その家は今から90年以上も前、大阪の外れに建てられた。以来、曾祖父から祖父、父へと代々受け継がれてきたのだが……39歳になった四代目の僕は、東京で新たな家庭を築いている。伝統のバトンを繋ぐべきか、アンカーとして家を看取るべきか。東京と大阪を行き来して描く、郷里の実家を巡る物語。
by 山田隆道
第二十一話(最終回)
その家は今から百年以上も前、大正十一年の大阪に建てられた。
伝統ある木造本瓦葺の日本家屋、大阪にしては広い百坪強の敷地面積。それだけ聞くと悪くないと思うかもしれないが、夫に言わせれば、かなりのボロ家だ。
その家に最初に住んだのは夫の曾祖父にあたる栗山茂彦一家で、やがて茂彦の長男である栗山勇一に受け継がれ、さらに勇の長男である栗山幸雄に代替わりして、幸雄の長男である夫、つまり栗山新一の生誕と成長も見守ってきた。
その家は、だけど次に受け継ぐ者を失った。
新一が高校卒業後にその家を出て、東京で就職し、東京で私と結婚し、東京で私と子供を授かり、それ以降はちょっと迷った時期もあって、一時は大阪に戻って家を継ごうとしたこともあったけど、なんだか本当にいろいろあって、私もやっぱり同意できなくて、結局は元の東京暮らしに戻ったからだ。
その家は、今や住む者も失った。
空き家になった当初はたいして変化を感じなかったけど、なぜか一年が経過したあたりから急激に老朽化が進んで、ただでさえボロ家だったのが、もはや過去の遺物のような、いわゆる廃墟となった。新一いわく、それは家の「気抜き」が済んだからだという。家というのは誰かが住んでいるうちはそこの住人の気によって生命感を発するものの、住む人がいなくなって一定期間が過ぎると、そこに充満していた気がすべて抜けて、ただの無機質な建造物となるらしい。
その家は、だから取り壊すことになった。
四代目である新一の判断で、百年以上の歴史に終止符を打つことになった。
「もう死んでるんかなあ」
新一はつぶやくように言って、白い息を吐いた。厚手のロングコートに包まれた我が身を、それでも寒そうに両手で抱きしめている。
典ちゃんは庭に散らばった落ち葉をせっせと掃き集めていた。敷地を囲っていた石塀はすでに取り壊されており、かわりに黄色いロープが張られている。
「おい、今さら掃除したってしゃあないやん」と新一。
「いや、ちょっとくらいは綺麗にしやんと、かわいそうやから」典ちゃんはそう言って、作業をやめようとしない。「旅立ち前のお化粧みたいなもんよ」
「ここまで放置してたんやから、もう手遅れやって」
「失礼やなあ。お兄ちゃんが東京におる間、私はちょくちょく掃除してたんやからね。だいたい、二年は放置するってこだわったんはそっちやん」
「けど、普通はこだわるやろ」
「まあ……」
典ちゃんはそこで黙り込んだ。だけど、作業の手はゆるめない。
しばらくして、ヘルメットをかぶった解体業者の男性が言った。
「じゃあ、そろそろ始めるんで危ないですよ」
その周囲では同じくヘルメットをかぶった数人の作業員が動き回っていた。
新一と典ちゃんは作業の邪魔にならないようロープぎりぎりまで後退した。だけど、決して外に出ようとしない。だから、私も二人のそばに留まった。
意図を察したのか、作業員の一人が私たちにヘルメットとマスクをそれぞれ差し出してきた。新一と典ちゃんがそれを装着したから、私も二人に倣う。
解体業者の人が言うには、今日は養生という作業らしい。この近隣には他の民家が密集しているため、解体によって埃や廃材が飛散しないよう、家全体を単管パイプや丸太などの骨組みで仮囲いして、青いシートをかぶせるわけだ。
私と新一は昨日の夜に東京から大阪に入り、しばらくは典ちゃんの家に泊まらせてもらう予定だ。新一は会社にかけあって一週間も休暇をとったという。ディレクター時代に比べると、プロデューサー業は融通が利くらしい。
養生作業は着々と進んだ。新一と典ちゃんは、私が気軽に声をかけられないくらい真剣な眼差しで、それでいて少し悲壮な雰囲気も漂わせながら、生まれ育った古い家がじわじわ変貌していく様子を黙って見つめていた。
私はなんだか呆然としてしまった。外様、他人、そして無力。頭の中にいろいろな言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消え。
だって、核家族育ちの自分が二人の気持ちをいくら想像したところで、深いところまでは絶対にわからないだろうから。だって、私の生家は賃貸マンションだし、だって両親の実家もとっくになくなっているし、だって祖父母は年に一回会うか会わないかの遠い親戚という感覚だったし、だって曽祖父母なんか名前も知らないくらいだし、だってだって、とにかく歴史とか伝統とか、そういう代々受け継がれてきたものの重みなんて、考えたこともないのだから。
だから私にしてみれば、こんなの普通のことだと思う。よくある話だと思う。
家が古くなって、誰も住む人がいなくなって、借りる人も買う人もいないのなら、もう処分するしかないだろう。幸い、土地の買い手は見つかったのだ。解体費用や相続税のことを考えても、これで気兼ねなく取り壊せるはずだ。
この地球上では、毎日どこかで家の解体が行われているのだ。今日もどこかで誰かが死んでいるように、今日もどこかで家が死んでいるのだ。
だからね、新ちゃん。そんな顔しないでほしい。
だからね、典ちゃん。いつもみたいに明るく笑っていてほしい。
悲しいことじゃないと思うよ。特別なことじゃないと思うよ。
養生作業は丸一日かかり、翌日からはいよいよ解体に移ることになった。
オレンジ色のショベルカーが家の前に停まっている。詳しいことはわからないけど、たぶんこいつが壁やら屋根やらを次々に破壊していくのだろう。
新一と典ちゃんは今日も朝から浮かない表情だった。なんだか私まで胸騒ぎがしてしまう。たかが解体、たかが解体。心の中で、自分に言い聞かせた。
ほどなくして、作業員の一人がショベルカーに乗り込んだ。
さあ、いよいよだ。私は思わず唾を呑んだ。肩に力が入る。
ところが、そこで新一が言った。
「あの、ちょっと待ってください」
作業員が目を丸くする。
「まだ全員そろってないんです」
「え、そうなんですか?」
「息子と娘が今ここに向かってて、あと……父ももう少しで着くんで、全員そろってからにしてもらいたいんですよ。ほら、やっぱ最期の瞬間やから」
「あと、どれくらいかかります?」
「えっと……なあ、亜由美。孝介たちって、もうすぐやんな?」
新一が水を向けてきた。「ああ、うん」私は咄嗟に答える。確か新大阪に着いたって連絡があったのは三十分くらい前だから、そろそろ着くころだ。
こうして解体開始をしばらく待ってもらうことになった。
私は小さく息を吐いた。まったく、全員そろってからだなんて、新一らしいなと思う。中でも、義父のあれが一番気になっているのだろう。
十分くらいたったころ、敷地の前に一台のタクシーが停まった。中から孝介と秋穂が降りてくる。「ごめん、遅くなった! もう潰した?」と孝介。すかさず秋穂が「馬鹿、見てよ。間に合ってんじゃん」と言って、家を指差した。
「ごめんね、二人とも疲れたでしょ。昨日も仕事で遅かったの?」
私が労うと、孝介は誇らしげに無精髭を撫で回した。
「まあね、最終で帰ったもん。しかも今朝は五時起きだから大変だよ」
「けど、新幹線で爆睡してたじゃん」と秋穂。
「うん、おかげでスッキリした」
「単純」
「お互い様」
孝介と秋穂は顔を見合せて笑った。おかげで、なんとなく場が明るくなった気がする。孝介は仕事、秋穂は大学で忙しいから、私は来なくていいと伝えたんだけど、今となっては二人が解体を見たいと言い出してくれて良かったと思う。
「おい孝介、あれ持ってきたか?」
早速、新一が孝介に歩み寄った。なにやら二人で会話を交わしている。孝介の身長が新一のそれを追い抜いてから、もう何年になるだろう。
すると、孝介がキャリーバッグから茶色い木製の額縁を取り出した。
その瞬間、新一が今日初めて破顔する。
「おお、それそれ! それが一番お気に入りやねん!」
新一は孝介から奪うように額縁を受け取ると、そのまま胸の前で抱えた。「それやったら、忘れんなよなあ」典ちゃんが呆れ気味に言う。私も同感だ。
とにかく、これでようやく準備が整った。
新一が作業員にその旨を告げ、家の解体がいよいよ始まる。私たちは敷地の外に出て、ロープ越しに一部始終を見守ることにした。全員で横並びに整列し、まるでライブショーの本番直前みたいに息を殺す。
作業員が号令を発すると、オレンジ色のショベルカーが動き出した。
エンジン音が耳の奥にまで響く。地面が少し揺れた。
ショベルカーが家の壁面にじわじわ近づいていく。高木の実を摘み取る象の鼻のように、長く大きなショベルがゆっくり振り上げられる。
次の瞬間、そのショベルが一気に振り下ろされた。
壁面を直撃すると同時に、大きな破壊音が鳴り響く。
予想以上の砂煙が宙を舞った。視界が遮られ、目に痛みが走る。
私はたまらず顔を背けた。そのまま薄目で横を見ると、新一と典ちゃん、孝介と秋穂もまた、砂煙にやられたのか、視線を逸らしていた。
新一の胸に抱かれた義父だけが、その家の最期を看取っていた。
(第21回 最終回 了)
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