ルーマニアの詩について語る際、ミハイ・エミネスクが「国民的詩人」としてすべてのルーマニア人の心に深く根付いている存在ならば、その次に人気を博しているのはルチアン・ブラガ。エミネスクの詩は、ルーマニア人なら誰もが学校で学び、一編や二編は暗唱できるほど親しまれている。ブラガの詩は、詩や哲学にある程度の関心を持つ人であれば、誰もが高く評価するものである。
この二人の詩人は生きた時代も異なり、二〇世紀前半に活躍したブラガ(一八九五―一九六一)の方が、現代のルーマニア人の思想に近いと言える。言葉遣いも現代のルーマニア語とほとんど変わらず、代表作『私は世界の奇跡の花冠を壊さない』などは、百年も前に書かれたとは思えないほど生き生きと響く。
ルチアン・ブラガは一八九五年五月九日、トランシルヴァニアのランクラムという村に生まれた。父は正教会の司祭であり、母もまた代々司祭を輩出する家系の出身であった。当時のトランシルヴァニアは現在のようなルーマニア領ではなく、オーストリア=ハンガリー帝国の統治下にあった。ブラガ家はその地の少数民族であるルーマニア人であった。当時の基礎教育はドイツ語かマジャール語(ハンガリー語)でしか受けられない中、彼はドイツ語の学校に通った。その後、ブラショフにある正教系の教育機関で中等・高等教育を受けた。

ブラショフ市の風景
面白いことに、ブラガは四歳まで一言も言葉を発さなかったと、自伝の中で回想している。「白鳥のように無口」な息子を両親は心配していたが、ある日突然、言葉があふれ出すように溢れてきたという。この「言葉を持たなかった」時期は、彼の作品に少なからぬ影響を与えている。それは詩における独特なリズムの形成から、主要なモチーフとしての「沈黙」の現れに至るまで、随所に見て取ることができる。
ブラガが大学へ進学する年だった一九一四年、第一次世界大戦が勃発した。彼はオーストリア=ハンガリー帝国軍への徴兵を回避するため、神学部へと進んだ。その後、一九一六年にウィーン大学に入学して哲学と生物学を専攻し、一九二〇年に卒業している。
彼がウィーンで学生生活を送っていた間に、一九一八年、故郷トランシルヴァニアはルーマニア領となった。これは第一次世界大戦の結果によるもので、現在でも十二月一日は「国民統一記念日」として祝われている。
それまで少数民族として生きてきたトランシルヴァニアのルーマニア人にとって、この変化は極めて大きなものだった。ルーマニア語で教育を受けられるという基礎的な権利から、自らをルーマニア人であると公然と表明できることに至るまで、彼らを取り巻く生活環境は一変したのである。

トランシルヴァニアの村の教会
一九一九年に刊行されたブラガの初詩集『光の詩』は、シビウとブカレストの両地で同年のうちに出版された。この詩集に収められた作品から溢れ出すエネルギーは、単に詩人自身の若さゆえというだけでなく、当時のトランシルヴァニアに生きるルーマニア人たちが等しく感じていた「解放の喜び」をも鮮明に伝えている。
躍りたい!
ああ、躍りたい! 未だかつてないほど激しく!
私の中で神が
囚われ、手錠をかけられた奴隷のように
気持ちにならないように。
大地よ、翼をくれ!
私は矢になりたい。無限の深淵を
突き抜け、
周囲にただ空しか見えぬほどに。
上にも空、
下にも空、
光の波に包まれ、燃え上がりながら
私は躍りたい!
未曾有の雷光に貫かれ、
私の中で神が
自由に呼吸できるように。
「自分は囚われの奴隷だ」と
嘆くことのないように!
(一九一九年に刊行された『光の詩』より)
大学卒業後、詩や戯曲の発表を続けながら、トランシルヴァニアを拠点とするルーマニア語の文化雑誌の編集に携わった。一九二六年からは外交官として、ポーランド、チェコスロバキア、ポルトガル、スイス、オーストリアの各ルーマニア大使館に勤務。その傍らで、詩集や哲学書を精力的に出版し続けた。
一九三六年にルーマニア学士院の会員に選出され、外務省などの政府機関に一時職を置いた後、一九三八年からはトランシルヴァニア最大の都市クルージュ=ナポカにある「フェルディナンドⅠ世大学」(現在のバベシュ・ボヨイ大学)で文化哲学の教授に就任した。

クルージュ=ナポカの正教大聖堂
フェルディナンドⅠ世大学は、一九一九年からルーマニア王室の庇護下にあった大学である。ルーマニア王室は、もともとドイツのホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家の出身であった。一八六六年、ルーマニア政府が欧州諸国との連携強化を図り、同家のカロルⅠ世を君主として迎えて以来の家系である。ブラガ自身も幼少期からドイツ語で教育を受け、ウィーン大学に学んだ経験もあり、ドイツ哲学から多大な影響を受けていた。

ルーマニア王族のペレシュ城
第二次世界大戦後、ルーマニアがソビエト連邦の影響下に入ると、王室を含む旧体制は崩壊した。社会主義・共産主義政権の権力が強まるなか、それまでドイツ語圏と深い関わりを持っていた知識人たちには、受難の時代が始まった。
ブラガも例外ではなく、一九四八年にルーマニア学士院から追放され、大学での教授職も失った。図書館に勤務し、自身の詩や哲学論を発表することができないなか、彼はゲーテの『ファウスト』などの翻訳活動に専念した。
世の中の価値観が根底から覆されたこの時代、詩人は再び言葉を失った。一九四三年以降に書かれた詩は驚くほど少なく、数少ない晩年の作品群には、生命力を削ぎ落としたような、木枯らしが吹き抜ける無人の伽藍のような寂寥感が漂っている。
ブラガは一九六一年五月六日に脊髄腫瘍のため亡くなり、六十六歳の誕生日を迎えるはずだった九日に埋葬された。
苦悩への賛歌
多くの人はあまりにも知らない
朝、この苦しみとともに何を始めるべきかを。
彼らは夕べになっても気づかぬままだ
この歩みが、認識を深めるための好機であったことに。
苦しみは闇であり、心に宿る炭であり、
ひたいに降りた青い霜でもある。
それは腰に押された烙印であり、
土の塊にとっては
涙、あるいは天の種子にもなり得るもの。
苦しみの中に足を踏み入れた者は
もはや地上には触れていない。
それは粘土を変容させるのだ――精神へと、
その手で優しく触れられるほどの精神へと。
天にまします父よ、
どうかこの世界から苦しみを追い払わないでください。
我らからそれを奪い、魂を貧しくさせないでください。
ただ、すべてを粉々に打ち砕く苦しみだけを退け、
精神を強くする苦しみは残したまえ。
我らと同じ命あるものすべて、
人間から蜂にいたるまで、
勝者から敗者、
称賛された者から十字架にかけられた者まで、
皆が悟ることができますように。
どこにでも、このような苦しみがあることを。
これまでも、そしてこれからも、
それが、我らとあなたを結ぶ唯一の絆であることを。
(一九五七年~一九五九年の詩集『ユニコーンが何を聞いているか』より)
ルーマニアでは、彼の晩年の活動よりも、一九二〇年代から三〇年代にかけて発表された詩集や哲学著作が重視されている。『光の詩』(一九一九年)や『預言者の足跡』(一九二一年)に収められた詩の主なテーマは、宇宙の神秘に触れる知、信仰の根底にある神話、恋愛、そして生そのものである。
ブラガの哲学は一種の認識論であり、理性的・客観的な知識とは対照的な、彼が「ルシファー的認識」と呼ぶ直観的な世界把握を提唱した。それはつまり、宇宙の「神秘」を暴くのではなく、あえて神秘を深めることでその核心に触れるような創造行為の探求。
彼の詩はこの哲学の延長線上に成立している。そのため、正教的な世界観が漂う詩の中にも、敬虔な信徒には思いもよらないような疑念や独自の思想が織り込まれている。
天国の光
太陽に向かって笑ってやる!
僕の心は頭になど従わないし、
脳が心を支配することもない。
僕は、この世界に酔いしれた異教徒だ!
だが、悪という名の熱がなければ、
僕の畑に楽しさなんて実ることができただろうか?
そして聖女よ、もし君が
罪という快楽に身を焦がさなかったなら、
その唇にこれほどまでの魔力は咲いただろうか?
僕は異端者のように、ひとり想う。
天国のあの光は――
いったい、どこから来ているのか?
そうか、分かった。
あれは地獄の炎に、
照らし出されているのだ!
(一九一九年に刊行された『光の詩』より)
司祭の家に生まれたからといって、ブラガは既存の信仰をそのまま鵜呑みにすることはなかった。彼は哲学的な視点を堅持し、文化史をも視野に入れながら、ルーマニアの信仰世界の奥底に潜む神話や迷信を鮮やかに描き出している。
精神の世界が一面的ではなく、いかに多様で、どれほど多くの層が重なり合っているかを示すことこそが、ブラガの詩の神髄だと言える。
また、「永遠は村落で生まれた」という格言的な詩の一句も、多くのルーマニア人の心に深く響いている。
村の魂
子どもよ、私の膝に手を置いてごらん。
永遠は村で生まれたのだと思う。
ここでは、あらゆる思考がより穏やかで、
鼓動が激しく波打つこともない。
まるで胸の中で脈打っているのではなく、
大地の奥底で打っているかのようだ。
ここは、救済への渇望が癒える場所。
もし足から血が流れているのなら、
土の縁側に腰を下ろせばいい。
見てごらん、夕暮れだ。
村の魂が、私たちの周りをひらひらと漂っている。
刈りたての草のかすかな香りのように、
藁ぶき屋根から立ちのぼって下る煙のように、
高台の墓の上で跳ねまわる子ヤギのように。
(『偉大なる逝去』一九二四年より)
何世紀にもわたって権力や国境が目まぐるしく変遷してきた中で、ルーマニア語を核とする生活様式、伝統的な生業、世界観、そして歌や詩は、それほど変わることなく受け継がれてきた。この事実に着目し、ルーマニアの民族性の本質を「村落」という生活共同体に見出した点も、ブラガの思想の大きな特徴である。
詩を通じて精神の根源を探るその思索こそが、現代のルーマニア人がブラガの作品を手に取る動機となっている。彼の詩の世界が持つ「一貫性」は、現代には見られない稀有な特徴であり、世界に一本の筋が通っていた時代――すなわち、第一次世界大戦が終結し、トランシルヴァニアの悲願であった統一が果たされて「大ルーマニア」が誕生した一九二〇年代から三〇年代という時代の産物である。

木造教会 トランシルヴァニア
一九四五年以降の社会主義体制下で、ルーマニアの精神性は一種の分断を経験し、それは当時の詩作にも色濃く反映された。一九九〇年代の混迷と回復を伴う過渡期、そしてEU加盟後の変容を経て、人々の精神性は刻々と変わり続けている。こうした変遷の中で、一貫した世界観を「黄金時代」のように懐かしむ時、多くの人は「光の詩人」としてのイメージを持っているブラガの詩集へと手を伸ばすのだ。
ラモーナ・ツァラヌ
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