学際的という言葉は、最近あまり流行らないようだ。それはそういう状況が排除されたからではなく、むしろ認知が広がったからだろう。理系と文系という区別は、いまや大学においては古色蒼然の感がある。どこを向いても、なにやらもの珍しく、何をしているのか想像もつかないという意味においてひどく興味深い学科名が並んでいる。学生を集めるにはいいだろうが、どんな教員を手配しているのか、これも想像がつかない。
しかし少なくとも「学際的」という概念からすれば、「国際的」と同様に、「学」があるからその境界を越えることに意味が出てくる。確立された学問において、その方法論を検討したり、比較したりすることは有意義なことで、前提を疑うことなく陥っていた過ちに気づくきっかけを与える。だからやはり「理系」のかなり厳密に定義された(と信じられている)方法論を論じたり、その方法を別の学問に適用したりすることは、人間の認識を進化させる可能性がある。
今回の講演では、主に確率論での誤謬について論じられた。入学間もない一年生向けの授業をアレンジしたもので、確かにその後の四年間に希望を与える充実した内容だった。確率論という身近な実例をもって納得させるという狙いも、それに適っていた。確率というのは小学生だからわからない、大人だからわかるというものではなくて、直観や柔軟性を要する特殊な数学の分野だ。
講義では、数学の専門家でも誤りに陥りやすい確率の問題を題材にした。すなわち前提条件が違えば結果は変わってくる、ということで、数学の出題ではその前提条件が不問となっていたり、慣例としての数学的な文脈にいつの間にか取り込まれていたりする。いわゆる文系でなければ気がつかないことがある、というわけだ。
なかでも北野武のテレビ番組で取り上げられたという問題は、聞いていて最後まで混乱してしまった。混乱するのはある意味シンプルすぎるからで、複雑な前提が無視されているということでなく、より簡単な別の解法を思い浮かべてしまう。その解法を適用することの誤謬はしかし、かなり根源的は問題をはらんでいるように思う。
問題はこうだ。「北野武が、自分には子供が2人いて、少なくとも1人は男だ、と言った。ではもう1人も男である確率は?」。この場合、答えは1/2だ。彼の次の発言に焦点をしぼれば「もう1人は男」と言い出すか、「もう1人は女」と言い出すか、五分五分だからだ。
ところが我々が、子供が2人いる他人に向かって「少なくとも1人は男ですか?」と問い、相手がそれを肯定した場合、その人のもう1人の子供も男である確率は1/2ではない。女/女、男/女、女/男、男/男という組み合わせの中から女/女のみが排除された可能性の中から男/男が選ばれる可能性は1/3ということになる。
この違いは、講義では「自分から言い出した場合」と「他人が問うた場合」として分類されていたが、その講義中は正直、よくわからなかった。誰からの発語であれ、数学的な確率が変わるなどということはあり得ない、と思えた。
つらつら考えるに、ようは何を全体集合とし、確率1(100%)の基準を何とするかということだ。北野武が自分の子供たちについて語る場合は、最初から1人の子供が男であることを前提の事象とし、次の瞬間、もう1人の子供の性別を「男」だと言うか「女」だと言うかの確率は半々である。しかし後者の場合には統計的処理が入る。統計上の母集団が「2人の子を持つすべての男親」から「2人の女の子を持つ男親を排除した集団」に変更されている。
この講義では、文系と理系が互いの欠落を発見し合う可能性、さらに補完し合う可能性が示されている。さらに実際のところは、それら外部からの指摘を内部の言語で完全に記述できること、それによって各学問そのものの精緻化と充実が、学際という概念の究極の目的なのではないか、と思う。
小原眞紀子
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