略年譜
昭和十二年(一九三七)
三月三十日、広島県加茂郡川尻町に生まれる。生母は産後の肥立わるく翌年七月死亡。以後学齢期まで祖母の手で育てられる。
昭和十八年(一九四三) 六歳
義母来る。新宮神社脇の日東航空の社宅に移る。
昭和二十年(一九四五) 八歳
八月六日、登校途中に原子爆弾の閃光に遭う。野呂山裏にキノコ雲を見る。
昭和二十六年(一九五一) 十四歳
中学校のクラブ活動で俳句部の部長をつとめる。担任教師脇谷一之をはじめ地元俳人窪谷鳥甲などの指導のもとに橋本多佳子の「七曜」、山口誓子の「天狼」に投句。修学旅行奈良では日吉館に泊る。
昭和二十七年(一九五二) 十五歳
呉市広町の宇都宮印刷に就職。以後三年あまりオフセット印刷工見習。
昭和二十九年(一九五四) 十七歳
寺山修司編集の「牧羊神」や上村忠郎編集の「青年俳句」などに参加。誌上で安井浩司を識る。
昭和三十年(一九五五) 十八歳
六月、京都西大寺御池角の文福堂製菓に住込。全国学生俳句祭で第五位入賞。
能代市の野呂田稔らと「黒鳥」創刊。
昭和三十一年(一九五六) 十九歳
八月末上京。蒲田女塚のマシュマロ工場に住込。
新大久保中央病院に寺山修司を見舞う。
昭和三十二年(一九五七) 二十歳
三月頃、郷里の友人山田喜七氏の篤志により、序数第一句集『遠船脚』を刊出。
五月、新宿西大久保の白祥製菓に移る。
昭和三十三年(一九五八) 二十一歳
寺山修司の紹介でこの年三月創刊の「俳句評論」に参加。以後五十六年末まで同人。多行形式の作品発表。
昭和三十五年(一九六〇) 二十三歳
九月、新大久保駅近くの三和製菓に移る。ラスク専門の工場なり。
昭和三十七年(一九六二) 二十五歳
三月、序数第二句集(三行表記第一句集)『臼處』を加藤郁乎の跋文つきで刊出。
九月、武蔵小山のベルス製菓に移る。
昭和三十八年(一九六三) 二十六歳
百人町ロッテ製菓裏のかすみ荘に一、二ヶ月棲んだのち、越谷市蒲生の昭和容器の寮あざみ荘に移る。
「俳句評論」二十七号に「攀登棒風景」発表(俳論集『攀登棒風景』所収)。
この冬、火曜印刷で刷って貰った、序数第三句集(三行表記第二句集)『花見干潟』を自家製本して翌年刊出。
昭和三十九年(一九六四) 二十七歳
三月、寮を出て中野荘に移る。二年後の四十一年には千寿荘に移る。
「俳句評論」三十六号に「雌猫島縁起」発表(俳論集『攀登棒風景』所収)。
昭和四十二年(一九六七) 三十歳
十一月、「俳句評論」十周年記念全国大会の「俳句評論」賞(俳句部門)に応募、佳作に入選。
昭和四十三年(一九六八) 三十一歳
加藤郁乎を中心とした東京勢と八木三日女を中心とした関西勢とで「ユニコーン」創刊され同人となる。四号にて終刊。
昭和四十四年(一九六九) 三十二歳
五月、仙台の高橋晶子と結婚。蒲生東町の借家に移る。
九月、高柳重信はじめ「俳句評論」同人有志が新居に来たり寿歌仙一巻を巻く。
「俳句評論」一月号に「きつねまど考」、「ユニコーン」三号に「うたせの郷里」発表(俳論集『攀登棒風景』所収)。
昭和四十五年(一九七〇) 三十三歳
祖母九十二歳で死亡。
「俳句評論」一〇〇号に「鐵屋久蔵の場合」、「俳句研究」七月号に「天衣無の再発見」発表(俳論集『攀登棒風景』所収)。
昭和四十六年(一九七一) 三十四歳
「天狼」五月号に「枯野への留学」発表(俳論集『攀登棒風景』所収)。
昭和四十七年(一九七二) 三十五歳
二月、春日部市樋籠向島に家を建てて移り住む。
この年のくれ美濃全判手巾印刷機を購入して、序数第四句集(三行表記第三句集)『抱艫長女』の自家印刷を図る。
昭和四十八年(一九七三) 三十六歳
六月、凸版プラスチックを辞めて句集専門の印藝書肆端溪社を開業。
十月、手はじめに三橋敏雄の『眞神』を刊出。以後、岩片仁次『死者の書』につづき「俳句評論」およびその周辺を主とした俳人の句集を多数刊出するに至る。
昭和四十九年(一九七四) 三十七歳
十月、安井浩司詩論集『もどき招魂』を刊出。
昭和五十年(一九七五) 三十八歳
八月、自家再製紙を漉いて、序数第五句集(三行表記第四句集)『利根川志圖』を刊出。
昭和五十二年(一九七七) 四十歳
立風書房版『現代俳句全集』第五巻に入集。大岡信の解説文を得る。
俳句評論社版『昭和俳句選集』に三十九句入集。
昭和五十四年(一九七九) 四十二歳
一月、校正待ちに刷った俳論集『攀登棒風景』刊出。
四月十七日、父七十歳にて死す。
この月、約二十年間つづけた三行表記をあらためて、序数第六句集『寶珠花街道』を刊出。この頃より地名研究やオリオン座の和名考すすむ。
昭和五十六年(一九八一) 四十四歳
二月、間奏句集『糊北日記』刊出。端溪社の宣伝広告をかねて個人誌「鵞」を創刊。年三回ほどの不定期刊行なり。この年の暮「俳句評論」を辞す。
昭和五十七年(一九八二) 四十五歳
十一月、十年あまり棲んだ向島の家を売って小淵三一八番地に移り住む。家号を忘機庵より黐黐館に改める。
昭和五十八年(一九八三) 四十六歳
五月四日、寺山修司逝去。
七月八日、高柳重信逝去。
この年の暮、春日部駅前の興文館で本文だけ刷って貰った、序数第七句集『犀飜』製本。
昭和五十九年(一九八四) 四十七歳
一月、黐黐館俳書展なるもの自宅で開く。入院中の折笠美秋のため「騎」を創刊、同人となる。
昭和六十一年(一九八六) 四十九歳
七月、序数第八句集『稱郷遁花』刊出。
昭和六十三年(一九八八) 五十一歳
十二月、序数第九句集『勿來』刊出。
平成元年(一九八九) 五十二歳
六月四日、野呂田稔死去。
平成二年(一九九〇) 五十三歳
三月十七日、折笠美秋死去。
平成三年(一九九一) 五十四歳
八月、序数第十句集『渤海液』刊出。
平成四年(一九九二) 五十五歳
「俳句空間」二〇号に「大岡頌司・自選百句」(解説・高橋龍)
平成五年(一九九三) 五十六歳
二月、高橋龍句集『惡對』出版記念会に出席。
六月、四季出版の会に出席。二十三日、越谷市の独協病院内科入院。
九月、脇谷先生香港にて客死。
平成六年(一九九四) 五十七歳
三月三十一日、「鵞」第三十五号を以って終刊。
六月六日、「燭」創刊。十五日、独協病院眼科入院。
七月八日、左眼眼底手術、右眼白内障手術。
八月十三日、母死す。八十三歳。
平成七年(一九九五) 五十八歳
七月、八田木枯句集『於母影帖』刊行を以って端溪社終業。
十二月九日、『俳句の海で』出版記念「高柳重信を語り合う会」に出席。
平成八年(一九九六) 五十九歳
二月十日、「安井浩司を囲む会」に出席、会後池袋にて安井浩司、金子弘保、高橋龍の諸氏と懇談、深更に至り高橋龍と新宿のホテルに同室泊。
三月二十三日、柄沢氏(木口版画家)柿沼裕朋君(NHK日曜美術館担当プロデューサー)と来訪。
五月二十五日、「燭」第九号にて休刊。
六月二十四日、森建鉄工による坪画廊(芭蕉泊)鉄骨組み着工。
十月十三日、攝津幸彦君逝く。
十一月二十四日、NHK日曜美術館取材班来宅。
十二月二十二日、NHK日曜美術館「書物のユートピア――美しい本を求めて」放映。
平成十年(一九九八) 六十一歳
六月五日、春日部市立病院に緊急入院、心不全・腎不全。十七日、春日部市嬉泉病院へ転院。
平成十一年(一九九九) 六十二歳
四月十三日、「芭蕉泊」にて「鬚書展」開く(会期一ヶ月)月末に阿部鬼九男、寺田澄史、高橋龍の諸氏来観、歓語を尽くす。
七月三日、酒卷英一郞君の車で高柳重信第十七回忌墓参会(群馬県堺町福寿院)に出席。十月七日、嬉泉病院にて人工透析開始。
平成十二年(二〇〇〇) 六十三歳
五月、色紙通信九名に発送。
七月、岩片仁次、高橋龍の両氏わが未刊句集の刊行を議すとか。
九月、「夢幻航海」第四十一号に「『山海經』(壹)あるひは妻戀」を発表。九月九日、酒卷英一郞君、高橋龍氏来宅、俳人諸氏の見舞金をいただく。
十月、未刊句集『慫慂』抄記、酒卷君にワープロ稿依頼。安井浩司氏上京して岩片、酒卷、高橋の三氏と句集刊行に就いて協議を開く。
十二月十一日、弟・正晴、大阪より見舞にくる。
平成十三年(二〇〇一) 六十四歳
一月、「夢幻航海」第四十二号に「『山海經』(弐)」を発表。
三月、「大岡頌司自選百句」(「龍年纂・別冊資料集・一」初出「俳句空間」第二十号)刊行さる。
四月二十二日、酒卷君、高橋龍氏来宅、未刊句集を全句集に替えて刊行と伝えられる。
五月、筑摩学芸文庫、川名大著『現代俳句』(上)出る。わが五句鑑賞さる。
十二月一日、端溪社開業出版『眞神』の著者、三橋敏雄逝去。
*
平成十四年(二〇〇二) 六十五歳
十月三十一日発行の奥付を以って『大岡頌司全句集』(発行所/浦島工作舎、制作/七月堂)刊行。編集委員/岩片仁次、酒卷英一郞、高橋龍、安井浩司。
平成十五年(二〇〇三)
二月二十五日、午前七時七分、肝不全にて入院先の嬉泉病院で逝去。享年六十五歳。二月二十一日、近親者にて葬儀。二月二十三日、大岡頌司宅弔問と偲ぶ会(春日部駅前「ヤマヤ」)。発起人、岩片仁次、酒卷英一郞、高橋龍、寺田澄史。参加者十六名。
(追記・酒卷)
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■