巻頭のグラビアは、イラストレーター依光隆の追悼である。イラストというのは、特にSF といったジャンルにとって、かなり重要な要素なのではないか。付加的にリアリティを与えるという意味もあろうし、いやそれよりも「同じものを見ている」人々がいる、という感覚が大事なのだろうと思える。
SF というジャンルは、ファンタジーなどと同様に荒唐無稽になるリスクを抱えている。寄りかかれる共通の社会問題とか風俗とかがないのだから、そこでリアリティのある世界を提示するというのは、かなりの力量が必要となる。絵によってイメージを与えるというのは、それへの加勢でもあるし、その絵に視線をおくる者たちをその世界の「住人」として措定する、ということでもある、ということだ。
イメージによる加勢が最大となるケースが、いわゆる映画化というものかもしれない。しかしそうなると、それは加勢どころでなく、巨大予算の SF 映画製作の口実として原作が使われているに過ぎないということが多い。映画監督というのは、何よりまず絵を見せたい人種なのだ。
依光隆はいかにも西洋的な劇画タッチのイラストレーターであったが、とりわけ少年たちが夢中になるような SF 世界を日本に根付かせる上で、多大な貢献があったと思う。より抒情的であったり、文学的であったりという SF の可能性はあるけれど、血湧き肉躍った少年の日、というのが基盤となるべきだろう。
より文学的な SF といえば、「『ベストSF2012』上位作家競作」に円城 塔が「コルタサル・パス」を寄せている。
純文学の行き詰まりは、すでにかなりのところへ来ているが、「物語」を放棄するような「前衛」がその打破をなし遂げる可能性はゼロに等しい。なぜなら、そんな簡単なことは、ほとんど文化発生の瞬間から織り込まれていて、「物語を放棄した」ジャンルは詩、その「前衛」を強調するものとして現代詩と呼ばれるジャンルが、これは純文学に先んじて行き詰まっている。
安部公房や大江健三郎など、SF 的なるものにアプローチした作家は多く、それはしかし SF の「血湧き肉躍った少年の日」でなく、前提となる風俗と社会問題を拭い去った実験性をもって純文学性とした、もしくは読者の方がそう読んだ、あるいはそのような視線を持つ者たちの世界 = 文壇の見方を措定した、ということだった。
ならば、ここで SF が物語を手放しているか、手放そうとしているか、ということをまず眺めてみるのがいいと思う。
あらゆる既成のシステムと無縁に、世界を原理的に捉え直して再構築しようとするなら、「物語を手放す」という一見ラディカルに見えながら、実際には手垢にまみれた古臭いポーズをとることを潔しとはするまい。なぜなら「物語」とは世界を構築するためのツールであって、それ自体を攻撃することに価値を見出すこともまた、古めかしい「物語」に回収されているに過ぎないからだ。
円城 塔の「コルタサル・パス」は、佳作である。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■