* 永田耕衣墨書作品「恋猫の恋する猫で押し通す」(著者蔵)
■『加古・傲霜』(昭和五年-十三年)■
日のさして今おろかなる寝釈迦かな
絵馬の蜂牡丹の蜂に混りけり
昭和九年二月七日 父終焉 七十四歳
死近しとげらげら梅に笑ひけり
白蠟の己が灯に透く寒さかな
人ごみに蝶の生るる彼岸かな
尾を上げて尾のした暗し春雀
■『與奪鈔』(昭和十四年-二十一年)■
父祖哀し氷菓に染みし舌出せば
昭和二十一年四月十一日 妻の母死す
田を区切る此世の畦や花茨
我が降ると言へば降り出す秋の雨
■『驢鳴集』(昭和二十二年-二十六年)■
夢の世に葱を作りて寂しさよ
恋猫の恋する猫で押し通す
かたつむりつるめば肉の食い入るや
朝顔や百たび訪はば母死なむ
行けど行けど一頭の牛に他ならず
うつうつと最高を行く揚羽蝶
緑陰のわが入るときに動くなり
老梅の隈なく花を著け終る
店の柿減らず老母へ買ひたるに
藁塚が藁塚隠す父亡きなり
母死ねば今着給へる冬着欲し
昭和二十五年一月十七日 老母九十一歳
母の死や地も布団も昔のまま
母の死や枝の先まで梅の花
夏蜜柑いづこも遠く思はるる
物として我を夕焼け染めにけり
吾が啖ひたる白桃の失せにけり
冬蝶を股間に物を思へる人
池を出ることを寒鮒思ひけり
いづかたも水行く途中春の暮
池の鯰逃げたる先で遊びけり
■『吹毛集』(昭和二十七年-三十年)■
水を釣って帰る寒鮒釣一人
天心にして脇見せり春の雁
藤房の途中がピクと動きたり
近海に鯛睦み居る涅槃像
後ろにも髪脱け落つる山河かな
腸の先づ古び行く揚雲雀
螢火を愛して口を開く人
新しき蛾を溺れしむ水の愛
■『惡靈』(昭和三十年-三十八年)■
新人や葵が使う時間の中
内側に音して蓮開きけり
死螢に照らしをかける螢かな
虎がこすったぬくい鉄棒味噌汁の中
泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む
野遊びの児を暗き者擦過する
白桃の霊の白桃橋は成れり
秋雨や空杯の空溢れ溢れ
鯊釣れば雨の神社に犬跳ねて
野を穴と思い跳ぶ春純老人
白桃を今虚無が泣き滴れり
夢みて老いて色塗れば野菊である
■『闌位』(昭和三十九年-四十五年)■
戯作*偽一休自伝抄
淫乱や僧形となる魚のむれ
松見るに女身見る如し春の雨
抱きこめば女体虚空の匂いのみ
骸骨が舐め合う秋も名残かな
さよならをいつまで露の頭蓋骨
野菊道数個の我の別れ行く
少年や六十年後の春の如し
晩年や画餅を餅に起こすうぐいす
男老いて男を愛す葛の花
蛭の池濁るは池の娯楽かな
■『冷位』(昭和四十五年-五十年)■
見ることは隠るることや葉鶏頭
陽炎や我に無き人我を出る
我に逢う我を陽炎消しにけり
野渡りや殺佛殺祖秋茄子
白桃や我は不断に生れ居る
白桃を触らば道のうごめきぬ
大観念即大具体秋の暮
君無く我無き時共に薄見む
古池も無為も鯰と鯰のこと
晩年や夢を手込めの梨花一枝
■『殺佛』(昭和五十一年-五十三年)■
猪に露の事あり最晩年
金色は暮春泥鰌の浮寝かな
永遠が飛んで居るらし赤とんぼ
皆初代みな晩年の花見かな
人体に落花舞いこむ寂しさよ
コーヒ店永遠に在り秋の雨
金色の茗荷汁澄む地球かな
■『殺祖』(昭和五十三年-五十五年)■
古池をつらぬき濁る霰かな
雨蛙めんどうくさき余生かな
繰り返し氷の張るは恐ろしき
白桃の未だ重たき世なりけり
ひと飛びの長きすずめや秋の雨
我見るは土見るらんか秋の暮
白餅や我を待つ道またあまた
高柳重信兄に
長生や口の中まで青薄
夢の世や残花いつまで花の中
今日また無の事強し夏の風
薄氷や此処も彼処も永きゆえ
薄氷と遊んで居れば肉体なる
■『物質』(昭和五十六年-五十八)■
八十一歳旦 所思
元旦や枯死淡淡の茄子三つ
葱は無く鮭や切身に世紀寒
ひる蛭と嬰児に還り往く我は
炎天や十一歩中放屁七つ
夢屑の夢びと芦花を渡り行く
どの道も見えて居るなり餅の味
物質に過ぎざる生や蠅の中
知己もみな物質春の道を行く
撫子や面もて天地を撫でる人
秋の暮衰うるもの勝れつつ
追い越しし少年見えず秋の暮
葱汁や而今天蓋こんじきに
【付記】
永田耕衣全句集は数種類刊行されているが、『永田耕衣俳句集成 而今』(昭和六十年[一九八五年]沖積舎刊)と『只今』(平成八年[一九九六年] 同)によって、ほぼ全句業を通覧することができる。ここでは永田耕衣前期俳句全集である『而今』から百句を選んだ。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■