妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
「おお、わざわざ悪かったね。あの、向こうに席取ってあるから。……じゃあ、ちょっと行ってくる」
ヤジマーには動揺する素振りがなかった、ということは普段から彼女は声量が大きいか、単にあいつが気圧されていたか、どちらかだ。
「いつも主人がお世話になっています」
ニセ夫人のコケモモが立ち上がって頭を下げると、元不倫相手の彼女も無言のまま頭を下げる。その様子を見上げるニセ娘・永子の小さな手は、コケモモのスカートをしっかり掴んでいた。名演技、と褒めたいところだが違う。あれはきっと本当に怖いだけだ。親の都合で過度なストレスをかけてしまった。ギャラはたっぷり弾まないとな。
席を移るヤジマーと元不倫相手の後ろ姿を見ながら、俺も向かいの席に移動した。不測の事態を予想するまでもなく、二人の姿は見えている方がいい。立派なシートのせいで永子の姿は隠れているし、コケモモもかろうじて顔が見えるだけ。しかも声はほとんど聞こえないが、それでも俺が座る場所はここがベストだろう。ヤジマーたちの様子なら遠いながらもよく見える。もし向こうで不穏な動きがあったら、二人を連れて真後ろのフロントに助けを求めればいい――。
ひと通りの確認を終えたので、カップを引き寄せて高級なコーヒーに口をつけた。一口目と味の印象は変わらないが、熱さもまた同じような気がする。もしかしたら熱気が逃げづらい器なのかもしれない。
数分経ってもこの席から見える景色に変化はなかった。永子に何か語りかけ、返ってきた言葉に大きく反応するコケモモの横顔と、定期的に周囲を見渡し、前屈み気味に何やら語りかけているヤジマー。最も注意しなければいけない元不倫相手の背中は、まっすぐ伸びたまま微動だにしない。この調子ならニセ家族は必要なかったようにも思えるが、まあそういうことではないのだろう。

こんな状況で手持ち無沙汰というのも変な話だが、実際そうなのだから仕方ない。俺はコケモモの横顔を眺めながら、あいつのインスタを密かに覗いた。頻繁に更新している訳ではないらしく、いつか駅のホームで見た時と同じく、すぐにサングラスをかけた男の子と頬を寄せ合うコケモモの笑顔が出てきた。じっと見つめても何も分からない。男の子はサングラスだし、そもそも俺は強の顔を知らない。今日どこかでドサクサに紛れて真実を教えてもらえるだろうか? 多分無理だな、と思ったタイミングで電話が来た。スマホが震える。リッちゃんだ。頭をよぎったのは母親の顔。あの人、旅先ではしゃぎ過ぎて具合が悪くなったのかも。店には悪いが周囲もうるさいんだから、と迷わず電話に出る。一瞬、コケモモと目が合った。
「ごめんなさい、電話して。今、いい?」
軽く背筋を伸ばしながら促す。用件は「晩御飯は肉料理と魚料理、どっちを選ぶ?」。確かに入室する際、宿側からそんな話があった。よりによって今かよ、とツッコんで笑いたいがそれは叶わない。こういう誰も悪くないチグハグなやり取り、コケモモは好きそうだけどもちろん伝えることも叶わない。永子が食べる子ども用の食事は一種類しかないと告げた後、マキからの伝言があるとリッちゃんは言った。
「商売繁盛のお札を、えっとフシミイナリ? で、買ってきてほしいって」
せっかくだからな、と思いながらコケモモの横顔を見るのは変な感じだ。あいつと一緒にいた頃の俺にとって、商売繁盛のお札なんて鼻で笑い飛ばす対象ですらなかった。それが今や「せっかくだから」なんて満更でもない感じで……。またコケモモと目が合う。不思議だった。軽く笑いかけるつもりだったのに、慌てて真面目な顔を作ってしまった。
空になったコーヒーカップの把手に人差し指を入れ、いつの間にか忍び寄っていた睡魔と戦い始めて数分。仕方なく高級コーヒーのおかわりを頼もうとした瞬間、その時は来た。
それまで動かなかった元不倫相手が立ち上がり、俺は咄嗟に身構える。途端に睡魔は消え去った。もしこっちへ来るなら永子とコケモモを連れてフロントへ退避。そう頭の中でシミュレーションしたが、彼女は振り返ることなく大股でホテルを出て行ってしまった。残されたヤジマーはおしぼりで顔を拭いた後、片手を挙げて店員を呼んで何やら話している。どうやら嵐は去ったらしい。その後しばらくは座ったままスマホをいじっていたが、ヤツはフラフラとこっちへ戻ってきた。
「おお、大丈夫か?」
「……うん、まあ、何とか終わったかな……」
見ればシャツの首元辺りが広範囲に濡れている。これか、とコーヒーカップの中身をかけるジェスチャーをすると「まあな」と力なく頷き、俺の向かいの席に座った。
「いやあ、びっくりした。思ったより熱くてさ、ヤケドするかと思ったよ」
それはそうだろう。お前は知らないだろうけど、この店のカップは熱気が逃げにくいんだ。
「まあ、でも、ギリギリセーフかな」
「何が?」
「ミルクだったんだよ、コーヒーじゃなくて」
「?」
「ほら、コーヒーだと色がついちゃうだろ?」
俺の不可解な表情を気にせず「あいつにはさ、そういう優しいところが……」と続けるヤジマーを見ながら、こいつは必ず同じことを繰り返すと思った。まあ、その時はまた家族総出で駆け付けてやろう。次はマキも連れてこないとな。
よし帰るか、と延々続きそうなヤジマーの話を強引に終わらせて立ち上がる。「ごめんごめん、お待たせ」と声を掛けようとした俺が見たのは、仲良くもたれ合いながら寝ている永子とコケモモの姿だった。
四人でホテルを出て駅まで戻ってきた。永子はコケモモにしっかり懐いて、手をつないでもらっている。予想以上に早く済んだので、まだ京都タワーに灯りは点いていない。そして招集したヤジマーは特急の時間があるからと、挨拶もそこそこに奈良へ帰っていった。
「まあ三十分に一本だからねえ」
そう呟いたコケモモは「さて、よっこいしょ」と永子を抱き上げた。
「おばちゃん、今日は永子ちゃんに会えて、とても嬉しかったよ。ありがとね」
「うん。わたしもうれしい」
「まだタワーに灯り、点いてないねえ。でもまた今度、見に来てね」

二人の後ろ姿越しに見る京都タワーは、今でも十分美しかった。今日こうして会ったから、これからはコケモモに連絡をしやすくなったはずだけど、何となくもう二度と会えないような気がしている。いや、「二度と」は大袈裟かな、と気持ちが鈍った俺に強めの風が吹きつけた。
「もう、おうちにかえるの?」
「うん、今日はね、これからデートなんだ」
「デート? いいなあ」
いいのかよ、と密かにツッコみつつタワーを見ながら耳を傾ける。そうか、いい人がいるんだな。
「今日はねえ、カレシだけじゃなくて、その人の子どもも来てくれるの」
「こども?」
俺も永子と同じタイミングで密かに尋ねた。もしかしてヤジマーだけでなくお前も?
「うん。その子ね、お母さんがいないのよ」
「……」
「だからね、私がお母さんになりたいなと思って、今頑張ってるんだ」
きっと永子には難しい話だけど、コケモモは全てを話してくれた。そうか、あのサングラスの男の子は恋人の子どもだったんだ――。
謎が解けると同時に、確定したことがひとつある。強は今までも、そしてこれからもずっと天国だ。もしかしたらまだこの世に、なんて見当違いの推理に呆れ果てていたに違いない。本当にダメな父親だ。
「じゃ、永子ちゃん。体に気をつけて、お父さんとお母さんの言うことを聞いて……えっと、とにかくね、たくさん楽しむんだよ。いいね? 約束だよ」
永子をそっと地面に降ろし、指切りげんまんをする横顔に今決めたことを報告する。
「ちょっと寄ってから帰るわ」
こちらを向き「どこに?」と首を傾げたコケモモに、強のお墓がある寺の名前を告げる。
「うん、あそこは遅くまで開いてるからね」
そう言って笑った顔は、確実に脳裏に焼き付いた。もう似ている女優の顔と混同することはない。俺が耄碌しないうちは、決して忘れないだろう。
「パパちゃん、どこいくの?」
「うん、とっても大事な場所だよ」
ピンと来ない顔の永子に手を伸ばす。その様子をコケモモは見守っていた。
「ほんじゃね」
「元気でな」
互いにくるりと背を向け、俺たちはそれぞれの方向へ一歩踏み出した。ようやく、というのは俺の方だけで、コケモモはとっくに歩き出していたはず。その証拠に思わず振り返った俺の視界に、あいつの姿は映っていなかった。
(第50回 最終回 了)
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*『オトコは遅々として』は毎月07日にアップされます。
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