「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
悪魔のいる風景
いつの頃からか、彼はICUレコーダーを持ち歩く生活を送っていた。
はじめのきっかけはもはや忘れてしまった。おそらく他愛もない理由から、仕事の都合でたまたま持ち合わせていたからとか、そんなところだろう。
で、なんとなく友人との会話を録音する。
あとでそれを聴きなおしてみると、これがけっこうおもしろい。
もちろんそのとき一緒にいる友人に許可をとるわけでもなく勝手に録音しているので、問題がないわけでもなかっただろうが、どこに公開するのでもなく、個人の範囲内でやっているに過ぎないこともあり、そこらへんは気にしないことにした。
たまに誰かに打ち明けることもあったが、幸か不幸か皆、一様に「ふーん」とか「へぇ」とか、どうにもぼんやりとした反応しかなかったので、特にやめるきっかけも見つけられないまま年月が過ぎた。
春先のことだった。
彼は28歳になっていた。
高校時代の友人らと久しぶりに飲み会を開催することになり、いつも通り彼はICUレコーダーの録音ボタンを押してから、その場を楽しんだ。
7、8人程度の集まりで、家庭をもっている人間もいたので、さほど遅くもならずに会は終わった。
独身の彼は帰る途中、24時間営業のファストフード店に寄ってコーヒーを飲みながら、今日録ったばかりの音源を聴きなおすことにした。
おや?
ふと彼は違和感を抱いた。
いったんコーヒーをすすってから、もう一度イヤホンを当て直して音に集中する。
やっぱり。
おや?
誰のかわからない声がひとつ、混じっていた。
あれはみっちゃん、今叫んだのはそうたろさん、笑い声がひと際大きいのが去年結婚したばかりの、のぞみちゃん。
間違いなかった。
指を折ってあの場にいたはずの人間を勘定しても、参加したメンバーの数、プラスいち、の歓談の様子が音源として収録されていた。
さらに聴いていくうちにわかったのは、その声がしっかりと会話に参加していることだった。
みっちゃんが「のぞみちゃんは旦那さんとうまくいってるの?」と訊くと、その声は「そうだよ。えーと確か三カ月前くらいだよね、結婚したのは」と中性的な声色で話に乗っかるのだ。「やだー、ふたりとも」と、のぞみちゃんのはしゃいだ声がその後に続く。
ふたりとも。
そう、のぞみちゃんも確実にその誰かを認識して喋っているのだ。
彼の記憶ではたしかそのとき、のぞみちゃんは「やだー、みっちゃんたら」と言ったはずである。だが現に記録としては二人がいたことになっている。
書き換えられている?
もしくは彼の録音作業を不快に思った誰かが手の込んだイタズラをしている?
いや、仮にそうだとしてもこんなまわりくどい嫌がらせもないものだ。それにさきほど録ったばかりの音源に細工するヒマなどなかったはずだし、その方法も、少なくとも彼の頭では思いつけなかった。なんだろう、コレは。
それは一度では終わらなかった。
それ以降、毎回ではないにしろ、ごくたまにそうした現象が起こるようになっていた。いくらか経験するうちに、彼もある規則性を見出すようになっていた。
まず人数がそこそこ多いときにそれは決まって出現した。逆に人が少ないとき、4人以下の会話ではまず現れることはなかった。
また、比較的お酒の席のような、わいわいがやがやと喧騒が入り混じるような席のほうが現れやすかった。人数がどんなに多かろうと何かの会議のような、ひとりひとりの発言により責任が求められる空間にはそれは出てこなかった。
いくらかの試行を経て、彼はそれに名前をつけることにした。
悪魔。
それはマンガやアニメのキャラクター的な要素としての意味ではなかった。角と尻尾が生えて、歯を見せながらケタケタと笑うような存在とはほど遠かった。が、それでもその呼び名はそれにぴったりのような気がした。
目には見えないがいつの間にかそこに存在し、どこか日常とはかけ離れた場所へ連れ去ろうとする。その声には悪意が感じられなかった。ただ違和感をぽつんと、日常という棚の上に置いてどこかへと去っていく。そんな存在だった。
それをこそ悪魔的とでも言うのではないだろうか。
大した学術的根拠があるわけでもないのに、彼はそんな自らの穴だらけの推察に満足した。飲み会には積極的に参加し、率先して悪魔の声を集めようとICUレコーダーの録音ボタンを押した。
やがて彼はそんな飲み会でひとりの女性と恋に落ちた。
あまり異性に縁のない人生を送ってきた彼だったが、不思議と彼女とはウマが合った。連絡先を交換し、いくらか気さくなメールを送り合ったりもした。どちらか言い出すわけでもなく、デートをする流れになった。
初めて悪魔の声を入手したときから、1年が過ぎようとしていた。
3年後、彼はその女性と家族になった。
自分でも驚くほどあっさりと入籍を済ませて、翌年には子どもができた。
OLだった彼女は休職するために産休届を出した。
自然と飲み会に出る機会も減り、妻の体調を気遣う日々が続いた。いつからかICUレコーダーを持ち歩くこともやめ、手帳には出産予定日まであと何日あるかという予告数字を毎日記した。予定日よりも少し早まったが、無事に子は産まれ、母子ともに健康と医師に告げられたときは彼も静かに涙した。無神論者ではあったが、こっそりと神に感謝したりもした。
数週間後、妻はすでに退院して赤ん坊と一緒に和室で寝息を立てていた。
会社も休みであり、久しぶりにヒマができた彼は昔の音源を再び聴いてみることにした。ほんの気まぐれだ。彼はそっとイヤホンを耳に当てて、友人たちとの会話に懐かしさを覚えながらひとつずつ再生していった。
おや?
彼は気づいた。
悪魔はすでにそこにはいなかった。
どの音源を聴き返しても、あの声が会話に混じってくることはなかった。ごくごく自然な会話がそこにはあり、そして発言者がはたして誰であるのかもだいたい特定することができた。
そうか。
悪魔はもういなくなってしまったのか。
思えばあの声が妻と出会うきっかけになったのかもしれない。今の幸せは悪魔の存在があったからこそなのかもしれない。そんな感慨深い想いにとらわれた彼は我ながらバカらしいと思いながらも、悪魔に何かメッセージを伝えたかった。彼はICUレコーダーの録音ボタンを押して「ありがとう」とだけ吹きこんだ。
録音を停止し、彼は妻と赤ん坊がまだ眠っているかどうか確かめるべく、椅子から立ち上がって隣の部屋に向かった。
薄手のカーテンが午後のおだやかな風にさらされてふわりと浮き上がった。テーブルの上に置き去りにされたレコーダーがひとりでに、新たな録音を開始した。それに、その家の者の声が収録されることはなかった。
住宅街の中で時折ひびく他所の子どもの笑い声や、野良猫の鳴き声などの静寂を拾うばかりだった。そこに住む者の声を拾うことはついになかった。
おわり
存在感と喪失感のクリームパスタ
存在感と喪失感のクリームパスタ。
僕らはその料理をそのように呼ぶことに決めていた。
なんのことはない、冷蔵庫の余りものをありったけぶち込んで、それはたいていが使いかけのブロッコリーだったり生クリームだったり半端な量のスパゲティーニだったりして、なぜだかクリームパスタのようなものができあがるのだ。
「からっぽ」
彼女が冷蔵庫を開けて気持ちよさそうに言う。
テーブルに置かれた皿の上にはいろいろな使いかけたちが山盛りになっている。
存在感と喪失感。
それは彼女が掲げる「私の好きな言葉」のうちの二つだった。
「存在し続けるということは、何かを失い続けることなの」
学生のとき哲学を専攻していた彼女はときどき妙なことを言って僕を困らせた。
そんな彼女が、僕は好きだった。
大学を卒業した彼女はそのまま躊躇うことなく道路標識を販売する会社の営業職に入った。
レヴィナスをあんなに愛していた人が一方通行の看板の重要性について、国の自治体と審議する様はちょっと想像できない。
研究生として大学に残るものだとばかり思っていた僕は拍子抜け、というよりもとにかく驚いた。
「就職するんだね」
ええ、と彼女はうなずいた。
構内の食堂は古くてだいぶガタが来ているようだった。
僕はカツカレーを食べて、彼女はコーラを飲んでいた。
今にして思えばその表情は少し寂しそうだったような気がしなくもないけど、残念ながら僕はカツカレーを喪失させることに夢中だった。
あのときも彼女は言った。
「存在し続けるということは何かを失い続けることなの」
「ふーん」
僕?
僕はその頃も今も変わらずに、ガラスを磨く仕事で毎日を過ごしている。
母親は還暦を迎える直前に世間でいうところの痴呆症との診断を受けて、今も病院の中にいる。
ある日、僕が実家に帰ると母は珍しくも編み物をしていた。
「何してるの」
「マフラーを織ってるの」
「誰の」
母はにやりと笑みを浮かべてこっちを見た。
「エイリアンの」
語尾の発音もはっきりしているし、指先が震えているわけでもないだけにその返事は僕の背筋を凍えさせた。
それ以来ずっと母は病室の片隅でマフラーを織り続けている。
「やけに長いね」
「エイリアンの、だからね」
おざなりの会話を終えて僕は病室を後にする。
白かったはずの院内の壁色は、くすんで黄色い染みになっていた。
母が入院している事実を僕は彼女に言わなかった。
恥ずかしい、と僕は思ったのだ。
そして彼女が大学を卒業して3年ほど経って、僕たちは別れた。
そこには何もなかった。
いさかうことも涙を流すこともなく、蛇口をひねれば水が出てくるのと同じように原理的に、僕たちは別れた。
部屋は彼女の荷物と彼女のぶんだけ広くなった。
からっぽ。
病室では相も変わらず母がマフラーを織っていた。
長さは15メートル以上にもなるだろうか。
「やぁ」
「こんにちは」
「彼女と別れちゃったよ」
「あらあら、そう」
「孫を連れてくる機会はもう少し後になりそうだ」
あらあら、ともう一度言う母は何か考えるようにして手を止めた。
しばらくしてまた動き出した。
ときどき「この人は狂ったふりをしているだけなんじゃないかしら」と疑いたくなるが、どちらにしても母と話すのは気が楽でよかった。
気が狂ってから、僕は母とよく話すようになった。
僕はガラスを磨き続けた。
クタクタになって部屋に帰り、冷蔵庫を開けると見事に何もなかった。
――存在し続けるということは、何かを失い続けることなの。
僕はいったい何を失ったのだろうか。
からっぽの冷蔵庫の前で考えた。
「ん」
何かを思い出した。
そして。
おわり
フランス文学の喪失
今からこのお話を読もうとしてくださっている皆さまへ
小松です。このお話は「疑問拾い工シリーズ」(今、名づけました)という、ある物語の続きモノになります。書き始めた当初は10ページくらいで切り上げる予定でしたが、まさかこんなにも長くなるなんて思いもよらず、僕自身が戸惑っているのも事実です。書いてる本人がそんな具合ですから、読んでくださっている人が(仮にいたとすれば)、もっと困惑されていることでしょう。
とりあえず、この連作がどんな具合で続いているのか、次のようにまとめてみました。
第1話『小さじ一杯の答え』(第01回掲載)
第2話『スカートをぶつけた日』(第02回掲載)
第3話『ポニーさんのひづめ』(第03回掲載)
第4話『バケツを忘れる』(第04回掲載)
第5話『距離という名のロマン』(第05回掲載)
第6話『フランス文学の喪失』(第13回掲載)※今話になります。
と、ご覧のように大変にわかりづらい進行具合になっています。
申し訳ない気持ちでいっぱいですが、こうなってしまった以上は仕方ありません。僕にできるのはせめてもの道標として、毎回このように話数と掲載回を箇条書きに記することくらいです。こんなわかりづらい連載、あまり見ないですよね。ああ恥ずかしい。あと数回でこのお話が終わってくれればいいのですが…。
小松剛生
文学君がいなくなった。
消えた、と言い換えてもいいかもしれない。いや、やはり「いなくなった」のだろう、おそらくこの世のどこにも存在しないのではなく、ニワさんの覚えのある場所にはもう来なくなってしまったのだから。
それに彼のような人には「消えた」というより「いなくなった」という言い方のほうが、ニワさんにとっては正しいような気がした。
ある日、彼女が仕事から帰ってくるとテーブルの上に一枚のメモ書きがあり、見覚えのある筆跡がしたためられていた。
あいかわらず。
――汚い字だ。
一瞬、思考が止まった。
字を見ただけで誰の置き手紙だかわかってしまう自分に嫌気が差したのだ。ニワさんはペラ一枚に書かれた文字の内容に集中することで自分の思考を働かせてみようと目を凝らした。
そこにはこう書かれてあった。
「水星に行ってきます」
文学君の残したメモにはそのように書かれてあった。
思考は止まったままだった。
*
冬が近くなり、現場の仕事も過酷さを増していた。
基本的に疑問を拾った後の空間は汚れ――それは埃と塵で固められた消し炭のような跡だったり、誰かから抜け落ちた髪の毛だったりした、カビが繁殖していることさえあった――がひどいので、市販の洗剤を水で薄めた洗浄液を使って水洗いをする。この「洗浄液」の濃度も大事で、薄すぎると滑りが悪く、疑問の溜まりやすい場所になってしまい、逆に濃すぎるとズルズルに滑ってしまって、単純にそこでの生活に支障が出てしまう。
水と洗剤の配分は各現場によって微妙に変える必要もある。例えばそこが南向きのオフィス空間であった場合は陽が当たりやすく乾燥もしやすいので、少し洗剤の量を増やす。東京は立川あたりのマンションにて個人が住むような部屋であれば、洗剤は少なめ。ニワさんがこの職についてから2年(まだ親方が健在だった頃の話だ、それも今は懐かしい)、洗浄液の濃度を決める作業は任せてもらえなかった。そういうこともあるのだ。
*
文学君がニワさんの周りからいなくなったことにより、自然と彼女が山垣さんと寝る回数も増えていった。「寝る」という言葉の中には単なる睡眠ではなく、その、なんていうか、おおっぴらに言うには少しばかり口にしづらい意味も込められていた。文学君と過ごす時間がなくなる、ということはそういうことだった。
文学君の住んでいた古い一軒家の門はずっと閉じたままで、人の気配はない。そういえばニワさんは文学君の家の電話番号も、携帯電話のそれも知らなかった。今の今まで知る必要なんてなかったから、訊くこともないままだった。いや、文学君が携帯電話を持っていたかどうかも怪しい。それほどに彼はどこか浮世離れした存在だった。ニワさんの部屋の戸棚にある彼の書いた原稿だけが、彼がかつてはそこにいたことを示すものだった。歯ブラシすら、なくなっていた。
きっと彼が持ち出していったのだ。部屋の主のいないときに文学君が自分の歯ブラシを鞄にしまう様子を想像してみる。
「変なとこだけ律儀なんだから」
鏡に向かってそう呟く自分の憂鬱めいた表情が、いかにもおしゃれなフランス映画に出てきそうな、失恋したばかりのヒロインのそれに似ているように錯覚した彼女はもう一度、今度は鏡に真正面を向いて言ってみる。
「変なとこだけ、律儀なんだから」
鏡の中で同じことを言うフランス人はやけに鼻が低かった。
映画のヒロインになんて、とてもなれそうにない顔をしていた。
*
野球シーズンが終わってしまうと、野球ファンであるFのメンバーの中山さんは見ていて可哀想に思えるくらいに覇気がなくなる。
今日は、いつだったか以前にも工事に来たのことのある大学のすべての講堂を工事するということで、Fのメンバーとニワさんのチーム総出で現場に訪れていた。中山さんは2時間おきに挟まれる休憩時間のたびに、スマートフォンでもう終わってしまった今年のプロ野球のデータをぼんやりと眺めている。
「楽しいですか」と訊いてみると「楽しくはないよ」と言われる。
「今年のヤクルトが最下位に終わった原因を検証してるんだよ」
そう言ってメビウスのタバコに火をつける。中山さんはヤクルトスワローズのファンなのだ。
メビウスはかつて「マイルドセブン」という名の銘柄だったが、1、2年ほど前にメビウスと改名された。タバコを吸わない彼女自身もピンとこない名前だったが、それを吸っていた当の本人は「俺はマイルドセブンっていう名前だから吸っていたようなもんなのに」と不服そうに、もう「マイルドセブン」ではないマイルドセブンを吸っていた。
あんまりにそのことで文句ばかり言うので、仲間内ではしばらくあだ名が「メビウス中山」と呼ばれていたことを、今ふいに彼女は思い出した。
「なんだよ」
じろじろ見ているのがどうやらバレたらしい。
「なんでもありません、メビウスさん」
「ふん」
やっぱり。
覇気がない。
――お疲れ。
――お疲れさんです。
本日の作業も無事に終わり、それぞれ来たときの車に乗り込んでいく。
「いいんですか?」と、柴田くん。
「いいよ。アタシはちょっと用があるから、先に帰ってて」
申し訳なさそうに彼は頭を下げてハンドルを回す。駐車場を後にする黒のハイエースのお尻が見えなくなると、彼女はすっかり暗くなった構内を歩き始めた。広い敷地内で学生であろう人影とときどきすれ違った。彼女が向かっているのは昨夜に電話して教えてもらった、ある研究室だった。そこには自称であろうとなんだろうと、彼女にとって面識のある詩人が彼女を待っているはずだった。
「お久しぶりです」
頭に砂漠地帯を所持する懐かしいその紳士は、相変わらずスーツ姿で研究室の一番奥のデスクに座っていた。ここじゃなんですから、狭くて汚いですが応接室に行きましょう、と言われ、二人は「第二資料室」と札の掲げられた部屋へと移った。確かにその部屋は狭くて汚かった。壁一面におそらく備え付けられているであろう本棚に溢れた本が辺りを埋め尽くしていた。向かい合わせのソファーと低いテーブルは部屋の真ん中にあった。そこにだけ穴が空いたかのような、空虚な印象を受けた。
古い本独特の、松脂に似た臭いが鼻をついた。別に古い本には必ず松脂の臭いがするわけではないとは思うが、少なくともニワさんの認識では古い本とは松脂の匂いがするものなのだ。
「お電話をもらったときは驚きました。まさかあなたともう一度会えるなんて」
「いえ、忙しい中すみません」
自称「詩人」のその紳士は「平出」と名乗った。
「それで、今日は何のご用事でしょうか。私にはあなたのお力添えになれるようなお金も権力もあるとは思えないのですが」
平出はすまなさそうに丸い自分の頭を撫でた。それが本当にすまなさそうだったのでニワさんは好感をもった。部屋は汚かったけど疑問の結晶がほとんど落ちていないことも、その印象に拍車をかけた。
見かけは自信なさ気に振舞ってはいるが、確かにその男は確固たる何かをもっているような気がした。
「お金も権力もいりません」と、ニワさんは言った。
ふむ、とニワさんの言葉を訊いて、平出はいつかの時と同じように満足気に「やはりあなたは詩人ですね」とつぶやいた。かまわず彼女は続けた。
「知恵を」
知恵を貸してほしいのです。
「知恵、ですか」
「はい」
「ふむ」
おそらく平出にとっては口癖になっているのだろう、彼はもう一度「ふむ」と顎に手を添えて何かを考えている様子だった。頭部の頂きにある無毛地帯は、首が傾けられたことによりますます蛍光灯の光を反射して、その眩しさと、別に気まずくなる必要なんてこれっぽっちもないはずなのに湧いてくる気まずさで、ニワさんは顔を平出から逸らした。
「それくらいならばぜんぜんかまわないのですけど、そうですね、ではひとつこちらからもお願いしたいのですが」と、平出。
「なんでしょう」
「あなた方のお仕事、えー疑問拾い、というやつを、ぜひ一度、私にやらせてほしいのです」
「え」
「ダメでしょうか」
ニワさんは目の前の男の、丸々と肥えた身体を見て返事をためらってしまう。
――ダメというわけではないけれど。
「キツイですよ?」
念のため、確認する。
「では、いいのですね?」
嬉々とした顔を浮かべる男を前にして、ニワさんはそれ以上説得しても無駄だということを悟った。男の、どうしても疑問を拾いたいという熱意だけはその表情から確実に伝わってくる。伝わってきてしまう。
何かを伝えるということがこの世界でとても難しいことを多少は知っているニワさんではあったが、悲しいかな伝わってしまう事実もあるのだ。
――こんなとき、映画のヒロインであればカッコイイセリフでもって、無茶を言い出す相棒とかを止めるんだろうけど。
彼女は自分の鼻を撫でた。
フランス的ではない鼻が、そこにはあった。
つづく
(第13回 了)
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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月24日に更新されます。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■