妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
「ああ、ごめんごめん、びっくりさせちゃったねえ」
俺のそばへ駆け寄り、抱きかかえている永子に謝るコケモモ。沢山の外国人観光客が行き交う京都駅の中央口で、一番遠くから来たのは多分俺だ。知らない人に話しかけられた永子はギュッとパパちゃんの肩を掴み、きっとこの子の存在すら知らなかったはずのコケモモは「ごめんね、ごめんね」と謝り続けている。そして俺はちっとも言葉が見つからない。とてもバランスの悪い三人だが、もしかしたら幸せそうな家族に見えているのだろうか。
「お名前は?」
「うん。永子」
「えいこ、ちゃん」
「うん。永遠のエイ」
「……そう」
「ほら永子、ご挨拶は?」
可愛く唸りながら、肩口に顔を押し付けている永子。その柔らかい髪越しに、俺はコケモモを見つめる。インスタにアップしていた写真とも、あの似ているはずの女優とも印象は違うが、間違いなくコケモモ。ほんの一瞬だけど、右眉を上げる癖も出た。
「あんまり変わんねえな」
そう言いたかったが、俺は今、命よりも大事な娘を抱きかかえている。そんな言葉、聞かせられない。たとえ永子が何歳だろうとダメだ。
「元気そうで……」
つまり今の俺には、こんなつまらない言葉しか許されていない。人質、という言葉が浮かび、自分の質の悪さに軽く絶望する。親の顔が見たい? それなら後で嫌というほど拝める。二人とも今頃、リッちゃんに連れられて、温泉付き保養施設の周りを散歩でもしている頃だろう。
「うん、元気。……うん」
やはりコケモモもつまらない言葉しか話せない。俺は命よりも大事な人質を地面に降ろし、頭を撫でながら「ほら、ご挨拶」と促した。

「……こんにちは」
その元気のなさに、久々に再会した俺たちはようやく微笑むことができた。
「あら永子ちゃん、こんにちは。おばちゃんね、お父さんのおともだちなの。よろしくね」
こんな時に限ってヤジマーは遅れる。連絡も来ない。もう約束の時間、午後四時から十分が過ぎた。動揺気味の頭でも、マキが来られなくなったから急遽コケモモに声をかけたことくらい想像できる。可愛い人質のせいで直接尋ねられないので、暗号めいた訊き方になってしまった。
「ヤジマーはインスタから?」
しゃがんで永子に話しかけていたコケモモは、顔を上げて軽く頷く。その母親然とした姿に、俺はうっかり忘れていた疑問を思い出した。そうだ、あのインスタの男の子は誰なんだろう? 実は強は今も生きているのでは――。
「まだ連絡来ないなら、ちょっと歩いて時間つぶそう。ねえねえ、永子ちゃん、お散歩しにいかない?」
不安そうに俺の顔を見上げた永子の頭を撫でる。強のことを思っていたから、うまく言葉が出てこない。
「……どうする? 行ってみる?」
「うん。パパちゃんも?」
もちろん、と答えて小さな鼻を軽くつまむ。くすぐったそうないつもの笑顔。この笑顔を見ながら強のことを考えるのは、とても変な感じだ。パパちゃん、と呟いたのはコケモモ。尋ねるならきっと今だ。
「あのインスタの子って……」
でもダメだった。永子の鼻をつまみながら、俺はその言葉が喉元で溶けるのを感じた。
駅から出ると、すぐ目の前に京都タワーが立っている。コケモモが指差しながら、「ほら、大きいでしょう? 灯りが点くとね、すごく綺麗なんだよ」と永子に笑いかけた。何の因果かこれから親子を演じる二人だ。ミッションの為に多少コミュニケーションが必要、という建前は二割ほど。残りは少々不謹慎な個人的興味から、俺は数歩分距離を取った。――二人きりだとどんな感じになるんだろう?
一度振り向いたコケモモは、どうやら意図を汲み取ったらしく、すぐに前を向き直してくれた。心配なのは永子の方だが、後ろを振り向きパパちゃんを確認することもない。意外とすぐ懐いたらしい。それはそれで思うこともあるが、今は特別にヨシとしよう。果たして今日これからの時間、どこかでコケモモに強のことを尋ねるタイミングは来るだろうか。いや、こうして顔を合わせたから、いつでも訊こうと思えば訊けるのか……。
「あの、すいません」
向こうからやって来た若い男女二人組から、すれ違いざまに声をかけられ思わず「おお」と驚いてしまった。
「あ、すいません。あの東本願寺ってどこだか分かりますか?」
土地勘はまるでない。数年前、強のお墓に手を合わせた時も、駅前からタクシーでお寺に直行した。当然あいつなら分かるだろう、と呼び止めようとしたが果たして「コケモモ」でいいものか。あたふたしているうちに、二人組から「すいませんでした」と見切られてしまった。
永子たちの背中を見失わないように歩みを速めて数秒、やっとヤジマーから連絡が来た。
「お前なあ……」
「ごめん! コケモモのこと、びっくりしたろ? 俺があの場にいたらサプライズとして成立したんだけどさ……」
「で、今どこだ?」
「あ、ああ、そろそろ京都駅だけど、もう直接ホテルで会おう」
言いたい文句は各種あるが、それは全て後回しだ。何といっても温泉付き保養施設の恩があるし、コケモモに会えたことも結果オーライ、とても感謝している。請われるがまま、どうぞどうぞと広い心で遅れた言い訳にも耳を傾けてみた。

「別にたいしたことじゃないんだけど、彼女と揉めちゃってさ」
「え? 彼女って、これから会うあの彼女?」雲行きが急激に怪しくなる。
「そうそう。電話してる時に、何ていうの? 言葉のアヤっていうか、ああいうのがちゃんと伝わらなくて泣いちゃってさ……」
「おいおい、これから会うんだぞ? 大丈夫なのか?」
ダラダラ続く根拠の希薄なヤジマーの言い訳を聞き流していると、目の前に立派な建物が現れた。東本願寺だ。気付けばコケモモと永子が二人並んで手を振っている。
「お前さ、あの二人になんかあったら、タダじゃおかないからな」
そんな俺の声は案外大きく、前を歩く修学旅行生のグループが恐々と振り返った。
何とかタクシーを拾い、後部座席に永子を挟んで座る。
「パパちゃん、のど、かわいた」
「お、そうか。じゃあホテル着いたら何か飲もう」
「うん、のもう」
柔らかい髪の毛を撫でていると、スマホを見ていたコケモモがこっちを見る。
「揉めたみたいね」
ヤジマーからメッセージが送られたのだろう。無言のまま頷くと、あいつは「大丈夫、心配御無用」と右眉を上げた。
「ん? ん?」
会話が気になるのか、永子が頭をゆらゆらと揺らす。やはり、あのインスタの男の子について尋ねるのは無理そうだ。
「お客様、正面から入ってよろしいですか?」
ホテルまでは五分もかからなかった。ロータリーで車を降りると、ヤジマーが深々と頭を下げて出迎えてくれた。
「いや、本当に遅れてゴメン。おお、永子ちゃん、久しぶりだねえ」
正月にうちの店で会った時には部屋着みたいにラフな格好だったが、今日はチノパンにジャケット姿。それでも何とか思い出せたらしく、永子は少し考えてから「こんにちは」と笑顔を見せた。
ホテルに入り、まず目に入ったのは想定外に広いロビーと大きな吹き抜け。クラシックな造りと相まって、よく言えば「豪華」だが言葉を選ばなければ「威圧的」だ。裏を返すまでもなく、ヤジマーのビビり具合がよく分かる。うまく収める自信があるなら、公園のベンチで十分だろう。これはマズいかもな、と俺は密かに背筋を伸ばした。
必要な座席は三ヶ所。まずヤジマーと元不倫相手が話す為のメイン・シート。これは既に予約済みだという。次に必要なのは、ニセ家族が団らんシーンを演じる為のセカンド・シート。ヤジマーは余裕ぶって永子に選ばせた。コケモモと手をつなぎながら「ここかな」と指差したのは、フロントにほど近い席。順番を待つ団体客の話し声が少々うるさいが、ニセ家族にはちょうどいいかもしれない。そして最後のサード・シートには俺が座る。セカンド・シートの真後ろが空いていたので迷わず決めた。
「さすがに近すぎるかな? どう思う?」
ヤジマーに尋ねると「全然問題ないよ」と即答した。やはり余裕も自信も足りないようだ。
「あれ、もうこんな時間か……」
気付けば元不倫相手の到着まで、あと十五分。早く到着する可能性を考え、早速それぞれの席に座ってみる。俺の真後ろにはヤジマー。その向かいにコケモモと永子。ちょうど夜のメニューに切り替わる時間帯らしく、空席が多いので助かった。席が選びやすかっただけではなく、ラウンジ・スペース内にいる従業員の姿も増えている。何かの際には心強い。

お待たせいたしました、と店員が恭しくコーヒーを持ってきた。価格は八五〇円。高級品だ。崇高な職業意識を抱きつつ口をつける。さすがにこの豪華なシチュエーションには釣り合わないが、決して悪い味ではない。今日はこのくらいにしといたるわ、と虚勢を張りつつ、その勢いで真後ろのヤジマーに話しかける。
「言葉のアヤの行き違いで泣かせたって、どういうことだよ」
「いや、それはさ――」
後頭部を突き合わせた状態で説明を求めたが一向に要領を得ない。ざっくりまとめれば「今日会って話したとしても、家族を選ぶ気持ちが変わることはないと伝えたら、急に泣き出した」ということになる。
「そりゃそうだろ」
「そういうもんかなあ……」
偉そうに諭してはいるが、俺がコケモモにしたことはもっと酷い。だからそれ以上は責めずに「まあ、うまくやるべ」と軽い言葉を投げかけた。
そろそろ時間だ。元不倫相手に声を掛けられたら、ヤジマーはニセ家族を席に残してメイン・シートへ移動。流れは単純だが油断禁物。コケモモと永子は何を話しているのだろうと気にかけつつ、何度かシミュレーションを繰り返したところで、後方から女性の大きな声がした。
「あの! ヤジマ部長! お待たせしました!」
フロント脇に溜まっていた外国人団体客が、思わず視線を投げるくらいのボリューム。ならば、と遠慮なく俺も振り返る。視界に入ったのは、スーツ姿の背の高い女性。そして、永子をギュッと抱き寄せるコケモモの姿だった。
(第49回 了)
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