その家は今から90年以上も前、大阪の外れに建てられた。以来、曾祖父から祖父、父へと代々受け継がれてきたのだが……39歳になった四代目の僕は、東京で新たな家庭を築いている。伝統のバトンを繋ぐべきか、アンカーとして家を看取るべきか。東京と大阪を行き来して描く、郷里の実家を巡る物語。
by 山田隆道
第十八話
父からの電話は運転中に四回もあった。よっぽど急な用事なのだろう。
だけど、僕はそのすべてを無視して、ひたすら車を走らせた。やがて道頓堀付近に到着し、堺筋沿いにある古めかしいコインパーキングに車を停める。いつのまにか外はすっかり暗くなっていた。なんとなく猥雑で、欲望を挑発するような電飾の光が車窓から射し込んできて、孝介の顔を照らしていた。
「ちょっと待ってて」
僕はそう言うと、孝介を残して車の外に出た。さすがに電話を折り返さないとまずいだろうけど、それならそれで孝介には聞かれたくない。
車のうしろに回り込み、タバコに火をつけた。紫煙を吐き出しながら、父のことを想う。いったい、なんの用事だろう。無断で実家から逃げ出して以降、三か月以上も音沙汰なしだったのだ。典子の話を聞く限り、父は僕みたいな馬鹿息子に激怒し、今では愛想を尽かしているはずだ。それが今さら……。
ああ、やっぱり気が進まない。このまま電話を無視し続けようかな。そんなこと思いながら、ズボンのポケットに手を突っ込み、渋々ケータイを取り出す。
その瞬間、またも着信音が鳴った。僕は夜中にゴキブリを見たときみたいに全身をびくつかせて、思わずケータイを地面に落としてしまう。
仰向けになった液晶画面が青白く光っていた。そこに浮き出た名前を見て、あわててケータイを拾い上げる。父からではない、典子からの電話だ。
僕は少し安堵して、だけど余計に胸騒ぎがして、おそるおそる電話に出た。
「もしもし……」
「ああ、お兄ちゃん」と典子。いつもより低く静かな声だった。「今どこ?」
「ちょっと出先」
「さっきからお父さんが何回も電話してたんやけど」
「ごめん、運転中やったから」
「ああ、それでか。いや、お兄ちゃんに全然つながらへんから、もしかしたらお父さんからの電話は出えへんのかなって思って、それでわたしがかけてん」
「ああ」
「まあ、それはええけど……」
「え、どうしたん? なんか元気ないやん」
「今な、わたしとお父さん、病院におんねん」
「はあ?」
「あのね、お兄ちゃん。……落ち着いて聞いてな」
「う、うん」
「お母さんが死んでん」
頭が真っ白になった。時の流れを感じなくなった。
「ねえ、お兄ちゃん。聞いてる?」
「……ん、あ、ああ」
「お母さんが死んだんよ」
典子の言葉に反応するように、大きなクラクションが鳴り響いた。続いて、ガラの悪い関西弁の怒鳴り声も聞こえてくる。視線を走らせると、混雑する堺筋の真ん中に装甲車みたいな大きな車が見えた。右車線に割り込もうとしている。
電話の向こうでは、典子がなにやら話し続けていた。だけど、ほとんど聞き取れない。クラクションの音や怒鳴り声が邪魔をしたのか、それとも僕の脳が典子の声を拒否しているのか、とにかく「お母さんが死んだんよ」という言葉だけがやけに耳に残って、それが何度も何度もこだまして、思考が前に進まない。
クラクションがおさまったころ、僕はふと頭によぎった疑問を口にした。
「なあ典子、それってほんま?」
母が死んだ。どうしても信じられない。
「なあ典子、ほんまのこと言ってや。なあ、嘘やろ? 俺が実家に寄りつかなくなったから、なんとかしておびき寄せようとしてるんちゃう?」
典子は答えなかった。鼻をすする音だけが聞こえてくる。
「なあ典子、詳しい経緯を教えてよ。ほんまのことやったら言えるやろ。いきなりお母さんが死んだって言われても、それだけやったら信じられへんって」
しばらくの沈黙のあと、典子の細く震えた声が聞こえた。
「だから……さっきから何度も言うてるやん」
「なんて?」
「階段から落ちたんやって!」典子が語気を強めた。「何回言わせんのよ!」
「あ、ああ」
「昨日の夜、お父さんが仕事から帰ってきたら、お母さんが階段の下で倒れてて意識なかったって、さっきから言うてるやん。だから階段から落ちたっていうのは推測なんやけど、お父さんもお医者さんもそれしか考えられへんって」
「そ、それですぐに……ってこと?」
「それもさっき言うたやん! そのときはまだ息があったらしいから、お父さんもあわてて病院に着れてったんやけど、病院で調べたら後頭部に強い衝撃を受けたあとがあって、それで脳とかもやられてて……。ほら、お母さん、クモ膜下出血からのリハビリ中やったやん。だから、余計にもろかったんやと思う」
だんだん頭の中が整理されてきた。時が動き出したような気がする。
「お母さん、そこからもずっとがんばってたんやって。お医者さんも手を尽くしてくれてたんやけど、今日の夕方くらいに容態が急変して、それで……」
僕は思わず目をつむった。首や肩から力が抜けて、頭が重く感じる。
まぶたの裏に母の顔がぼんやり浮かんできた。なぜか最近の麻痺した顔ばかりだ。年老いた顔ばかりだ。若いころの笑顔がどうしても思い出せない。
なんでも、母の死亡が確認されたのは二時間ほど前だという。父は昨夜から母に付きっきりで、最期の瞬間を一人で看取ったあと、ようやく典子に電話したらしい。だから典子が病院に駆けつけたときは、すでに母は遺体だったわけだ。
典子としては、それがどうしても消化できないようだ。倒れている母を発見した時点で連絡が欲しかった、自分も付き添って母の最期を看取りたかった、そんなことを電話の向こうで繰り返している。僕もそれには同意したいけど、自分を顧みると、なにも言えなかった。こんな親不孝者に意見する資格はない。
僕はなんだか不思議な感覚だった。お母さんが死んだ。口の中でつぶやいてみたけど、それでも妙に気持ちが落ち着いていて、映画やドラマみたいに涙があふれてくるようなことはなかった。だけど、悲しいことは悲しい。つらいことはつらい。心と体のつじつまが合っていない気がした。
とにかく病院に急がねばならない。予定変更だ。
電話を切った僕は、車内に戻って孝介に事情を説明した。孝介の精神状態を考えると、あまりに酷だと思うけど、どのみち告げなければならないことだ。
孝介は祖母の死を知った途端、大声で泣きじゃくった。あまりに素直な悲しみの表出に、僕は戸惑ってしまう。正直、ここまで泣くとは予想外だった。
「ごめんな。せっかくミナミまで来たけど、すぐ病院に行かなあかんわ」
僕が言うと、孝介は嗚咽を漏らしながら顔を縦に振った。
「つらいことばっか続くな、ほんまごめん」
孝介が鼻をすすり上げた。今度は顔を横に振る。
「病院、行くぞ」
「うん」
孝介が声を出した。僕は唇を噛みしめる。十二歳の子供は、この状況をどう受け止めているのだろう。その脆弱な心はどれだけ傷ついているのだろう。
もちろん、気がかりなことは山ほどあった。だけど、今は一刻も早く病院に駆けつけなければならない。僕はひとまず車を発進させた。堺筋の渋滞がうっとうしい。孝介は泣き止んではいたものの、うつむき加減で沈黙していた。
一時間半くらいで、典子から指示された病院に到着した。診療時間が終わった夜の病院は、その静かな佇まいを見るだけで重苦しさを感じてしまう。
孝介と二人で一階ロビーに足を踏み入れると、薄暗い待合室のソファーに座っている典子と亜由美、秋穂を発見した。秋穂はなにやらスマホでゲームをしている。小学三年ともなると、祖母が死んだということ自体は理解できていると思うけど、その理解の先にあるものがまったく想像できない。
「お父さんは?」僕が訊ねると、典子が「さっきいったん帰ったわ。昨日から一睡もしてへんから、さすがに限界やって」と言った。僕は不謹慎にも少しホッとしてしまった。父と再会する気まずさまで、今は背負える自信がない。
父がいないとわかった途端、頭の中いっぱいに母の顔が広がってきた。母が死んだという事実に、今ごろになって正面から向き合えた気がする。心音が急激に高鳴ってきた。手のひらがじんわり汗ばんできた。
その後、病室の一人部屋に安置されている母の遺体と対面すると、もはや自分の気持ちに収拾がつかなくなった。典子と亜由美の計らいで、まずは僕と母を二人きりにしてくれたから、余計にタガが外れて感情の波が押し寄せてきた。
小さくしぼんだ母の顔が、天井から注ぐ暖色の光に照らされていた。思ったより肌に艶があって、穏やかに目を閉じているから、まるで眠っているみたいに見えるけど、そこに生命感がないのははっきりわかった。
母はもう二度と動かない。この目が開くことも、この口が開くことも、もう二度とない。母の頬に少し触れてみた。なんだか無機質な感じがして、ちょっと硬くて冷たくて、無性に心の中がざわついた。母の魂は、もう抜けきってしまっているのだろう。ここにあるのは、母の形をした物体だ。母の抜け殻だ。
今ごろ涙がこぼれてきた。これまで意識的に涙をこらえていたわけでもないのに、なんとなくずっと貯め込んでいたものが決壊したような気がする。
母の顔がにじんできた。にじんで、にじんで、もう少しで消えそうになったとき、なぜか母の若いころを思い出した。次々に頭によみがえってくるのは、僕がまだ幼かった日の記憶。母は僕の親で、僕は母の子供で。そんな当たり前の日々が脳裏に迫ってきたことで、お母さんというものを強く感じてしまう。
悲しみよりも、切なさよりも、僕を苦しめたのは強烈な罪悪感だった。
結局、僕が悪いのだ。去年の十二月、なぜ僕は母を実家に残して引っ越しなんてしてしまったのだろう。あのとき、なぜ母の病状より自分の気持ちを優先してしまったのだろう。客観的に考えて、僕のとった行動は息子としてありえないのではないか。僕が引っ越さなければ、母が階段から落ちるなんてことはなかったのではないか。母はクモ膜下出血から着実に回復していたはずなのだ。
「アホやわ、ほんまアホやわ……」
無意識に漏らしていた。後悔の念も大股歩きで襲ってくる。
僕はいったいなにをやっていたのか。幼いころ、まだ一人では生きていけなかった僕を育ててくれた母が、今度はそんな母が一人では生きていけない状態になったというのに、僕は見捨ててしまったのだ。その昔、母が僕にしてくれたようなことを、僕は母にしてやれなかったのだ。僕の人生の始まりに最初から付き添ってくれた母の、そんな母の人生の終わりに僕は付き添わなかったのだ。
「ごめん……。お母さん、ごめん……。ほんまにごめん……」
母の遺体に向かって何度も何度も繰り返した。
苦しみの涙は、たぶん悲しみの涙よりも重く、冷たいものなのだろう。頭の中は不思議と冷静で、決して取り乱すようなことはなかったけど、だからこそ余計に気持ちの区切りがつかなかった。いつまでも病室を出られなかった。
放心状態でしばらく突っ立っていると、背後から声が聞こえた。
「お父さん」
孝介だった。亜由美と典子、そして秋穂もしたがえて病室に入ってきた。
「私は止めたんだけど、二人がどうしてもって……」と亜由美。典子は「二人ともえらいよ。ちゃんと状況をわかってるし」と言って、秋穂の頭を撫でた。
孝介も秋穂も落ち着いた表情をしていた。特に孝介はこれまでと表情が変わった気がする。なにかを乗り越えたような、そんな強い眼差しをしていた。
二人はゆっくりベッドに歩み寄り、母の顔を覗き込んだ。
「おばあちゃん、こんな顔だったっけ?」と秋穂。
「うん」孝介がうなずく。「なんか別人みたいだよな」
「けど、優しそうなとこは一緒かも」
「おばあちゃん、ほんとに優しかったから」
その後、二人は誰に促されるでもなく、両手を合わせて黙祷した。五秒ほど祈りを捧げたあと、一礼して目を開ける。小学生の自主的な行動としては、本当に立派だと思う。立派なんだけど、立派だからこそ見ていて胸が痛い。
「ごめんな……」僕は言葉を探した結果、またも謝ることしかできなかった。「孝介にも秋穂にも本当に大変な思いばっかさせて……ほんま、ごめん」
すると、孝介が母を見つめながら言った。
「お父さん、謝ってばっかじゃん」
「え?」
「受験のことは俺が失敗しただけだし、おばあちゃんのことはそもそもお父さんのせいじゃないし……お父さんが謝ることはなにもないよ」
「いや、けど子供を振り回したのは事実やし……」
「それも俺が受験に失敗した理由にはならないよ」
そこで孝介は視線を向けてきた。少し吹っ切れたような調子で続ける。
「なんか、ほんといろいろあったよね」
「いろいろ?」
「うん、そう」隣で秋穂も同調する。
「大阪に来てから、いろいろありすぎだよ。前と全然ちがうんだもん」
孝介が溜息をついた。僕は思わず唇を噛む。「ああ、そうだな。子供には酷な一年だったよな」そう言って、二人から視線を逸らした。
その途端、孝介の声が聞こえた。
「ちがう、俺たちのことじゃないって」
僕が視線を戻すと、孝介は少し口を尖らせながら言った。
「お父さんのことだよ」
一瞬、脳がしびれたような気がした。言葉を失ってしまう。
「大阪に来てから、一番つらそうにしてたのはお父さんだよ」
「うん、絶対そう」秋穂が続いた。「パパ、つらそうだったよ」
僕は二人を見比べた。孝介は腕組みしていて、秋穂は小首をかしげている。
急激に目頭が熱くなってきた。やばい、子供の前で泣くわけにはいかない。僕は天井を見上げた。深呼吸だ、深呼吸。口の中で自分に言い聞かせる。
「お父さん、ごめんね」孝介が言った。「お母さんもごめん」
「どうしたのよ、急に」と亜由美。
「俺、二人に超迷惑かけちゃったから」
僕は思わず視線を下し、精いっぱい冗談めかして言った。
「アホか。おまえまで謝ってどうすんねん」
「だって、学校のこととかさ」
「ええわ、そんなん」
「ちゃんと学校行くから」
「無理して行かんでええわ」
「じゃあ、中学からにする」
「おう、好きにせえ」
「だから、お父さんもちゃんとしてほしい」
「どういう意味や」
「だって今のお父さん、なんかお父さんらしくないもん」
「え?」
「俺はね、お父さんがお父さんらしくしてるのが一番いいと思うよ」
孝介は口の端に笑みを浮かべた。「うん、絶対そう」秋穂も続いた。
「ああ」僕は適当な相槌を打った。
平静を装いつつも、心の中は騒然としていた。まったく孝介のやつ、亜由美みたいなことを言いやがって。秋穂のやつ、兄ちゃんの真似ばっかしやがって。
結局、その夜は父に会わないまま病院をあとにした。典子は実家に寄って、父の様子を見てから帰宅するという。妹の世話になりっぱなしだ。
母のお通夜は明後日、告別式はその翌日。どちらも父の会社関連で所有している葬儀会館で執り行う予定だ。段取りに関しては、父は慣れたものだろう。
アパートに着くと、孝介と秋穂はすぐに入浴を済ませて子供部屋に入った。最近の秋穂は僕と亜由美の部屋で寝ていたけど、今夜は久々に孝介と一緒だ。
しばらくして子供部屋を覗くと、孝介と秋穂は電気をつけたまま、二段ベッドの上下に分かれて眠っていた。明日が日曜日で助かった。二人とも心身が疲れきっているだろうから、お昼くらいまでゆっくり眠るといい。
「新ちゃん、大丈夫?」
ダイニングに戻った僕に、亜由美が声をかけてきた。
「なにが?」
「お母さんのこと」
「ああ」
「つらいよね」
「……まあね」
僕はそう言って、食卓の椅子に腰を下ろした。テレビをつけ、リモコンを適当いじってみるものの、見たい番組がなかったので、やっぱり消した。
「これ、残りもんだけど」亜由美がアサリの酒蒸しとタケノコの天ぷらを運んできた。「晩ごはん、まだでしょ? 私と秋穂だけじゃ食べきれなかったから」
「ああ、すっかり忘れてたわ」
「孝介は食べたくないって言ったまま寝ちゃったけどね」
「せやろうな。俺も腹へってへんし」
「じゃあ、無理しなくていいよ。食べたくなったらどうぞ」
「うん」
「けど、知ってる? この料理、どっちもお義母さんに教わったんだよ」
「ああ」
僕は急に昔を思い出して、それぞれ一口ずつ食べてみた。言われてみれば、子供のころから慣れ親しんできた母の手料理と同じ味だ。亜由美がこれらを作ってくれたことは今まで何度もあったのに、まったく気づかなかった。
不思議なもので、だんだん食欲が湧いてきた。僕は黙って箸と口を動かし続ける。母との思い出をすべて腹の中におさめてしまいたかった。
八割がた食べたころ、なんとなく箸を置いた。
「母親って、やっぱええもんやな」
僕がしみじみ言うと、体面に座る亜由美が顎だけで相槌を打った。
「やっぱええ。いくつんなっても、ええもんはええ」
「そりゃあ、みんな母親から出てきたんだもん」
「うん」
「もとは二人でひとつの体だったんだし」
「だからもう……なんかあかんな」
「え?」
「お母さんが死ぬって、なんか力抜けてまうわ」
「ああ」
「なんかガクンってなる。バランスがとれへんようになる」
「自分の片方がなくなる感じなのかもね」
「うん」そこで僕は視線を落とした。無意識に溜息がこぼれる。「俺、ほんま最低やわ。あんとき、なんで引っ越しなんかしたんやろ……」
「いや、あれは仕方なかったと思うよ」
「そうかなあ」
「あのまま一緒に住み続けてたら、確実に私たちがつぶれてたし……」
「まあ」
「ほら、孝介も言ってたじゃん。お父さんが謝ることはないって」
「うん」
「孝介も必死でもがいて、立ち直ろうとしてるんだと思う」
「うん」
僕は両手で顔を覆った。孝介と秋穂のことを想うと余計につらくなって、申し訳なくなって、それでいて……ありがたい気持ちにもなった。
「正直さ、子供らに救われたわ」僕はそう言って、両手を顔から離した。視線を上げながら続ける。「あいつらだって大変やのに、俺のこと心配しやがって」
「ふふ、そうね」
亜由美が相好を崩した。僕も少しだけ気持ちが軽くなった。
それからは、二人で母の思い出話をした。僕は亜由美の知らない若いころの話をして、亜由美は亜由美で、僕の知らない姑としての母を語ってくれた。亜由美は実家で同居するようになって以降、母の介護で大変だったはずだけど、なんでも決して母に悪い印象はないという。むしろ自分が悩んでいたとき、母は絶好の話し相手で、だから母に救われたことが何度もあったという。
昔話が一段落ついたころ、亜由美がふと思い出したように言った。
「けど、これからが大変だよね」
「ん? どういうこと?」
「ほら、お義父さんが実家で一人暮らしになっちゃうじゃん」
「ああ」
一気に心が曇ってきた。父の顔が頭に浮かぶ。
「ねえ新ちゃん、実家のことどうするつもり?」亜由美が僕の顔を覗き込んできた。「葬儀屋の仕事のことも含めてだけど、新ちゃんはどう考えてるの?」
僕はなにも答えられなかった。亜由美から視線を逸らしてしまう。
「別に問い詰めているわけじゃないけど、実家のことも仕事のことも、なんらかの決断を下さなきゃいけない時期には来てると思うんだよね」
「うん、わかってる」
「少なくとも、このまま放置はできないでしょ」
「うん」
「どのみち、葬儀でお義父さんに会うんだし……」
途中から亜由美の言葉が頭に入ってこなくなった。今まで逃げてきた現実的な問題にいよいよ追いつかれて、肩をつかまれたような、そんな感覚だった。
(第18回 了)
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* 『家を看取る日』は毎月22日に更新されます。
■ 山田隆道さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■