完全に自信がなくなった。年齢のわりに読書家だと思うし、読んだものに対して、それをちゃんと位置づけられる、となんとなく自分で思い込んでいた。どんなものでも。
で、papyrus を振られた。別にフツーの雑誌じゃん、と思ったし。作品については、もちろん別にフツーだった。連載ものが多くて、とりあえず新連載を中心に読んだが。なんで連載中心なんだろうと、ちらっと疑問に思いはした。どういう読者層をターゲットにしているのか、今ひとつ見えなくはある。が、そんなのは昨今の文芸誌、別にフツーのことだ。
なんか変だ、と感じたのは、自分の手の動きだ。僕には妙な癖があって、文芸誌や文芸書、思想書みたいなものをめくるときには、ページの端を持ってスタンバイする右手が上から下までツーッと移動する。視線が左ページの言葉を追いながら、そうやってリズムを作ってゆく。で、えいっとめくる。
他の本や雑誌のページをめくるときには、そんなことはない。チャッチャとめくるし、パラパラいく。つまり「文学」に対しては、やっぱりある心構えとか、気合いみたいなものがあるのだ。それが特有のリズムを作る。
で。papyrus である。なんか調子が狂うのである。どこでか、というと写真である。文芸誌の巻頭にグラビアが、それも文学的雰囲気か、カルチャー的アトモスフィアに満ちたものがあるならわかる。まったく内容と無関係ならば、それも全体として文学テキストを含んだ現代アートの試みというか、一種の都市型マガジンなんだろう、と納得できる。
が、人の顔。ときにドアップ。芸能人と著者の区別なく。冊子の半ばで、あるいはどこにでも。その瞬間、僕の右手はリズムを失い、そうかといって小説を読んでいる手前、もはやチャッチャ、パラパラとめくるわけにもいかない。つまりこの瞬間、僕の脳みその中で価値の転倒とか、気分の動転とか、何かの飛躍とかがいっぺんに起きた気がする。
芸能人にとって、顔は商品である。papyrus では著者の顔も同じに扱われる。また芸能人のエッセイが、文学作品の隣りにごくフツーに並ぶ。どちらもテキストには違いないんだけど。
これらの区別をなくしているのは、それらを「商品」=金に換算したときの価値の均一性に依っているのではないか。と、ややマルクス的言説が脳裏をよぎり、生物本能的に混乱に歯止めをかけようとした。が、決定的なことは、その後に起こった。
「特別対談 島本理生・西加奈子」というのをフツーに読んでしまったのだ。実際、他の作品や記事とフツーに並んでいる。が、何か変だ。いまいち意図がわからないとか、ポイントが絞れないとか、そんな対談はいくらでもあるものの。
これ、広告なんだ、と気づいたのは、ウカツにもだいぶ後になってから。ページの左端にギガルワインの瓶の写真が並んでいる。対談の内容を補足する感じの、ごくさりげない感じで。 男の料理雑誌danchuなどで見られるタイアップ広告と同じだけど、さりげなさに手が込んでいる。ワインの瓶の下には六本木のレストランが示され、それとのタイアップでもあるのか、区別がつきにくい。文学行為と紛らわしい広告に荷担する、この二人の女性作家たちは、どういうつもりなんだろう。彼女らの言葉の意味ではなく、価値にずれ、転倒が忍び込んでいるわけだ。それを悪い、という価値観そのものに疑義と混乱がもたらされている、ってことかなあ。これこそ文学行為や思想の実験だ、と言われればそうかもしれないんだけどさ。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■