偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 749 :名無しさん@ベンキー :03/08/14 23:45
中学の朝礼のとき。体育館の冷たい床に体育座りしながら
「ブッ、ブッ、ブッ、・・・・・・。」とずーっと繰り返してる女子がいた。
計ったように一定の高さとリズムだった。
音無しでスカそうとしたのが裏目に出て、そのまま止まらなくなったっぽい。
止めようとすると尻肉調節が乱れて一気に轟音出ちゃいそう的な。だから現状維持しかない的な。まわりに聞こえてないことにして必死に自動操縦モード。
なんか、人生そのもの。
中坊なりに人生を笑っちゃいけないと、こらえるのにこっちも必死でした。
お互い必死って気持ちいいもんですよね。それにしてもあの継続時間からしてすごいガス量でした。
■ 1 動作への視点集中効果~彫刻無彩色原理(生理学)
2 後ろ解禁免罪符機能~オマジナイ原理(宗教学・文化人類学)
3 犯罪促進効果~ガス抜き阻止原理(社会心理学)
4 モノ化のシュールリアリズム~人格否定原理(倫理学)
5 静寂増進効果~幽玄効果(美学)
6 チラリズムの情緒~瞳─鼻穴原理(光学・物理学)
7 罰としてのモザイクはずし~資源活用原理(政治学)
8 ブスの積極的有効利用~審美眼観念化原理(図像学)
9 エントロピー増加1~薄暗闇ではどんな女も美人だ原理(骨相学・統計学)
10 ヤラセ隠し(カメラ隠し)~「この子素人です・ホントに盗撮されてます」原理(経営学)
11 動作の露出狂化~はみだし原理(精神病理学)
12 濡れ衣効果による二重凌辱~「わたしAVに出る人です」原理(法律学)
13 エントロピー増加2~モザイクは排泄物である原理(後述)(カルチャラル・スタディーズ)
14 陰部隠蔽によるブツ強調原理~存在感相対性原理(色彩学)
桑田康介は後におろち文化論の第一人者となってから、少年時の金妙塾における「盗撮ビデオ合評会」傍聴体験をもとに大著『盗撮モザイク論』を出版している。アダルトビデオのモザイクの効用を分類し比較分析したものだが、右の表は、金妙塾での合評会当時における大まかな分類のみ紹介したものである(ちなみに桑田康介はこのすべてのモザイク効果をひっくるめた究極原理をこうまとめている――「自主規制逆手取り~「モザイクがなければもっとすごいんだ。ハァハァ……」原理(別名:可能性依存興奮原理/現実ストックストイック原理)」(論理学))。
このようなテーマセッティング的な着実な学術的分類がなしえたのも、少年時の桑田康介への塾長老・村坂誠司による啓発が大きく影響した旨がしばしば暗示されるが、それと並ぶ入塾当時の対康介インパクトとして、康介が『盗撮モザイク論』のあとがきで素直な感銘を回顧的に吐露しているもう一つの事件を忘れてはならない(後述するようにモザイクとの関係はきわめて間接的なのだが)。こちらは金妙塾の外部の事件であるが、内部でも大きな話題となり、それについての検討が勉強会の大蛇問答恒例の主題となっていた。
事件とはおりしもエロ本出版社、スカトロショップ、エロビデオ会社の玄関に糞が塗りつけられる怪事件が頻発していたいわゆる、ネーミングもセンスなきそのものずばり「糞事件」である。『クイック・ジャパン』vol.18から引用しよう。「少なくともビデオショップ三軒、エロ系出版社八社、ビデオ製作会社二社の計十三ヶ所が被害にあっていた。その多くはつまようじを鍵穴に詰めるという手口。……「ドアノブを中心にベッタリと、生乾きで茶色のものがついていた」(中目黒の某出版社)「ウンコがドアに塗られていた」(V&Rプランニング)「ウンコみたいなものがセコムのセキュリティカードキーのとこに詰められていた」(高田馬場のビデオショップ)「正月に編集部内が荒らされ、ワープロに下痢とオシッコがかけられていた」(上野の某出版社)などウンコ三昧。V&Rなんか、三つの鍵穴のどれにも、ウンコをつまようじで押し込むというコンボ技を繰り出されている」(pp.133─4. 但し表現を部分的に変更した)。
同時期に英和出版でフィルム・写真の大量盗難事件、続いて放火事件(二階全焼)、笠倉出版の放火事件(三・四階全焼)などが発生しているが、雰囲気からして別口である可能性もある。ただし『クイック・ジャパン』同号によると、笠倉出版会議室の「焼け跡にウンコがあったという未確認情報もある」という。金妙塾では、糞事件の犯人像推測がしばらくのあいだ各種議論の隙間のすさび的に行なわれていたが、糞事件を報じたQJの版元である当の太田出版がvol.18発売日の翌深夜、1F入口集合玄関インターホン及びカード挿入口にべったり塗糞されたという記事が出るに至って(『クイック・ジャパン』vol.19,p.116─7.)塾内の推測も俄然本格的演習問題として議論熱を帯びてきた。(「エロ業界によくある原稿料不払いか何かの個人的怨恨だろうか。一度やったら面白くなって次々に違う出版社を狙いだしたというような」「いや、主義主張にもとづく確信犯でしょうね。スカトロなんていう俗悪な似非文化を駆逐しようっていう正義感による、ほら、犯罪予備軍のチーマーどもをあちこちで懲らしめているというあの怪尻ゾロと同じ系列ですよ」「確信犯は確信犯でも、逆だろ。スカトロに興味もないくせに仕事だから、金のため、つなぎのため、義理で、そういったにわか業界人が介入している業界の現状に苛立った真正スカトロジストの犯行だよ」「そうかなあ。スカトロを愛する人はウンコのこんな乱暴な使い方しませんよ。嫌悪派つまりスカトロフォビアの仕業でしょうね」「え? 自ら嫌悪するウンコを武器にするってわけ? それもまた、自虐的というのか自爆テロ的というのか、なんとも屈折した……」「ほんといかなる逆説的なというか、根深い恨みを物語っているだろうかね? あるいはやっぱり逆に、氾濫するスカトロ出版の杜撰な記事・映像に憤ったマニアによる制裁かな?」「ほんと、ただ体に塗りたくればいい、浣腸しまくって撒き散らせばいいって粗雑な映像が多すぎますからなあ」「塗糞はおれも苦手」「大味すぎるよね。っていうより、スカトロの安易なメジャー化に憤るマニアの抗議行動じゃないですか? もっとマイナーな魅力が保たれてほしい、どこでもかしこでもウンコウンコはやめてほしいって」「メジャーナイズフォビアね。作品や記事が杜撰だろうが念入りだろうが駄作だろうが傑作だろうが広く出回って認知されてしまうこと自体が耐えがたいっていう」「というか、衝動を概念化され一般化されることへの苛立ちじゃないかな。ひとくくりに『スカトロ』とかって安易な呼び名でくくられるのが、個的実存的衝迫を矮小化されるような侮辱されるような気がするわけですよ、きっと」「いやいや、単純にスカトロ関連で痛い目にあった人間ってとこじゃないかな。ずっと前にちょっとしたバイト心でやったポーズ、花嫁衣裳着て横坐りウンコしてる巻頭グラビア写真を恋人に見つかって振られた女、とかね」)金妙塾でこの事件についての可能な解釈が出尽くしあまり話題に上らなくなった頃のある昼休み康介は(日曜休日には塾は午前中から討論を続けていた)、塾生四五人でカップきつねうどんをすすっている最中、やはり中学生の時からの六年来の塾生である大学生・佐古寛司から、つまりその意味で佐古寛司は桑田康介の経歴的兄貴にあたるわけで大いに親しみを抱いていたのだが、その佐古から「実は俺が犯人なんだぜ……」という科白をこっそり耳打ちされたのだった。
佐古は「犯人は地元のミスコンで優勝した経験もありながら上京してスカウトの甘言に乗ったが百年目スカトログラフィックやスカトロビデオで脱糞姿を繰り返し露出して二年間で五千万円の貯金をためたものの惚れた編プロ社長に四千九百万円以上貢いだあげくドロンされてしまい恨みのやり場ないまま関連業界に情念ばら撒いている二十代後半の女に違いない」という趣旨の、理路整然たる背理法と帰納法とり混ぜた三段論法仕立ての弁論で塾長村坂誠司から「金妙経済学賞」を授かっていた(副賞は目黒~代々木の優良SMクラブ黄金コース割引回数券だったという)のだったが、真の犯人像は全く違うのだと前置きして、フフフフフ……と打ち明けたのである。康介は始めは真に受けず面白い冗談だと聞き流していたのだが、佐古の子供相手とは思えぬ瞳の真剣な灯火を注視するうち、ああ、そういえば売名目的のニセ犯人が自首した場合や二流人物が冤罪で裁かれようとしている場合や勝手に犯人像を推測された場合や二番煎じの亜流犯罪が続出した場合などに真犯人が苛立って名乗り出た例は犯罪至上稀ではないらしい、という俗説に康介は思い当たったのである。康介も小学校六年のときあて先の机の中に忍ばせた匿名ラブレターを悪友に発見され(匿名にしたのは本番の前哨戦、というより布石のつもりで、二通目で一通目を引用しながら本効果を発揮するという時間差爆弾作戦だったのだ)、差出人は誰だというクラス全体規模の推測が始まってしまってクラス一のお調子者が名指され、しかもそいつが「ばれたか」と認めてしまって大騒ぎになったとき違うぅ、俺だ馬鹿野郎ぉぉと立ち上がったことを思い出した(ちょうどこのころニセ怪尻ゾロの杜撰な犯行に苛立っていた川延雅志の心理も参照せよ。ちなみに金妙塾で話題になっていたのはもっぱらニセ怪尻ゾロの活躍の方だったようである。川延自身は容易に巷の話題になるような場所に相手を放置していなかった)。すでに推敲を五十回も重ね作成中だったラブレター二通目本番を出さぬまま臆病野郎と嘲笑されて肝心の恋も実を結ばなかったのは苦い思い出だ(このようにして概して少年は「長期分割戦略」「逐次投入戦術」が無益であることを学んでゆく)。
まるで運動部の先輩に相談事を持ちかけるようにぼそぼそと丁寧語交えて話す佐古はこのとき、金妙塾の正統の後継者は桑田康介であることを暗に看破していたのかもしれない。佐古はいわゆる「隠れスカトロフォビア」であって、といってもウンコが嫌いというのではなくむしろ男性主導のウンコカルチャーの道具として女性を用いる機構へ反発するフェミニストスカトロフォビアとも自称すべきもので、すなわち生来女好きであるうえ小学校入学直前に母親を亡くしていることや東南アジア各国でファッションモデルとして活躍している十二歳年上の姉からしばらく多額の仕送りを受けていたなどの事情に作用されたか女一般を神聖視しており、若い女性殺される、といった新聞記事やテレビニュースなどを見た日には、ということはほとんど毎日だが、おろおろと何も手につかない途方の暮れ方に一日中佇んでいたりするのであって、学食で週刊誌をめくりながら殺人事件被害者女性の顔写真が美貌なのを見て「ああ、もったいねえ」と冗談めかして呟いた級友をぶん殴ったこともあるのだった。かくも恋愛対象かつ崇拝対象たる聖なる女性をスカトロ人形へ貶めて描く、そして現実にそう仕向けかねない影響をもちうる図像映像出版物の安易な氾濫に佐古が密かに苛立ちまくっていなかったはずがない。「英和と笠倉の放火も俺だぜ。ざまあみろだ。馬鹿どもの命に関わらない深夜にしか決行できなかったわが臆病さが悔やまれるけどな!」と聞き手の桑田康介をあたかも敵視するごとく詰め寄って吐き捨てたほどに本物の苛立ちである。
表面上はスカトロマニアや元業界人や芸術家たちと塾で波動を合わせながら、歴代のスカトロフォビア塾長の方に感情移入していた佐古なのだという。康介は、このフェミニストスカトロフォビアという、討論中女性塾生の口からも聞かれなかった新たな真相に感動した。さらに感動したのは、体重百十五キロのブルドッグ顔した佐古寛司の心にかくもひそやかな女性一般への愛が育まれているということ、いやそれよりなによりこの手の甲に剛毛生やした佐古寛司の巨大なさだめし毛深かろう堅尻の割れ目からもりもりと茶色い大便が噴射される迫力もさぞ絶景ながらそれをこの分厚い掌ですくって鍵穴やノブになすりつけるその表情、現場の光景を想像すると康介はつい勃起するほどだった(拳骨振り立てた殴り込みが似合う体格御面相なのに……。ウンコ攻撃などという女の子でもできる陰湿軟弱なテロ方法をあえて……。女性崇拝とはそういうことなのか? ここに康介は初めて人生的アイロニーを体感することになる)。康介は感動のあまりいつまでも萎えようとしないペニスをズボン越しに見下ろして、自分も亡兄のホモセクシュアリティを受け継いでいるのかと訝しみながら、そういえば兄貴は「ホモフォビア」を自称していたっけ、佐古の「スカトロフォビア」の理屈と波長が合ったんじゃなかろうかと、今さらながら佐古寛司が亡兄桑田倫明と同年齢であることを思うのだった。【康介の日記、倫明の遺書を参照せよ。桑田倫明の遺書にはホモフォビア=ノンケ趣味が分類されていた。ホモ雑誌のパートナー求む欄に「ホモっぽい人はダメです」「オネエっぽくない人募集」などと書いてあるあの心理こそノンケ趣味である(『Hの革命』太田出版)が、倫明末期の悟りによればそこには幾種類ものパターンがあり、ノンケ趣味同士の愛はそのすれ違いを同化と見誤ることから破局に至るのだという。すなわち、①調教趣味。愛するパートナーを徐々に真のホモサピエンスへと心で体でいざなってゆく愉しみ。②エクセントリック趣味。異様な目で見られたい・驚かれたい本能。勉強でも運動でも性格でも人に秀でることの出来なかった凡庸人の、唯一並外れた素因なのだから。③マゾ趣味。自分の変態性を恥じたい、蔑まれたい、誹られたい、嘲られたい、侮られたい、疎まれたい、詰られたい。④素朴な適応同化趣味。無理解な外部に迎合し合わせうまくやってゆける自覚を得る快感。⑤屈折したカミングアウト趣味。社会との拭えぬ摩擦と摩擦回避とのバランスを確信犯的に楽しむ快感】
桑田康介が秘密めかしたこの佐古告白をそのまま信じてしまったところに、後年康介がおろち文化をリードしうるポジションを常時占めていながらついぞリードできなかった限界がすでに仄見えている。すなわち、佐古の本当の犯行動機は別のところにあったことが今日の研究では明らかにされているのである。すでに引用したとおり、公共排便に関して佐古寛司が極度に潔癖な信念を抱いていたことを想起されたい。あれは佐古の大学一、二年の頃の回顧であるが、彼が対出版社ウンコゲリラに走ったのは、排便音&顔晒し男を殴りつづける中で右拳を骨折し、かの活動を一時中断せねばならなくなったからだった。六年以上も金妙塾に属していながらなぜ気づかなかったかというほどの真実に思い当たったのである、すなわち、「公共排便どころではない撮影排便、出版排便とも言うべき高レベルの羞恥スカトログラフィックorビデオ文化に、なぜ女ばかりが堂々と尻粘膜および腸内容を目線なし顔面ごと晒しつづけているのか」という謎である。これを見過ごしていた自分に遅まきながら唖然とした佐古だったのである。公共トイレで他人に慎みなき音と臭いと顔を晒す振舞いが男子トイレだけでなく女子トイレでも通用しているものかどうか佐古は知らなかったが(彼は金妙塾生でありながら女子トイレ侵入の経験はなかったし、盗撮ビデオ合評会も彼自身が一作品も通覧していない現状ではあまり参考にならなかった)、スカトロ文化における羞恥超越的な担い手が女性であることは一目瞭然だった。そもそも男の排便図は、まれに女が男の大便をジカ食いするというマニア投稿写真欄掲載の幾葉かを除いては三和出版や東京三世社の最もディープな専門誌にも現われてこず、その例外的マニア投稿写真にも排便男の目線入り顔はおろか上半身が映っているものすら皆無といってよかった。すなわち、広い意味での公共排便魂において、男は女に遥かに遅れをとっているのである。
骨折休暇の間にこのことに思いをめぐらした佐古寛司は、この混乱を、つまり男を遥かに凌ぐ女の公共排便レベルに言い知れぬ怖れを覚え、公共排便男成敗の活動ができなくなった鬱憤のガス抜きというか代替行為として、女性排便文化の牙城である代表的出版者をターゲットにしたウンコゲリラに走らざるをえなくなったのである。これは、女を前面に立てなければ自らの公共排便欲を満たせない男の自己欺瞞に対する佐古の怒りと解釈すれば、桑田康介に語られたとおりのスカトロフォビア・フェミニズムの一様態と見なせもしようが、一方、女の公共排便レベルに対する脅威の念のやむなき表現と解するならば、康介の理解とは正反対、すなわちアンチ・フェミニズム的な無主義衝動活動と見なさねばならないことになる。いずれにしても、この複雑な佐古寛司の心理機構には立ち入らずに、以下は佐古が康介に語ったとおりの、単純なスカトロフォビアであったという前提のもとに佐古の活動根拠を便宜的に規定しておくことにしよう。
ここではたと康介は思い当たる。自分のスカトロ落書きに対する担任の今泉さつき先生や同級の小柴やよい(小六のときのラブレターの宛先だ)の無理解に対する己れの恍惚にはたと思い当たったのだ。夏休み前の夕方、鮮渋堂から出てきたところでたまたま通りを歩いていた今泉先生に正面から出くわしてしまい、目が合って互いに絶句したことがある。康介としてはこのような本屋に出入りしている後ろめたさよりも知った人にましてや教師に見つかるなどという事態をこれっぽっちも想定していなかった自分の無防備さに一瞬唖然としたのであり、今泉さつきとしては、こんなところから生徒が出てくるとはこれっぽっちも予期していなかったと同時に、確かに鮮渋堂は近所で一目置かれた要注意エロ本専門店とはいえ普通の文庫本や雑誌なども少しは置いた古書店である(入ってみたことはないので確信はないが)らしいということから、ハッキリ咎めたり叱ったりする理由なりタイミングなり間合いなりを掴むことができず、「はあ?」とまるで目上の人間に礼を失した瞬間のような戸惑い顕わに立ち止まってしまったのである。百六十九センチの長身を硬くそらした今泉さつきは二十センチ以上差のある生徒を見下ろしながらどうやって戸惑ったらよいのか戸惑いながら、曖昧な笑みを交換しつづけることしかできなかったのである。四十前のベテラン域に入りかけた独身女性教師のこの多重当惑の表情こそが、桑田康介的に新たな原体験となったことは間違いない。この出会い頭翌日に入会した金妙塾の感化は押し隠していたのだが、ついポロリと、提出物の余白やテストの答案の裏や教科書の隅などに、男女の脱糞図を無意識に描いてしまうことがあり、それを目にした今泉さつきによる軽い叱責や顰蹙に遭うたび、そして斜め後ろに座席を占める小柴やよいの目にもしばしば触れたときの大仰な忌避反応に遭うたび、うず、うずうずと陶酔感が胸に満ちるのを感じていたのである。それが何なのかはわからぬまま、ランダムな小法悦が襲いくるまま身を任せる康介なのだったが、佐古寛司のスカトロフォビア談に触発されて兄倫明のホモフォビアを想い返すことにより、そうだったのか! 常識に過剰適応した成人女性の通り一遍の無理解こそが我が快感だったのだ、と気づいたのである。相手が眉をひそめるたびに、常識座標の中でのスカトロ魂の非常識度が確認され、自分の中の畏怖すべき特殊性が誇らしく自覚されることとなる一種ハイパースカトロフォビアというべき心理である。成人後も百五十五センチに届かなかった身長コンプレクスを補償するため終生精神的マッチョの衣を随時はためかす必要に追われつづけた桑田康介にとって、最大最初の枢軸的支柱がこの自己参照的ハイパースカトロフォビア、すなわち佐古寛司、桑田倫明を触媒とし今泉さつき、小柴やよいをパラメーターとする自己畏怖への覚醒体験であった。
康介はその後しばらく佐古寛司から糞事件経過の詳細を興味深く聞き続けたが、ひとこと「糞占い」で「糞捜査」することってできないかなあ、できちゃったらどうする? 髪一本からだって血液型がわかるわけでしょと感想を洩らしたのがきっかけで、ひとしきり二人で糞占い捜査の可能性を真面目に論じあったのだった(「糞占い」とは、排泄物の形状組織から排泄主の生年月日や性格、生い立ち、家族構成、今後の運命まで言い当てるという、金妙塾新活動の候補であったが、塾生同士で当てあいしても確率的意味が薄いこと、不特定多数を対象とするには実行法と正解検証法が定かでないことを理由に却下された)。
おろち元年以降、桑田康介は糞事件の回顧と分析(「あれが生ゴミだったら?」「セメントだったら?」「ゲロだったら?」三部作)を含む一連のおろち学論文を発表して一時おろち学会で注目されかけたが、続く「コンドームウンコ爆弾」は「怒りと笑いを同時に喚起しうる特殊な媒体」として黄金の武闘的価値を測定した野心作であったにもかかわらず蔦崎・印南事件(後述)以降明らかなおろち文化の国家主義的傾斜に逆説的に荷担しているとして学界で批判された。多くのおろち関連文化論的論文を発表した桑田康介が、市報コラムで自らのおろち研究を振り返り自らの最高の研究として「出し主の年齢・性別・人格に関するウンコの情報価値」(指紋や髪の毛に比べいかに多量多彩な情報が含まれているはずであるか!)ならびにスカトロビデオとゲロビデオの人格的叙情の比較についての論文を挙げているが、どちらも現存していない。
「糞占い」「糞捜査」とモザイクとの論理関係について桑田康介著『盗撮モザイク論』は次のように述べている。
大便とモザイクの類縁関係は明らかである。ともに、主体諸人物の個性を平準化・一様化・規格化するベクトルの象徴なのだ。美女も醜女も老人も青年も、その本体の個別的個性の分布に比して大便の個性の分布の極小なるがごとく、麗器も凡器も美顔も豚顔も岩石顔もモザイクに覆われれば大差がなくなる。情報量の削減によりオリジナル的大差を産物的微差へ還元する装置が、消化器であり、モザイクである。すなわちビデオアートの万全の芸術表現を阻んだモザイクは、アーチストないしは被写体の「個性」という虚構の虚構性を暴き平準線へと相対化することにより、おろち文化の尖兵となったのである。モザイクはおろちの観念的亜種なのだ。美貌の主が有象無象に比べて健康な消化管を備えているわけでは必ずしもない。モザイクも大便も騒々しい個性主張を高エントロピー・高ノイズの情報削減装置としてテクノロジー・イデオロギーのバランスを司る。いわばモザイクは、体外の消化器であり、世界外から付与された身体個性のウンコ化装置なのである。
これを君主制から大衆社会・規格社会へというお定まり的趨勢の一端と位置づける必要はないにせよ、平準化平均化へ向かう高エントロピー・高ノイズ情報削減状態は、セックス─生殖から帰結する生命育成のエントロピー逓減志向の対極にあり、アートと生命を一時否定する戦略的エポケーにして、最もオーソドックスな瞑想状態に通ずる〈癒し〉文化のエッセンスとして認められうることは確かだ。(pp.214-5)
なお桑田康介の金妙塾デビュー時、彼の知らないモザイク関連重大事実がひそかに進行していた。
次のような事実である。出版社・ビデオ会社対象の「糞事件」の犯人は、佐古寛司以外にもう一人実在したのだ。佐古寛司とそのもう一人の犯人は、互いにその存在を知らぬまま独立に、同時期に同地域において同じ活動を展開していたのであった。おろち文化の持つシンクロナイズ性を先駆的に表わした同時多発事件だったといえよう。
その犯人は主にビデオ小売店にクソゲリラを仕掛けていた。犯人は女性である。佐古のやり方とは異なり現場で勢い脱糞するのではなくて、予め自宅でポリ袋に封入してきたブツを真夜中に店のシャッターの隙間等にぶちまけておく、というやり方が女性らしい慎重さだった。女性の名は橘菜緒海という。この名は後におろち文化史上最重要キャラクターの一人として頻出するようになるので予めご記憶いただきたいのだが、彼女が糞ゲリラに走るに至った屈折した経緯は次の通りである。女子短大の仏文科で留年・休学を重ねつつ二年生に在籍していた橘菜緒海は、三歳年下の級友の彼氏が主催しているという映像学の研究サークルに何気なく付き合いで出席してみたところ、そこで上映されたビデオの中に「試着室盗撮」「脱衣所盗撮」が混じっていたのである。
それを観て橘菜緒海は愕然とする。
(第20回 了)
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■ 三浦俊彦さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■