Interview:三浦俊彦
三浦俊彦:昭和34年(1959年)長野県生まれ。都立立川高等学校卒業後、東京大学文学部美学芸術学科を卒業。和洋女子大学教授。美学・哲学の研究者で小説家。代表作に『M色のS景』、『この部屋に友だちはいますか?』、『離婚式』、『エクリチュール元年』など。現在文学金魚で『偏態パズル』を連載中。
三浦俊彦氏は美学・哲学の研究者で小説家である。平成二年(一九九〇年)に「M色のS景」(『小説新潮』掲載)で小説新潮新人賞優秀作を受賞して作家デビューした。明快な論理的思考をベースにするが、小説ではそれが自ずから歪み、片寄る世界を描く作品を生み出し続けている。古典的小説にも前衛的小説にも分類不可能な、独自の手法を持つ作家である。文学金魚で小説『偏態パズル』を連載中。今回は三浦氏がその著書『戦争論理学 あの原爆投下を考える62問』をベースに東海大学で行った特別講義を再録した。
文学金魚編集部
■ポツダム宣言とレディメイド文学について■
お配りした資料には「芸術作品としてのポツダム宣言─レディメイド文学の提唱─」と書いておきました(末尾『講義用配布資料』参照)。今日はこのテーマでお話しようと思いますが、みなさんポツダム宣言はご存知でしょうか。第二次世界大戦で日本はドイツ、イタリアと同盟を組んで世界中を相手に戦いました。そして負けたわけですが、戦争末期に戦いの相手だった連合国が、日本に対してポツダム宣言を発しました。この条件を飲んで戦争をやめろよ、ということです。しかし日本はそれをまず拒否する。そしてその二週間後くらいに広島に原爆が落ち、次いで長崎に原爆が落ちた。それによって日本はやっとポツダム宣言を受け入れて連合国に降伏したわけです。
この流れはみなさんも社会科の授業などで習ったと思いますが、今日はこのポツダム宣言を改めて読んでみたいと思います。英語の原文はネットで簡単に検索できます。ただネット上で流通している翻訳は微妙に間違っているところがあるので、私が全訳してできるだけ正確な訳を作ってきました。それではまずサブタイトルのレディメイド文学についてお話したいと思います。
レディメイドは既成品という意味です。二十世紀芸術にとってとても重要な概念でもあります。一九一七年にフランスの芸術家、マルセル・デュシャンが男性用の小便器を芸術作品として展覧会に出品しました。この小便器は当時の大量生産品で、その気になれば誰でも買えるものでした。この小便器はデュシャンによって「泉」と名づけられましたが、今では二十世紀最大の芸術だと言われています。ここからレディメイドアートが始まったからです。
マルセル・デュシャン 『泉』 1917年
アルフレッド・スティーグリッツ撮影
デュシャンはこの「泉」を発表する数年前から、自転車の車輪とかシャベルといった、ただの工業製品を芸術作品として提示していました。そのようなレディメイド作品の中で一番有名なのが「泉」です。しかしこの作品は主催者から拒否され展覧会には正式展示されませんでした。撤去されてしまったんですね。そのためオリジナルは行方不明になって残っていません。ただそれと同じ型の便器が、今、ニューヨークの美術館に物々しく飾ってあります。
みなさんはそんなものが芸術なのかとお思いになりますよね。だけどやっぱり立派な芸術なんです。芸術は美を目指すというのが十九世紀までのアートの常識でしたが、二十世紀以降の芸術家は美という理念を捨ててしまう。美しいかどうかはもはや問題ではない、絵が上手いかどうかも関係ない、普通の人にはできない技術を持っているかどうかも関係ない、とにかく作家がこれは芸術なんだといえば芸術になってしまう。簡単に言えば、そういうアートの流れをデュシャンは作ったんです。
芸術家が既成品を持ってきて自分の作品として提示するのがレディメイドなのですが、現在ではそれは、美術や音楽の世界で普通に行われるようになっています。音楽ではフィールドレコーディングというものがあります。そのへんの音を録音してきてCDにして販売するんですね。エアコンなんかの音を録音したCDも販売されています。
このように美術や音楽のジャンルでは、従来の芸術概念を打ち破るような試みが盛んに行われています。アートの世界だと何も描かれていないカンバスを作品として提示するとか、物が置かれていない真っ白な部屋をアートとして提示するなどということが行われている。音楽ではジョン・ケージという作曲家が『4分33秒』という作品を発表しました。CDでは音が録音されていないんですね。演奏会では演奏家が出てきてピアノの蓋を開けて、4分33秒間、ただ椅子に座っているだけです。それが二十世紀最大の音楽作品だとみなされています。でも文学の世界では、真っ白なページを作品として提示する試みは行われていない。実際、なにも文字が書かれていない本が、たとえば小説として書店で流通することはちょっとあり得ないですよね。
ジョン・ケージ
じゃあレディメイド文学というものがあるとしたら、どういうものになるのか。具体的に言うと、作家が何も書かないで、既成品の文章をただ持ってくるということです。その一つの試みとして、ポツダム宣言という文学作品ではない文章、本来は政治的な文章を文学的に読んでみたい。美術作家が既成の工業製品を美術作品に変えるように、政治文章を文学作品として読めるようになるのか、変えられるのかを今日は実際に検証してみたいと思います。
■原爆投下肯定論について■
先ほどちょっと触れましたが、日本政府はポツダム宣言を黙殺しました。当時の日本の首相は鈴木貫太郎で、彼は「ひたすら戦争に邁進するのみである」と言ったんです。その結果として広島・長崎に原爆が落ち、日本は降伏することになった。つまりポツダム宣言と原爆投下の間には密接な関係があります。そこで原爆投下に関してどのような考えがあるのか、まず整理しておきましょう。
外務省訳文の『ポツダム宣言』
まず原爆投下を批判する考えがあります。アメリカは原爆を投下する必要はなかったということです。日本にいるとこの考えが定説のように思われるでしょうが、日本から一歩外に出ると逆です。多くの国の人たちは原爆投下肯定派です。原爆投下批判の考えはみなさんよくご存知でしょうからこれは飛ばして、今日は原爆投下肯定派の考え方を紹介してゆきます。
まず原爆天災論というものがあります。原爆は台風や地震と同じ天災のようなものだという考えです。つまり戦争中なのだから勝つために努力するのは当然で、アメリカが戦争を早く終わらせるために、当時の新兵器であった原爆を使用するのも当たり前である。戦争という状況を考えれば原爆投下は不可避的なのであって、いわば天災に見舞われたようなものだと考えるわけです。昭和天皇もこれに近い考えを述べています。新聞記者に原爆投下についてどう思うかと聞かれ、「戦争中だから致し方のないことである」と答えている。大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』にも原爆天災論に近い考え方が述べられています。
二つ目の考え方に天佑論─原爆投下は神の助けであるという考え方があります。原爆投下によって戦争が早く終わったのだということですね。実際、原爆が落ちなかったら、日本は延々と戦争を続けていたことでしょう。ポツダム宣言は一九四五年七月の終わりに出たんですが、アメリカはあと一年半は戦争が続くと予想していました。ところが日本は原爆を落とされたことを口実に降伏することができた。だから原爆投下によって、さらに失われるはずだった多くの人命が救われたんだと考えるわけです。これは実際に、海軍大臣の米内光政や日中戦争勃発時の総理大臣だった近衛文麿など、当時の日本政府高官が口にしています
三つ目は天命論です。原爆投下は既に起こってしまったことである。ならば戦争の恐ろしさや悲惨さを示す教訓にしようではないかという考え方です。戦争というものは原爆投下のような悲惨なことが起こるものである、だから二度と戦争はしてはいけないということですね。戦争芸術のほとんどがこの考え方に立ちます。戦争を美化しているわけではないけれど、戦争を題材にした立派な文学作品や映画などがたくさん作られています。そういった作品は、ある意味で原爆投下を利用しているわけです。原爆投下を題材に、人間の限界などを表現しています。
四つ目は天罰論です。侵略国家が当然の報いを受けたんだという考え方です。太平洋戦争は日本が始めた戦争です。当時のアメリカは、今のアメリカと違って戦争などしない国でした。日本が真珠湾攻撃をする前のアメリカは、連日ナチス・ドイツがロンドンを空襲していても戦争に加わろうとしなかった。他国の戦争は関係ない、我々は我々だけで繁栄してゆくんだという孤立主義がアメリカの国是だったわけです。
ところが日本がいきなり真珠湾攻撃を仕掛けて来た。だからアメリカが今のような世界の警察国家になって、世界中で戦争を起こすようになったのは実は日本のせいなんです。二度と真珠湾攻撃のような恥辱を味わわないために、アメリカは世界中に軍隊を送って戦争をする国になってしまったわけです。
天罰論は、真珠湾攻撃のようなとんでもない侵略を行った軍国主義国家日本は当然の報いを受けたのであり、それが原爆であるという考え方だと言ってもいい。これは当時のアメリカ大統領、トルーマンの外向けの主張です。トルーマンは原爆投下直後にアメリカ国民に向けて、「我々はパールハーバーの敵を討った、侵略国家日本をやっつけた」という内容の演説をしています。
以上のように、原爆投下を肯定する考え方はたくさんあります。特に天佑論、天災論が根強い。原爆投下で多くの人命が救われた、戦争という状況下では原爆投下はやむを得ないという考え方ですね。だからナチス・ドイツのユダヤ人虐殺、いわゆるホロコーストほどには原爆投下は非難されていないところがあります。ホロコーストは戦争に勝つための行為ではない。しかし原爆投下は戦争終結を早めたのだから、正当化できるということです。
■ポツダム宣言を読む■
ここからは、ポツダム宣言とはどういうものであるかを読んでいきたいと思います。ポツダム宣言は、一九四五年七月二十五日発表の文章です。冒頭は「1 われら合衆国大統領、中華民国政府主席およびグレート・ブリテン総理大臣は、われらの数億の国民を代表して協議し、日本に対しこの戦争を終わらせる機会を与えることで同意した。」です。
この時の合衆国大統領はトルーマンです。一九四五年四月、ドイツ降伏直前にフランクリン・ルーズベルトが脳卒中で死去して、副大統領のトルーマンが大統領に就任しました。中華民国政府主席というのは、今の共産主義の中華人民共和国ではなく国民党の中国で、主席は蒋介石です。グレート・ブリテン総理大臣は、戦後に発表した『第二次世界大戦』という本でノーベル文学賞を受賞したウィンストン・チャーチルです。次の条項を読んでいきます。
「2 合衆国、大英帝国および中国の巨大な陸海空軍は、欧州から自国陸軍と空軍による何倍もの増強を受け、日本に対し最終的打撃を加える配置を整えた。この軍事力は、日本が抵抗をやめるまで対日戦争を遂行しようという全連合国の決意によって支持され、鼓舞されている。」
この条項では、ナチス・ドイツを倒すためにヨーロッパに集結していた連合国の軍隊が、今度は全部日本に向かって進撃するよ、ということを言っているわけです。
「3 世界の奮起した自由な人民の力に対する、ドイツの無益かつ無意義な抵抗の結果は、日本国民に対する先例を、恐るべき明瞭さで示すものである。現在、日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対して適用されたさいに全ドイツ国民の土地、産業および生活手段を必然的に荒廃させた力に比べて、計り知れないほど強大なものである。われらの決意に裏付けられたわれらの軍事力の総動員は、日本軍の不可避かつ完全な壊滅を意味すると同時に、必然的に日本本土の完全な破滅を意味する。」
連合国との戦いで、ドイツは徹底的に破壊されました。首都ベルリンが戦場になり、政府が消滅するまで戦いが続いたわけです。この文章では、ナチス・ドイツを完膚無きまでに叩きのめした徹底的な攻撃が、今度は日本に加えられるだろうと警告しています。連合国は繰り返し「完全な壊滅」や「完全な破滅」を日本に加えると言っているわけです。
右からチャーチル、ルーズベルト、蒋介石
では日本政府がポツダム宣言を読んで何を思ったかと言うと、別に何も思わなかった。これらは敵を威すための、よくある決まり文句だとも受け取れるからです。ところが後になってみると、これだけ繰り返し「完全な破滅」と言っているのは、原爆投下を念頭に置いていたからじゃないのか。あれだけ警告したのに降伏しないから原爆投下が起こったんだと、先取りして表現しているんじゃないか。つまりポツダム宣言は、後になって原爆投下を正当化できるような構造になっている。
「4 無分別な打算をもって日本帝国を滅亡の淵に陥れた利己的な軍国主義的指導者により、日本がこのまま統御されつづけるか、それとも日本が理性の道に踏み出すかを、日本が決定する時期が到来した。」
この条項では、悪いのは軍国主義的指導者だと言っています。日本国民は彼らに操られているのであって、連合国は日本国民全体を敵に回しているわけではないというニュアンスです。
「5 われらの条項は、以下のとおりである。われらは、これらの条項から離脱することはない。これに代わる選択肢は存在しない。われらは、遅延を認めない。」
つまり全面降伏の返事を送らせたら、我々は容赦しないよ、と言っています。実際、日本政府は黙殺という形でポツダム宣言を無視した。この文言も、それに続いて起こった原爆投下を正当化できるような作りになっています。
ちょっと寄り道になりますが、ポツダム宣言は番号が振ってあって条項が列挙されています。そのため日本は無条件降伏したんじゃない、ポツダム宣言の条項を受け入れる有・条件降伏をしたんだと言う人がいます。しかしそれは間違いです。無条件降伏とは、降伏する側の言い分は一切聞かないよ、という意味です。だから降伏に際して、日本から一切条件を出すことはできない。実際そういう形で降伏していますから、やはり無条件降伏です。次の条項を読みましょう。
「6 日本国民を欺いて誤導し、世界征服の企みへ向かわせた者たちの権威と影響力は、永久に除去されなければならない。なぜならば、無責任な軍国主義が世界より排除されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は不可能であるとわれらは主張するからである。」
この条項では、中途半端な形では戦争を終わらせないよ、と書かれています。日本がなぜ経済的にも軍事的にも遙かに力があるアメリカに戦争を仕掛けたかというと、日清戦争、日露戦争のパターンを期待したからです。
日清、日露戦争は総力戦ではありません。戦場というフィールドで軍隊と軍隊が闘って、日本が連戦連勝している間に仲裁が入り、日本にとって有利な形で戦争が終わったわけです。日清戦争も日露戦争も日本より遙かに巨大な国との戦争ですから、総力戦、持久戦になったら日本が勝てるわけがない。いい加減なところで戦いをやめるというのが当時の戦争だったわけです。ところがそういう戦争をしていたのでは、日本の軍国主義が残ってしまう。そこで徹底的に闘って日本を改造しますよ、とこの条項では言っている。
「7 このような新秩序が建設され、かつ日本の戦争遂行能力が破壊されたという確証が得られるまでは、われらがここに提示する基本的目的の達成を確保するために、連合国の指定する日本領土内の諸要地は占領される。」
実際にそうなりましたが、全面降伏後、日本は連合国の占領下に置かれるということです。
「8 カイロ宣言の条項は履行され、また、日本の主権は本州、北海道、九州、四国と、われらが決定する諸小島に限定される。」
カイロ宣言は一九四三年に出されました。日本が無条件降伏するまで闘うと明記された連合国側の宣言です。日本は日清、日露戦争、第一次世界大戦で戦勝国になったので、当時の領土は今よりも広かった。朝鮮半島、つまり今の南北朝鮮すべて、それに台湾、樺太南半分、サイパン島などの南洋諸島が日本の領土でした。しかし太平洋戦争のような侵略戦争を起こしたのだから、日本の領土は日清戦争以前の領土に戻るということです。
「9 日本軍は完全に武装解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を与えられる。」
これは4の条項とほぼ同じ内容です。悪いのは軍国主義者であって、一人一人の兵士ではないと言っている。だから日本が全面降伏しても、兵士が虐待されたり奴隷化されたり、殺されたりすることはないと保証しています。海外に派兵されていた兵士は全員日本に帰って、家族と一緒に過ごすことができるわけです。
「10 われらは、日本人を民族として奴隷化しようとか国民として滅亡させようとかいった意図を持たないが、われらの捕虜を虐待した者を含むすべての戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を与える。日本政府は、日本国民の間における民主主義的傾向の復活と強化に対する一切の障害を除去しなければならない。言論、宗教、思想の自由と、基本的人権の尊重は、確立されなければならない。」
戦争中の日本では、戦争に負けたら女はみんなレイプされ、男は全員殺されるといった流言が飛び交っていたんですね。だから敵に捕まったら自殺しろという命令が出ていた。よく知られているように、沖縄戦では住民に自殺用の手榴弾が配られました。この条項は当時の日本人が恐れていたような事態は起こらないよ、と言っているわけです。ただし連合国側の捕虜を虐待した者は別です。
日本は戦争中に捕虜を虐待することで知られていました。炎天下を歩かせたり、粗末な食事しか与えなかったりしたんです。もしかすると当時の日本軍の常識としては、特に虐待という意識はなかったかもしれません。日本軍ではまず日本兵が虐待されていました。兵士は殴られ、しごかれ、いじめられていた。それをアメリカ、イギリス、オーストラリア、オランダ軍の捕虜たちにも適用したので、日本軍は残酷だということになってしまった。
ちなみにドイツ、イタリアの捕虜になった英米の兵士の死亡率はだいたい4パーセントです。これに対し日本軍の捕虜になった英米兵士の死亡率は27パーセントです。この死亡率はアメリカ、イギリスでもよく知られていて、それへの怒りがこの条項に表れています。
空爆で廃墟になったドイツの首都ベルリン
最後の「言論、宗教、思想の自由と、基本的人権の尊重」ですが、これは戦前の日本にはなかった。特攻隊などを思い起こしてもらえればわかると思います。あれは表向きは志願者を募ったということになっていますが、志願の欄に○を付けない者は、殴られて付けるように強制されました。個人の意思などは尊重されない国だったわけです。日本が全面降伏したら、そういった暴虐はなくすと書いてあります。
「11 日本は、その経済を保ち、公正な現物賠償の徴収を可能にするような産業を維持することを許されるが、日本が戦争のために再軍備をすることができるような産業は許されない。この目的のため、原料の支配は許されないが原料の獲得は許される。日本は、最終的には、世界貿易関係への参加を許される。」
全面降伏しても、日本はいずれ国際経済に復帰できると明記してあります。この条項にあるように、当時は「原料の支配」が重要でした。日本も天然資源を求めて戦争を始めたわけです。具体的にはインドネシアの油田を手に入れたかった。しかしインドネシアに行く途中のフィリピンは、当時アメリカの植民地でした。このアメリカを排除するために太平洋戦争を起こしたわけです。今ではだいぶ経済構造が変わってしまい、天然資源を持っていることが必ずしも国力の指標にはなりません。むしろIT産業や高い文化力が国の力になりつつある。しかし当時はまずなによりも天然資源が重要だった。
「12 以上の諸目的が達成され、かつ日本国民が自由に表明する意思に従って平和的傾向を有し責任ある政府が樹立されたならば、連合国の占領軍は、ただちに日本から撤退する。」
この条項を読むと、ポツダム宣言は、日本にとって割といい条件を提示しているようにも解釈できます。アメリカやイギリス、あるいは中国政府は、日本に対してこういう政府を作れと命じるのではなく、日本人の自由な意思によって平和な政府を作ればそれでいいと言っているわけです。
「13 われらは、日本政府がすみやかにすべての日本軍の無条件降伏を宣言し、かつこの行動における誠意について適切かつ十分な保証を提供することを日本政府に要求する。日本にとってこれ以外の選択肢は、迅速かつ徹底的な壊滅だけである。」
この「迅速かつ徹底的な壊滅」も原爆投下をほのめかしているように読めます。また「すべての日本軍の無条件降伏」と書いてあります。二年前のカイロ宣言では、「日本の無条件降伏」と書かれていました。日本国の無条件降伏が条件だったわけです。国が無条件降伏するのか、軍が無条件降伏するのかは重要な相違です。ポツダム宣言では「日本軍の無条件降伏」とありますから、カイロ宣言からちょっと条件が緩くなったとも言えます。軍が無条件降伏して、国(政府)がそれを保証すればいいということです。
■ポツダム宣言の読解ポイント■
ではこのポツダム宣言は、どういう意味で文学的なのか、芸術的なのか。まず最初にポツダム宣言は、
①日本に戦争継続の希望を失わせないために・・・・・・
作られているようなところがあります。日本がすぐに戦争をやめようと思うような実際的脅威や圧力は、ポツダム宣言には書かれていないんです。
ポツダム宣言を発したのはアメリカ、イギリス、中国の指導者です。日本がポツダム宣言を受け取ったときに、まず一番気にしたのがスターリンの名前があるかどうかです。当時のソビエト連邦の独裁者です。もしポツダム宣言にスターリンの名前が入っていたら、日本は万事休すだったわけです。
当時日本はソ連と日ソ中立条約を結んでいました。ソ連はアメリカ、イギリスと連携してナチス・ドイツと戦いましたが、ポツダム宣言の時点でヒトラーは排除されていました。そうするとソ連は共産主義国だから、いずれアメリカやイギリスと対立し始めるだろうと日本政府は考えていた。だから日本が降伏することになっても、アメリカやイギリスの好きにさせないように、ソ連は日本に有利な条件で講和を仲介してくれるのではないかと期待していたんですね。実際、当時の日本政府はスターリンにしきりにラブコールを送っていました。
ところがそれは日本政府の思い違いだった。ナチス・ドイツと同様に、ソ連は隣接する地域に日本のような帝国主義国家があるのは迷惑だった。ポツダム宣言の時期、ソ連は着々と日本を攻撃する準備をしていました。ドイツで闘っていた軍隊を東に送って、満州国境に集結させていたんです。
もしポツダム宣言にスターリンの名前があれば、ソ連は英米と協調して日本に戦争を挑んでくることになる。そうなると日本の最後の望みは断たれることになる。しかし英米はスターリン抜きでポツダム宣言を発した。そのため日本は、ソ連が対日戦争の準備をしているにも関わらず、講和仲裁役としてソ連に期待をかけていたわけです。
右からスターリン、トルーマン、チャーチル
それからポツダム宣言では原爆についてはっきり言っていない。「徹底的な壊滅」という一般的な威嚇で、嘘をつくことなく真実を隠蔽したわけです。これは当たり前と言えば当たり前です。新兵器ができたからといって、敵にその存在を教える義務はありません。ただ日本も細々とですが原爆の開発を行っていて、その威力を知っていました。もしアメリカが原爆開発に成功したと明言されていれば、降伏の時期に影響を与えた可能性はあります。
また先ほど言いましたが、カイロ宣言では「日本の無条件降伏」とあったのが、ポツダム宣言では「日本軍の無条件降伏」になっている。これは当時の日本政府にとっては、連合国が少し弱腰になっているとも受け取れます。アメリカは民主主義国だから兵士の人命を尊重する。そこが弱みになる。アメリカ兵の死傷者が多くなれば、日本はもっと有利な条件で講和できるかもしれない、もしかすると勝てるかもしれないと思わせるような書き方だったわけです。
二つめの読解ポイントですが、ポツダム宣言は、
②降伏の結果への恐怖を植えつけるために・・・・・・
書かれています。第12項では「日本軍の無条件降伏」と言っていますが、第8項では「カイロ宣言の条項は履行され」とあります。だからやはり連合国は、日本国全体の無条件降伏を目指しているとも読める。同じく第12項で「平和的傾向を有し責任ある政府が樹立されたならば、連合国の占領軍は、ただちに日本から撤退する」とありますが、天皇制を許容するとは言っていません。日本政府はこの「平和的傾向を有し責任ある政府」から天皇制は除外されているのではないかと疑っていた。またそれには理由がありました。
ポツダム宣言の第10項には「すべての戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を与える」とあります。当時は天皇が軍のトップでした。だから天皇が処罰される可能性を排除できない。ポツダム宣言を受諾すれば、天皇が処罰され天皇制がなくなってしまうかもしれないわけです。実はこれが日本政府がポツダム宣言を黙殺した最大の理由なんですね。しかしポツダム宣言は厳しい要求を突きつけているだけではありません。
③降伏しても絶望的な状況にはならないと知らせるために・・・・・・
第4項、第6項では裁かれるべきなのは軍国主義者たちであって、それ以外の日本人はむしろ被害者であるという連合国側の理解が示されています。降伏しても無茶苦茶なことにはならないよ、と日本政府を安心させる条項が入っているわけです。これは、
④日本政府と日本軍の決断を遅らせるために・・・・・・
微妙なチューニングがポツダム宣言にはほどこされているからだと読むこともできます。つまり①、②で厳しい処罰を示唆しながら、③では寛大な処置を示唆している。これが日本政府に無条件降伏の決断を遅らせた要因になっています。
⑤原爆投下の正当化に使えるように・・・・・・
ポツダム宣言は、無条件降伏を受諾しなければ「完全な破滅」が訪れると警告しています。また「遅延を認めない」と最後通告であることを明示しています。また第3項で「世界の奮起した自由な人民の力に対する、ドイツの無益かつ無意義な抵抗の結果は、日本国民に対する先例を、恐るべき明瞭さで示すものである」と言っています。日本に対する戦争は、ドイツとの戦争にくらべれば、まだまだ序の口であるということです。
確かにそうなんです。第二次世界大戦ではヨーロッパでの戦争と、アジアでの戦争が平行して続いていました。連合国はまずヨーロッパ優先策をとります。先にドイツ、イタリアを倒すという戦略です。ナチス・ドイツが倒れるまで、連合国は日本との戦争には釘付け戦略をとりました。これはアメリカとイギリスの間で正式に合意された戦略です。ドイツを倒してから、日本に対して総力を挙げて戦いを挑むというシナリオだったんです。
ですからアメリカ側の資料では、一九四三年という早い段階で、原爆を落とす目標は日本だと明言されています。原爆の開発は遅れていたので、原爆が使えるのはドイツとの戦いを終えた後の対日戦だろうと正確に予測していたわけです。ただドイツには原爆は投下されませんでしたが、その戦いは非常に悲惨なものでした。
第二次世界大戦勃発当初の日本とドイツの人口は、ほぼ同じくらいで約八千万人です。戦争で日本人はだいたい三百万人くらい死んでいます。日中戦争以降という統計だと、もう少し少なくなるかもしれません。これに対しドイツ人は日本人の三倍くらいが死んでいます。またドイツ国内に投下された爆弾の量は、日本に落とされた爆弾の十一倍です。東京大空襲だけでも十万人が死んでいますから、その凄まじさが想像できると思います。
客観的に見れば、日本よりドイツの方が遙かに戦争で酷い目にあっています。またドイツは戦後に大幅に領土を削減されて、何百万人もの難民が出ます。それまでのドイツ領から別の土地に移住せざるを得なくなったわけです。ドイツ人捕虜も、戦争が終わった後に百万人くらい死んでいます。日本兵は、ソ連に捕まった人たちだけがシベリアに送られて強制労働させられましたが、後の兵隊たちは日本に帰ることができた。しかし捕虜の扱いは、日本兵とドイツ兵では大きく違っていた。日本人は戦争で酷い目にあったという意識を持っていますが、ドイツと比べれば遙かにましな形で戦争が終わっています。
語弊があるかもしれませんが、それは原爆のおかげです。原爆を投下されたために、沖縄を除く日本が戦場にならずにすんだ。つまり日本の場合、ヨーロッパでの対ドイツ戦争と比べると戦争が途中で終わっている。ドイツのように、政府が消滅するまで戦争が続くことはなかった。
戦争末期、日本海軍はほぼ壊滅していました。連合艦隊がなくなり、戦艦大和も沈んで戦える状態ではなかった。だから海軍大臣はポツダム宣言を受け入れて降伏しようと言っています。しかし陸軍はこれからの本土決戦が自分たちの出番だと思っていた。だけど原爆という、陸軍が考えていたような戦争とは関係のない新兵器が現れた。それにより、陸軍は面子を失うことなく降伏できたということです。それはほぼポツダム宣言の内容通りです。連合国は日本が戦争継続の意思を失わせないような条項を並べ、一方で原爆投下の可能性と、その結果についてもあらかじめ示唆しているわけです。
■日本の全面降伏の理由■
ただ原爆投下だけが終戦をもたらしたわけではありません。太平洋戦争を終わらせたのは原爆投下だと思っている日本人が大半です。しかし歴史学者でそんなことを信じている人は誰もいません。日本に全面降伏を決断させた本当の理由は何だったのでしょう?
──はい、その通りです。
ソ連の参戦ですね。
ポツダム宣言が発せられた時、日本の外務省は受諾に賛成だった。無条件降伏とはいえ、この内容なら無茶苦茶なことにはならないだろうと考えた、しかし陸軍が納得しない。当時の日本政府では陸軍大臣、海軍大臣が閣僚にいました。ただ当時は閣僚が一人でも欠けると政府が倒れる、内閣総辞職に追い込まれるという仕組みだったんです。しかも陸軍、海軍には大臣を辞めさせる権限があった。ですから政府が気に入らない政策を打ち出すと、陸軍、海軍は大臣を引き上げてしまう。そして自分たちにとって都合のいい内閣ができるまで大臣を出さないんです。ポツダム宣言についても、外務省や他の閣僚は賛成でも、陸軍が反対である以上、その受諾は不可能だったわけです。
で、原爆が投下された後に政府内でどのような議論があったか。意外に思われるかもしれませんが、それによってポツダム宣言を受諾しようという意見は出なかったんです。広島に原爆が投下されてから日本政府は、モスクワの日本大使に対して、スターリン工作を急ぐよう指示しました。スターリンが英米との講和仲介を取ってくれるよう、すみやかに働きかけよと指示したわけです。つまり広島に原爆が落ちても日本政府も軍も動揺しなかった。原爆投下自体は全面降伏になんの影響も与えなかったんです。
考えてみれば当然のことです。原爆投下で広島の街は壊滅しましたが、東京大空襲では広島よりも多くの人が死んでいます。政治・文化・経済の中心である東京が焼け野原になっても政府は戦争をやめようとはしなかったわけです。また戦争末期の日本軍の残存勢力は陸軍だけで、そのほとんどが中国や南方に展開していました。だから広島が壊滅しても、軍事力という意味ではなんの影響もなかった。当時の日本政府は広島・長崎で何万人死のうがあまり気にかけなかったわけです。
アメリカ軍艦ミズーリ艦上で降伏文書に調印する重光葵外相
つまりアメリカが想定していたほど原爆投下は効果を上げなかったわけです。しかしソ連の参戦は違った。原爆投下後に、英米との仲介を期待していたソ連が、当時の満州国境を超えて攻めてきた。日本陸軍最精鋭と言われた関東軍が満州国境に配備されていたのですが、主力は南方に出征していて、実は張り子の虎だった。ソ連が攻めてくると同時に関東軍は民間人を置いて逃げてしまった。陸軍の面子丸潰れの事態が起こったわけです。このままだと陸軍が敗れて戦争に負けるという事態になってしまう。しかも陸軍が想定していた本土決戦には、北からソ連が攻めてくるというシナリオは含まれていませんでした。だからソ連が参戦してくると、もう打つ手がない。
しかもソ連軍は、日本軍と同じように人命など尊重していなかった。ソ連軍の一番先頭は、督戦隊によって監視されています。田舎から連れてこられた、ろくに軍事訓練も受けていない青年たちを先頭に配置して、粗末な武器を持たせて突撃させた。逃げるのは許されない。逃げると、後方にいる主力ソ連軍が彼らを打ち殺すわけです。当時のソ連軍は、日本軍と同様に、国民の命などなんとも思っていなかった。ですからソ連軍との戦いは、人命尊重の民主主義国家アメリカとの戦いとは大きく違います。そこで日本陸軍も、ようやくもうダメだということになった。
じゃあソ連さえ参戦していれば、原爆投下は必要なかったのか。これもそうとは言えないと思います。ソ連との戦いは殲滅戦になったでしょうが、それだけでは当時の陸軍は引っ込みがつかなかったと思います。国民には全員死ぬまで戦えと言い続けていたわけです。そこで原爆投下が新たな意味で注目されてくる。陸軍は面子を守りながら降伏するために、原爆などという新型兵器を使われたのではもう戦争は遂行できないと、終戦のための論理をすり替えた。つまり陸軍にとっては、原爆投下が全面降伏のための格好の言い訳になったわけです。
これは玉音放送として知られる天皇の「終戦の詔勅」にも表れています。天皇は国民に向けて「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻リ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 眞ニ測ルヘカラサルニ至ル」と述べました。敵が原爆のような残虐な新兵器を使ったのでは、もはや戦争を継続できないということです。一方で、玉音放送の翌16日にインドネシアやマレー半島、中国などに展開していた日本軍に出した停戦命令では、ソ連の参戦だけに触れ原爆に言及していません。つまり実際にはソ連参戦が全面降伏の引き金になったわけですが、国民に向けては無差別大量殺人兵器である原爆が、全面降伏の原因だと説明しているわけです。
この論理のすり替えを、当時の大メディアである新聞も追認しました。原爆投下時は「広島に被害あり」といった程度の簡単で小さい新聞記事だったのが、終戦の詔勅が発表されてからは、「残忍狂暴な新兵器原子爆弾はついにわれらの戦争努力の一切を烏有に記せしめた」(中国新聞)といった論調に変わります。原爆投下が日本の全面降伏の理由として利用され始めたわけです。
もちろん原爆投下とソ連参戦があらかじめスケジュールされていたわけではありません。スターリンは原爆投下を知って、あわてて対日戦争に参戦した。一九四五年の二月にアメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、それにスターリンがクリミア半島のヤルタに集って協議を行いました。ヤルタ会談です。この会談でスターリンは、ドイツが降伏した後、三ヶ月以内に日本を攻撃するとアメリカとイギリスに約束しました。アメリカがソ連に日本を攻撃してくれと催促したんですね。アメリカは自国兵士の損害を最少限度で抑えたかったのです。その代償としてアメリカは、ソ連に日露戦争で失った領土の回復と千島列島の領有を約束しました。
ところが一九四五年に行われたポツダム会談の時には、ルーズベルトが死んでアメリカ大統領はトルーマンになっていた。チャーチルも選挙に負けて、イギリス首相はクレメント・アトリーだった。ヤルタでスターリンに、対日戦争参戦とその見返りとしての領土を約束したルーズベルトとチャーチルはもういなくなっていたわけです。それでスターリンは疑心暗鬼になった。アメリカはソ連に通告しないで日本に原爆を落としたが、これはソ連抜きで対日戦争を終わらせるつもりではないか。そこでソ連は八月後半に予定していた対日戦争を早めた。八月六日に広島に原爆が落ち、その二日後の八日にソ連軍は満州に進軍します。それを知らないまま、アメリカ軍のB29が翌九日に長崎に原爆を投下したわけです。多分に偶然の要素を含みますが、原爆投下とソ連参戦がうまく重なったんです。
これはある意味で日本にとっては幸運なことでした。ドイツのように、政府が消滅するまで戦う義務から解放されたからです。それまで日本政府は、一貫して一億総玉砕を唱えていたわけです。
■レディメイド文学の可能性■
ヨーロッパの対独戦争は、戦場でのドラマはあるにせよ、戦争遂行過程自体にはあまり劇的な要素がありません。国土が焦土になり都市が瓦礫の山になるまで戦争が続いた。ところが太平洋を舞台とする対日戦争には、精神的駆け引きがたくさんあります。終戦に至る過程がヨーロッパより複雑なんです。真珠湾攻撃という、太平洋戦争の始まり方もドラマチックです。終戦時にもポツダム宣言、原爆投下、ソ連参戦、天皇の玉音放送(英断)、そして降伏という大きなドラマが重なり合っている。
政府が消滅するまで戦ったドイツは、戦後東西に分割されてしまいました。そういう戦争をしていたら、日本も国土を分割されていた可能性があります。身代わりになったのは朝鮮半島です。だから日本は、いまだに韓国と北朝鮮の人たちには謝り続けなければいけないはずです。
ポツダム宣言というものを、今日お話したような経緯を頭に入れて読み直すと、まるで文学作品のように読めるようなところがあります。あたかも未来に起こる出来事を予測し、仕込んだように書かれています。まるで小説のようです。
つまりポツダム宣言は、文学におけるレディメイド作品となり得るのではないか。文学でもなんでもないリアルな政治的文章を、文学作品として捉えることができるのではないか。私はレディメイド作家として、ポツダム宣言をそのような作品としてみなさんに提示したわけです。今日お話した事柄は、私の『戦争論理学』という本でさらに詳しく論じています。ご興味のあるかたは読んでみてください。これでわたしの講義を終えます。
(2014/06/06)
【講義用配布資料】芸術作品としてのポツダム宣言─レディメイド文学の提唱─
2014.5.30 三浦俊彦
▲原爆投下批判の代表的な論拠▲
①事実的「原爆投下がなくても日本は降伏寸前であり、早期終戦を実現する方法は他にいくらでもあった」
②反実仮想的「原爆投下の決断は、日本本土上陸作戦で「米兵百万人死傷」など誤った予測に立脚していた」
③政治戦略的「原爆投下は戦争の罪悪を極端な形で表現しており、戦争反対・核兵器反対の立場から容認できない」
④感情的「原爆投下の是非を論ずること自体、被爆者への冒瀆である」
●原爆投下肯定論の代表的な論拠●
①事実的 ・・・・・・天災論「戦争なのだから仕方ない」
②反実仮想論 ・・・・・・天佑論「あれで戦争が早く終わったのだ」
③政治戦略論 ・・・・・・天命論「あれを国際協調のための戒めとしよう」
④感情論 ・・・・・・天罰論「侵略国家への当然の報いだ」
(三浦俊彦『戦争論理学』二見書房 第29問より)
*
●ポツダム宣言
1945年7月26日発表
1 われら合衆国大統領、中華民国政府主席およびグレート・ブリテン総理大臣は、われらの数億の国民を代表して協議し、日本に対しこの戦争を終わらせる機会を与えることで同意した。
2 合衆国、大英帝国および中国の巨大な陸海空軍は、欧州から自国陸軍と空軍による何倍もの増強を受け、日本に対し最終的打撃を加える配置を整えた。この軍事力は、日本が抵抗をやめるまで対日戦争を遂行しようという全連合国の決意によって支持され、鼓舞されている。
3 世界の奮起した自由な人民の力に対する、ドイツの無益かつ無意義な抵抗の結果は、日本国民に対する先例を、恐るべき明瞭さで示すものである。現在、日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対して適用されたさいに全ドイツ国民の土地、産業および生活手段を必然的に荒廃させた力に比べて、計り知れないほど強大なものである。われらの決意に裏付けられたわれらの軍事力の総動員は、日本軍の不可避かつ完全な壊滅を意味すると同時に、必然的に日本本土の完全な破滅を意味する。
4 無分別な打算をもって日本帝国を滅亡の淵に陥れた利己的な軍国主義的指導者により、日本がこのまま統御されつづけるか、それとも日本が理性の道に踏み出すかを、日本が決定する時期が到来した。
5 われらの条項は、以下のとおりである。われらは、これらの条項から離脱することはない。これに代わる選択肢は存在しない。われらは、遅延を認めない。
6 日本国民を欺いて誤導し、世界征服の企みへ向かわせた者たちの権威と影響力は、永久に除去されなければならない。なぜならば、無責任な軍国主義が世界より排除されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は不可能であるとわれらは主張するからである。
7 このような新秩序が建設され、かつ日本の戦争遂行能力が破壊されたという確証が得られるまでは、われらがここに提示する基本的目的の達成を確保するために、連合国の指定する日本領土内の諸要地は占領される。
8 カイロ宣言の条項は履行され、また、日本の主権は本州、北海道、九州、四国と、われらが決定する諸小島に限定される。
9 日本軍は完全に武装解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を与えられる。
10 われらは、日本人を民族として奴隷化しようとか国民として滅亡させようとかいった意図を持たないが、われらの捕虜を虐待した者を含むすべての戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を与える。日本政府は、日本国民の間における民主主義的傾向の復活と強化に対する一切の障害を除去しなければならない。言論、宗教、思想の自由と、基本的人権の尊重は、確立されなければならない。
11 日本は、その経済を保ち、公正な現物賠償の徴収を可能にするような産業を維持することを許されるが、日本が戦争のために再軍備をすることができるような産業は許されない。この目的のため、原料の支配は許されないが原料の獲得は許される。日本は、最終的には、世界貿易関係への参加を許される。
12 以上の諸目的が達成され、かつ日本国民が自由に表明する意思に従って平和的傾向を有し責任ある政府が樹立されたならば、連合国の占領軍は、ただちに日本から撤退する。
13 われらは、日本政府がすみやかにすべての日本軍の無条件降伏を宣言し、かつこの行動における誠意について適切かつ十分な保証を提供することを日本政府に要求する。日本にとってこれ以外の選択肢は、迅速かつ徹底的な壊滅だけである。
①日本に戦争継続の希望を失わせないために・・・・・・
■第1項、署名者にスターリンを参加させなかった。
■第3項・第13項、原爆について言及せずに、単に「徹底的な破壊」というごく一般的な威嚇によって、嘘をつくことなく真実を隠蔽した。
■第13項、無条件降伏の要求対象を「日本軍」とすることにより、カイロ宣言からの後退を匂わせ、もうひと頑張りすれば連合国からさらなる譲歩を引き出せると錯覚させた。
②降伏の結果への恐怖を植えつけるために・・・・・・
■第8項、カイロ宣言の厳しい無条件降伏要求(または決意表明)を新たに想起させた。
■第12項、天皇制を許容することを明示せずに、国体変革の可能性を匂わせた。
③降伏しても絶望的な状況にはならないと知らせるために・・・・・・
■第4項・第6項、倒され裁かれるべきは軍国主義勢力であって、その他の日本人はむしろ被害者であったという理解を示している。
■第9項、日本兵は抑留されたり虐待されたりしないことを明言している。
■第11項、日本が最貧国に転落させられることはないと保証している。
④日本政府と日本軍の決断を遅らせるために・・・・・・
■無条件降伏の対象を国とする第8項と、軍とする第13項との矛盾が、混乱をもたらした。
⑤原爆投下の正当化に使えるように・・・・・・
■第3項、ドイツの壊滅を「日本国民に対する先例」とし、対日戦は欧州戦末期に比べればまだたけなわであることを確認した(これまで舐めた苦難がまだ序の口であることを日本国民に思い知らせるとともに、原爆が「早期終戦」にいかに役立ったのかを戦後にアピールできるようにした)。
■第5項、「遅延は認めない」と最後通告であることを明示した(日本の拒絶を事後に非難できるようにした)。
ポツダム宣言は、降伏したくてもできなかった自縄自縛の日本をなんとか軟着陸させるために絶妙に微調整された、政治文章の傑作と言える。原爆の完成と、沖縄戦終了後の小康状態到来と、ソ連赤軍の極東配備完了という、各方面の出来事がちょうどシンクロした自然な微調整ぶりにも助けられ、ポツダム宣言の人為的言語表現はそのファインチューニング機能を最大限に発揮して、史上稀に見る劇的な終戦状況を作り出したのである。
(『戦争論理学』 第60問より)
陸軍とは異なり、連合艦隊を失って惨敗した自覚のある海軍は、説得されるまでもなく、ポツダム宣言受諾には賛成だった。当時の海軍大臣米内光政は、原爆投下とソ連参戦を「天佑」と呼んだ。近衛文麿、木戸幸一、迫水久常ら多くの要人が同様のことを述べている。政府高官はこのとき、ソ連参戦のような実質的な要因だけでは降伏できないことを知っていた。原爆投下のような、傍目に派手でアピール度の高いシンボリックな「口実」の存在は、確かに日本首脳部にとって歓迎すべき「天佑」だったのである。(中略)
天皇の玉音放送として流れた「終戦の詔勅」が、原爆のこの効果を証明している。
「・・・・・・世界ノ大勢亦我ガ利アラス 加之 敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻リ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 眞ニ測ルヘカラサルニ至ル・・・・・・」
「世界の大勢我に利あらず」のところは日ソ中立条約破棄とソ連参戦を意味していると考えられるが、明言はされていない。「敵は新たに残虐なる爆弾を使用して」──ここが国民に降伏を説明するさいのポイントであった。惨害と慈悲のコントラスト効果なしでは降伏は困難だったことがわかる。
九割九分の国民が、玉音放送と聞いて、「陛下がいっそうの奮励努力を促されるのだ」と思っていたという。大本営のウソの戦勝報道を信じていた国民はもはや多くなかっただろうとはいえ、国民の継戦心理と現実とは甚だしく乖離していたのだ。本土決戦もせず突如降伏というのは、原爆投下がなかったらなおさらである(第14問で触れたが、単なるデモンストレーションで原爆の威力を見せられた場合、「敵は新たに残虐なる爆弾を使用して」という、敵の非道に責任転嫁するアピールが不可能になり、惨害と慈悲のコントラスト効果が得られず詔勅の神通力は弱まっただろう)。
翌16日に天皇が軍に対して発した停戦命令では、ソ連参戦に言及し、原爆への言及はない。軍隊に対しては実質的に戦闘不能になった理由を説明しながら、国民に対しては本音の降伏理由を隠して象徴的な建前を強調し、軍の面子を守ったのである。ちなみに、当時の新聞報道の見出しも、「新爆弾・惨害測るべからず」(毎日)などと、もっぱら原爆の被害と「新しさ」を強調した表現になっている。翌日の中国新聞には「非道狂暴の新爆弾、戦争努力を一切変革」「残忍狂暴な新兵器原子爆弾hあついにわれらの戦争努力の一切を烏有に記せしめた」とある。弁明の気まずさを声高に掻き消すように「新爆弾、新爆弾」のオンパレード。新爆弾の「新」とは、爆弾原理の新しさはもとより、戦争の意味の新しさ、抗戦精神の古さを物語っているのである。
(『戦争論理学』 第20問より)
ソ連参戦と原爆投下が重なるという絶望的状況がむしろ天佑となって、日本帝国陸軍は面子を失わずに聖断に従うことがでいた。赤軍という俗悪と原子爆弾という超自然が、聖断という超自然を呼び出し、国民の血によって自らの名誉を守ろうとした俗悪日本軍を懐柔することができた。2つの俗悪と2つの超自然の化学反応としての和平。力ずく一本槍のヨーロッパの終戦よりも、精神的駆け引きに多く依存したアジアの終戦はかなり複雑で、個人や国家の各レベルでの多層な自由意思の試された事件だった。
(『戦争論理学』 第62問より)
*
◎◎推薦資料◎
半藤一利『日本のいちばん長い日』(映画 岡本喜八『日本のいちばん長い日』)
スティーヴン・ウォーカー『カウントダウン・ヒロシマ』早川書房
『BBC放送 世界に衝撃を与えた日 ヒロシマ』DVD
長谷川毅『暗闘──スターリン、トルーマンと日本降伏』中央公論新社
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■三浦俊彦さんの本■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■