っているなら」と続ける、「この小僧を荷物運びに雇ったらどうだ」それから彼の生き写しのような作りのパイプに火をつけて、でっぷりと笑った。
しかしこの瞬間でぶ憲は自慢のおっぱいをごっほごっほとむせ返らせる羽目になった。罪人の囚人服の右腰部にはポケット状の切れ目があって、いつも身に付けているベルトで完全に覆い隠されていた。罪人はかくしてお巡り一同を出し抜いたというわけだ。
少年は小さい方の荷物ひとつでもバランスを崩すくらいだったが、三度の休憩をはさんでやっとのことで駅のプラットホームまで運んでくれた。そこで俺が二セントばかり(全財産だった)を駄賃にはずむと少年は一ドル硬貨ほども目を瞠いて受け取り、走り去った。
(第06回 了)
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