鶴山裕司さんの 『現代詩人論』 『 No.010 現代詩の創出と終焉 ─ 入沢康夫論 (中) 』 をアップしましたぁ。『入沢康夫論 (上) 』をアップした後に、入沢康夫先生ご本人から誤植の指摘がありました。原因は鶴山さんのタイプミスですが、気づかなかった編集人の石川の責任でもあります。お詫び申しあげるとともに、ご指摘をくださった入沢先生に深く感謝申しあげます。
まだ完結していないですが、鶴山さんの評論は入沢文学に深く食い込んだものになっていると思います。『多くの読者が抱いている、理論的で怜悧という作品のイメージとは裏腹に、入沢文学は本質的に極めて情動的である』 と書いておられますが、そうかもしれない。入沢さんは多作の詩人ですが、どうしても書きたいことが 〝ある〟 ことが、旺盛な創作に繋がっているのだと思います。ちょっとハラハラする内容になっていますが、(下) が楽しみであります。
そんで不肖・石川は、文学金魚に 『入沢康夫論』 のような評論を掲載できることに、それなりに満足しております。石川は普通の読解力を持った読書人の一人ですが、詩壇、歌壇、俳壇を含め、詩の雑誌に掲載されている評論は理解できません。特に詩壇は酷いと思います。嫌味なのでいちいち指摘しませんが、論旨が通っていない、論理が飛躍している批評が呆れるほど多い。これは評論以前の問題です。
もしかして詩人さんたちは、誰にも善し悪しが判断できないわけのわからない現代詩を書いているから、批評も詩の延長で、わけがわかんなくてもいいって考えてるのぢゃあるまいか。でも素晴らしい詩は、読めばすぐ心に響く単純なものです。素晴らしい評論も然り。石川がわからんというのは石川の能力の問題ではなく、詩人さんたちの能力の低さゆえだと最近になって確信しております。
石川は現代詩業界が元気だった頃をおぼろに覚えています。入沢康夫、岩成達也、大岡信、飯島耕一さんなどの現代詩人はもちろん、鮎川信夫や吉本隆明さんなどが、腰を据えた精緻で真摯な仕事を次々に発表されていました。それが新しい作品成果とあいまって、文学の世界を活性化させていた。鶴山さんのような書き手があと十人くらい現れれば、詩の世界は自ずから変わりますよ。もちろん文学金魚は創作と批評の真摯で良好な関係を築くことで、文学界を活性化させていきたいと考えているのでありますぅ。
■ 鶴山裕司 『現代詩人論』 『 No.010 現代詩の創出と終焉 ─ 入沢康夫論 (中) 』 ■