自由詩は現代詩以降の新たな詩のヴィジョンを見出せずに苦しんでいる。その大きな理由の一つは20世紀詩の2大潮流である戦後詩、現代詩の総括が十全に行われなかったことにある。21世紀自由詩の確実な基盤作りのために、池上晴之と鶴山裕司が自由詩という枠にとらわれず、詩表現の大局から一方の極である戦後詩を詩人ごとに詳細に読み解く。
by 金魚屋編集部
池上晴之(いけがみ・はるゆき)
一九六一年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。批評家。編集者として医学、哲学、文学をはじめ幅広い分野の雑誌および書籍の制作に携わる。著書に、文学金魚で連載した「いつの日か、ロックはザ・バンドのものとなるだろう」に書き下ろしを加えた『ザ・バンド 来たるべきロック』(左右社)。
鶴山裕司(つるやま ゆうじ)
一九六一年、富山県生まれ。明治大学文学部仏文科卒。詩人、小説家、批評家。詩集『東方の書』『国書』(力の詩篇連作)、『おこりんぼうの王様』『聖遠耳』、評論集『夏目漱石論―現代文学の創出』『正岡子規論―日本文学の原像』(日本近代文学の言語像シリーズ)、『詩人について―吉岡実論』『洗濯船の個人的研究』など。
■戦後詩と現代詩の構造■
池上 ぼくが考える戦後詩と現代詩の表現の違いは、ごく簡単に言えば戦後詩は言葉を意味として使い、現代詩は言葉を意味として使わないということになります。その観点で見ると詩誌「凶区」の詩人たちの作品は、たとえ表現されている世界が奇妙な場合でも、使われている詩法は割合普通というか戦後詩的で、それほど斬新な感じはしません。一九七〇年代以降の現代詩人たちのように、レトリックに凝ったり、詩的言語を構築しようという指向はあまり見られない。
鶴山 そうですね。彼らの詩歴も変化していていますがほとんどの詩人が初期に戦後詩的社会批判詩を書いています。安保世代ですから。ただ天沢、菅谷、鈴木さんの代表作は社会批判詩ではない。かといって入沢・岩成的現代詩でもない。
五〇年代詩人で言えば飯島耕一は「他人の空」で「空は石を食ったように頭をかかえている。/物思いにふけっている。/もう流れ出すこともなかったので、/血は空に/他人のようにめぐっている」と書きました。飯島さんは熱狂的皇国少年で昭和二十年(一九四五年)八月二十日に航空士官学校に入学する予定でした。空で散る覚悟を決めていた。そのプツンと断ち切られた精神が「空は石を食ったように頭をかかえている」という表現になっている。このとき流れ出した〝血〟が戦後の飯島さんの憎悪に近い体制不信となった。簡単に戦中の自己を総括できたわけではない。
吉岡実は「神も不在の時/いきているものの影もなく/死の臭いものぼらぬ/深い虚脱の夏の正午(中略)/深閑とした場所に/うまれたものがある/ひとつの生を暗示したものがある/塵と光りにみがかれた/一個の卵が大地を占めている」(「卵」)と書いた。「深い虚脱の夏の正午」が昭和二十年(一九四五年)八月十五日正午にラジオ放送された終戦の詔であるのは言うまでもありません。吉岡は五年間も皇軍の一兵士でした。そこからの解放は「死の臭いものぼらぬ/深い虚脱」でしかない。しかし「ひとつの生を暗示したもの」でもあった。戦後詩の喩的表現はあまりにも現実の衝撃が厳しいときに生じています。
池上 飯島耕一も吉岡実も表現された世界はシュルレアリスム的ですが、言葉の使い方という観点からみれば戦後詩ですよね。
鶴山 「凶区」を含む六〇年代詩人たちは「荒地」派から続く戦後詩の詩法を咀嚼していました。五〇年代詩人のような切迫感ある詩を書いたかどうかは別として批判的視線で安保時代を作品化した。ただ新たな世代です。それまでにない詩を生み出したいという強い欲求も抱えていた。時代背景を考えれば当然ですがこの指向は大局的に言えば戦後詩の超克へ向かった。常に錯綜・混乱し続ける厳しい現実を上位審級または下位審級から捉える詩法です。それは現実世界の相対化という意味で現代詩的表現に近づいた。しかし質的に違う。言葉だけではわかりにくいですね。図にしましょう(図を描く)。
おおざっぱですが作家主体中心に「戦後詩の構造」を図化するとこうなる(【図01】)。正統戦後詩は作家主体の研ぎ澄まされた意識で現実を批判的に捉えた詩です。難解でも読んだときに現実社会と強くリンクしている詩だと一瞬で直観理解できる。「荒地」派を始めとする五〇年代詩が同時代の多くの読者を惹きつけた理由です。

*鶴山氏のメモを元に作成
これが六〇年代になると現実が複雑になり社会批判のスタンスを定めにくくなる。政府が戦後の日本国憲法(平和憲法)に反する自衛隊を設立し再び戦争に巻き込まれる可能性のある日米安保条約を締結したことに安保世代は激しく反発した。しかし当時の知的な若者たちが自衛隊設立や安保条約締結が避けがたいものであるとまったく考えなかったとは思えない。また安保闘争は奇々怪々だった。安保反対に大学の学費値上げ反対闘争なども加わり政党と学生主体の組織、性急な社会主義革命派などが入り乱れて収拾がつかなくなっていた。なにが正しいのか揺れていた。それは渡辺武信さんの詩や評論を読んでもわかる。
『移動祝祭日』で渡辺さんが激しくこだわったのは安保闘争における個々の立ち位置(政治的立場)であり安保そのものの是非ではない。詩も同様です。6・15の心の傷を描いた詩が多い。というかほとんどの詩が安保闘争がらみの心の傷を描いた抒情詩です。闘争の中でそれだけが確かなものだった。しかし表現は曖昧で現実描写とシュルレアリスティックな喩の間を行き来する。混乱した世相を表現してはいますが池上さんが指摘なさったように詩の技法としてはとりたてて新しいものはない。これは六〇年代以降に書かれたほとんどの社会批判詩について言えることです。ただ社会批判的戦後の詩も作家の意識と現実社会との対峙によって生まれている。
これに対して天沢さんの詩は超意識界(メタ現実界)に属しています。さきほど(一回目)討議したようにブランショ理論を援用して〝来るべき書物=真理〟を希求している。到達不可能ですが直観把握可能な〝純抽象文学〟を示唆する文学であり現実界(無意識界+意識界)を上位審級へと昇華した文学です。
理論を創作に援用したのは天沢さんだけではありません。ほかならぬブランショ自身が『至高者』『謎の男トマ』など多くの小説を書いています。フランスではロブ=グリエの『消しゴム』やミシェル・ビュトールの『心変わり』、日本では天沢さんと東大仏文科同窓で「詩は読まないが天沢詩だけは読む」と公言した蓮實重彦さんの小説も含めていいかもしれません。今あげた作家たちの小説の作風はとてもよく似ている。そして大変言いにくいのですがどの作品も読んでいてつまらない。池上さんがさっきおっしゃったように退屈。もちろん面白いと思う読者もいらっしゃるでしょうけど。
つまらないと感じる理由は単純です。〝来るべき書物〟はある〝真理〟の表象ですが到達不可能だと措定されている。それを書くのは不可能ですが不可能を押して書けば真理の注釈になる。真理の残骸になると言ってもいい。作家固有の作家性も排除している(重視していない)ので高度に抽象的ですがのっぺらぼうで平板な観念的作品になりやすい。
これも大変言いにくいですが天沢さんの譚詩も平板です。天沢さんがブランショ理論を的確に理解しておりそれが戦後詩や現代詩とは異なる新たな文学(詩)だと信じたからです。しかし天沢さんはこの理論に宮澤賢治的な至福の天上的な世界も重ねていた。が、それが実現された気配はない。むしろ殺伐とした世界です。
天沢さんは譚詩に移行したきっかけについて「手帖」誌「凶区特集」座談会で「七十年代は、二人子供ができて、子育てが猛烈に大変で、その最中に『目に見えぬ者たち』という詩集を書いた。(中略)それで救われた面もあるわけね。それが急激に僕を散文詩の方に押しやっちゃった。それはやはり、子育てと関係があるんだね。おまけに始める直前に菅谷から訣別の辞を書かれたようなことがあって(笑)、あれはやはりショックで、こうなったら死に馬になった気でやり直すか、ということで、死んだ馬の話から始めた詩集なんだけれどね」と語っておられる。冗談めかしていますが切実です。
これはもう本当に言いにくいことですが天沢さんはそれまでの学生支持の姿勢を翻して授業に復帰して職を維持した。菅谷規矩雄さんは学生支持の姿勢を貫いて大学を懲戒解雇されその後苦しい人生を歩むことになった。それぞれの選択であり誰も何も言うことはできません。ただ天沢さんが賢治的天上世界に接近できなかった、しなかったのは安保時代の傷が影響しているのではないか。譚詩の世界は天上より煉獄に近い。
譚詩以降の天沢さんは変化し続ける厳しい現実と戦う詩人ではなくなった。一人だけ苦しくも救済的な詩の世界に移行してしまった。しかし使っている言葉や喩は戦後詩と現代詩のマージ。現実超越的理論なのですが現実世界を避けてもいる。その意味で一人の作家が救済を求めた戦後詩の一変奏だと思う。少なくとも戦後詩や現代詩とは違う新たな詩のヴィジョンにはならなかった。これはほかの「凶区」同人や多くの六〇年代詩人も同様です。入沢・岩成の現代詩は目の端に捉えていて修辞的影響は受けていましたが書き方のベースは戦後詩。戦後詩の超克が最も大きなトピックだった。
池上 鶴山さんがさきほど取り上げて論じられた天沢退二郎の『Les Invisibles 目に見えぬものたち』最終の「51」章をもう一度引用しますね。
その川には縁というものがなかった。夢とうつつの変
幻のあわいに馬は初めて水面の上に出て、首をめぐらす
までもなく暗赤色の嶺線をこぼれ出る不在の太陽の腕ど
もが指し示すままに、深さも奥行きも歴史もない湿地帯
のいたるところに川があふれ出し不定型の浸潤をひろげ
たまま氷結しているのを、みじろぎもせず氷結している
のを馬のまなざしは照らし出していた。しかしこれはい
ったい〈前〉であるか、〈後〉であるか。馬じたい凝然
と氷結しているのか――いまこの馬になりかわって私た
ちは告げよう、馬を見棄てるべき時がきたと――馬は死
んだかって? 何を! 誰だって二度死ねるわけがない
――いま馬は二重に不可視であって、馬は誰の目にも見
えず馬の目には何も見えぬ、ただ、馬は耳を澄ましてい
るのだ、じっと聴き入ろうとしているのだ、転生の叫び
水が氷を穿ってつくる笛の最初のひよめきを。
これ、いったい何を書いているのか、普通に読んでわからないと思うんです。ネルヴァルかなんかの翻訳みたいな感じもするけれど、物語というわけでもないし、そもそも「馬」と書いてあるけれど、どんな馬なのかイメージが湧かない。だけど渡辺武信の『移動祝祭日』第十章には、天沢退二郎のこんな発言が引用されているんです。
ぼくは……七五年に「目に見えぬものたち」という連載詩を始めたわけだけど、あれは菅谷のぼくの詩に対する批判への答えでもあったし、その書き出しは死せる馬が水の中で泳ぐことから始まるんだけど、「死せる馬」というのは菅谷の批判をある程度受け入れて、ぼくは「死せる馬」であるという自己規定から再び詩を書きだした。それは結局八〇年代、九〇年代からいまに至るぼくの詩というものに通じている。だから菅谷の影響というのは大きいんだよね。
これは「現代詩手帖」二〇〇三年七月号に掲載されている座談会での発言だということですが、自分を「死せる馬」だと自己規定して書いているわけですよね。ご本人は「譚詩」と言っているけれど、それは一種の韜晦で、案外素直に作者の自我意識が反映された作品と考えてもいいんじゃないでしょうか。
鶴山 言うまでもなくすべての作品は作家の自我意識から生まれています。ただ作品構造として作家主体が現実世界と直接対峙しない方法もある。現代詩がそうです。これも図にした方がわかりやすいですね。

*鶴山氏のメモを元に作成
簡略ですが【図02】は「現代詩の構造」です。戦後詩と同様に明瞭で強い作家主体が現実界と切り結んで生まれた詩には違いない。が、作家主体の感情的揺らぎなどは表現されません。現実界が言語世界として表現されている。言語世界=現実界なのです。この詩法で詩を書いたのは入沢康夫と岩成達也さんだけです。戦後詩が作家主体固有の思想や感情(実存)から読み解けるのに対して現代詩は言語世界から作家主体の思想・感情を計るほかない。構造的に言えば戦後詩が作家主体の演繹的表現であるのに対し現代詩は帰納的表現です。これでもわかりにくいですね。戦後詩を巡る対話ですが例外として入沢さんの詩を取り上げます。
季節に関する一連の死の理論は 世界への帰還の許容で
あり 青い猪や白い龍に殺された数知れぬ青年が 先細
りの塔の向うの広い岩棚の上にそれぞれの座をかまえて
ひそかに ずんぐりした油壺や泥人形 またとりどりの
花を並べ 陽に干していると虚しく信ずることも それ
なればこそ 今や全く自由であろう 支配者の遺体を模
して束ねられた藻や藁を焚き こうすることで 古い春
と その記憶を追い立て 生命と受難の観念を あえて
声高に語ることによつて いつそう深く地中に埋め 窒
息させ 二度と生き繁ることのないようにと しきりに
祈る彼らであつてみれば彼らは 当然 世界の屍臭を
むしろ身にまとうに足る芳香であるとことさらに誤認し
見せかけだけの儀式の力で この卑劣な狂躁を永遠のも
の 地表を這ううまごやしとおなじく 四季による消長
はありながらもついに不滅な 一つのいとなみとしよう
と欲するが この作られた愚かさ この水平な堕落は
単なる偶然の所産 あるいは 監視者の怠慢としてかた
づけることはできない
(中略)
狂つた男たちが結局
はそれを認めるに至るのは みずからの半球状の前面を
しだいに夜に浸し 公然と熱病や狂気を否認し または
回避しようとするまさにその時においてであり それと
いうのも 乱暴に積み上げられた各々の石盤状の塊を一
つだけ引き抜く操作に堪え得ぬまま 仰々しい身振りで
会話することで自他の悲壮を証拠立てようとのみ願つて
いるからで この願いは彼らの状況のあまりに悲惨な平
凡さの故に許されねばなるまいが 彼らは以後 空の壺
を首に懸けて 墓地の門 白塗りの柵のあたりで待たね
ばならない 熱病が再び大地から芽ぶき 新しい狂気が
鉄の雄蕊で彼らの一人一人を点検し その容器としての
能力の 全的な欠如をことごとく明らかにする時まで
そして その時が来れば 彼らはひとしく黄色な泥土と
化し その上を 彼らのあずかり知らぬ巨きな 「季節」
が 鶏のように駆けすぎるであろう
入沢さんの詩集『季節についての詩論』(昭和四十年[一九六五年])表題作の第一連と最終連です。初めてこの詩を読んだ人はなにがなんだかわからないと思います。しかし六〇年安保を題材にした詩だと言えば「ああそうか」と膝を叩く人がいるのではないでしょうか。現実の事件描写や批判ではなく六〇年安保がパラレルワールドとして叙述されている。
「季節」は言うまでもなく春夏秋冬の循環性です。それは「死の理論」であると同時に「世界への帰還の許容」でもある。「明けない夜はない」的な季節の循環性に沿うことは思想的な「死」を意味します。しかし救済(「世界への帰還の許容」)でもある。登場するのは「青年」=「男たち」。彼らは「支配者の遺体」を焚いた「屍臭」を「芳香」と「誤認」しそれを「不滅な 一つのいとなみとしようと欲する」。「愚かさ」であり「水平な堕落」でもあるわけですが「偶然」生じたのではない。「監視者(権力)の怠慢」で片付けることもできない。
ただ「季節」の循環性は強力です。「狂つた男たち」も「結局はそれを認めるに至る」。「公然と熱病や狂気を否認」するようになり「自他の悲壮を証拠立てようとのみ願」う「悲惨な平凡さ」に至るからです。彼らは「墓地の門」でじっと待つことになる。「新しい狂気」は再び必ず訪れる。しかしそれが訪れた時には「彼らはひとしく黄色な泥土と化し その上を 彼らのあずかり知らぬ巨きな 「季節」が 鶏のように駆けすぎるであろう」。六〇年安保のような熱狂は将来また起こる。その時には新たな世代の青年たちの上に違う「季節」が、しかし六〇年安保時代と同質の絶望と救済の「季節」が巡るだろうということです。
「季節についての詩論」は比較的簡単に現実との対応関係が読み解ける詩です。六〇年安保に対する入沢さんの醒めた思想が表現されていると言うことはできる。しかし入沢さんが作り出した言語世界は現実世界対応しながら自律しています。不気味に渦巻く「季節」が天蓋のようにすっぽりと言語世界を覆いその下で「青い猪や白い龍に殺された数知れぬ青年」たちが蠢いている。彼らは強い意志をもって行動するわけですがやがて諦念と救済が入り混じった「季節」に飲み込まれてゆく。まさしく「季節についての詩論」であり作家主体はもちろん詩に登場する人間たちの細かな思考や感情は表現されていない。テーマを変えてこの詩法で詩を書けば言語的緊張感は感受できてもそう簡単に読み解けない詩になるのは言うまでもありません。
それはともかく現実界を抽象化(相対化)している点で入沢詩の言語世界は天沢詩と相似です。半ば当然で入沢さんもまたブランショを始めとするヌーヴォー・ロマンの作家たちから大きな影響を受けているからです。象徴主義受容から始まったフランス詩(フランス文学と思想)は長い間日本の自由詩に絶対的影響を与え続けて来た。また戦後二十年ほどでほぼ完璧に当時最先端の文学動向を把握していた入沢さんや天沢さんは優秀です。
入沢さんは詩論集『詩の構造についての覚え書』で擬物語詩を提唱しました。擬物語詩がヌーヴォー・ロマンのレシ(récit)から発想された詩形態であるのは言うまでもありません。天沢さんの譚詩もレシ(文学・理論)の強い影響を受けています。
ヌーヴォー・ロマンのレシは乱暴に言えば書紀行為そのものが事件である語りのことです。作家が現実存在と相似の登場人物を設定し現実社会に沿ったプロット(起承転結)を設定する一般的物語(小説)とは違い、極端を言えば誰かが登場し風景や建物が現れること自体が事件です。入沢さんは天沢さんより遙かに的確にレシの思想と書法を実践した。代表作は詩集『ランゲルハンス氏の島』でしょうね。
池上 ランゲルハンスって膵臓でインスリンを分泌する細胞を発見した人ですよね。この細胞が「ランゲルハンス島」。昔は「ランゲルハンス氏島」って言っていたからね。これを「ランゲルハンス氏の島」と書くと何か不思議な感じになるからおもしろい(笑)。まじめに言えば、これが戦後詩と現代詩の違い。「ランゲルハンス氏島」と書くのが戦後詩で、「ランゲルハンス氏の島」と書くのが現代詩。「ランゲルハンス氏島」はインスリンを分泌する細胞を意味する言葉だけど、「ランゲルハンス氏の島」はナンセンス。イメージを喚起するわけでもなく、現実世界に対応するものが存在しない言葉になる。
鶴山 そうそう。『ランゲルハンス氏の島』で事件は言語的に起こる。主人公がなにげなく壁に掛けられた肖像画を見ると絶滅した鳥のドドが描かれている。説明を求めると「これはお父さまの肖像よ」という答えが返ってくる。万事その調子で『ランゲルハンス氏の島』で起こる出来事は現実界の秩序を外れている。言語的に起こったことが現実なのです。しかし荒唐無稽ではない。読者は不思議な世界を体験しながら現実世界での出来事はこんなふうに偶然と気まぐれで生起するのだと感受することができる。
同じくレシの思想と書法を援用しながら入沢詩では事件が起こり天沢詩では起こらない理由は天沢詩の表現の核があくまで天沢退二郎さんだからです。それは多くのの譚詩で天沢さんとおぼしき主体が歩くことで言語世界が拓けてゆくことからもわかる。どこまで行っても作家の自我意識界で単調な世界になる。しかし入沢詩では作家主体の位相を特定できない。言語世界=現実界で起こる事件から作家の思想・感情を類推するしかない。〝戦後詩〟と〝現代詩〟最大の違いです。
戦後詩では作家主体の存在格が強いほど優れた作品になる。これに対し現代詩では作品世界から作家主体が消え去るほど作品強度が増す。現実との対峙を避けたわけではない。現代詩は現実が単純なら単純、複雑あるいは矛盾しているならそれをそのまま言語化する。現実界は言語世界へと抽象化されるわけですがそこからどんな作家の思想、批判意識、感情を読み取るのかは読者に委ねられる。日常に即した抒情詩や戦後詩などとは異なる新たな修辞を表現する場合もある。作家主体中心の構造で言えば戦後詩と現代詩はポジとネガの関係にあります。両者の同時発生は深くリンクしている。
池上 なるほど、確かに戦後詩と現代詩はポジとネガの関係と考えると理解しやすいですね。
鶴山 入沢さんが現実界を自律した言語世界として表現する現代詩を創出した理由には時代背景と彼個人の資質があります。入沢さんは一九五〇年代半ばに東大生で学生仲間と「明日の会」を作った。当時も政治の季節だった。民主主義に移行したばかりの時代ですから労働者の権利などを保障する法整備も十分ではなく戦後釈放された共産党員らが掲げた社会主義革命幻想もまだ色あせていませんでしたから、ストライキなどの労働争議が頻繁に起こった。谷川雁や黒田喜夫篇でお話した労働者全員が政治参加するような時代だった。
「明日の会」は社会派の詩のグループだったわけですが入沢さんたちは詩で社会批判や政治的主張をすることに激しく反発した。必ずしも「荒地」派批判ではなかったですけどね。そこで「明日の会」を脱退して同人詩誌「あもるふ」を創刊した。入沢さん盟友の岩成達也さんもメンバーでした。現代詩の実作と理論は入沢―岩成の交流によって生まれたと言ってよい。『詩の構造についての覚え書』の中の「詩は意味の伝達道具ではない」という言葉が芸術至上的現代詩を代表するテーゼとして流通しましたがそこに社会批判詩への反発がこめられているのは言うまでもありません。また入沢さんは詩で作家の実人生を表現することに反対だった。彼個人の実存にも関わっているのではないかと思いますがよくわかりません。
余談ですが入沢さん、じゃなくて入沢先生と話しているときに何度も「小海永二さんについてどう思いますか」と聞かれました。小海さんは「明日の会」で社会派を代表する詩人でした。入沢先生はあまりほかの詩人の話をしない方だったので不思議でした。「小海さんって、アンリ・ミショーの翻訳者の方ですよね」「そうじゃなくて、小海さんの詩をどう思いますか」というトンチンカンな会話を繰り返した記憶があります。また「現代詩の書き方では作家の実人生は表現できない、不自由ではないですか」と詰め寄ると「僕は詩で実人生を表現することに反対です」ときっぱりおっしゃって引かなかった。
もちろん入沢詩は彼の実人生とまったく無縁だったわけではありません。『わが出雲・わが鎮魂』あたりからじょじょにそれが顔を出してくる。一番危うかったのは『漂ふ舟 わが地獄くだり』ですが現代詩の詩人としてなんとか面目を保った。岩成さんも同様です。『フレベヴリイ・ヒツポポウタムスの唄』が出版された時に入沢先生は「あれ一冊なら許してあげます」と冗談めかしておっしゃった。ただ入沢先生なら『牛の首のある三十の情景』あたりまで、岩成さんなら『〈箱船再生〉のためのノート』までをハードコアな現代詩として捉えることができる。
本題に戻ると六〇年代詩人たちはまだフレッシュな戦後詩と現代詩の成果を十全に活用することができた。しかし現代詩の原理を考え抜いて認識把握した詩人はいない。漠然と戦後詩とは書き方が違うというくらいに捉えていた。原理的に考えないのは現代詩人に至るまで同じですけどね。また六〇年代にはすでに「荒地」派に代表される正統戦後詩の継承は難しかった。状況的に言えばそこに現代詩が流れ込んだ。入沢・岩成は次々に詩集を上梓し続けていたからです。
なぜ現代詩人は戦後詩とは明らかに質の違う詩を易々と書き続けられるのか。現代詩はメインストリームの戦後詩を相対化している詩だと映った。戦後の詩が戦後詩と現代詩のマージだということを詳しく説明するとそうなる。戦後の詩人たちは戦後詩を超克する方途として現代詩の修辞を援用したと言ってもいい。現代詩バリに難解という点では超意識界(メタ現実)を描こうとした天沢詩も無意識界から湧き出たような鈴木志郎康、菅谷規矩雄さんらの詩も同じ。構造的には作家を確乎たる表現主体としているので広義の戦後詩ですがティピカルな戦後詩を相対化ようとした詩だとも言えます。
あ、一つ補足しておくと【図01】「戦後詩の構造」の意識界、無意識界は素朴心理学的区分です。現代心理学ではどちらも意識です。アーキタイプが蠢くユング的無意識界ではない。
■鈴木志郎康の詩について■
池上 今回取り上げる鈴木志郎康は詩誌「凶区」を代表する詩人のひとりですが、「現代詩文庫」の冒頭には「凶区」以前に高野民雄とやっていた同人詩誌「青鰐」時代の詩を収載しています。
グロットマンティカ
グロットマンティカ
ニーペポルトペイン
イイイイイイイイ
エルソ
マソトムーネ
グロットマンティカ
グロットマンティカ
イーソーイーソ
ルンルンルンルン
ニポ
「口辺筋肉感覚説による抒情的作品抄」の「作品2」です。口ずさんでみると、フロイトのいわゆる「口唇リビドー」じゃないですけれど、言葉を覚える以前の赤ちゃんの発する「喃語」みたいな、ちょっと性的で不思議な感覚が生じます。菅谷規矩雄が晩年に書いていた意味が解体されたような詩と似ているようですが、菅谷規矩雄の詩はフロイト的に言えば「死への欲動」(タナトス)で、鈴木志郎康の詩は「生への欲動」、つまりエロスの世界だと思います。それと、一見ナンセンス詩にも見えますが、とてもリズミカルでユーモラスで、ポリネシア系の言語で書かれた詩のようにも感じます。はっきりした意味ではないですが、何か言いたいことがある感じが伝わってきます。日本語の中に潜んでいるポリネシア系の言語が現れたというか。「日本語」で意識的にこういう作品を書いた詩人は鈴木志郎康以前にはいないと思います。その意味では極めてユニークな作品です。現代詩文庫の『鈴木志郎康詩集』の最初にこの作品を配置したわけですから、本人にとっても重要な作品で、自信作だったのではないでしょうか。
鶴山 最初から戦後詩とは違う詩を書いてやろうという強い意志があったんでしょうね。また幼児性を感じさせる言語解体的指向は鈴木さんの資質かもしれない。幼児性は極私でもあるから。
池上 鈴木志郎康は一九七五年(昭和五十年)に『極私的現代詩入門』という評論集を出しています。後年『結局、極私的ラディカリズムなんだ 鈴木志郎康表現論エッセイ集』(平成二十三年[二〇一一年])という本も出しています。「極私的」という言葉を初めて使ったのは鈴木志郎康だと言われていますが、いまでは山下達郎さんがラジオ番組で「極私的・坂本龍一特集」などと使っていて広まっています。「極私的」という言葉の読み方は「ごくしてき」なのか「きょくしてき」なのかよくわかりませんが、視覚的にとても強い印象を与えます。それに「極私的」というのは現代の日本社会のキーワードと言ってもいいと思います。鈴木志郎康は特異な言語能力を持った詩人ですね。だけど、鶴山さんが「凶区」の詩人たちの中で、鈴木志郎康だけを別格扱いする理由は何ですか。
鶴山 「凶区」の詩人の中で後進世代に最も影響を与えたのが鈴木志郎康だというのが一つあります。鈴木さんの極私(詩)は正津勉さんや伊藤比呂美、ねじめ正一、福間健二さんらに強い影響を与えたと思います。あまり注目されていませんが一人の詩人の詩風がこれほど影響を与えた例は少ない。また極私(詩)は一九九〇年代以降の詩の世界でメインストリームになります。鈴木さんにそんな意図はなかったと思いますが作品としては先取りしていた。
一九九〇年代から情報化社会が本格化します。一つのトピックに対して膨大な量の情報が溢れる社会で社会批判を繰り出すのは容易ではない。現代ではかつては権威だった新聞やテレビまで〝オールドメディア〟と呼ばれるようになっている。それが正しいとは思いませんが情報化社会は物事を多面的に見る。ニュースソースがSNSを使って自ら語ることができる時代ですからメディウム(媒体)であるメディアが相対化される面があるのは当然です。ソースと受容者の間にメディウム(権威あるメディア)の意見(見解)が挟まり物事の見方が錯綜して多面化する。もちろん現代でも「戦争ハンターイ」といったお気楽というかそりゃそうだねという一面的社会詩を書く詩人はいてそれこそオールドメディアを喜ばせたりするわけですが、何を取り上げ社会に喧伝するのかでメディアの現代社会への見識が猛烈に批判されたりもする。そういった情報化社会で作家はまず〝私〟に激しく閉じるほかない。〝極私〟から社会への通路を探るしかないところがある。戦後詩・現代詩の全盛期に鈴木さんがやろうとしたことはそれに近い。
日本では大正時代頃から文学は小説、短歌、俳句、自由詩などのジャンルに分化します。現代では官庁縦割り行政のように各ジャンルは孤立してしまっている。気まぐれに他ジャンルに目配せするだけで文学を綜合的に捉えようとはしない。しかし科学や経済など多くの分野でグローバリズムが常態になっています。近い将来文学もそうなる。専門はあるにせよ文学のプロを自認する作家が詩しか、小説しかわからないといったことはあり得ない。また文学を綜合的に捉えれば大きな枠組みで新たな視点を得ることができる。
真っ先に世界の変化を捉えるのは詩だというのはある程度本当で前衛俳人の摂津幸彦さんは昭和六十年(一九八五年)に「国家よりワタクシ大事さくらんぼ」の句を書いた。二年後の六十二年(八七年)に俵万智さんの最初の歌集『サラダ記念日』が、平成二年(九〇年)には穂村弘さんの第一歌集『シンジケート』が出版された。『サラダ記念日』が口語短歌の大流行を生み『シンジケート』はニューウェーブ短歌のバイブルになりました。
『サラダ記念日』が革命的だったのは極端なことを言えば平安短歌以来ずっと悲嘆の絶唱短歌を至上としてきた短歌の歴史上で初めて明確に生の肯定と喜びを表現したことにあります。しかし幸福は長続きしない。それを永続的表現にするには現在形の口語が必要だった。俵さんはお父さまが亡くなった際の短歌では文語過去形で歌を詠んでおられます。穂村さんの『シンジケート』は幸福な幼年幻想が中心です。ここでも口語現在形が威力を発揮した。両者とも社会性を排した極私(詩)です。この動向は河野裕子さんや林あまりさんらからあったわけですが『サラダ記念日』と『シンジケート』が決定打になった。
俵さんは「心の花」同人で佐佐木幸綱さんの追っかけのような熱心な弟子でした。穂村さんは恐るべき短歌オタク。彼らは短歌に精通していた。偶然生まれた表現ではない。彼らの口語短歌(ニューウェーブ短歌)は当時まだ強い影響力を持っていた塚本邦雄・岡井隆らの社会批判的前衛短歌の実質的批判になっている。
自由詩の世界では伊藤比呂美さんが女性の生理やセックス、出産などを赤裸々に表現した『青梅』(昭和五十七年[一九八二年])や『テリトリー論』(昭和六十年[八五年])を刊行し、朝吹亮二さんが幼児言葉とセックス幻想が入り乱れる『密室論』(平成元年[八九年])を上梓した。『テリトリー論』や『密室論』も極私(詩)です。彼らの極私(詩)は戦後詩・現代詩へのアンチテーゼを含んでいた。そして短歌では『サラダ記念日』『シンジケート』、自由詩では『テリトリー論』『密室論』以降ハッキリとした新しい動きは現れていない。現代は極私(詩)の延長上にあるということです。小説でも九〇年代頃から介護やニート、LGBTなどの極私的テーマが増えてゆきます。俳句は百年一日のごとく五七五に季語でのたりのたり哉ですから大局的な動きとは無縁です。高柳重信以降とりたてて新たな動きはない。
池上 鈴木志郎康は、「荒地」派の鮎川信夫や吉本隆明のように戦争体験を踏まえて国家や社会と個の関係性を詩で表現しようとしたのとは逆ベクトルで個と社会との関係性を詩で表現しようと極端まで突き詰めたということですね。鈴木志郎康が意識的に極私的な詩を書き始めたのは、いつ頃からなのでしょうか。
鶴山 第二詩集『罐製同棲又は陥穽への逃走』(昭和四十二年[一九六七年])からです。いわゆる極私(詩)は第三詩集『家庭教訓劇怨恨猥雑篇』(四十六年[七一年])、第五詩集『完全無欠新聞とうふ屋版』(五十年[七五年])の三冊のみです。四十九年(七四年)に第四詩集『やわらかい夜の夢』を刊行していますがこの詩集は最初の奥さんの谷口悦子、通称EKOさんと離婚して麻理さんと再婚した後に書かれた。再婚後にEKOさんとの結婚生活時代の詩を『完全無欠新聞とうふ屋版』にまとめたのです。鈴木さんの詩業は第Ⅰ期(第二、三、五詩集)と第Ⅱ期(第四および第六詩集以降)に二分することができます。詩の質が違う。第Ⅰ期は〝極私(詩)〟で第Ⅱ期は〝私(詩)〟になる。鈴木さんがいつEKOさんと離婚されたのかはわかりませんが極私(詩)時代はほぼ「凶区」時代に重なっています。
池上 確かに第一詩集『新生都市』(昭和三十八年[一九六三年])に収載されている詩は、まだ「極私的」という感じではないですね。例えば表題作の「新生都市」はこんな詩です。
空に雲はなかった
雷鳴もなかった
風はひたすらペンペン草をゆらした
わたくしはその時を知っている
暗い穴から最初の血まみれの白い家が現われた
女の穴から血まみれの家は次々に現われた
乾いて行く屋根の数は幸福であった
それは今女が生み落したばかりの都市であった
人間のいない白い道路
人間の影のない白い階段
純白の窓にはもう血痕はなく
壁は余りにも自由であった
コロナに輝く太陽の下に
腐って既に乾いて行く母親の死体の上に
白色に光る直線の都市はおどろくばかりの速さで成長した
人間はなく
風はなく
既に空さえもなかった
「新生都市」というと明るい未来的な都市を想像してしまいますが、この詩に描かれているのは明るいディストピアですね。「極私的」というより、むしろ戦後詩と言ってもいいような作品です。
ぼくが現代詩を読み始めた一九七七年頃は、鈴木志郎康と言えば〝プアプア詩〟で有名でした。いま〝プアプア詩〟と言っても普通の読者には意味がわからないと思います。実は当時も意味はわからなかったんだけど、〝プアプア詩〟という言葉は現代詩に関心がある人の間ではよく知られていましたね。これも鈴木志郎康の造語能力とその言葉の伝播力がすごいんだけれど、〝プアプア詩〟と呼ばれる作品は突然現れたんでしょうか。
鶴山 大学を卒業してNHKにカメラマンとして就職して広島支社に転勤になってから書かれた詩が多い。EKOさんとの結婚生活が順調ではなく仕事が忙しくて執筆の時間も取れないフラストレーションが溜まる状況で爆発的に生まれたのがプアプア詩のようです。スキャンダルにならない方がおかしい詩です。
オイ
殴れ
ポワシーン
ガワワアン
殴り倒されたる妻一匹
茶の間の敷居でせりにかける
この女体まだ息はしているよ
包丁を引けばお腹から赤い血も出る
ひどいよ
ひどいよ
あんまりだ
肉を食うにはてめえの口に入れるけど
肉慾は個人をひっつかまえて食いちぎる
お白粉花薫る植物箱めぐって
六時二十四分、玄関に帰宅
麦茶にステテコ、先ずは、ナァ、今夜こそはやらせろやい
いやよ
どうして
いやだからいやよ
俺が嫌いか(俺の獅ッ鼻め)
それとは違うの
ザックザック
兵隊さんが来るよ
それで?
オイ
殴れ
ポワシーン
ガワワアン
殴り倒されたる妻一匹
計一匹
いやなのよ、するのはいやだ、性交拒否!おんおんおん
二才の女児も横に並んで、おんおんおん
たのしかりしは昭和家族!
男根があるんだ、エイッ(後略)
『家庭教訓劇怨恨猥雑篇』所収の「家庭教訓劇(註を必読)」前半部です。タイトルにあるように長い註が付けられた詩です。註にこの詩は中央公論社「海」の依頼で書かれ掲載拒否された作品だとある。依頼してきたのは後に小説家として立つ村松友視さんでした。しかしいっこうに掲載されないので鈴木さんが編集部に問い合わせると掲載できないが「理由はいえない」という返答だった。鈴木さんは編集長の近藤信行さんと村松さんを家に呼び出して理由を問いただしたが「結局、掲載しないことの理由は全く説明してもらえなかった」。
「海」は前衛小説(文学)に大変理解ある文芸誌で担当の村松さんは作家でもあったわけですが掲載拒否された。恐らくですが日常的文脈で読み解けば暴力亭主が妻にセックスを強要する反倫理的作品に写ったからでしょうね。この時期の鈴木さんにスキャンダルを起こしてやろうというとんがった攻撃性があったのは確かです。しかしスキャンダルのための詩ではない。鈴木さんは大真面目だった。註に「私の詩は、ひとつの社会的な行為として意味を持った、からである。掲載を断念しなければならなかった編集者の行為を呼んだことに、むしろ私は誇りを感じる」とある。今となればそうでしょうね。
さすがに「凶区」の詩人たちは鈴木さんのプアプア詩を評価していた。第十五号で「プアプア詩特集」を組んでいます(昭和四十一年[一九六六年])。ただそれほど多くない彼らの評論を読んでも鈴木さんがプアプア詩で何を表現しようとしているのか読解できている詩人はいない。実際の鈴木さんを知っているのでプアプア詩が冗談めいた狂騒ではなく文学的意義があることを感受していたに過ぎない。それは同時代のほかの詩人たちも同じだった。
池上 一九六〇年代のアメリカではヒッピー・ムーブメントが起こり、カウンターカルチャーが社会の中で力を持つようになります。ロックはまさにこの時代の音楽ですね。一九六九年のウッドストック・フェスティバルが象徴的ですけれど、ベトナム戦争を背景にした反戦運動とドラッグやフリーセックスなどヒッピーのライフスタイルが混然一体となって、メインカルチャーに対するカウンターカルチャーが盛んになるわけです。「ラブ&ピース」が合言葉ですね。
日本でもこれに影響を受けたヒッピー風の「フーテン族」が登場しますが、「~風」というところがミソで、ファッションなんです。これは日本文化に特徴的なことで、シュルレアリスムもフランスではフロイトの精神分析とマルクスの革命思想が基盤となった文学・芸術運動だったのが、日本では詩や美術の新しい表現技法として受容されて日本的なシュルレアリスムになって行きます。カウンターカルチャーも日本では反権力の対抗文化というよりも旧来の文学や美術に対するサブカルチャーとして漫画やアニメが盛んになって行きます。やがてサブカルチャーから「サブカル」になるわけですけれど、日本のサブカルはキッチュな表現が特徴です。現代詩の世界では鈴木志郎康のプアプア詩がキッチュな表現の始まりでしょうね。これは「荒地」派などの戦後詩にはまったくなかった要素で、表現史的に見ると鈴木志郎康のプアプア詩は戦後詩の範疇からはズレてしまっていると思います。
その一方で鮎川信夫と吉本隆明の「戦後詩を読む」という対談では鈴木志郎康の「終電車の風景」を戦後詩として取り上げています。
千葉行の終電車に乗った
踏み汚れた新聞紙が床一面に散っている
座席に坐ると
隣りの勤め帰りの婆さんが足元の汚れ新聞紙を私の足元にけった
新聞紙の山が私の足元に来たので私もけった
前の座席の人も足を動かして新聞紙を押しやった
みんなで汚れ新聞紙の山をけったり押したり
きたないから誰も手で拾わない
それを立って見ている人もいる
車内の床一面汚れた新聞紙だ
こんな眺めはいいなァと思った
これは素直な光景だ
そんなことを思っているうちに
電車は動き出して私は眠ってしまった
亀戸駅に着いた
目を開けた私はあわてて汚れ新聞紙を踏んで降りた。
詩集『やわらかい夜の夢』に収載された作品です。鮎川信夫は「荒地」派の黒田三郎から始まって「櫂」グループの吉野弘を経て鈴木志郎康に至る、日常性をテーマにした戦後詩人の系譜があるという見方をしているのですが、黒田三郎の詩には感傷の影があったり、吉野弘にはデリケートな生活感情があったのに対し、鈴木志郎康はもっと荒くてタフで「車内の床一面汚れた新聞紙だ/こんな眺めはいいなァと思った/これは素直な光景だ」というあっさりした即物的な受けとめができるようになった、つまり現在の風景を描けるようになったと評価しています。
確かに現代社会の日常性を描いた詩という観点で見れば、この作品を戦後詩と考えることはできるかもしれませんが、プアプア詩は戦後詩ではなくて、いわゆる現代詩じゃないでしょうか。
鶴山 池上さんがおっしゃることはよくわかります。多くの詩人たち、というか現代に生きる詩人たちのほとんどがそう捉えて〝通俗現代詩〟を書いています。簡単に言えば「荒地」派から始まる社会批判詩が六〇年代から八〇年代にかけてどうしようもなく色あせてゆきそれに代わって現代詩、俗な言い方をすれば突飛な喩を使い日常的意味文脈をあえて脱臼させる難解語法が増えていった。詩人ごとに工夫を凝らした特殊な修辞の方が目立つ詩はすべて現代詩と呼ばれるようになった。しかしそれは現代詩が〝NOT戦後詩〟であることを意味しているのに過ぎない。
通俗現代詩から現代詩的難解語法を取り除くと詩の普遍的基盤である個の抒情とうっすらとした社会批判意識しか残らない場合がほとんどです。作家主体が現実世界と接触・対峙した際の個の抒情と批判が現代詩的修辞にくるまれて表現されている。戦後詩はずっと戦後の詩のメインストリームだというと言いすぎかもしれませんが構造的には通俗現代詩の表現の核はあくまで作家主体です。
大変申しわけないのですが戦後詩と現代詩の捉え方を鈴木さんを例に説明します。細かい文脈は忘れてしまいましたが僕は鈴木さんから「私のことを戦後詩人と呼ぶのはやめてください」という抗議の葉書をもらったことがあります。何かの評論で鈴木さんを戦後詩人と定義したのだと思います。鈴木さんはご自分は現代詩人だと認識していた。つまりプアプア詩などを現代詩だと捉えていた。僕は天沢さんは上位審級から、鈴木さんは下位審級から戦後詩を相対化しようとした詩人だと論じましたが、この相対化の試み自体が鈴木さんにとって現代詩だった。戦後詩が仮想敵だった六〇年代を考えれば当然だと思います。
鈴木さん晩年の詩集に『化石詩人は御免だぜ、でも言葉は』(平成二十八年[二〇一六年])があります。同じく晩年に評論集『攻撃の姿勢1958―1971』(二十一年[〇九年])をまとめておられる。影響関係は別として鈴木さんは戦後詩人と呼ばれることを激しく嫌った。現役詩人であり攻撃し続けている現代詩人だと自負していた。茫漠と戦後詩は古い、もう終わっしまった詩で現代詩こそ詩のあるべき姿だと考えるのは現代の通俗現代詩人に至るまで同じです。しかし大局的に言えば作家主体中心構造を抜けない限り通俗現代詩人は戦後詩と現代詩の亜流に留まる。
こういうことを言ったからといって鈴木さんの詩業をおとしめているわけではありません。鈴木さんの詩業は第Ⅰ期〝極私(詩)〟と第Ⅱ期〝私(詩)〟時代に分類できると言いました。矛盾して聞こえるでしょうが極私(詩)時代の鈴木さんの詩には〝私性〟を抜ける可能性があった。伊藤比呂美さんを始めとする後の世代はそれを敏感に感受したと思う。しかし鈴木さんはプアプア詩以降普通の私(詩)詩人になってしまった。これは仕方がない。ただプアプア詩は優れた詩の成果だと思います。
池上 プアプア詩とはいったい何なのか、作品に即して具体的に説明していただけますか。
鶴山 鈴木詩を代表する狭義のプアプア詩(「プアプア」がタイトルに付いている詩)は実は少なくて詩集『罐製同棲又は陥穽への逃走』Ⅳ章にまとめられた十篇だけです。それ以外はプアプア詩のバリアント。十篇は「私小説的プアプア」で始まり「番外私小説的プアプア家庭的大惨事」「美しいポーズとして最後に私小説的プアプアは死聳え立つ」で終わる。最後の二篇に「番外」「死」という言葉があることからわかるように鈴木さんはプアプア詩を限界まで書き切った。また多くの詩のタイトルに「私小説的」の文字が含まれる。私小説、つまり鈴木さん自身の生活を元にして書かれた詩です。もっと言えばEKOさんとの結婚生活が赤裸々に書かれている。
同時代にそんな読まれ方をされなかった理由の一つは鈴木さんとEKOさんの結婚生活がまだ生々しいものとしてあったからでしょうね。また詩は現代詩的語法で書かれている。戦後詩とは違う現代詩として評価することもできた。しかし表層的だと思います。さきほど池上さんが引用なさった「終電車の風景」は第Ⅱ期〝私(詩)〟時代最初期に属する作品です。EKOさんと離婚した直後から鈴木さんの詩から現代詩的難解語法がスーッと消えてゆく。逆に言えばEKOさんとの結婚時代の〝私小説的極私(詩)〟にはどうしても言葉を現代詩的に抽象化しなければならない強い必然性があった。
(前略)
屍体が沢山あります
ひとつの屍体は黒こげで顔もつぶれている
他の屍体には手も足も首もない
これはいつかの私だ
うまく勝利できるだろうか
ともかくも欲望はショートしてくる
私は妻のふとももを縦にぐいと拡げて
舌で欲望を発電する
電圧が低くて暗いなあ(註6)
私は私の不明迷妄を誇りとする
こうして家庭はようやく維持されているのだが
女房たちよ、現在売春は何故禁じられているか知っているか
家庭的性交は娯楽と実益をかねそなえている
売春を達観したプアプアちゃんはえらいね
堂々といらっしゃい
家庭に於いて私は私自身の男根を私自身の手で確実につまんでプアプアちゃんの暗黒の中に
私自らの感覚で探検する
老処女キキは成行きをバフバフと見てる
妻の衛生的オッパイは身をねじる
嫉妬する
暗黒に向って私は腰に力を入れる
私は屁をひる
老処女キキの笑いだけの群生
オ
お望みとあればステンレスの流し台をキラキラとみがこう
だがしかし、私はプアプアに確実に金を払う
プアプアちゃんは御飯を食べる
プアプアちゃん又来てね
話す言葉の裏側に熱い泪がある
「あなた」
私は私の方寸を抱きとめる
かたわらでは、老処女キキと妻の首は横体に並んで忙しく手淫している
今正面から昇るカラハリの太陽にぬくもろう(註7)
妻よ
おまえの手はつめたい
おまえの鼻先はつめたい
それは正に合法的老処女キキに囓られた部分だ
衛生的なる合法的なる人生的なる
我が妻の首の欠如した屍体は
早朝
食卓の白い皿の上に
光る
註6 終戦直後の思い出。
註7 カラハリ砂漠のあるペチュアナランドはこの(一九六六年)九月に独立するという。
プアプア詩は長い詩ばかりなので「売春処女プアプアが家庭的アイウエオを行う」の後半部です。プアプア詩は鈴木さんの日常に即している。引用しませんが前半部に「気がふれているのかバスセンターよ(註1)」の詩行があり註に「広島市基町にある、各方面行きのバスが入り乱れる。日常、私はここを利用しない。」とある。通勤の際などに詩を構想し退社してから喫茶店などで意識と無意識のあわいで一気に書かれた自動筆記的作品に近い。
売春や処女、性交、男根などの単語が頻出するので眉をしかめる方もいらっしゃるかと思います。しかし優れた文学表現です。タイトルはそのまま詩のレジュメになっている。「売春処女プアプア」と「家庭的アイウエオ」の対立です。繰り返しますがプアプア詩は「私小説」です。素直に読めばいい。
池上 だけど、素直に読んでもやっぱりスゴイ詩だねぇ。ガロ派のアングラ漫画の原作みたい(笑)。
鶴山 そうね(笑)。「黒こげで顔もつぶれている」「屍体」があり「これはいつかの私だ」。わたしはもう焼け焦げた屍体なのですがそれでも「勝利」したい。では勝利とは何か。「妻のふとももを縦にぐいと拡げて/舌で欲望を発電する」ことである。妻を食べるようなセックスです。「私は私の不明迷妄を誇りとする」のは「こうして家庭はようやく維持されている」から。セックスがなければ家庭は維持できない。それが鈴木さんの思想です。
「売春処女プアプア」は矛盾した言葉です。しかしその表現内容は「女房たちよ、現在売春は何故禁じられているか知っているか/家庭的性交は娯楽と実益をかけそなえている/売春を達観したプアプアちゃんはえらいね」という詩行を読めばわかる。プアプアはセックスに対して一切禁忌のない女性の人格化です。詩集『家庭教訓劇怨恨猥雑篇』では「純粋処女魂、グングンちゃん!」、『完全無欠新聞とうふ屋版』では「爆裂するタイガー処女キイ子ちゃん」に変身します。ではなぜプアプアが「家庭的アイウエオ」の教育的指導をするのか。
「老処女キキ」と「妻」が登場します。両者が同一であることは「老処女キキと妻の首は横体に並んで忙しく手淫している」の詩行でわかる。彼女たちはセックスを拒んでいる。自己の快楽の中に閉じて私を拒絶する。「妻よ/おまえの手はつめたい/おまえの鼻先はつめたい」「我が妻の首の欠如した屍体は/早朝/食卓の白い皿の上に/光る」はセックスを欠如させた家庭崩壊の予兆です。
プアプアは死んだ
強い光線の満ちた空間に髪の毛だけが長く続いているその末端は白い岩を食べている
(中略)
わたしがいつもいっていることがわからないの
ぴたしがぴつもぴっているぴとがぴからないの
ひたしがひつもひっているひとがいからないの
プアプアは彼女自身の鼻をつまむ
彼女は自分の鼻をつまむことが出来た
彼女自身のものである手
彼女自身のものである鼻ね
そんなことおれにわかるか
いちいちぎゃあぎゃあいうな(註2)
ぴんなぴとぴれにぴかるか
ぴちぴちぴゃあぴゃあぴうな
ひんなひとひれにひかるか
ひちひちひゃあひゃあひうな
プアプアのものである哄笑は部屋の中に波紋する
十三歲の少女は恐る恐る
恐る恐る
自分の股のつけ根の乾いた草むらに指を近づける
男根はない
今は誰の男根もあとかたもない
そしてどれ程の微量の強いられた快楽への欲望も起らず
お金もほしくない
生きたくもない
プアプアは驚く
単純な肉体なのね
プアプアは二本の乾いた脚で床に立つ
今プアプアの朝日を受けた歯の間に
自由が絶頂快感のうちに悶絶している
そして性愛は飛び立つ
私は気に入らない
プアプアは豚に喰われない
プアプア、あなたは今笑っている
あなたの乾いたモモ色の足の裏とか
あなたの乾いた純白のセックスとか
私は時速五百キロ余りの破壊の願望に突きとばされる
爆発するプアプアはよい
疾走するプアプアはよい
あなたの脳髄の細胞の中に血がかけめぐっている
その男たちを濃縮した赤い血を
やがて遠くから駆けてくる少年にたくして
配達しよう
人々は牛乳のように飲むだろうか
飲んでくれ
飲んでくれ
註2 あらゆる夫婦げんかの始まり。
狭義のプアプア詩最後の「美しいポーズとして最後に私小説的プアプアは死聳え立つ」の冒頭二行と後半部です。この詩は「プアプアは死んだ」で始まります。「わたしがいつもいっていることがわからないの/ぴたしがぴつもぴっているぴとがぴからないの/ひたしがひつもひっているひとがいからないの」と夫婦げんかの際の妻のなじり言葉が私の中で解体してゆく。私が妻に発する棘のある言葉も同様です。家庭は崩壊しかかっている。それが言語的崩壊で表現されている。
この詩のプアプアは「老処女キキ」に限りなく近づいている。「自分の股のつけ根の乾いた草むらに指を近づけ」ても「男根はない」。「微量の強いられた快楽への欲望も起らず/お金もほしくない/生きたくもない」絶望の女になっている。
「今プアプアの朝日を受けた歯の間に/自由が絶頂快感のうちに悶絶している/そして性愛は飛び立つ/私は気に入らない」は痛切な詩行です。プアプアはセックスから解放され飛び立つ。私と離婚する。もうそれを止められない。「時速五百キロ余りの破壊の願望に突きとばされる」けれどどうすることもできない。
最終部「爆発するプアプアはよい/疾走するプアプアはよい」からプアプアは本来の性に禁忌のない女・性に戻っています。「あなたの脳髄の細胞の中に血がかけめぐっている/その男たちを濃縮した赤い血を/やがて遠くから駆けてくる少年にたくして/配達しよう/人々は牛乳のように飲むだろうか/飲んでくれ/飲んでくれ」は作家の願望です。セックスで結ばれた女・性を理想としながら鈴木さんは自己の思想に自信を失いつつある。鈴木さんとEKOさんの結婚生活の破綻がこの詩のテーマです。
こういった読解は茫漠と詩を読むことに慣れている人には受け入れがたいかもしれません。詩は絵画や音楽と同じような感性の表現であり読んでジーンと感動すればそれでいいじゃないかと。しかしそれでは得るものがない。詩は絶対に意味とイメージから読み解けます。難解な現代詩的修辞はそれほど問題ではない。雰囲気で読んでいる限り詩と批評が噛み合わず優れた点も問題点も把握できない。
池上 今回ほぼ五十年ぶりに「美しいポーズとして最後に私小説的プアプアは死聳え立つ」を読み返しましたが、実は詩のトーンが鮎川信夫の「橋上の人」に似ていると思ったんですよね。
Ⅷ
橋上の人よ、
美の終わりには、
方位はなかった、
花火も夢もなかった、
「時」も「追憶」もなかった、
泉もなければ、流れゆく雲もなかった、
悲惨もなければ、栄光もなかった。
橋上の人よ、
あなたの內にも、
あなたの外にも夜がきた。
生と死の影が重なり、
生ける死者たちが空中を歩きまわる夜がきた。
あなたの內にも、
あなたの外にも灯がともる。
生と死の予感におののく魂のように、
そのひとつひとつが瞬いて、
死者の侵入を防ぐのだ。
橋上の人よ、
彼方の岸に灯がついた、
幻の都市に灯がついた、
運河の上にも灯がついた、
おびただしい灯の窓が、高架線の上を走ってゆく。
おびただしい灯の窓が、高く夜空をのぼってゆく。
そのひとつひとつが瞬いて、
あなたの內にも、あなたの外にも灯がともり、
生と死の予感におののく魂のように、
そのひとつひとつが瞬いて、
そのひとつひとつが消えかかる、
橋上の人よ。
(戦後版「橋上の人」『鮎川信夫全集Ⅰ』
もちろん描かれている世界や使われている言葉はまったく違いますが、鮎川信夫の「橋上の人」は「生と死」をテーマにしていて、鈴木志郎康の「美しいポーズとして最後に私小説的プアプアは死聳え立つ」は「性と死」をテーマにしている。何よりも詩のトーンに共通するものがあると思うんですよね。いま鶴山さんの解説を伺っていて、この二つの作品はストレートに繋がっているわけではないけれど、「荒地」派の戦後詩がなければプアプア詩も生まれなかったような気がしてきました。鶴山さんが戦後詩の文脈で鈴木志郎康を取り上げようとされたことが、ようやく腑に落ちた感じです。
鶴山 鈴木さんは私小説集『闇包む闇の煮凝り』(昭和五十年[一九七五年])でもEKOさんとの結婚生活の破綻を赤裸々に書いています。『完全無欠新聞とうふ屋版』とほぼ同時に刊行された散文集です。
あの夜も、この接吻狂という言葉から始まったのだ。(中略)私の手は妻の乳房を摑み、腹部を愛撫しているには違いないとは言っても、それは私がしていることではない。確かに、私のしている愛撫は、白昼に時々やる私の愛撫と同じ行為ではあったけれど、暗い中では、その行為は私のものではないのだ。その手は明らかに飢えて母親を求めている生まれたばかりの子豚の鼻先であった。桃色の柔らかな鼻先は自分の生存を保証してくれる生温かい母豚の乳房を求めて、障害となるすべてのものを押し除けて、予知した乳房のありかに向って進んでいく。そうして、私の手の先は妻の乳房を探り当てる。生まれ立ての子豚の喜悦が私の全身を包むのだ。だが、私の手の先は、全く飢え切っていて、早く何かを吸わなければ死んでしまうのに、何も吸い取ることが出来ないのだ。私は起き上って、手の先でそのありかを確かめたところへ、口を持って行って、この世に生を得て初めて飢えを満たしてくれるものを吸い取ろうと、夢中になるのである。そうなると、妻は暗闇の中で喘ぎ出して、
「ああ、あなたは接吻狂ね。」
というのだった。(中略)こうした行為は、結婚後何度もしたことだったから、その夜も変りなくしたまでのことだったが、私が頭を妻の股間に差し入れて、陰部に接吻しようとしたとき、彼女は上半身を突然起して、私を罵ったのである。
「あなたは虫よ。虫よ。もう我慢できない。虫よ。虫よ。おお気味が悪い。虫よ。虫よ。虫よ。虫よ。」
彼女は泣きながら身を引くと、ふとんの上に正座した。そして、全身を硬くして泣き続けた。
『闇包む闇の煮凝り』には「闇の中では鏡同志が抱き合って」「二つの闇が衝突して相抱き合い」「闇包む闇の煮凝り」の三篇が収録されています。引用は最初の作品「闇の中では鏡同志が抱き合って」から。この短篇は日本文学では馴染み深い伝統的私小説です。
池上 こういう小説を書いていたんですね。知らなかった。
鶴山 鈴木さんにとってのセックスがどのような質のものであるのかは「桃色の(子豚の)柔らかな鼻先は自分の生存を保証してくれる生温かい母豚の乳房を求めて、障害となるすべてのものを押し除けて、予知した乳房のありかに向って進んでいく」という記述に明らかです。そして「その行為は私のものではない」。セックスという肉体的行為が抽象思想に昇華されている。鈴木さんはセックスで妻との一体化、母性への無条件的没入を希求している。どうしてもそれを止めることができない。
しかし私は性行為の最中に「あなたは虫よ。虫よ。もう我慢できない。虫よ。虫よ」と妻から拒絶されてしまう。なだめようとするのですが妻はお勝手口から夜の外に飛び出してしまった。「私はこの妻の動作の早さに反射して、しまった獲物に逃げられた、と感じた」(傍点原文)とある。素晴らしい記述ですね。惚れ惚れする。私小説はここまで抉らなければ優れた作品にならない。私は妻を連れ戻しレイプに近い性行為をする。この部分は恐らくフィクション。「早く目が覚めればよいのに、早く! 早く! と思いながら、私はひき裂かれたネグリジェのまま、こちらに背を向けて泣き続けている妻の小さな身体を見ていたのだ。妻はもう絶対に私のところには戻って来ない」とある。現実に即した夢譚です。
作品は実際に起きた殺人事件の新聞記事引用で終わります。萩原貞次という男が長男の家に行き長男とその妻と二人の子どもを惨殺した。長男の妻と関係を持とうと長男の家を訪れたが冷たくあしらわれたのが犯行動機なのだという。私はセックスで女性と一体化したいという欲望で萩原と共鳴する。「私は萩原貞次という名ではなかったか。いやいや、私が勤め先に登録されている名前は大曲光夫というのだ。いやいや、名前なんか夢の中では存在しない」で小説は終わる。私のレイプや殺人は夢の中で起こる。
最初と二作目の「二つの闇が衝突して相抱き合い」は私小説として読めます。が、三作目の長篇表題作「闇包む闇の煮凝り」になるとヌーヴォー・ロマンのレシ(récit)のような作品になる。ハッキリ夢譚ですがこの作品で起きる言語的事件は強い。作家の肉体化された思想が言語的事件を起こしている。「闇包む闇の煮凝り」が最も優れた作品です。
「闇包む闇の煮凝り」でも私と妻の友子の結婚生活が破綻に瀕しています。最終部では「友子と別れて、支えるべきものもなく、勤めていた会社を止めた」とある。「私は生きながら死んでしまったのだ」とも。実際夢とも現実ともつかない中で道を歩いていた私は自分の死体に出会う。自分の死体なので放置しておくことができない。重い死体を引きずりながら歩き出すと見知らぬ少女に肩を叩かれた。少女は「あの穢ない抜け殻(私の死体)を捨ててしまいなさい」と言うのですができない。それ以来夢の中で少女は私について回る。
私は新婚旅行に出発する友人夫妻を東京駅に見送りに行く。が、時間に遅れて見送り損ねた。「何もかも失ってしまったような思い」になった私の夢譚が始まる。少女といっしょに歩いていると浮浪者のような老人に出会った。そのままついてゆくと公衆便所を改装した老人の家に招き入れられた。少女はいつのまにかいなくなっている。私は老人とセックスした。
別の夢譚では私は少女と老人といっしょに海の見える丘の上の家に行く。小綺麗な家で本棚には「小説」のような本が並んでいる。著者は老人のようだ。それだけではない。少女は「あの人は、いつもしている仕事のように、わたしの身体に唇や舌で字を書くのだと思うわ。だから、あの人に抱かれて、キスされるたびに、わたしの身体には物語が書かれることになるのよ」と言う。私は少女と老人のセックスを覗き見る。
少女が「売春処女プアプア」のバリアントであるのは明らかです。それは夢の中で少女の家に行った時、彼女の継母が「お前は又あの助平じじいのところに行っていたんだね」となじり「この立ちかがりめ!」「この碁盤ぜめ!」「この下り藤!」「このさかさ蓮華!」などといわゆるセックス四十八手の卑語を使って少女を打ち据えることからわかる。継母はセックスを知っているが男を拒むようになった「老処女キキ」や「老婆」のバリアントです。
鈴木詩でプアプアは少女として現れます。が、それはロリコン趣味を示しているわけでない。セックスで完全所有できる女性は処女で少女なのです。私は妻との関係について「私たちは別に仲が悪いというんじゃないんだよ。全く反対だよ。少くとも私は彼女の身体と心の両方がほしくてほしくて仕様がないのだ」と少女に語る。しかし妻は、プアプアは失われた。少女の身体に「物語」を書き込む老人は私のはずです。老人は少女とセックスする。が、わたしは許されない。その代わりに私は老人とセックスする。自分を犯し自分に犯される。この箇所の記述は見事です。
奇妙なことだが、私が理解したのは、老人がいかほどか性に渇していたかなどということではなかった。(中略)今ようやく私は老人の後について歩いて来た自分の意志を理解したのだ。私は自分の頭を激しく振って、老人の男根を口から出したり入れたりして、意識を注意深く、自分の口の中に起こる感じに集中した。そして、遂に、私が今までに体験した中で最も耐え難いことが起ったのである。老人の精液が私の口の中一杯に拡がって来たのだ。そして、私の口の中から、私の新しい人生が始まったのだ。私はその生臭い精液を全部飲み込んだ。すると私の両方の目から泪がぽろぽろと出てきた。私は泪をぽろぽろとこぼしながら、老人の精液を唾に混ぜて飲み下した。
公衆便所を改装した家での汚穢に満ちた老人との自家中毒的セックスは私の希求が決して叶えられない観念であることを示しています。「凶区」内での影響関係も読み取ることができる。天沢さんが持ち込んだ到達不可能な至高観念です。それを意識と無意識領域のあわいで表現している。また「闇包む闇の煮り」のような小説は前衛の季節だった六〇年代から七〇年代にかけていくつも書かれた。加藤郁乎さんの『エトセトラ』や『膣内楽』がそうです。ご本人から猛反発を食らいそうですが金井美恵子さんのデビュー作『愛の生活』もレシ的小説です。アングラ劇を代表する唐十郎の戯曲も近しい。
唐さんの代表作の一つ『ジャガーの眼』の主人公しんいちは得体の知れない肉体市場で角膜移植手術を受けます。町を歩いていると見知らぬ少女くるみから唐突に「シンジさん!」と呼びかけられる。角膜はくるみの亡くなったフィアンセ・シンジのものだったのです。その瞬間からしんいちの心に亡きシンジの記憶が甦る。しんいちは「僕と他人の谷間を越えた」ジャガーの眼を持つ男になる。唐戯曲には精神はどこまで肉体なのか、肉体を離れて精神はあるのかという問いがある。プアプア詩も肉体に基づく精神の葛藤です。鈴木さんは唐戯曲について何度も書いている。
日本では作家に詩人や小説家のレッテルを貼って代表作しか読まず評価しないことが多い。漱石や鷗外、子規ですらそうです。詩しか、小説しか読み解けないからそんなことが起こる。しかし作家の全体像を把握するためには全作品の読解が必須です。稲垣足穂作品を高く評価して鈴木さんの『闇包む闇の煮凝り』を無視する理由はない。優れた小説です。
池上 ちょっと読んでみたくなった。だけどいま読めるのかな。残念なことに、この対話で取り上げてきた作品の大半が現在では入手困難になっていますよね。
鶴山 文学の世界はいわば海岸が波で洗われて残る石や岩だけが秀作・名作なわけだから、本当に優れた詩人の作品もいつか再評価されるかもしれませんよ。
私の求めていた買物はここにある
私は叫んだ
買いたい!
いくらお金を出してもよいから買いたいものがある
どうしても手に入れたい
それは、妻の生きた顔だった
妻のえまいが買いたい
妻のあくびが買いたい
妻の歌う鼻が買いたい
妻はよく口を小さく開けて見ていた
私の妻よ、戻ってこい!
何故私がこんなことを叫んだかというと、老婆が私の男根を握っていたからなのだ
私は老婆を寝かせた、皺寄った新聞紙を拡げるように寝かせた
そして、新聞紙の皺を伸ばすことによって
刷られた記事のひだを伸ばせば
世界を買い戻せるような気持ちになって
老婆の皺寄った裸体を優しく愛撫しました。
すると不思議なことに
老婆の乳房は水嚢に水を流し込むように張って来たのです
そして身体全体も張って来て
私は自分の愛撫の一つ一つが老婆の時間を消していくように感じた
私はこんな興奮した愛撫を続けたことがなかった
最早老婆の肉体は完全に若返った
そこには老婆の姿はなくなっていた
ああ、私の胸の下には若い美貌が寝ていた
私は美貌を成就させてしまったのだ
お若いの、と元老婆はいった
美貌こそわたしの一億年の願いだった
助けてくれ、と私は男根を引抜くが早いか、傍にあった石油ストーブを倒して、燃えさかる室内に老婆を残したまま逃げ去ったのです。
黒い煙が上がる
私の胸の中を黒い煙が上がる
それが今私が凝視している闇なのだ
第Ⅰ期〝極私(詩)〟時代最後の詩集になった『完全無欠新聞とうふ屋版』所収の「美貌充満の世紀――完全無欠新聞連載小説梗概」を読めば鈴木さんがどれほど妻との完全合一を希求していたのかよくわかります。恐ろしく長い詩ですがラスト部分です。鈴木さんは自己の観念が到達不能なものだと自覚し始めている。
美貌は女性の表面的美を指すだけではありません。「美貌は保守持続を計略する/美貌は政権維持を画策する」とあり世の中のありとあらゆる保守的思想と行動の総称です。それに対して「私は虚構的醜怪だ/私は醜怪な虚構だ」。私は観念(詩)で美貌に叛逆し突き破ろうとする者であり「勃起した男根の代りに/美貌を恐怖させるざりざりに錆びた出刃包丁を/妻を深く愛しているからこそ/妻の咲き初めた生殖器に差したのだ」。しかし私は美貌との戦いに敗れる。私が若返らせた老婆はプアプアに、妻にはならず、私が忌み嫌う「美貌こそわたしの一億年の願いだった」と言う。私は美貌から逃げ去り闇の中に閉ざされる。
もう十分だと思いますが鈴木詩の構造を図にするとこんなふうになる(【図03】プアプア詩の構造)。第Ⅰ期〝極私(詩)〟時代の詩のほとんどがこの構造から読み解けるはずです。愛する妻とのセックスが鈴木さんの至福の理想です。しかしこのベクトルはさらに妻の自我意識をも完全理解し所有したいと指向し拒絶される。この拒絶が極私(詩)最大の特徴です。

*鶴山氏のメモを元に作成
多くの人は社会は無数の人間から構成されていると考えます。間違いではないのですが社会はたった一人の他者とでも成立します。他者は私には絶対理解不可能ななにかを秘めた存在のこと。鈴木さんの主題は他者との無条件的かつ無媒介的相互理解は可能かと表現することもできる。そんな希求を持つ者は稀です。が、もし実現しようとすれば愛し合う男女なら(同性でも同じ)それはまず肉体を通して試される。そして精神の核に迫ったとき絶対拒絶に出会う。この拒絶は他者の不可知性を示すだけではありません。自己もまた崩壊の危機に瀕する。〝自己か他者、いずれかが幽霊〟なのです。
他者の絶対拒絶に出会った際に起こる自己崩壊は作家主体の消滅の可能性を孕みます。もちろん作家主体が完全消滅するはずもなく唯一無二の強いものです。しかし無条件的かつ無媒介的相互理解が不可能な他者をそれでも理解しようとすれば作家主体を縮退させて他者と限りなく一体化するか希薄な作家主体(自我意識)の中に丸のまま絶対他者を抱え込むほかない。作家の強い意志は自我意識の縮退あるいは希薄化のために使われる。
難しい言い方をしています。それは極私(詩)が無私に抜ける可能性を有しているからです。それは断絶を伴う飛躍です。ただ現代はもちろんのこと将来さらに加速度を増して進む情報化社会で自我意識の化物のような知の巨人や幽霊が見えるかのような特権的詩人を目指すのは無謀というより馬鹿げている。しかし作家はどこまで行っても自己しか頼りにできない。比喩的な言い方になってしまいますが極私(詩)が無私に抜けるとは作家主体と世界が対峙するのではなく作家の縮退あるいは希薄化した自我意識の中に世界を取り込むことです。吉岡実晩年の引用の手法や吉本隆明の「世界視線」はこのライン上にある。これは現在進行形の課題の一つです。
池上 なるほど。鶴山さんの解説を聞いて初めてプアプア詩を理解する手掛かりが得られた気がします。
鶴山 ただプアプア詩以降の鈴木さんは極私(詩)の構造を失ってしまった。
ソファに私が坐っていると
ソファに私が坐っていると
マリが来て私に寄りかかって坐ると
私は自然にマリの肩に腕をまわして
軽く抱いたまま
キスをするということもなく
言葉もたまにしか口にしないで
六月
午後一杯を過したことがあった
次の休みの日も
又そうして午後を過そうと思う
あれは本当によい時間だった
何も望まない
何も考えない
時間というものの経過を
お互いの息づかいで聞いていると書いてしまうと
いくらか私のこととは思えなくなってくるが
静かで本当によかった
この頃ようやく
この頃ようやく
このマリを抱いて
エコといってしまうのではないかという心配がなくなった
性愛のさ中に
感じがきわまって来て
マリを抱きながら
エコといってしまうのではないか
マリを愛していて
マリ以外に眼中になくて
マリの乳房を握りしめて
マリの胴を抱きかかえていて
何故私は別れたエコの名をいいそうになるのだろう
悲しいと思う
マリを悲しませたくないから
私は発音を学習するように
マリと
意識の渾沌の中にはっきりと白く書き記す
今度はエコが悲しむだろう
「ソファに私が坐っていると」「この頃ようやく」はEKOさんと離婚し麻理さんと再婚してから初めて出版された詩集『やわらかい闇の夢』所収です。現代詩的難解語法がキレイさっぱり消えている。この詩集以降再び現れることもなかった。鈴木さんは麻理さんとの再婚で平穏な生活を得た。幸せになった。全ての詩集を通読すれば麻理さんが鈴木さんのよき理解者だったことがわかります。それは素晴らしいことです。ただこれも非常に言いにくいことですが鈴木詩のミューズはEKOさんだった。
鈴木さんは嫌がるでしょうが作家主体の自我意識表現中心の戦後詩が基盤ですから彼の詩から社会性が失われることはなかった。しかし『やわらかい闇の夢』以降の詩は社会の片隅で詩人の自我意識が揺れ動く修辞的現在の詩、あるいは戦後の詩となった。鈴木さんの執着が本質的にはEKOさん一人に向けられプアプア詩が詩人の鋭い勘だけで書かれているからです。鈴木さんは自己の主題を把握しないまま勘だけでプアプア詩を書いた。だからあれほど言語的に豊饒な猥雑で枝葉の多い詩になった。ただ鈴木さんが少なくとも「凶区」で最も優れた詩人でありプアプア詩がいまだ検討に値する詩であるのは確かです。
ネガティブなことも言っておくと鈴木さんは理論家でも優れた詩の読み手でもなかった。プアプア詩の功績で同時代の詩に評価を下す立場になってゆきましたが無理があった。ご自分の詩に似た作品を高く評価し鈴木さんを慕って身辺に集まってくる詩人たちに脇が甘かった。まあたいていの詩人にとってそれが現世の営みなのですが。
池上 『やわらかい闇の夢』に「雑草の記憶」という詩が収載されています。
はたと雑草が目に止った
アスファルト道路の端から生えている
何か言葉になりそうになったが
勤めの同僚23人と昼食の帰りなので止めた
午後ずっと
雑草は言葉を求めているように思える
でも
雑草の記憶を放置する
しかし、遂に
私は道端の雑草を見たとこゝに記すことになってしまった
雑草が気になるのはよくない
焼け跡亀戸錦糸町
雑草の繁茂の中で
小学生の私は工業立国を教え込まれた
その私の心の欠陥が
雑草に目を止めるのか
鈴木志郎康は、この作品では珍しく戦争の記憶を素直に表現しています。小学生の時に「工業立国を教え込まれた」ことと生まれ育った亀戸錦糸町の焼け跡に繁茂する雑草の記憶が結び付いていて、大人になったある日たまたま雑草に目が止まってしまい、忘れようとしていた「私の心の欠陥」が露わになったという詩です。鈴木志郎康は一九三五年(昭和十年)生まれですから、小学生だったのは一九四一年から一九四七年、戦時中から戦後すぐまでの期間ですね。一九四五年三月十日の東京大空襲で亀戸も焼け野原になります。焼け跡に繁茂していた雑草ということからすると、「工業立国を教え込まれた」のは終戦前の一九四五年の六~七月頃だと推定できます。おそらく利発だった鈴木少年は産業報国の精神を素直に受け止めたのでしょうね。鈴木志郎康が勤め人だったのは一九六一年から一九七七年までで、『やわらかい闇の夢』が刊行されたのは一九七四年ですから、まさに高度経済成長期です。戦後の焼け野原から復興して経済発展していった日本で勤め人として忙しく働いていたわけです。日常生活のちょっとした風景から、エコノミック・アニマルとして働く自分が、子どもの頃に刷り込まれた産業報国の精神を抑圧していることに気づいたわけですから、すごく鋭敏な感覚ですよね。この詩が書かれたのは一九七〇年代ですが、戦後詩と言っていい作品だと思います。

鶴山 鈴木詩は私(詩)になりましたが社会への関心を失ったわけではない。私(詩)とミーイズム詩は違うのです。私(詩)には社会性がありますがミーイズム詩にはない。これは鈴木さんの私(詩)と直結した話ではありませんが九〇年代以降の膨大に膨れあがる情報化社会の中で詩人たちは他者や社会といった外部を急速に失っていった。詩は茫漠とカッコよければそれでいい、詩が好きならそれでいい、詩では自分が思ったことを自由に書けばいい、詩は言葉遊びだといった自己の感性が世界の中二病的言説が詩論として流通しています。信じられないほどレベルが低い。
創作者は私しか頼りにできないのだから致し方ない面はある。しかしほぼすべてのミーイズム詩が相変わらず衰弱し古ぼけた現代詩語法から抜け出せていない。現代詩のまがい物なので喩やイメージの使い方が独りよがりで文学という社会的表現として成り立っていない。子規は「俳句今全く尽きたりとするも吾人はこれを悲まず、またそれがために今まで俳句を学びたることを悔いず、また一句なりとも俳句残りあらんにはこれを学ぶ人あることを喜ぶなり」と書いた。自由詩についてもそう思う。社会性を失った詩は仲間内のお遊びだよ。
渡辺さんは「凶区」は「仲間誉めを超えた仲良し組」だと書いた。ちょっと怪しい面はありましたが創作者の社会的倫理と矜持を保っていた。しかし今は仲良し組が恥ずかしげもなく仲間誉めを繰り返している。男と女と金という俗事が主題の小説家と比べて詩人は世間知らず。人間存在について無智な面がある。なぜ独立不羈であるはずの創作者が他者の詩を簡単に誉めることができるのかと言えば、そりゃ他者の仕事に何の興味もないからだよ。ニコニコしながら褒め言葉で右手を差し出して握手を求め、左手を出して「お返しは?」と言いそうな詩人には気をつけることだね。
池上 ぼくが一九九〇年代以降の詩に興味を失ってしまったのは、鶴山さんがおっしゃる現代詩語法に違和感があったからなんです。「現代詩手帖」や「ユリイカ」に掲載されている詩を読んでも、自分の心に響いたり、引っかかることがなくなってしまった。
あと、鈴木志郎康は映像作家でもありました。生涯にわたって多くの「個人映画」を撮っています。ぼくは確か一九八〇年頃にイメージフォーラムで観たことがあります。作品名は覚えていませんが、モノクロームでとても静謐な作品でした。鈴木志郎康という詩人の表現としては、映像作品も重要なんじゃないでしょうか。
「荒地」派の主要な詩人たちは、あまり映像作品には興味がなかったような印象があります。鮎川信夫も戦前は映画をよく観ていたと思いますが、戦後は映画についてはほとんど書いていない気がしますね。「凶区」の詩人たちは当時映画に熱中していて、特に渡辺武信は映画論を何冊も書いていますが、映像作家になったのは鈴木志郎康だけです。六〇年代からは映像の時代になっていくわけで、鈴木志郎康が個人映画を撮ったということは、表現者としては現代的ですし、詩人としてはユニークだったと思います。もちろん職業としてテレビカメラマンをやっていたということもあるとは思いますが、だからと言って映像作家になるかどうかは別の話ですよね。鈴木志郎康が撮った個人映画はやはり極私的ですが、詩では表現できないことをやろうとしたと考えていいのでしょうか。
鶴山 うーん、それはよくわからない。八〇年代には前衛映画の小さな上映会がけっこう開かれていて、古くは一九二〇年代のマン・レイやデュシャンの短編から六〇年代のウォーホールの映画ダイジェストなんかをごた混ぜにして見ました。鈴木さんの映画も一本だけ見た。当時もう実験映画と個人映画の区分があったのかな。よくわかりませんが。一番面白かったのはジョナス・メカスの『リトアニアへの旅の追憶』でした。鈴木さんも映画を撮り始めたきっかけはメカスの『リトアニアへの旅の追憶』だったと書いています(「魂の奥底に水が流れている」昭和五十九年[一九八四年])。
メカスは神話的作家です。ユダヤ系リトアニア人で第二次世界大戦中はナチスへのレジスタンス闘士でウイーンで捕まって強制労働キャンプ送りになり、脱出してアメリカに渡って映像作家になった。ハリウッドが世界の映画産業の中心ですが彼はニューヨークに住んで反商業映画を撮り続けた。『リトアニアへの旅の追憶』では故郷で母親と再会し、殺伐としたニューヨークとは別世界のリトアニアのアルカイックな農村の風景や生活が写し出される。個人映画と呼ばなくても作品として非常に魅力がある。鈴木さんに限らず『リトアニアへの旅の追憶』に魅了されて映画を撮り始めた人がたくさんいらっしゃるのはよくわかります。
ただ二十世紀後半から二十一世紀にかけて最も激しく変わったのは映像ジャンルです。確か富士フイルムの社長さんがインタビューで「我々は本業がなくなるという幸運に恵まれまして」と自虐的冗談を飛ばしておられた。デジカメの普及でフイルムの需要がなくなり富士フイルムは短期間で先端医療やヘルスケアに業態を大転換した。
僕が映像作家としてそれなりに追っかけているのは荒木経惟さんだけですが、彼は昭和六十一年(一九八六年)に写ルンです(富士フイルム)が発売された直後に「これからはみんな写真家よ、シャッターを押せば写るのよ。おしゃーしんよ」と言った。彼の予言は現実のものとなった。今でもプロカメラマンはいらっしゃるわけですがクライアントの要望通りの写真を撮り、スタジオや機材の使い方に精通しているプロという側面が強い。写真そのものの出来という点では素晴らしい素人写真がネット上に溢れている。
まあ面倒臭いことを言うと写真は何かが決定的に写る、映画は何かが決定的に動くのが原理のようなものだと思います。トーキーですが映画は一九二〇年代後半には娯楽の大きな柱になっていた。そういう時代に映画の原理に基づくような実験映画が作られたのはよくわかります。しかし現代ではYouTubeなどに個人映像作品が溢れている。淡々と自分の生活を動画にしている作品(だろうなぁ)もある。それらと鈴木さんらの個人映画のなにが決定的に違うのかは映像専門家にお話を聞いた方がいいでしょうね。

池上 「凶区」の詩人中心に六〇年代を見てきたわけですが、鈴木志郎康の詩には際立った個性があったのは確かです。しかし、こういった作品がいったいどこから出てきたのか、バックグラウンドがよくわからないんです。
鶴山 東京の下町亀戸からです。鈴木さんは実家は江戸時代からの農民で家に本一冊ないような環境だったと書いていますがギリギリ御府内の地主ですからね。漱石もそうですが作家はたいてい過度に自分の家はたいした家じゃなかったと言いたがる傾向がある(笑)。
自由詩は形式・内容面で一切制約がないので何を書いてもいいわけですが同時代を正確に捉え、前時代までの詩を厳しく総括し、自己の資質を的確に把握しなければよい詩は書けない。特に現代はそうだな。当たり前ですが自由詩は反語で無限大の自由を制限することが作家の個性になる。抒情詩でも戦後詩・現代詩などの前衛詩でも未踏の表現領域、つまり個性を表現する領域が狭まっている。それを突破出来た詩人の作品が時代を代表する戦後詩や現代詩と呼ばれるようになるだけのこと。たまさか素晴らしい作品が生まれることはない。
始め光のない所で
私に向って来た
女の尻は片側から光を受けて
二重の月は行ってしまうのか
私は女の腰の中で死にたかった
何度か
私は自分を見分けることもできない闇の中の
恐怖の中に
というのは実は嘘で
明るい高い天井の下で
私は裸体の少女が鏡の前で手淫した
血が頭に昇って私は美しかった
他人に見られない法悦の中の
恐怖の中に
私は死ぬのか
私の乳房は立派に立っていた
立っている二つの男根
手がのびた
私は何を探しているのか
私は求めているのか
裸体の少女は地平線まで拡がる明室の中で
天井に昇った鏡に映る逆転した自身に見入って手淫している
朱色の腟の中に
滑り込む指が実は私は
自分も見分けのつかない闇の中に
私は死ぬのか
少女がまるで受胎したように叫ぶのだった
叫び声があった
私は人妻が手淫していた
私は老婆が手淫していた
私は女性重労働者が手淫していた
私は人妻が手淫していた
私は牛乳びんが手淫していた
私は時計が手淫していた
詩集『罐製同棲又は陥穽への逃走』収録の「月」全篇です。もうさんざん鈴木詩を読解したのでこの詩については言いません。鈴木さんの表現意図は「手淫」から簡単に読み解けます。悲しく痛切な詩です。
この詩最終部の「私は人妻が手淫していた」から六行は多くの詩人や批評家が現代詩を代表する書き方として取り上げ論じています。しかし日常的意味文脈を脱臼させる「は」「が」品詞の使い方をうんぬんしてもしょうがない。この詩には作家の思想がある。思想というものは肉体化されなければ意味がない。文学者の思想の肉体化は言語作品です。その機微を把握しなければ皮相な現代詩語法に堕落する。
「荒地」は同時代を荒地として捉えた。戦後詩と同時発生の現代詩の牙城「あもるふ」はギリシャ語のamorph・不定形ですね。五〇年代詩人の同人誌は「櫂」「氾」「貘」「鰐」となぜか一文字が多い。六〇年代はなぜか「暴走」「×(バッテン)」「凶区」「ドラムカン」「白鯨」と荒ぶって殺伐とした誌名になる。七〇年代は「書紀」で書記行為と古事記・日本書紀の原理を示唆している。八〇年代「麒麟」は首が長いから上から地上を見下ろす。実際「麒麟」の詩人たちが一世風靡した時代がありました。同人誌の誌名は時代の雰囲気をそこはかとなく表しています。
だいぶ掟破りをしましたが池上さんとの対話では現存詩人は取り上げない約束なので近過去の総括は六〇年代で終わりです。ただ七、八〇年代詩の総括はやろうと思えばできる。しかし九〇年代から現代に至る三十年強は十年単位ではなく日本経済の失われた三十年のような一括総括になりそうです。詩だけでなく小説などの世界でも日本文学は停滞した。文学は世の中の大きな動きに連動している。でもちょっと動きそうな気配が漂い始めましたね。
過去文学の総括にはタイミングがある。間が悪ければ看板倒れになる。九〇年代から現代までの詩の総括は新しい動きがハッキリしてからでもよさそうです。
(金魚屋スタジオにて収録)
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*『対話 日本の詩の原理』は毎月01か03日にアップされます。
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